「コトタマ学とは」第二百二十六号 平成十九年三月号

   心の御柱とご神体

 伊勢神宮の内宮の御祭神である天照大神の御神体は八咫鏡であります。八咫鏡は正殿の床下に埋められた「心の御柱」のちょうど真上の船形の御船代(みふねしろ)の上に安置されています。船は石船(いはふね)と呼ばれます。  正殿床下の心の御柱は先にお話したように、人間が生れたままの自然の心の構造を五十音で表わした伊耶那岐(美)の神の音図(天津菅麻[すがそ]音図)の母音の並びを形どったものです。この生れたままの天与の五十個の言霊を操作し、運用して人類の歴史を創造していく規範となる最高の精神構造を完成しました。この完成された構造を天照大神と呼びます。またその構造を形どったのが御神体である八咫鏡です。

 ですから伊耶那岐(美)神は親で、天照大神はその子供です。心の御柱は歴史を創造する土台であり、八咫鏡は創造のための完成された規範である、ということが出来ましょう。  神宮正殿の床下の心の御柱と、そのちょうど真上の床の上に安置された八咫鏡との関係は、以上のようになります。

 言葉というものは、人の心を乗せて相手に運び、心を伝えます。いわば言葉は心の乗り物です。八咫鏡は言葉の言葉である言霊によって表現された人間の理想の精神のことですから、八咫鏡は乗り物を意味する船の形をした御船代の上に安置されているわけです。

 またその船は石船と呼ばれています。石(いは)はの意味であって、五十音言霊のことです。五十音の言霊で出来ている人間精神の完成体を安置する船ですので、石船と呼ばれるのです。  伊勢神宮が五十音の言霊をお祭りしてある五十鈴の宮であることをご理解いただけることと思います。

(以下次号)

   布斗麻邇(ふとまに・言霊学)講座 その十二
 
 前回の講座で、人間の心の先天構造の活動による言霊三十二の子音の創生が一段落を遂げました。先天十七、後天三十二計四十九言霊が古事記の文章の中で説明されたことになります。言霊の総数は五十個ということでありますから、残るは言霊ン唯一つとなりました。今回の講座はこの言霊ンの話より始めさせて頂きます。古事記の文章を掲げます。

 次に火の夜芸速男(ほのやぎはやお)の神を生みたまひき。またの名は火のR毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火の迦具土(かくつち)の神といふ。
 火の夜芸速男(ほのやぎはやお)の神とは言霊ン、神代文字のことであります。火の夜芸速男の神の火は言霊のこと。夜芸とは言霊が夜になって眠ってしまった芸術のことです。速男とは文字を見ると直ぐに言霊の心(男が霊、女が言)が分ります。またの名火のR毘古(かがやびこ)の神とは、神代文字はすべて言霊原理に則って造られていますので、文字を見ると言霊の内容(霊)がその中で輝いて見えることをいいます。

 またの名火の迦具土の神の火は言霊のこと。迦具土とは書く土の謎。昔、言霊一つ一つを粘土板に書き刻んで素焼きにし、文字板を作りました。甕といいます。その文字板を心の持ち方に従って並べ、心の典型を表わしました。甕神といいます。御鏡の原形であります。火の夜芸速男の神と呼ばれる神代文字は昔、多くの種類のものが造られました。その多くの種類の神代文字の区別は後章で解説されます。
 以上で五十番目の最後の言霊ンの解説を終わり、人間の心を構成する五十個全部の言霊が出揃いました。古事記は今後どのような話の展開が待ち構えているのでしょうか。興味津々たるものがあります。先ず古事記の文章を先に進めることにしましょう。

 この子を生みたまひしによりて、御陰灸(みほと)かえて病み臥(こや)せり。たぐりに生りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山比売(かなやまひめ)の神。次に屎(くそ)に成りませる神の名は、波邇夜須毘古(はにやすびこ)の神。次に波邇夜須比売(はにやすひめ)の神。次に尿(いまり)に成りませる神の名は弥都波能売(やつはのめ)の神。次に和久産巣日(わくむすび)の神。この神の子は豊宇気比売(とようけひめ)の神といふ。かれ伊耶那美の命は、火(ほ)の神を生みたまひしに因りて、遂に神避(かむさ)りたまひき

 五十音言霊布斗麻邇の原理のことをまた古事記百神の原理とか、鏡餅(かがみもち)の原理とも申します。それは古事記神話の最初の神、天の御中主の神より最終の神、須佐之男命までで丁度百神が数えられ、この百神によって言霊原理は構成されていることに因っているのであります。鏡餅は上下二段ありますが、その上段が言霊の数五十を表わし、下段がその操作・運用法を示しています。

 今までのこの「布斗麻邇」講座に於て、伊耶那岐・美の二命の労作の結果、言霊五十個がすべて揃いました。鏡餅の上段は完全に出揃ったこととなります。言霊百神の中の前段の五十神、天の御中主の神より五十番目の火の夜芸速男の神までが姿を現わしました。古事記の神話の原理の前半はここに終了したことになります。古事記の神話はこれより後半に入ります。

 後半に入って何が起こるのでしょうか。それが私達にとって全く奇想天外なことを古事記は伝えるのです。それは何か。神話の主人公である伊耶那岐・美二命の一人、伊耶那美の命の「死」であります。この事実を神話を教科書として布斗麻邇の学問を学ぶ私達はどのように受止めたらよいのか、重要な意味を持った事でありますので、この講座の中で明らかにして行こうと思います。先ずは古事記の神話の文章の解釈を進めることから始めることにしましょう。

 この子を生みたまひしによりて、御陰灸(みほと)かえて病み臥(こや)せり。“この子”とは火の夜芸速男の神の事です。火は言霊のこと、一音「ヒ」とも言います。火(ほ)の字を当てました。御陰(みほと)の陰(ほと)は霊止で子の生れる処です。岐美の二命の婚(よば)い(呼び合い)で三十二の子音を生み、これで子種が尽き、もう子を生めなくなりました。それを最後に火の神である火の夜芸速男の神を生んだことで、子を生む処が焼けてこれ以上子を生むことが出来ず、病気になった、と洒落た表現をしました。夫神である伊耶那岐の命との「子生み」の共同作業はこれにて終わり、高天原に於ける伊耶那美の命の出番はなくなりました。美の命は病んで寝込んでしまいました。

 たぐりに生りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山比売(かなやまひめ)の神。
 たぐりとは吐瀉物(としゃぶつ)のこと、食物を食べて口から吐き出したもの、ここでは手繰(たぐり)の謎。金山毘古の神の金山(かなやま)とは神音(かね)の山の意。言霊一つ一つを粘土板に刻んで素焼きにしたものです。(伊耶那岐の命は過ぎし日の伊耶那美の命との子生みの仕事の楽しい思い出を病気で眠っている美の命の枕辺にいて、思い出しながらいるのでしょうか)共に力を合わせた五十音の神名の山を手繰り寄せて、その一つ一つを点検しました。金山毘古は言霊の霊(または音)を、金山比売(ひめ)は言霊の言(または文字)を確かに表わしているか、を調べました。

 次に屎(くそ)に成りませる神の名は、波邇夜須毘古(はにやすびこ)の神。
 屎(くそ)とは組(く)む素(そ)、即ち言と霊、または音と文字のこと。波邇(はに)とは粘土板に刻んで素焼にしたもの。その五十音の素焼板を一つ一つ点検して、そこに刻まれた文字の言と霊、音と文字が、それを見れば直ちに言霊としての用を果たす如く明らかに安定しているか、を確認したのでした。古神道言霊学から発する大祓祝詞や古事記神話には「くそへ」とか「屎まり」といった言葉が出て来ます。いずれも語義不詳とされておるようですが、言霊学から見ると容易にその意味が分ります。皇祖皇宗の人類史創造のご経綸の意味の深長さが偲ばれる処であります。

 次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(やつはのめ)の神。
 尿(ゆまり)とは五埋まりの謎です。五十個の言霊の一つ一つを点検して、次に整えるための目安となる母音をどのように並べるか、となりますと、大祓祝詞や、古事記神話にありますように、「下津磐根に宮柱太敷樹て、高天原に千木高知りて……」とありますように、五つの母音の中の天位のア音は最上段に、地位のイ音は最下段に位置することとなります。そうしますと、残りの母音オウエがその間に入る目処が立ちます。弥都波能売(みつはのめ)とは三つ葉の目の謎であり、オウエ三母音が位置する処の見当がついたことになります。弥都波能売を日本書紀では罔象目(みつはのめ)と書いています。罔(みつ)は網のことです。天のアと地のイの間に三つの母音オウエを入れますと、網の形(象)をした目の如くなる、と示しています。弥都波能売とは、五つの母音の中のオウエの三母音の位置の見当がついて、五つの母音の並びが網の目の如くなることが分ったという意味であります。

 次に和久産巣日(わくむすび)の神。
 五十音の神名(かな)(金)を手繰寄せ、一音々々を言と霊との両面から点検し、母音アとイと、その間に入るオウエの三音の位置の見当をつけました。すると五母音の並びが網の目の如くなりました。この網の目に従って残っている四十五の金神を並べて行きますと、大雑把(おおざっぱ)ではありますが、五十音が一つの枠の中に結ばれているようにまとめられることが分ります。このことを和久産巣日の神と申します。人間が言霊の存在に気付き、生命の担い手である言霊が五十個あること、そしてその五十個の言霊の極めて大雑把ではありますが、一つの枠の中に結ばれているように活動するということを知った「初め」であります。人間の自覚の始めであり、また人類が自らを知った始めでもあります。まだ五十個の言霊の結ばれ方、その内容等は不明でありますが、兎に角枠にはめることが認識されました。まだ完全でないことを示すよう「枠」のことを「和久」と書き、「湧く」が連想されるような言葉を用いてその初歩的整理であることを知らせています。この和久産巣日の神の整理の状態を天津菅麻(あまつすがそ)(音図)と呼びます。伊耶那岐の神の音図であります。

 この神の子は豊宇気比売(とようけひめ)の神といふ。
 神話の中で神のという場合はその親族関係またはその神の性能・活用法等を表わします。豊宇気比売(とようけひめ)とは十四(とよ)である先天構造の機能を受け継いで、それを秘めている、の意であります。豊宇気比売の神といえば、伊勢神宮外宮の御祭神です。この神は親である和久産巣日の神の大雑把な内容ではあるけれど五十音言霊を枠に結んだ五十音図の法則を以って、この世の中の出来事から発想される一切の文化を整理し、それを伊勢神宮内宮の御祭神である天照大神が聞しめす世界人類の文明創造の材料として大神の御倉板挙の上に並べる役目の神であります。この神が天照大神の前に差し出す一切の文化はすべて、人間の先天機能(豊)を受継いで(宇気)秘め備えたもの(比売)である、の意でもあります。

 かれ伊耶那美の命は、火(ほ)の神を生みたまひしに因りて、遂に神避(かむさ)りたまひき
 こうして伊耶那美の神は火の神を生みましたことで、遂におなくなりになりました、ということであります。但し、伊耶那美の神がなくなられたということは、現代人が考えていますように、人が死んで、身体がなくなり、あの世に魂だけとなって行ってしまった、ということではありません。古神道言霊学は人間の生命を心の側から解明した究極の真理であります。この真理から美神がなくなられた、ということを解釈しますと、次のように言うことが出来ましょう。伊耶那美の神は死んで精神界の純真無垢な言霊のみによって構成されている高天原の世界から離れて、物事をすべて客観的、対象的に見る黄泉国(よもつくに)に去って行った、ということなのであります。

 美の神が神避(かむさ)った、ということに関して、私達が注目しなければならぬことがもう一つ御座います。伊耶那岐・伊耶那美の二神は古事記神話の主役として共に力を合わせて子音の創生に当って来ました。そして生れ出るべきすべての子を生み終えて、もうこれ以上生むものがなくなり、伊耶那美の神は神話の舞台である主観世界の高天原から去って、客観世界である黄泉国(よもつくに)へ去りました。高天原には主役として伊耶那岐の命唯一神が残ったことになります。

 さて、主観世界の高天原から伊耶那美の神が客観世界の黄泉国(よもつくに)へ去って行った、とお話しますと、概念的な主観世界とか客観世界とかの用語が続き、私達の頭脳がその煩雑さについて行けなくなり、思考に迷いを生じることがあります。そこで少々説明を加えることにしましょう。

 人が暗い夜道を歩いているとします。遥か前方にピカッと何か光りました。その人は「光ったな」と思いました。暫くしてその人は「光ったのは青い光だったか、緑の光だったかな」と思いました。「さあ、どっちだったろう」と自分に問います。この時、主と客の世界の区別がはっきりします。ピカッと光ったその光は間違いなく自分から見て外界の光でした。客観世界の光を見たのです。次にしばらくして、「あの光の色は青だったか、緑だったか。」を考える時、その光は既に外の世界からは消えてしまっていますから、数分前に見たピカッと光ったその時のことを思い出さねばなりません。これは間違いなく記憶という主観内の世界のものです。主客の世界の区別はこれではっきりします。「そんなことなら、人は誰だって主観・客観世界の区別は特別の意識もなく見極めて、日常を暮らしているよ」と簡単にお思いになるでしょう。全くその通り、人は雑作もなくその区別を何の意識もなく使い分けて暮らしています。

 けれど、日常の人間の心の営みを超えて、これを学問的に考える時、主観世界と客観世界との間には、その観察方法に於ても、その思考の法則に於ても、決して相容れない区別があるのです。特に物事の先天と後天双方にわたる関係を調べる、この講座の言霊学とか、物質科学の中の原子物理学等の場合、その思考方法と法則には厳密な相違があるということをお知り頂きたいと思います。主観世界と客観世界との相違について説明をさせて頂いて、それを前提として伊耶那美の神の「神避り」の言霊学勉学に於ける意義についてお話を申上げようと思います。日本民族の、また世界人類の秘宝であるアイウエオ五十音言霊布斗麻邇の唯一の教科書である古事記(日本書紀)は現代の私達にその究極の真理と共に、その真理に到達する勉強法をも教えているのであります。

 伊耶那岐・伊耶那美の二神は共同で三十二の子音言霊を生み、ここに先天・後天の四十九の言霊が整いました。そしてそれ等の言霊一つ一つを粘土板に書いて刻み、素焼きの神名文字板としました。火の夜芸速男の神・言霊ンであります。これで言霊五十音すべてが出揃ったことになります。そしてこの五十番目の神である火の神を生みましたので伊耶那美の神は病気となり遂に神避って高天原から黄泉国に去って行ってしまいました。(後に伊耶那美の神は客観世界の責任者黄泉津大神となります。)

 伊耶那美の神は去り、後に残されたのは伊耶那岐の神と三十二の子音(と言霊ン・神代文字)だけとなります。美の神は「御蔭灸(みほとや)かえ」、子種が尽きたのですから、役目を果たして高天原を去りました。けれど伊耶那岐の神にはまだやらねばならぬ仕事が山ほど残っています。言霊五十音の整理・運用・活用の仕事です。これ等の仕事を伊耶那岐の神は自分一人でやることとなります。相棒である伊耶那美の神は神避っていなくなってしまったのですから。

 さて、この状況にある伊耶那岐の命と、私達言霊学を学ぶ者の心境とを引き比べてみましょう。私達は言霊学と出合い、興味を持ち、その講義を聴くこととなります。講義は「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神。(あめつちのはじめのとき、たかまがはらになりませるかみのみなは、あめのみなかぬしのかみ)……」と人間頭脳の心の先天構造から始まります。そしてその先天構造を構成する五つの母音、五つの半母音、母音と半母音との懸け橋となる八つの父韻、母音・半母音のそれぞれを統轄する言霊イ・ヰ(伊耶那岐・伊耶那美)のそれぞれの内容と働きを概念的にではありますが知識として身につけます。講義は更に進み、先天の活動による三十二の子音の創造の話となり、先天十七、後天三十二の言霊四十九が出揃い、最後にこれら全言霊を粘土板に刻んで素焼きにして神名(神代文字)を作る作業となり(言霊ン)、人間の心の構成要素のすべて、五十個の言霊が勢揃いしたことになります。

 このように書いて来ますと、伊耶那美の神が神避った後の伊耶那岐の神の立場と、言霊学を学ぶ人が言霊五十音の全部を教えられた時の立場とは、当然の事ながらよく似ていることに気付きます。この時、神話の中の伊耶那岐の神は、誰にも頼ることなく、自分一人で五十音言霊の整理・活用・運用の仕事に進んで行きます。何の注意事項をそこに残すことなく、いとも当然の如く金山毘古・金山比売・波邇夜須毘古……と五十音言霊の整理の仕事に分け入っています。何故それが出来るか、といえば、伊耶那岐と伊耶那美の婚い(呼び合い)の時、「女人先だち言へるはふさはず」と言うように、伊耶那岐の命は初めから「男」という名で表現される話の「主体性」ということ、即ち主観と客観との区別をはっきりと認識しているからであります。

 翻(ひるがえ)って私達勉学者の状況はどうでしょうか。言霊五十音の心の構造の話を聞き、母音・半母音、父韻、親音、三十二子音の創造の経緯を知って、心は多分「珍しい学問だ、心をこのように分析する学問は初めて聞いた。興味がある。今後共勉学を続けることにしよう。……」といった処でしょうか。この今後勉学を続けようとする時、忘れてはならない一事があるのです。

 平易にお話するために科学の勉強を例に引きましょう。物質科学に興味を持ったとしましょう。初めは先生からその学問の内容についてのお話があります。その概要を理解したら、それ等の話を証明する実験に参加して、この科学の分野では物事をどのように考えて行くのか、実験に使う材料の酸素、窒素、炭素……はどんな物質か。実験に使用される器材はどんな扱い方をするのか、等々を知ることによって、自分が初めて聞いた講義が真実だということを確認することが大切です。この初歩の確認を疎(おろそ)かにすると、その後の高級な理論や実験には付いて行けず、頭は混乱してしまうでしょう。

 この科学の基礎実験を言霊学の勉学に持ち込んでみましょう。言霊学に興味を持ち、心の先天構造の十七言霊(母音、半母音、父韻等)三十二の子音言霊の話を聞き、本で読みました。更に勉強を進めようとする時、基礎の実験が必要です。言霊学は心と言葉の学問ですから、実験ではなく、実証が必要となります。心の実証とはどういうものなのでしょうか。

 言霊学の実証は、器材、器具を使った実験ではありません。また自分以外の他人の心を拝借するわけにもいきません。飽くまで自分自身の心の中の体験です。こう申上げると大層なことだとお考えになる方もいらっしゃるかも知れません。そこでまた例を引きましょう。五十年程前に読んだストレス学説の元祖、カナダのハンス・セリエ博士の話です。「世の中は猛烈な速さで動いている。その中に住む人間は当然影響を受ける。種々の心のストレスを持つことは避けられない。私はストレスに対処する最も適した言葉を捜して来て、東洋特にこの日本で見つけた。英語のthank youは神から、または人から何かを頂いたお礼としての言葉である。けれど日本語の“有難い”の言葉は、本来お礼の意味ではない。今、此処に生きている事がこの上なく有り難い、即ち“有り得ないことが起こっている”という表現です。無条件の有難さです。私はこの言葉に接して、ストレスの医の最高の言葉は日本語のこれだと確信したのです。」

 このセリエ博士の言葉を言霊学の勉学の基礎自証の問題に引いて来ましょう。自己反省の作業の中で、一瞬であっても「今、此処に生きる事の無上の有難さ」を知ることの出来た人は幸福です。この人は他からでなく、まごうことなく自分自身の心の中に“有難い”という無上の感情を放射して、自分という傷つき易い人間、そして他人を傷つけ易い人間である自分を、いつも感謝の愛と慈悲で包み、護ってくれている偉大なものが存在していることを知ったのですから。そして言霊学で謂うところの、心の中に立っている天之御柱の中の言霊ウとオの次元の上に感情の世界である言霊アが柱の一部として厳然と立っていることを自証出来た事となります。そしてそれはまた見ることも、聞くことも、触れることも出来ない心の先天構造の内容の一部をはっきりと直観することが出来たことにもなります。この自証の直観は、その人自身の判断力によって古事記神話の更なる真理に向って奥深く入って行く事を可能とするでありましょう。

 長いこと言霊学の初期自証の仕事について筆を割きましたが、ここから古事記の文章を先に進めます。文章を少し長く書くこととなりますが、そのすべては伊耶那岐の命が自ら独りで、自分の心の中で五十音言霊の整理・運用・活用の方法を追求し、解明して行く文章であります。

 かれここに伊耶那岐の命の詔りたまはく、「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易へつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。ここに伊耶那岐の命、御佩(みは)せる十拳(とつか)の剣を抜きて、その子迦具土の神の頸(くび)を斬りたまひき。ここにその御刀(みはかし)の前に着ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。次に御刀の本(もと)に着ける血も、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は甕速日(みかはやひ)の神。次に樋(ひ)速日の神。次に建御雷(たけみかづち)の男(を)の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。

(次号に続く)

  「お知らせ
 「コトタマ学」会報の著者の体調不良のため、五月号よりの会報の発行を暫くの間お休みを頂くことに致します。予めお知らせ申上げます。読者の皆様にご迷惑をおかけし、誠に申訳御座いません。お詫び申上げます。お預かりいたしております会報の会費は休刊中の分、先延べにいたします。御了承下さい。
 尚、毎月第三土曜日午後の講習会は続けて開催する予定で御座います。また電話での御質問にもお答え申上げる所存で御座います。
 以上謹んでお知らせ申上げます。

言霊の会

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