「コトタマ学とは」第二百二十五号 平成十九年二月号

   心の御柱(しんのみはしら)(続き)

 現在、外宮の心の御柱は、その長さ五尺のうち二尺が地表より下に埋まり、残りの三尺が地表から上に出ているということです(図参照)。また鎌倉時代の記録によれば、内宮の心の御柱も同様であったと伝えられています。

 このような神宮の正殿の構造、特に内宮の心の御柱の変化が何故起こったのでしょうか。それは神宮を創建した当時は、はっきり人々によって意識されていた心の御柱の意義が、時代の経過とともに忘れ去られ、御遷宮の際にその時々の人の考え方が入り込んだためでありましょう。しかし幸い、神宮の構造様式の大部分はまだ昔のままに継承され保存されています。

 さて話の本筋に戻りましょう。心の御柱が長さ五尺ということは、それがアオウエイの五母音の言霊を表徴しているということにほかなりません。そして心の御柱の下二尺が地表より下に埋もれているのは、五つの母音のうちの下の二音であるエとイが人間の意識の表面から埋没し、忘れ去られてしまっていることをはっきりと示しているではありませんか。

 言霊イとは人間の創造意志の世界を意味します。その法則が言霊の原理です。言霊エとは、その原理に基づいた実践智の世界です。道徳や道徳による政治の社会のことです。

 今から二千年の昔、崇神天皇の時、天皇と八咫鏡が常に同じところにあるという同床共殿の制度が廃止されて以来、言霊の原理(言霊イ)は日本人の意識から次第に薄れていきました。同時に、言霊の原理を実際の政治に適用実践(言霊エ)していくことも停止されたのでした。古代の道徳政治は終わりを告げました。

 人々はその時以来、道徳的な理性に厳然とした心の法則があることを忘れてしまいました。以後、道徳といえば「何々すべし」、「何々すべからず」式のものだけとなりました。言霊イと言霊エの二つの次元は日本人の自覚意識から失われてしまったということが出来ます。日本語がどのようにして作られたかが分らない世となりました。同時に政治といえば、弱肉強食の権力闘争(言霊ウ)の場と人々は考えるようになったのです。

 五尺の「心の御柱」の下二尺が地表から下に埋まっているということが、右に挙げた事実を見事に表徴しているのです。

 天与の人間の性能のうち残されたものは、五官感覚による欲望活動(言霊ウ)と経験知の集まりである学問(言霊オ)と人間の感情に由来する宗教・芸術活動(言霊ア)の三つの次元だけとなります。この二千年の間、日本人は、また世界の人々は、この三つの次元の性能だけがこの世に生きていくために頼るべきものなのだと思い込んでしまっています。心の御柱が上部三尺だけ地表から上に出されていることで、右の事実を適確に示しているではありませんか。

 以上、伊勢神宮の内・外宮の正殿の床下に祭られてある「心の御柱」の神秘を、言霊の原理によって謎解きしました。「なんだ、ただそんなことか」と軽く受け取られる方もいらっしゃるかも知れません。けれど人間の心の構造とか、人類の歴史とかの難しい問題にかけて考えますと、心の御柱が驚くべきことを物語っているのに気付くのです。

 伊勢神宮は二十年ごとに建て替えられ遷宮が行われます。その遷宮の儀式のうちで、この心の御柱の儀式が何よりも厳かに、そして秘密のうちに行われると聞きます。それは心の御柱の祭り方の意味するものが、単に日本ばかりでなく、世界人類の文明を創造する上での大秘儀だからなのであります。

 人類の第二の文明である物質科学文明の発達を促進させるための方便として、人類の第一の精神文明の中心となってきた言霊の原理を、時が来るまで隠してしまうという歴史創造上の計画が、日本人の祖先たちによって立てられたという証拠を、はっきりと後世の人々が知ることが出来るよう工夫され、祭られたのが、この「心の御柱」なのです。

 それは現代人が、日常に使っている日本語の中に秘められている言霊の原理に気が付き、その原理を自分自身の心の構造と照らし合わせて確認することが出来るならば、誰もが容易に伊勢神宮の正殿の床下に秘められている「心の御柱」の意義の重大さに気付くことが出来ます。そして日本人の祖先が示した知恵とその洞察力の深さに驚嘆するでありましょう。

(「心の御柱」終わり)

   布斗麻邇(ふとまに・言霊学)講座 その十一

 心の先天構造の活動によって生れて来る三十二の子音言霊の中で、初めて生れ出て来る津島と呼ばれる区分のタトヨツテヤユエケメの十音の言霊の働きで、先天活動の意図が一つのイメージに形造られます。次に佐渡の島と呼ばれる区分のクムスルソセホヘの八子音言霊の働きで、そのまとまったイメージに適した言葉が結びつけられ発音されます。発音された言葉は空中を飛んで行きますが、飛んで人の耳に達する迄に言霊フモハヌの四音の機能があることをお話しました。ここまでで先月号のお話を終えました。今月はフモハヌと空中を飛んだ音(言葉)が人の耳に入るところから始まります。

 大山津見(おおやまつみ)の神、野椎(のづち)の神の二神(ふたはしら)、山野によりて持ち別けて生みたまふ神の名は、
 口腔で発声された言葉は空中を飛んで行きます。飛んで行ったからといって、発声した人の先天の意向から無関係になったわけではありません。飛んでいる言葉は発声した人の心(霊)も音(言)もしっかり宿したままです。そして大山津見で山を越え、野椎で野に下り、そこで人の耳に入ります。飛んでいる時の言霊四音、フモハヌ、更に人の耳に入った後の天の狭土の神(言霊ラ)より大宜都比売の神(言霊コ)までの十神、ラサロレノネカマナコの十神、十言霊を加えた十四神、十四言霊の区分を大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)と呼びます。

 天(あめ)の狭土(さつち)の神・言霊ラ 国(くに)の狭土(さつち)の神・言霊
 耳孔に言葉が入って行く時の働きを示す言霊です。ラは螺の字が示すように螺旋状に入って行く働き、それに対して国の狭土のサは直線的な働きを示します。また天の狭土は霊を、国の狭土は言を担当していると言えましょう。
 言霊サに漢字を当てますと、坂(さか)、狭(さ)、差(さ)す、指(さ)す、咲(さ)く、性(さが)、酒(さけ)、裂(さ)く、先(さき)、柵(さく)……等があります。

 天の狭霧(さぎり)の神・言霊、国の狭霧の神・言霊
 天の狭霧、国の狭霧の霧(きり)の字は声が天の狭霧の霊と、国の狭霧の言とを分担して、狭い耳孔の中を霧の様になり、その明暗、濃淡、深浅、急緩等のバイブレーション的波動状態で奥の方へ螺旋状に浸入して行く働きを示します。言霊ロ・レは共に螺旋状の動きを示します。

 天の闇戸(くらど)の神・言霊、国の闇戸の神・言霊
 狭い耳孔に入って行った言葉は波動の形で突き進み、その霊と言が闇(くら)がりの戸(と)即ち聴覚器官に突き当たります。そして復誦されます。天の闇戸・言霊と国の闇戸・言霊ネはノで宣音に通じます。「耳に入って来た言葉は一体どんな意味・内容を伝えようとしているのか、先ずは復誦してみよう」ということになります。音が宣られます。
 言霊ノに漢字を当てますと、野(の)、宣(の)る、退(の)く、軒(のき)、遺(のこ)す、除(のぞ)く、残(のこ)る、伸(の)びる、乗(の)る……等があります。
 言霊ネに漢字を当てますと、音(ね)、値(ね)、根(ね)、子(ね)、寝(ね)、願(ねが)う……等があります。

 大戸惑子(おほとまどひこ)の神・言霊、大戸惑女(おほとまどひめ)の神・言霊
 耳孔に入ってきた有音の神音が言霊で復誦され、大戸惑子、大戸惑女の言霊で頭の中で掻き回され、「あゝだ、こうだ」と煮つめられます。カマは釜で煮つめます。かくて有音の神名が純粋の真名(言霊)に還元されて行き、内容が確定されます。
 言霊カに漢字を当てますと、書(か)く、掻(か)く、貸(か)す、返(かえ)す、借(か)りる、掛(か)ける、囲(かこ)う、掠(かす)む、勝(か)つ、賭(かけ)……等があります。
 言霊マに漢字を当てますと、丸(まる)い、幕(まく)、混(ま)ぜる、巻(ま)く、迷(まよ)う、真(ま)、魔(ま)、負(ま)ける、稀(まれ)に、間(ま)、曲(ま)げ……等があります。

 鳥(とり)の石楠船(いはくすふね)の神・言霊、またの名は天(あめ)の鳥船(とりふね)
 神名を構成する言葉の一つ一つについて調べてみます。鳥とは十理(とり)の意です。主体である天之御柱と客体である国之御柱の間に、これを結ぶチイキミシリヒニの八つの父韻が入ります。この主客を結ぶ八つの父韻は主客がどのように結ばれるか、を判断する最も基本的なものです。父韻は主客を行き来して飛びますので、空飛ぶ鳥に譬えられます。次に石楠です。石は五十葉で、人の心の全体を構成する言霊五十音図のことを示します。楠(くす)は組(く)み澄(す)ます意。五十音を組んで言葉として澄ますの意です。船(ふね)とは人を乗せて此岸から彼岸に渡すもので、人から人へ心を渡す言葉の譬えに使われます。

 上に解釈したものをまとめた鳥の石楠船の神とは実際にはどういう意味になるのでしょうか。主と客の間を八つの父韻が取り結ぶ十理(とり)の原理による判断によって(鳥[とり]の)、五十音言霊(石[いは])の中から適当な言霊を組み合わせ、言葉とし、その内容を確定した(楠[くす])言葉(船[ふね])の内容(神)といった意味となりましょう。こう申上げても何だかはっきりとはお分かりにはならないかも知れません。そこで鳥の石楠船の神以前の言霊の動きを続けてみましょう。

 発声され空中を飛んだ言葉(神名[かな])は人の耳に入り、復誦され(ノネ)、掻き回され、煮詰められ(カマ)、「この言葉はこういう意味のものだったのか」と判断されます。それが鳥の石楠船の神です。八父韻の原則によって五十音の言霊の中から選ばれた言霊を組み合わせた言葉の内容ということです。神名(かな)として耳孔を叩いた言葉が種々に検討され、神名(かな)が真名(まな)となって確認された言葉の内容ということなのであります。神名(かな)とか真名(まな)とかという変化については後程お話申上げます。

 鳥の石楠船の神のまたの名を天の鳥船といいます。先天の活動によって生み出された意図が十理の原理によって五十音図の上で内容が確定されたもの、の意であります。
 言霊ナに漢字を当てますと、名(な)、菜(な)、魚(な)、成(な)る、鳴(な)る、泣(な)く、馴(な)れ、萎(な)え、治(なお)る、流(なが)る……等となります。

 大宜都比売(おほげつひめ)の神・言霊
 大いに宜しき言霊を秘めている言葉、という意であります。都(みやこ)とは宮の子、五十音図の子で言霊、特にその子音のことです。実相子音といい、現象の単位であります。発声された言葉が耳孔に入り、その中で復誦、検討されて「聞かれた言葉の内容はこのようなものだな」と確認され、鳥の石楠船の神として言葉の内容が確定されます。それが言葉の内容です。するとそこで事実として成立します。「こういう現象という事実が起こったな」という事実確認です。それが先天の働きから、イメージ化、言葉との結合、発声、空中を飛び、人の耳で聞かれ、検討されて、声の内容の確認を経て、現象が事実として成立します。この事実が言霊コ、即ち先天活動の「子」であります。伊耶那岐・伊耶那美の八父韻による結びが現象を起こし、現象が言霊子音として確定され、事実となり、そこで現象は終わり、神名(かな)は真名(まな)となって先天に帰ります。

 言葉を換えて申しますと、父と母が呼び合って子が生まれます。現象が生れます。子は父と母とから生れましたから、父母そのままかと申しますと、そうではありません。子は父+α、母+βの要素を含んだ独立した第三者です。そしてその内容が鳥の石楠船の言霊ナです。大宜都比売の神の内容であります。
 言霊コに漢字を当てますと、子(こ)、小(こ)、木(こ)、粉(こ)、濃(こい)、恋(こい)、乞(こ)う、声(こえ)、越(こ)え、肥(こ)え、凝(こ)る……等があります。

 空中を飛んだ言葉が人の耳に入り、復誦、点検され、煮つめられ、「あゝ、こういう内容だったのだ」と確認され、事実として確定されます。その働きを言霊子音で表わしますと、ラサロレノネカマナコの十音となり、空中を飛んだフモハヌの四音を併せた十四音の宇宙区分を大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)、またの名を天つ御虚空豊秋津根別(あまつそらねとよあきつねわけ)と呼びます。大倭(おほやまと)を大和(やまと)とも書きます。豊(とよ)である先天構造の働きで生れ出た言霊子音が、この十四音の出現ですべて調和して出揃(でそろ)い、実相を明らかに示すこととなった区分、という程の意であります。またの名天つ御虚空豊秋津根別とは先天である天つ御虚空(みそら)を示す十四音(豊)の活動で三十二の言霊子音がすべて明らかに出揃った領域と解釈出来ます。

 さて先天構造の活動によって言霊子音が次から次へと三十二個、津島、佐渡の島、大倭豊秋津島――先天へ帰って行く順序について綴って来ました。頭の混乱を防ぐために図を作って整理してみましょう。(図参照)。

 言霊の循環図 小笠原孝次氏「言霊百神」より引用

 言霊のことを真名(まな)ともいいます。その真名も心の宇宙の諸区分によって呼び名を変えることがあります。この区別を先ず定めることにしましょう。先天構造内の言霊真名(まな)を天名(あな)と呼ぶことがあります。次に先天から生れて、そのイメージの把握が問題となっている区分タトヨツテヤユエケメの十真名(津島)を未鳴(まな)と呼びます。まだ音を結びつけてない区分だからです。次の佐渡の島のクムスルソセホヘの八言霊は真名と呼ばれます。一般の言葉を構成して「言葉の言葉」の名分が文字通り立っている区分です。次に口腔で発声されて空中を飛んでいる区分、フモハヌの四真名を神名(かな)と呼びます。その神名が人の耳孔に入り、人の話す言葉から次第に復誦、検討、煮つめられて、再び真名として真実の了解を得るまでのラサロレノネカマナコの十言霊はまた真名であります。そして言霊ナコで話は了解され、事実として承認されますと、天名(あな)として先天構造へ帰って行きます。

 以上の、天名(あな)―未鳴(まな)―真名(まな)―神名(かな)―真名(まな)―天名(あな)と変わる廻りを「言霊の循環(じゅんかん)」と呼びます。そして人間の社会の営みはすべてこの循環の法則に則って行われ、例外はありません。宇宙で何年もかかる惑星探査の仕事、何光年の遠くの星雲の観測も、または一瞬にして決まる柔道の技もこの言霊の循環の原理から外れるものではありません。

 言霊の循環図についてちょっと奇妙に思われることをお伝えしておきましょう。先天構造の十七言霊が活動を起こし、次々と三十二の子音言霊が生まれます。そしてそれ等三十二の言霊の現象によって人はその先天の意図を事実として認定します。その認定する働きの三十二の子音が、起って来る事実のすべてである、という奇妙な事に逢着(ほうちゃく)します。このようなことも、言霊が心と言葉の究極の単位である、という根本原理なるが故に可能なことなのでありましょう。まるでパズルの奇妙な世界に引き込まれるような気持にさせられるものです。

 上のように言霊(真名[まな]、麻邇[まに])が言葉の最小の単位であると同時に心の究極の要素でもあるということによって表わされる、一見奇妙とも思われる性能を「言霊(ことたま)の幸倍(さちは)へ」と呼びます。言霊で創られた日本語を日常語とする日本の国を「言霊の幸倍ふ国」と呼びましたのも同じ道理によってであります。今までに会報上で何回か発表したことでありますが、新会員の方も多数となりましたので、この「言霊の幸倍へ」について二つのことを取上げ説明することとします。

 その第一は誰でも知っている「いろは歌」であります。「イロハニホヘト、チリヌルヲ、ワカヨタレソツネナラム、ウヰノオクヤマケフコエテ、アサキユメミシヱヒモセス」四十七の言霊を重複することなく並べて、人間の心が躍るきらびやかな現象世界を後にして、現象が生れ出て来る以前の心の宇宙に帰る心構えを説いた教えであります。四節に分けて説明しましょう。

 「イロハニホヘトチリヌルヲ」この世のことはまことにきらびやかで心を惹く興味深い出来事に満ちているけれど、考えてみると、そのきらびやかに思える花もやがては散ってしまいます。仏教でそのことを諸行無常、まことに儚(はか)ないことである、と言うごとく、心の拠り所とすることは出来ません。

 「ワカヨタレソツネナラム」私達が誰でも何時までもこのきらびやかな現象世界にいるわけにはいきません。やがては死んで行くのです。是生滅法(是れが生滅の法なり)、即ちこのことがこの世に生れては消えて行く儚き道理なのです。

 「ウヰノオクヤマケフコエテ」きらびやかさを喜び、儚さを悲しむ一瞬々々の出来事の喜怒哀楽が頼りにならないものなのだ、と知って悩みの山を越えて行けば(生滅滅己[しょうめつめつき])、浮かんだり、沈んだりの連続の人生を卒業すれば。

 「アサキユメミシヱヒモセス」はかない夢に一喜一憂して酔いしれることなく、寂滅為楽(じゃくめついらく)。即ち煩悩の苦しみを越え、極楽に住むことが出来る。

 以上が言霊を土台とした「いろは歌」の解釈であります。人の心の構成要素である言霊五十音(四十七音)を重複することなく並べて、仏教で謂う「色即是空、空即是色」の法則の中の色(現象世界)より空(なる元の宇宙)に帰る心構えを余すことなく簡潔に説いた見事な歌であります。いろは歌の作られた年代は種々の説がありますが、諸説よりズゥーと年代の古い頃の、言霊原理活用時代の作と思われます。

 「いろは歌」に次いで取上げますのは、所謂「ひふみ歌」です。実はこれは歌ではありません。奈良県天理市石上(いそのかみ)神宮に三千年間伝わるといわれる「布留の言本(ふるのこともと)」という文章で、四十七言霊を重複することなく並べて、心の宇宙の中にその内容として存在する「布斗麻邇」即ち言霊の原理を以って、現在の乱れに乱れている世の中を建替えし、建直して布斗麻邇の生命原理に立脚した人類の第三文明時代を建設して行く確乎たる手立てを書き記した大宣言なのであります。今講義が続いております「布斗麻邇」講座をもう少し先に進みませんと、「布留の言本」の詳細な意味をお伝えすることは少々難しいことですから、ここでは比較的簡易に解釈をすることとしましょう。まず言本の四十七文字を書きます。

 「ヒフミヨイムナヤコトモチ、ロラネシキル、ユヰツワヌ、ソヲタハクメ、カ、ウオエニサリヘテノマス、アセヱホレケ

 理解し易くするために句点をつけました。原文にはありません。句点に従って解釈します。
 「ヒフミヨイムナヤコトモチ」一二三四五六七八九十の十数の十拳剣(とつかのつるぎ)を以って、の意。一から十の十数を以って判断するのは言霊エの実践英智の判断です。

 「ロラネシキル」ロラネとは言霊循環の図を御参照下さい。佐渡の島でイメージが言葉と結び付けられ、口腔で発声された音声がフモハヌと空中を飛び、人の耳にレと波動として入って行きます。その「ロラの音(ね)」を十拳の剣の十数を以ってその内容、経過を仕切ってみよ、ということです。

 「ユヰツワヌ」ユヰは結(ゆ)ふこと。ツワヌとは子音言霊発生の初め、タトヨテヤ…のツとワであるその結論とを結びなさい、ということです。タトヨツと子音が生れて来て、タと全人格が宇宙から飛び出して来て、それが言霊五十音図の横の十音の変化と縦のアオウエの四音の次元の異なりの網の目を通って発想の意図が縦横の網の目によって濾されて、先天のイメージが明らかになり出したものと、その行き着く結論とを結びなさい、ということです。

 「ソヲタハクメ」そこに現出してくる経過をタハで組んでみよ、といいます。タハとは言霊五十音の一音一音、即ち言霊で以って組め、ということです。

 「カ」言霊を以ってイメージとその行き着く結論を結びますと、瞬時に心の中に「カ」と焼き付くように一つの光景が浮かび上がります。真実の実相が浮かび上がります。焼き付くような心中の実相変化、布留の言本は「カ」の一字で表わします。

 「ウオエニサリヘテノマス」対処する出来事がウオエのどの次元であるか、その次元に沿うよう区別して述べなさい、という意味です。

 「アセヱホレケ」アセヱの前の言葉ノマスは、述べよと訳しました。アセヱホレケは「どのような心構えで」と言います。アセとは天津太祝詞音図の上段の十音のことです。このア瀬は、古代日本の政庁に於けるスメラミコトの座であります。そのスメラミコトの心を大御心(おほみごころ)と申します。そのスメラミコトの下に集(つど)う国民を大御宝(おほみたから)と呼びました。今言本の取上げる「アセ」とはこのスメラミコトの国民に対する大慈大悲の心を言っているのです。どのようにして述べるか、を「ホレケ」と言っています。ホは言霊です。レは言霊の、並びのことです。どのように並ぶか、一字で「ケ」と示しています。言霊循環図の津島の言霊の列をご覧下さい。タトヨツテヤユエメと続き、先天で発想した意図が何であるか、が略ゞ(ほぼ)確定した音がメでありました。としますと、「ホレケ」とは言霊の並びが明らかに示されるように宣言しなさい。と布留の言本ははっきり言い切っていることが分ります。

 以上、言霊四十七を重複することなく並べて、文章の内容も明らかに、言霊原理を以ってこの世の中の建替え、建直しをする法則を述べた布留の言本の解釈であります。お分かり頂けたでありましょうか。

 「いろは歌」「ひふみ歌」と呼ばれる二題について「言霊の幸倍へ」の話をして参りました。言霊は人為に関する人間のすべての出発点であります。道に迷ったら出発点に帰れと言われます。二・三千年前、この言霊という出発点を忘却した人類は、現在道に迷ってニッチもサッチもいかなくなりました。ちょっと見た所、やる事、為す事一切は失敗の連続です。物の道は成功です。心の道は失敗です。失敗の道をいくら考えても失敗の結果しか得られません。心の原点である心と言葉の究極の単位である言霊という単位に帰ること、これが一切の出発点です。比喩でもなく、概念でもない、心の実在と現象の単位である言霊の学を言霊の会は今後共世界に発信を続けて行きます。

(次号に続く)

 【追記】「いろは歌」乃至「ひふみ歌」の総数四十七文字と五十音の数の違いについては後程ご説明いたします。