「コトタマ学とは」第二百二十三号 謹賀新年 平成十八年十二月号

   心の御柱(しんのみはしら)

 さてこれから伊勢神宮正殿の建築様式についてお話することになるのですが、ご存知の方も多いことでしょうが、神宮の正殿の建物には一般の人は手を触れることが許されていません。また正殿は周りの垣や樹々に囲まれていて、近くに寄って見ることも出来ません。伊勢神宮は神秘のベールに包まれています。

 特に今からお話しようとしている「心の御柱」は神宮の建造物の中でも秘中の秘とされているものなのです。ですからその説明は、遺されている文献に頼るよりほか方法がありません。そこで一冊の文献からの引用をお許しいただくことにしましょう。その本は「謎を秘めた伊勢神宮の建築」(伊藤ていじ著、旭屋出版刊)であります。

 「外宮も内宮も二十年ごとに建て替えられることになっている。……遷宮の儀式が終わると正殿を始め東西の宝殿、四重の御垣とそこに開かれた各種の御門など、古い建物の一切は取り払われ、その殿地は単なる石敷きの原に変わり果てる。……すべては自然物に還元されたかのように見える。しかし実際にはそうではない。その殿地を見渡すと、もとあった正殿の位置に小さな覆屋が残されているのを知る。……それにしてもあれは何なのだろうか。そここそが心の御柱といわれる神聖の柱が埋納されている場所なのである。もちろんそれを見た人は稀であるし……正確な実体については不明というほかはないが、伝えられているところによれば次のようなものである。

 第一にこれは、檜の柱だということである。現在のものは内宮で長さ六尺(一八二センチ)、太さ九寸(二十七センチ)といわれる。……尤もこの柱の長さと太さとは時代によって変遷があったらしく、弘安二年(一二七九)の「内宮仮遷記」によると外宮のものは約五尺(一五○センチ)となっている。大きさについては外宮のものが経四寸(十二センチ)としている。

 第二は、内宮の場合にはこの柱はすべて地中に埋納されているのに対し、外宮のものは半分以上が地上に突き出ていることである。前にあげた鎌倉時代の史料によると、外宮の心の御柱五尺のうち三尺が地上に出て、二尺が地中に入っていることになっている。また元来は内宮のものも外宮と同様に地上に出ていたらしく、前記の史料によると、地上に三尺三寸(1メートル)くらい出て地中には二尺(六○センチ)くらいが埋まっていた。……」

 以上が伊勢神宮の内・外宮の正殿の床下に置かれた「心の御柱」についての他本よりの引用です。この心の御柱がどんな意味を持っているものなのか、色々な学説があるようですが、はっきりした定説はありません。

 一説によりますと、昔、榊の木の枝に鏡を懸け、天照大神の神霊の降下を祈願した風習が、いつしか鏡と榊が別々になり、榊の代わりに心の御柱が立てられたのだ、といわれます。その証拠には心の御柱は床下の地中に埋められており、御神体である鏡はその真上の正殿の床上に置かれているというのです。

 またある説では、心の御柱とは男の性器を象ったのだと主張しています。昔男女の性交を神聖化した風習が信仰の対象にまで転化され、心の御柱になったのだというのです。それに対する反論もあります。内宮の天照大神も外宮の豊受姫神も女性であり、男の性器説は根拠がないというわけです。

 このほかにも色々な説がありますが、これといった決め手に欠けていて、心の御柱の意義については定説がないというのが実情なのです。日本の神道信仰の最高の神宮である伊勢の内・外宮の、そのまた最高の神秘とされる「心の御柱」の意味が分らないというのはどういうことなのでしょうか。否、分らないのではありません。日本語の起原であり、人間精神の原理である言霊の原理の学問の立場からみるならば、心の御柱の意味は明快に謎解きされるのです。その意味を理解することが出来た時は、私達日本人の祖先の素晴らしい知恵と、長い歴史に対する鋭い洞察を知って驚嘆せざるを得ないことでしょう。

(次号に続く)

   布斗麻邇(ふとまに・言霊学)講座 その九

 古事記「島生み」の章の文章を先へ進めます。
 次に津島(つしま)を生みたまひき。またの名は天の狭手依比売(さでよりひめ)といふ。次に佐渡(さど)の島を生みたまひき。次に大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)を生みたまひき。またの名は天つ御虚空豊秋津根別(みそらとよあきつねわけ)といふ。かれこの八島のまづ生まれしに因りて、大八島國(おほやしまこく)といふ。
 然ありて後還ります時に、吉備
(きび)の児島(こじま)を生みたまひき。またの名は建日方別(かたひかたわけ)といふ。次に小豆島(あづきしま)を生みたまひき。またの名は大野手比売(おほぬでひめ)といふ。次に大島(おほしま)を生みたまひき。またの名は大多麻流別(おほたまるわけ)といふ。次に女島(ひめじま)を生みたまひき。またの名は天一根(あめのひとつね)といふ。次に知訶島(ちかしま)を生みたまひき。またの名は天の忍男(をしお)といふ。次に両児(ふたご)の島を生みたまひき。またの名は天の両屋(ふたや)といふ。

 古事記の島生みの章の文章はここで終ります。さて、前号の解説は島生みの始めの淡路の穂の狭別の島に始まり、伊予(いよ)の二名(ふたな)の島、次に隠岐(おき)の三子(みつご)の島、筑紫(つくし)の島、そして次の伊岐(いき)の島と続きました。そして以上の五島が、既に解説を終えております人間精神の先天構造を構成する十七言霊の五段階の組織の、一番上から夫々の段階が精神宇宙の中に占める位置と内容を説明した島の名前であることが明らかにされました。即ち先天構造の天津磐境は以上の五つの島が示す五段階の構造であることが明示されたわけであります。

 そこで今回の講座は、先天構造の内容と組織が明らかにされましたから、当然その先天構造の活動によって生まれて来る人間精神の後天構造のお話に入って行くことになるのですが、古事記の記述が「子生み」より「島生み」を先に取上げておりますので、順序が逆になっておりますから、これより続々と生まれて来る島々の解説をしましても、その島の位置する後天現象の子音が未だ生まれていない今では、文章が混乱すること必然であります。とは言え、今後の島の出現と生まれ出て来る子音の関係について何もお話しないでは更に何が何だか分らなくなることともなりますので、今後お話申上げます島と子音との関係を大雑把にお話して、子生みのお話に入ってから、島と子の関係を詳しく解説することで御了解を得たいと思います。

 心の先天構造の五段階に関係する五つの島が明らかになりました。その次に古事記は次々と九つの島を生みます。そして島生みが終りますと、先天の活動によって三十三個の子音(神)が生まれて来ます。ここで本講座の初めに書きました島生みの文章を御参照願います。先天構造との関係の五島に次いで、三つの島の名が出て来ます。津島、佐渡の島、そして大倭豊秋津島の三島です。この三島が生まれ出て来る後天三十三言霊(神)の三つの区分の位置内容を指示する島名であります。

 それでは残った六つの島の名は何を指示するのか、ということになります。古事記はこの後、生まれた先天十七言霊、後天三十三言霊計五十言霊を総合し、整理し、運用して、最後に人間精神が到達すべき最高の精神性能である「禊祓」の法を明らかにして行きます。その整理、運用の段階が六段あり、その夫々の段階を区切り、説明するために六つの島名を当てているのです。古事記の文章の「然ありて後還ります時に」に続く吉備の児島、小豆の島、大島、女島、知訶の島、両児の島(きびのしま、あづきのしま、おほしま、ひめしま、ちかのしま、ふたごのしま)の六島名がそれを明らかにします。

 以上のような訳がありますので、古事記の島九つの名前の示す位置、区分、内容の解説は、生まれ出て来る後天子音の説明、並びにその整理、運用の区切々々に島名の説明を差し挟む形で解説して行くことにいたします。御了承下さい。

 古事記の文章を「子生み」の章に進めることとします。
 
既に国を生み竟(を)えて、更に神を生みたまひき。かれ生みたまふ神の名(みな)は、大事忍男(おほことおしを)の神。次に石土毘古(いはつちひこ)の神を生みたまひ、次に石巣比売(いはすひめ)の神を生みたまひ、次に大戸日別(おほとひわけ)の神を生みたまひ、次に天の吹男(ふきを)の神を生みたまひ、次に大屋毘古(おほやびこ)の神を生みたまひ、次に風木津別(かざもつわけ)の忍男(おしを)の神を生みたまひ、次に海の神名は大綿津見(おほわたつみ)の神を生みたまひ、次に水戸(みなと)の神名は速秋津日子(はやあきつひこ)の神、次に妹速秋津比売(いもはやあきつひめ)の神を生みたまひき。

 「既に国を生み竟(を)えて、更に神を生みたまひき。」生れて来る神即ち後天の子音の宇宙に於ける位置が定まりましたので、いよいよ先天活動が起こり、後天現象の要素である子音が生れる段階に入りました。右の古事記の文章で計十神が生れます。総合計三十三の子が生れますが、その中の十神であります。言霊子音で表示すれば「タトヨツテヤユエケメ」の十箇の言霊子音です。そしてこの十神、十言霊が精神宇宙の中に占める位置を「津島」と申します。津とはここより海へ船が出て行く処の意です。現在でも三重県に津、滋賀県に大津なる町があります。どちらも海や湖に接しています。津はまた渡す、の意を持ちます。渡すとはどういうことなのでしょうか。

 十七言霊で構成された先天構造が活動を始め、何かの意図が発現しました。けれどこれは先天構造内のことでありますから、何であるかは分りません。それが何であるか、を明らかにするには後天の活動が必要です。その何だか分らない発想が実は何であるか、を一つのイメージとして捉える働き、それが津島に位置するタトヨツテヤユエケメの十箇の言霊現象の働きであります。先天現象の漠とした分らないものを、一つのイメージにまとめ上げる働きです。何だか分らぬものをイメージ化する働き、これが津島(つしま)です。この津島の働きを担う十言霊を一つ一つ解説して行くことにしましょう。

 大事忍男(おほことおしを)の神・言霊タ
 昔の人は人の言葉を雷鳴(かみなり)に喩えました。頭の中でピカピカと雷光が走ると、口からゴロゴロと雷鳴である言葉が鳴りわたる。その形容はキリスト教、新約聖書、ヨハネ伝の冒頭の言葉「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。(はじめにことばあり ことばはかみとともにあり ことばはかみなりき このことばははじめにかみとともにあり よろずのものこれによりてなり なりたるものにひとつとしてこれによらでなりたるはなし)……」を思い出させます。また古事記の神名、大事忍男の神とは「大いなる事を起こさせる(忍)主体(男)の実体(神)という意味で、仏教の「一大事因縁」という言葉に似ています。古事記の編者太安万侶は先天構造から一番初に出て来る言霊タの指月の指に大事忍男の神なる神名を当てました。言霊タとは宗教的に、芸術的に、全宇宙がそのまま現象となる音と説明しました。正しくその表現にふさわしい音であります。

 言霊タとは宇宙の中で「タ」と名付けるべき一切のものを表現します。そのタに漢字を付すと田(た)、立(たつ)、竹(たけ)、滝(たき)、高(たか)い、平(たい)ら、種(たね)、戦(たたか)う、頼(たの)む……等々が浮かびます。

 言霊タの説明によく田んぼの田を用いる事があります。それは何故か、を説明しておきましょう。詳しい事は今後の話に廻し、今は簡単にお話申上げます。言霊は何処に存在するか、と申しますと、人間本来授かった五つの次元性能の中の言霊イ(意志)の次元にあります。言霊イの次元には、人間の生命意志の担い手である五十個の言霊と、その言霊の操作・運用法である五十通りの法則計百の原理しか存在しません。言霊はイの次元にあって、現在の五十音表の如き構造で存在しますから、言霊のことを「イの音(ね)」で「イネ」と呼ばれます。これが稲を作る田の形に似ておりますので、稲の語源としても使われます。五十音表は言霊五十音の構造を表わしますので、五十音表は人間人格のすべてと考える事が出来ます。そこで宇宙全体がそのまま現象界に姿を表わしたもの、即ち人格全体を言霊タで表現するのです。

 石土毘古(いはつきひこ)の神・言霊ト、石巣比売(いはすひめ)の神・言霊ヨ
 始めに大事忍男の神以下の十神(十言霊)は先天構造内に起こったものが如何なる事を意図したのかを一つのイメージにまとめる一連の作業だと申しました。ですから大事忍男の神・言霊タに続いて生れて来る神・言霊の解説もその一連の意図に沿った立場からお話をして行くことになります。石土毘古の石(いは)は五十葉(いは)で五十音言霊のことです。土は土壌で育てる働きを表わします。毘古はその原動力である八つの父韻の働きで、チイキミシリヒニ。五十音図は八父韻の両端にイ、ヰが付いて十音となり十を形成します。十(と)の言霊は横に並び、物事を創造して行く時間的な経緯を表わします。先天構造内に起こったものが実際どの様なものなのか、を時の経過に従って調べられる事を示しています。それは先天の意図が言霊の十個の戸を通過するようにして調べられる、ということが出来ましょう。

 言霊トの単音に漢字を付して言葉とすると、次のように書くことが出来ましょう。十(と)、戸(と)、時(とき)、止(とまる)、解(とく)、鳥(とり)、通(とおる)、床(とこ)、樋(とひ)、問(とふ)、遠(とお)、……

 石巣比売の神・言霊ヨの石は五十音言霊。巣は五十音を以って作られた巣の如きもので五十音言霊図。比売は「秘め」で言霊図の中に秘められたもの、この場合は言霊ヨで、世の中を構成している四つの母音性能を指します。世の中は言霊ウ(五官感覚に基づく欲望性能、その根本性能が人間社会に築くものは物質的産業・経済機構)、言霊オ(人間の経験知、その性能が社会化したものが広くは学問、物質的精神的科学)、言霊ア(人間の感情性能、その社会化現象は宗教、芸術)、そして最後の四番目の性能、言霊エ(人間の実践智性、その社会に於ける活動は政治、道徳)。以上の四性能によって築かれた四種類の社会を総合して世(四)の中と言います。

 先天構造の活動によって生れて来た現象の意図は何であるのか、は先ず第一に大事忍男の神・言霊タが全人格として現われ、その実像が次に石土毘古の神・言霊トの現象によるイ・チイキミシリヒニ・ヰの十の言霊によって時間的位置が定められ、次の石巣比売の神・言霊ヨによって現世の人間性能の中のどの性能の働きに属すものなのか、四つの社会の中のどれに入るべき事なのか、が確められます。人間の全人格は五十音言霊図によって表示されます。それ故に先天から姿を現わした現象は先ず言霊図の横の十音(父韻)の時間的変化の法則の網を通り、次に縦四個の次元の篩(母音)を通ってそのイメージ化が進んで行きます。

 言霊ヨの音ヨに漢字を当てますと、四(よ)、世(よ)、代(よ)、節(よ)、夜(よ)、宵(よひ)、酔(よう)、過(よぎる)、欲(よく)、横(よこ)、汚(よごれ)、……等が思い出されます。

   かへりごと(言霊学随想)

 五千年余りの長い間、人類の第一精神文明時代の歴史創造の原器であったアオウエイ五十音言霊布斗麻邇の原理は、今より二千年前、政治への適用が廃止され、社会の底に隠没した。神倭皇朝第十代崇神天皇の時である。以来日本は、世界の中の日本も、日本自体の日本も、日本らしからぬ日本となった。日本の暗黒時代の始まりであった。

 千九百年の時が流れた。ヨーロッパに於て物質科学の研究のメスが物質の先験構造内に入り、原子物理学が世界の脚光を浴びようとする時、あたかも東西呼応するごとく、日本の朝廷の中に、ささやかではあるが一つの画期的な研究が始まった。明治天皇御夫妻による言霊布斗麻邇の学問の復興のための研究である。先師の師、山腰明将氏より伝わる話によれば、それは明治天皇にお興入れした皇后様のお嫁入り道具の中に、三十一文字(みそひともじ)の和歌の作り方を書いた古い書物があり、その中に日本固有の和歌と言霊との関係が記されていたという。すると天皇がたしか賢所に古事記と言霊に関する書物があったはずだ、といわれ、ここに古事記神話と言霊布斗麻邇との関係を探る端緒が開かれたのだという。

 明治天皇御夫妻は、その時皇后と皇太子(大正天皇)の書道の先生であった前尾張藩士、山腰弘道氏が国学者でもあったことから、この山腰氏をお相手として古事記神話の謎ときの研究を進められたと聞いている。

 聞き知るはいつの世ならむ敷島の大和言葉の高き調べを (明治天皇)
 敷島の大和言葉をたて貫きに織る倭文機(しずはた)の音のさやけさ (昭憲皇太后)

 上の明治天皇御夫妻のお歌を拝読させて頂くにつけて、御夫妻が日本固有の言霊の学問に日本の将来の希望を託されていられたかが想像されるのである。

 二十世紀を通して原子物理学は物質文明の中の大道を歩み、良いにつけ悪いにつけ、物質文明の中にその大きな花を咲かせることとなった。一方、精神の先験の学である言霊学は明治天皇の死後、朝廷の中より野に下り、その足取りは波瀾万丈の世の移り変わりの底にその研究の一歩々々が進められることとなる。

 明治四十五年、明治天皇崩御。言霊学復興の仕事は大正天皇には伝わらず、明治天皇御夫妻の学問のお相手を担当した山腰弘道氏に託されて民間に下り、弘道氏の死後、その二男明将(めいしょう)氏に継がれた。氏は陸軍の軍人であり、最終の位は陸軍中佐であったと聞いている。氏は軍職の傍ら言霊学の研究を進め、主として音韻学に基づいて古事記による五十音言霊の整理・解説に当ったように思われる。「思われる」と書くのには理由がある。氏の死後、氏が遺した研究資料は膨大なものであったが、火災によって焼けてしまったという。後を継いだ者がその資料を見ることが出来なかったのである。今、私の手許に山腰氏が遺したただ一冊の「言霊」という名の書物がある。昭和十五年、第二次大戦勃発(ぼっぱつ)の前年、軍の中枢の意向「開戦となれば必ずしも我方優利とは思われない。神風でなくとも、日本古来の精神的神風となるようなものはないか」ということで山腰明将氏奉ずる言霊学に白羽の矢が立ち、当時の東京築地の海軍将校のクラブ(水交社)に皇族、陸海軍の大将・元帥、国務大臣、警視総監等々が集合する前で週一回、十週にわたる「言霊」と題する講義の速記録である。速記者は私の先師、小笠原孝次氏。十回にわたり堂々たる講義ではあったが、音韻学による解説では言霊学の真意は皇族を始めとする日本の上層の方々の理解を得られず、遂に日本は米英相手の大戦に突進したのである。

 敗戦直後、師とその研究資料を共に一瞬にして失った先師小笠原孝次氏は一ヶ月間もの時をまるで死人の如くに送ったという。教えてくれる山腰氏既にこの世になく、受け継ぐべき研究資料も失ったと知っては、後継者の悲歎は当然である。けれど先師は奮然と立ち上がった。『日本の、そして世界人類の将来の鍵を握る人間生命の真理がこれしきのことで無に帰する筈がない。古事記が人間の心と言葉の究極の書であるというなら、生きている自分自身の心の内容を見つめて行くならば、呪示であり、謎々として説かれている古事記神話を現世の「心と言葉の真理」として解き得ないはずはない。』

 この事件が言霊学復興と研究の転機となった。古事記神話の内容を起点として言霊学の復興の事業が、他の宗教書や哲学書の経験知からの類推ではなく、正に生きた人間自体の心との刷り合せによる真実の仕事が始まったのである。先師の東京は多摩川の河川敷における坐禅が始まった。来る日も、来る日も、一日の休みもない坐禅の日々が二年間近く続いた後、師は「色即是空、空則是色」を何の理屈もなく分ったという。古事記神話の冒頭の文章、「天地の初発の時、高天原に成りませる(あめつちのはじめのとき たかあまはらになりませる)……」の天地の初発の心の状態と内容を自分の心に見出したのである。古事記の神話が説く「天地の初発(あめつちのはじめ)」が、私達の眼前に広がる物質宇宙の話ではなく、私達人間の心に何も起こっていない処から何かの出来事が始まり出す「今・此処」なのであることを、御自身の心で証明したのである。昭和三十年(一九五五)少し前のことと先師のパンフレットに見ることが出来る。古事記神話の呪示解明の仕事はその後順調に進んで行ったのである。

 言霊学を求め、先師の門を初めて叩いたのは私が三十七才の時(昭和三十七年・一九六二)であった。先師の言霊原理自証の作業は更に進んでおり、その神話解明の解説は一点の誤解も許さない厳粛なものであった。言霊学が人間生命の学として最初の解説書となった小笠原孝次氏著「古事記解義言霊百神」が世に出版されたのは昭和四十四年(一九六九)である。世の人々を動かす自証の現代語で書かれた初めての言霊学の解説の冒頭、先師は「言霊の冊子が出来たんだ 出来たんだよと大空に叫ぶ」と本のはしがきにその喜びを書いている。

 私は先師の薫陶(くんとう)を二十年に渡り受けることが出来た。私が五十七才の時、先師は後事を私に託してなくなられた。七十九才であった。先師はなくなる前、「私の言霊学の自証の作業は言霊百神の八十番目、飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)まで終わった。あとは貴方の仕事だ」と言われた。爾来二十五年、明と暗、光と影の間を往き来する言霊学自証の仕事は続いている。誰も教えてくれない。けれど暗から明への転機のささやきは、そのヒントを誰からも受けることが出来る。自証の道は、最後に暗と影が消えて今・此処に躍動する言霊の光の言葉が発せられて言霊学の総結論「禊祓」の業は此処に完結する。先師から託された古事記神話解明の作業、第八十一神「奥疎神(おきさかるのかみ)」より第百神、「須佐男命」までの神話の解明は既にその九十五パーセント以上を終了している。

 以上、言霊学復興に尽くした諸先輩百年間の仕事について語った。今、更にその中の重要な二点について振り返ってみよう。第一に考えられることは、明治天皇は言霊学の唯一の教科書である古事記の神話の最初の五十神に、宮中賢所の秘中の秘とも言うべき記録からアイウエオ五十音の一つ一つとの結合を附加された事である。正に画龍点睛であった。これなくして言霊学の復興作業の進行は有り得ないからである。そして天皇は復興作業の場を民間に求めさせた事である。宮中賢所から八苦の娑婆(しゃば)に天降(あまくだ)した事である。光は闇に照る。美しい蓮の花は泥土の中から咲く。第二点は小笠原孝次氏が、一切の勉学の便(よすが)を失った時、その勉学の根拠を永劫不変なる自己の心魂に拠ることに気付いた事であろう。かくて、言霊の原理が時間と空間の制限を越えた宇宙の真理であることが自ずと証明されたのであった。

 明治天皇は自ら言霊布斗麻邇の学の復興の研究を嚆矢(こうし)され、後継者を民間に放たれた。今や錬磨百年、現在言霊の会に於て完成間近である。完成の暁、天皇へ報告申上げねばならない。その報告を「かえりごと」(復言)という。言霊布斗麻邇の原理こそ、この世界を栄光ある人類の第三文明時代に導き得るただ一つの真理なのである。

(おわり)