「コトタマ学とは」第二百二十一号 平成十八年十一月号 | ||||
先月の講座で淤能碁呂島(おのごろしま)の話をしました。それは「おのれの心の締まり」の意だと申しました。その淤能碁呂島についてもう少しお話してみようと思います。 「私って何でしょう。」極めて平凡な疑問のように見えて、さてその答えとなると中々難しいこととなります。今の世の中にこの疑問にはっきりと答えることが出来る人が幾人いるでしょうか。この難しい問題に対して一刀両断、ズバリと答えを出しているのが古事記の淤能碁呂島の話なのです。ふり返って考えてみましょう。 伊耶那岐の命と伊耶那美の命は天の浮橋の両端に立って、天の沼矛(ぬぼこ)を下(おろ)ろして、塩(しほ)を画きならしました。人間の主体と客体が向かい合って言葉を発声する器官である舌を使って、チイキミシリヒニの八父韻でもって、塩であるウオアエの母音を撹き廻して発声しました。すると舌から塩がしたたり落ちて島が出来ました。それがおのれの心の島だ、と言うわけです。アとワ、オとヲ、ウとウ、エとヱの四組の母音と半母音を八つの父韻で撹きまぜたのですから、ア段からは感情の現象が、オ段から経験知現象が、ウ段から欲望現象が、そしてエ段から実践智の現象がそれぞれ発現して来ます。そうしますと、それがおのれの心の締まりとなる、ことになります。人間の千変万化の出来事をそれぞれに発現した音が単位となって締め括(くく)ったことです。
古事記の文章を先に進めることにしましょう。 先に矛(ほこ)という器物を人間の舌と見立てて、言葉の発声について話したかと思ったら、今度は男女の生殖作用のこととは何事か、と思う方もいらっしゃるかも知れません。人間の発声作用とか生殖活動等々は人間に与えられた生命直接の働きであります。そのため、それらの活動の内容は生命そのものの内容と同様であり、極めて類似しておりますので、一つの活動の説明として他の活動を用いる事が可能なのであります。 先に矛で塩を撹き廻して淤能碁呂島というおのれの心の区分の島を生みました。自分の心を言葉という島で区分したわけです。この言葉を生むことを再びむし返して、言葉の創生を今度は伊耶那岐と伊耶那美の間の生殖活動として説明しようとするのであります。 岐の命は美の命に尋ねます。「貴方の体はどうなっていますか。」美の命が答えます。「私の身体は一処成り合わぬ処があります。」岐の命が言います。「我が身には一処成り余れるところがあります。ですから私の身の成り余る処を、貴方の成り合わぬ処に刺しふさいで、国土(くに)を生みましょう。」美の命は「それは善いことですね」と答えました。岐と美の命は以上の身体の生殖器能になぞらえて、言葉の創造作業を説明するのです。今度は単純に岐の命は男性として父韻の、美の命は女性として母音の役目を演じるのであります。 美の命の「成り成りて成り合わぬところ」とは母音のことです。母音アを息の続く限り発声してみて下さい。ア……と何処まで行ってもアが続いて終わることがありません。成り合わぬ、と表現しました。それに対し岐の命の「成り成りて成り余れるところ」とは父韻のことです。チの音を長く引っ張ってみて下さい。チ―イ、と成り余ります。「成り余れる処を、成り合はぬ処に刺し塞ぎて」とは父韻を母音の上から蓋をするように刺して、ということで、チでアを塞ぐとチアで「タ」となります。キオで「コ」となります。国土生みなさむとは、国とは組(く)んで似(に)せる、で音を組むことによって一つの意味を持ったものに造り上げることであります。このようにして言葉を造ることを細かく説明したわけであります。そしてかかる作業が言霊学全体から見るとどういう事になるか、が次に説明されます。古事記を先に進めます。 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾(あ)と汝(な)と、この天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。かく期(ちぎ)りて、すなはち詔(の)りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟えて廻りたまふ時に、……
伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたなひき。おのもおのものりたまひ竟えて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(をみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。然れども隠処(くみど)に興して子(みこ)水蛭子(ひるこ)を生みたまひき。この子は葦船に入れて流し去(や)りつ。次に淡島(あはしま)を生みたまひき。こも子の数に入らず。 美の命が先ず「何といい男だこと」と言い、後に岐の命が「何といい娘子(をとめ)だなあ」と言いました。二命がおのおの言葉を言いおえて、岐の命はその妻美の命に「女人(をみな)の方が先に言ったのは適当ではない」と言いました。何故適当ではないのか。女人である母音を先に言い、後から男人(をとこ)である父韻を言い足しても言葉は生まれて来ません。父韻であるkに母音aが付くからkaカの音が生まれます。けれど母音aを先に、後に父韻kを付けてもakでは音になりません。また人間の社会に於ても、或る事に対処して解決を計らねばならぬ時に、その社会の実相を直視しようとせず、自らの心の安心のみを求めていたのでは、社会は改善されることはありません。人間の欲望ばかりはびこるこの二・三千年間、自らの心の安心を求める宗教は何一つ世界の歴史上の精神的改善を成し遂げ得なかったことは歴然たる事実でありましょう。「然れども」と古事記にはあります。事実そうではあるけれど、世の中の長い歴史の流れの中には、そのような矛盾も多々あることであるから(然れども)、このことも書き入れて置きましょう、ということであります。隠処(くみど)に興(おこ)して、の隠処とは組み処の意。頭脳内の言葉が組まれる処の意。心の先天構造内は五官感覚の及び得ない処なので、隠れる処と書いたわけであります。子水蛭子を生みたまひき。蛭には骨がありません。霊音である八つの父韻を欠くことから霊流子(ひるこ)とも書くことができます。共に事に対処するに当たって時の推移、空間の変化を計る八父韻が欠如しているので、物事の時所位を定めることが出来ず、文明の創造に当たって無力であります。 この子は葦船に入れて流し去りつ。この水蛭子(ひるこ)は葦船に入れて全世界に流してやった、とあります。どういう事なのでしょうか。岐の命と美の命が交合して子を生むに当り、美の命が岐の命より先立って声をかけました。即ち母音を先にし、父韻を後にしました。母音アを先にし父韻チを後にしますとatで音になりません。現象としての実相が現れません。そうと知り乍ら子を生み、水蛭子が出来ました。長い皇祖皇宗の御経綸の歴史の中でも、そういうことは起こり得ることである、ということで、岐美二命の本当の子ではないけれど、歴史の世界に流しやった、というわけであります。実相を生む八父韻を無視して、母音である人間の本体である空相のみを追及するもの、それは宗教であります。ここ三千年、物質科学文明時代に於て戦乱相次ぎ、人々は明日の生命も知れない時、宗教は人々の生きる希望を支えてきました。
宗教が水蛭子であることを弾劾(だんがい)した有名な事件があります。今から約八百年余以前、執権北条時宗の時代、元冠の時、法華経を奉ずる日蓮は時の仏教各派を「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と罵(ののし)り、「法華経のみ国難を救うと叫んで、その時までの仏教が内にのみ拘泥して、外を見ない態度を打破しようとしました。その傾向は仏教の中で今でも続いているようであります。 次に淡島をうみたまひき。こも子の数に入らず。淡島の淡はアワの意であります。この講座の先の方でお話しましたように、アとワ、主体と客体が対立することから始まる人の物の考え方のことです。人の認識作業は、先ず言霊ウから始まり、次にアとワ、主体と客体に分かれ(宇宙剖判)、更にオエ、ヲヱ……と剖判します。このような言霊学が示す道理を通った認識は実相を直視することが出来ますが、何時の時からか、人類は言霊ウの存在を無視して、物事をアとワに分かれた処から思考が始まると思い、自らの経験知識による判断を行うようになりました。かかる認識作業を淡島と呼びます。判断の土台として各自の認識の概念を設定しますので、その思考は論争を招くこととなります。言霊学の正式の子にはなり得ません。 (以下次号)
最近の皇室の現況を、暴露記事でなく、おだやかに伝える記事を読むことが出来ましたので、少し長くなりますがここに引用することにします。それは九月九日、朝日新聞の「皇族方の心に思いはせ」(編集委員岩井克巳)なる社説であります。
この社説が示す如く、国権在民である国民の中に於ける天皇の地位、そして皇室の在り方について種々の論説が提言されることでありましょう。けれどそれ等の主張が学者を含めてそれぞれの人の単なる経験知のみによる提言である時、事態は更に昏迷の度を深める結果となるかも知れません。教育の問題がそうでした。教育の改善、教育制度の改革が叫ばれ、それに手をつければ、つける程、教育の現場の状況は“崩壊”の一途を辿っています。憲法の天皇の地位の問題も、皇室典範の問題も、その場限りの人間の狭い経験知に頼っての改正では心許ないこと限りがありません。何故なのでしょうか。教育で言えば、教育の目的が「人格の完成」であるならば、「人格とは何か」「人の心とは何か」の認識が余りにも欠けている為であります。それが分からずに教育は人を何処に導こうとしているのでしょうか。 憲法、皇室典範の問題も同様です。天皇の地位を定める憲法、皇室の在り方を規定する皇室典範を改めると言いながら、私達日本国民が集うこの日本国のidentity即ち国体とは何か、国家・国民のこの地球上に於ける役割は何か、について何も知らないでいます。これも出た所勝負の個々の知識ではどうにもならない事でしょう。今こそ、衆知を尽くして日本と日本人、そして日本語の起原を探究する時でありましょう。 上の探究に当り参考となるべきものを列挙しましょう。伊勢神宮正殿の唯一神明造りの構造、宮中に於ける大祓祝詞の真実の内容、大嘗祭の式典の意義、三種の神器の精神上の意味、立太子式典に於ける壺切りの太刀の内容、その他宮中三殿の中の賢所に秘存されている種々の調度と記録等々はすべて太古の私達日本人の祖先が、現在の私たちに遺して下さった「人間とは何か、日本とは何か、日本語とは如何なる言葉であるか」をそれぞれの呪示(謎)として伝えて下さった参考物件であり、これを現代の言葉に翻訳する鍵がアイウエオ五十音言霊布斗麻邇の学なのであります。 皇室の将来を占う鍵は何処でもない皇室の中に時が来るまで静かに、太古のままに秘蔵されています。日本民族の「青い鳥」は数千年の長い間、日本国の首都の中枢、皇居の賢所の中で、日本国民が気付くのを密かに待っているのです。 (終り) |