「コトタマ学とは」第二百二十一号 平成十八年十一月号

   第六章 皇室と言霊 三種の神器

   菊の御紋章

 天皇家は代々十六弁の菊花の紋章を用いています(図参照)。三種の神器に次いでこの菊の紋章の言霊学的由来をお話することにしましょう。

 天皇のことを昔はスメラミコトといいました。スメラは「統べる、統一する」の意です。ミコトとは言葉の意味。スメラミコトで国中の、世界中の言葉を聞こし召して、それを統一していく人の意となります。霊知り(聖)であった天皇はそれが可能でありました。菊の紋章の菊は「聞く」の表徴であります。聞く、とは何を聞くのかという意味で十六弁の菊花は天皇を中心とした十六方位の地方・国々を表わしているという説があります。この説も一つの説明ではあります。けれど、それなら何故天皇にはそれが可能であるか、という天皇としての資格が明らかになりません。古代の天皇は国家権力や武力によって国を治めていたのではなく、徳の高さ、能力の大きさによって政治を敷く責任者であったのです。

 人間は他から入ってくる言葉の音声を耳で聞きます。そして耳で聞いた音声を頭脳に還元してその真実の内容が探られます。

 人はおかしい時に笑い、悲しい時には泣きます。けれどおかしい時に泣き、悲しい時に笑うことだってあります。他から来る音声の真相は果たしてどうなのか、を頭脳で判断します。その頭脳の働きといわれるのが、心の先天の部分ということが出来ます。言霊学で天津磐境(あまついはさか)と呼ぶ十七個の言霊から成り立っている機能のことです(図参照)。

 耳から入った音声は頭脳に還元され、人間の思考の先天構造の中で洗練され、濾過されて「ああ、言葉の真相はこうだったのだな」と了解されます。この場合、頭脳の先天を形成している十七個の言霊をしっかり自分の心の中で把握し、自覚している人(霊知り)であるならば、どんなに心理的に複雑な言葉であっても、その真実の姿を聞き取ることが出来るでありましょう。それがスメラミコトの位を嗣ぐ資格であり、条件であったのです。

 さてこの人間の思考頭脳の先天の構造を形づくっている十七個の言霊のうち、十六番目の言霊イと十七番目の言霊ヰを一体化した働き、すなわち創造意志の主体と客体とを一体化して、宇宙でただ一つの創造の原動力とみなした力、これを宗教的には創造主、または創造主神と呼ぶのです。この創造主という立場からみますと、人間の思考の先天構造は全部で十六個の要素から成り立っているということが出来ます。

 国家や世界の一切の言葉を聞こし召す(菊)スメラミコトの能力は、言霊十六個から成り立っています。これが天皇のご紋章に十六弁の菊の花が用いられる理由なのです。

 以上、天皇のご紋章として用いられる十六弁の菊花の言霊学上の意味についてお話してきました。これに因(ちな)んだ話を一つ付け加えておきましょう。天皇の菊花紋章ほどには知られておりませんが、皇后様の徴として桐の葉と花を形どったご紋章のあるのをご存知でしょうか。天皇の菊花が「聞く」の暗示であるのに対し、皇后の桐は「切る」、前にお話しました「太刀」である人間天与の判断力のことを表徴しているのです。

 宮中において行われる各種の行事やそのお道具で、古代の言霊の原理を形式として後世に遺すために制定されたものは右の他にもまだ数多くあります。この本ではあまり深く立入る事を避け、ほんのさわりをご紹介させていただくに留め、次の章では伊勢神宮についての神秘の謎解きに入りたいと思います。

(次号に続く)

   布斗麻邇(ふとまに・言霊学)講座 その七

 先月の講座で淤能碁呂島(おのごろしま)の話をしました。それは「おのれの心の締まり」の意だと申しました。その淤能碁呂島についてもう少しお話してみようと思います。

 「私って何でしょう。」極めて平凡な疑問のように見えて、さてその答えとなると中々難しいこととなります。今の世の中にこの疑問にはっきりと答えることが出来る人が幾人いるでしょうか。この難しい問題に対して一刀両断、ズバリと答えを出しているのが古事記の淤能碁呂島の話なのです。ふり返って考えてみましょう。

 伊耶那岐の命と伊耶那美の命は天の浮橋の両端に立って、天の沼矛(ぬぼこ)を下(おろ)ろして、塩(しほ)を画きならしました。人間の主体と客体が向かい合って言葉を発声する器官である舌を使って、チイキミシリヒニの八父韻でもって、塩であるウオアエの母音を撹き廻して発声しました。すると舌から塩がしたたり落ちて島が出来ました。それがおのれの心の島だ、と言うわけです。アとワ、オとヲ、ウとウ、エとヱの四組の母音と半母音を八つの父韻で撹きまぜたのですから、ア段からは感情の現象が、オ段から経験知現象が、ウ段から欲望現象が、そしてエ段から実践智の現象がそれぞれ発現して来ます。そうしますと、それがおのれの心の締まりとなる、ことになります。人間の千変万化の出来事をそれぞれに発現した音が単位となって締め括(くく)ったことです。

 このように見て来ますと、「私」とは「十七言霊で構成された心の先天構造と、その先天構造の活動によって発現して来る心の後天現象の一切」ということになりましょう。しかし、先天構造の活動によって現れ出てくる後天の現象は、現れては消え、消えては現れる出来事なのであって、実体がありません。これが私だよ、と言ってユニフォームで身を包んで、スマシ顔で立っている私も唯見るだけの現象なのです。「暑い、暑い」と言いながら、裸で団扇を使っている私も現象に過ぎません。となると、厳然として実在する私とは、言霊学が教える五次元のアオウエイの宇宙の畳(たたなわ)りが、半母音と一体となった、即ち天之御柱と国之御柱が一体となった心柱(忌柱、天之御量柱)こそが私の心の本体ということが出来ましよう。心の一切の現象、森羅万象がここより発し、終わればここに帰って来る、神道五部書にある「一心の霊台、諸神変通の本基」こそ「私」の本体なのであります。「私」というものの本体は宇宙そのものということになります。

 古事記の文章を先に進めることにしましょう。
 ここにその妹伊耶那美の命に問ひたましく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾(あ)が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善(よ)けむ」とまをしたまひき。……

 先に矛(ほこ)という器物を人間の舌と見立てて、言葉の発声について話したかと思ったら、今度は男女の生殖作用のこととは何事か、と思う方もいらっしゃるかも知れません。人間の発声作用とか生殖活動等々は人間に与えられた生命直接の働きであります。そのため、それらの活動の内容は生命そのものの内容と同様であり、極めて類似しておりますので、一つの活動の説明として他の活動を用いる事が可能なのであります。

 先に矛で塩を撹き廻して淤能碁呂島というおのれの心の区分の島を生みました。自分の心を言葉という島で区分したわけです。この言葉を生むことを再びむし返して、言葉の創生を今度は伊耶那岐と伊耶那美の間の生殖活動として説明しようとするのであります。

 岐の命は美の命に尋ねます。「貴方の体はどうなっていますか。」美の命が答えます。「私の身体は一処成り合わぬ処があります。」岐の命が言います。「我が身には一処成り余れるところがあります。ですから私の身の成り余る処を、貴方の成り合わぬ処に刺しふさいで、国土(くに)を生みましょう。」美の命は「それは善いことですね」と答えました。岐と美の命は以上の身体の生殖器能になぞらえて、言葉の創造作業を説明するのです。今度は単純に岐の命は男性として父韻の、美の命は女性として母音の役目を演じるのであります。

 美の命の「成り成りて成り合わぬところ」とは母音のことです。母音アを息の続く限り発声してみて下さい。ア……と何処まで行ってもアが続いて終わることがありません。成り合わぬ、と表現しました。それに対し岐の命の「成り成りて成り余れるところ」とは父韻のことです。チの音を長く引っ張ってみて下さい。チ―イ、と成り余ります。「成り余れる処を、成り合はぬ処に刺し塞ぎて」とは父韻を母音の上から蓋をするように刺して、ということで、チでアを塞ぐとチアで「タ」となります。キオで「コ」となります。国土生みなさむとは、国とは組(く)んで似(に)せる、で音を組むことによって一つの意味を持ったものに造り上げることであります。このようにして言葉を造ることを細かく説明したわけであります。そしてかかる作業が言霊学全体から見るとどういう事になるか、が次に説明されます。古事記を先に進めます。

 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾(あ)と汝(な)と、この天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。かく期(ちぎ)りて、すなはち詔(の)りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟えて廻りたまふ時に、……

 この場合は天の御柱と国の御柱が一つになった立場で物申されておりますので、岐美の両命は一つの行為をすることになります。その場合二命は天の御柱を廻る一つの行為の八つの父韻を双方で受け持つこととなります(図参照)。そうなりますと、夫である岐の命は八父韻の陽韻であるチキヒシの四韻を、妻である美の命は陰韻であるイミニリの四韻を受け持つこととなります。美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)とは今で謂う結婚のことです。日本書紀には「遘合爲夫婦(みとのまぐはひ)」「交(とつぎ)の道」とあります。遘合は交合のこと、夫婦のまじわりのことです。交(とつぎ)とは十作(とつぎ)で、イ・チキシヒミリイニ・ヰの創造行為を表わします。「右(みぎ)」とは「身切(みき)り」で陰、「左(ひだり)」は霊足(ひた)りで陽を表わします。古事記の文章を先に進めます。

 伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたなひき。おのもおのものりたまひ竟えて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(をみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。然れども隠処(くみど)に興して子(みこ)水蛭子(ひるこ)を生みたまひき。この子は葦船に入れて流し去(や)りつ。次に淡島(あはしま)を生みたまひき。こも子の数に入らず。

 美の命が先ず「何といい男だこと」と言い、後に岐の命が「何といい娘子(をとめ)だなあ」と言いました。二命がおのおの言葉を言いおえて、岐の命はその妻美の命に「女人(をみな)の方が先に言ったのは適当ではない」と言いました。何故適当ではないのか。女人である母音を先に言い、後から男人(をとこ)である父韻を言い足しても言葉は生まれて来ません。父韻であるkに母音aが付くからkaカの音が生まれます。けれど母音aを先に、後に父韻kを付けてもakでは音になりません。また人間の社会に於ても、或る事に対処して解決を計らねばならぬ時に、その社会の実相を直視しようとせず、自らの心の安心のみを求めていたのでは、社会は改善されることはありません。人間の欲望ばかりはびこるこの二・三千年間、自らの心の安心を求める宗教は何一つ世界の歴史上の精神的改善を成し遂げ得なかったことは歴然たる事実でありましょう。「然れども」と古事記にはあります。事実そうではあるけれど、世の中の長い歴史の流れの中には、そのような矛盾も多々あることであるから(然れども)、このことも書き入れて置きましょう、ということであります。隠処(くみど)に興(おこ)して、の隠処とは組み処の意。頭脳内の言葉が組まれる処の意。心の先天構造内は五官感覚の及び得ない処なので、隠れる処と書いたわけであります。子水蛭子を生みたまひき。蛭には骨がありません。霊音である八つの父韻を欠くことから霊流子(ひるこ)とも書くことができます。共に事に対処するに当たって時の推移、空間の変化を計る八父韻が欠如しているので、物事の時所位を定めることが出来ず、文明の創造に当たって無力であります。

 この子は葦船に入れて流し去りつ。この水蛭子(ひるこ)は葦船に入れて全世界に流してやった、とあります。どういう事なのでしょうか。岐の命と美の命が交合して子を生むに当り、美の命が岐の命より先立って声をかけました。即ち母音を先にし、父韻を後にしました。母音アを先にし父韻チを後にしますとatで音になりません。現象としての実相が現れません。そうと知り乍ら子を生み、水蛭子が出来ました。長い皇祖皇宗の御経綸の歴史の中でも、そういうことは起こり得ることである、ということで、岐美二命の本当の子ではないけれど、歴史の世界に流しやった、というわけであります。実相を生む八父韻を無視して、母音である人間の本体である空相のみを追及するもの、それは宗教であります。ここ三千年、物質科学文明時代に於て戦乱相次ぎ、人々は明日の生命も知れない時、宗教は人々の生きる希望を支えてきました。

 そういう事もあろうという訳で、水蛭子を葦船に乗せて世界中に流布したのであります。葦船とは言霊学でいう天津太祝詞音図のことであります(図参照)。皇祖皇宗が人類文明を創造する基本原理を天津太祝詞五十音図といいます。その音図は母音が縦にアイエオウと並び、横のア段はア・タカマハラナヤサ・ワ、イ段はイ・チキミヒリニイシ・ヰと連なります。図をご覧下さい。葦船の葦は音図のアとシを結んだものです。ア段はスメラミコトの座であり、イ段は経綸の基本原理の父韻の並びを表わします。そこでアとシを結んで、アシは単的に経綸を指します。宗教も実際の子ではないが、役に立つ事もあると認めて、葦の船に乗せたということです。言葉は人の心を乗せて運びます。そこで人の心を運ぶものとして船を用いるのです。

 宗教が水蛭子であることを弾劾(だんがい)した有名な事件があります。今から約八百年余以前、執権北条時宗の時代、元冠の時、法華経を奉ずる日蓮は時の仏教各派を「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と罵(ののし)り、「法華経のみ国難を救うと叫んで、その時までの仏教が内にのみ拘泥して、外を見ない態度を打破しようとしました。その傾向は仏教の中で今でも続いているようであります。

 次に淡島をうみたまひき。こも子の数に入らず。淡島の淡はアワの意であります。この講座の先の方でお話しましたように、アとワ、主体と客体が対立することから始まる人の物の考え方のことです。人の認識作業は、先ず言霊ウから始まり、次にアとワ、主体と客体に分かれ(宇宙剖判)、更にオエ、ヲヱ……と剖判します。このような言霊学が示す道理を通った認識は実相を直視することが出来ますが、何時の時からか、人類は言霊ウの存在を無視して、物事をアとワに分かれた処から思考が始まると思い、自らの経験知識による判断を行うようになりました。かかる認識作業を淡島と呼びます。判断の土台として各自の認識の概念を設定しますので、その思考は論争を招くこととなります。言霊学の正式の子にはなり得ません。

(以下次号)
   皇室と言霊学(言霊学随想)

 最近の皇室の現況を、暴露記事でなく、おだやかに伝える記事を読むことが出来ましたので、少し長くなりますがここに引用することにします。それは九月九日、朝日新聞の「皇族方の心に思いはせ」(編集委員岩井克巳)なる社説であります。

 皇室に皇太子、秋篠宮さまの次の世代の男児が初めて誕生した。新たな命の誕生を祝福したい。男子誕生は四十一年ぶりで、「皇統の危機」に対処するとして、小泉内閣が前例のない女系天皇も認める皇室典範改正の提案に踏み切る寸前に訪れたおめでただった。
 「あの二人なりに心配し、苦しみ悩んだ末に、いま自分達にできることはこれしかないと考えたのではないでしょうか」―天皇、皇后両陛下は、紀子さまの懐妊・出産に至るまでの秋篠宮ご夫妻の思いについて、こんな風に深く受け止めているご様子、と側近は胸中を推し量っている。
 ここ数年、「天皇陛下の苦悩ぶりは端で見ておられなかった」(側近)という。不透明な「皇統」の将来への憂慮は年々深まるが、皇太子家では雅子さまの回復への見通しが立たない。自らの前立腺ガンとの闘病は続く。小泉内閣が皇室典範改正に踏み出そうとしたが、激しい反対を引起したうえ、三笠宮寛仁さまなど皇室内部からも異論が表面化して、押し切れば国論分裂も避けられない局面だった。おめでたは、こうした雰囲気を和らげ、冷静さを取り戻すきっかけを与えた。
 天皇陛下が政府の典範改正の動きに異を唱えた形跡はない。しかし一方で、以前から「皇室が十分な努力をつくさないで国民に制度の変更を求めることに心苦しい思いを抱いておられるのではないか」との推測も宮内庁内に少なくなかった。
 三年十二月、当時の宮内庁長官の「秋篠宮家に第三子を期待したい」との発言は「雅子さまにショックを与えた」との批判を浴びた。雅子さまの長期療養はこの直後から始まった。秋篠宮ご夫妻にとっても、つらい成り行きだっただろう。
 とりわけ雅子さまの不調の原因が「日本の皇室の旧弊ぶり」などと内外のメディアで取りざたされたことは、両陛下にとってはこれまで歩んで来た道のりを否定されるような思いだったのではないだろうか。紀宮さま(現黒田清子さん)も五年秋に結婚し皇室を離れた。秋篠宮ご夫妻には「これまで以上に両陛下を支えなければ」との気持が強まっていたようだ。
 皇太子さまの「人格否定」発言に関して「天皇陛下に事前に内容について話があってしかるべきではなかったか」と発言した秋篠宮さまだが、それで兄弟仲が悪化したようには見えない。「宮さまの本意は、自身は一歩引いても、親子、兄弟などご家族がそれぞれの持ち味を生かしながら相和する皇室の姿を望んでのことだったようだ」(側近)という。それだけに「紀子さま懐妊は雅子さまにプレッシャー」などとされることに紀子さまは苦しんでいたと聞く。新たな命の誕生はこうしたわだかまりや暗雲を吹き払うような明るい話題となった。
 皇后さまは、紀子さまが前置胎盤と聞いた時には大変驚き、紀子さまが早めに入院した際には「本当に安堵しました」と周辺に語っていた。母体と新しい命を気遣う家族の姿だった。雅子さまも明るさを取り戻しつつあるという。
 皇位継承資格者はこれで七人になった。しかし、次の次の世代の男子は一人だけだ。今後、皇位継承が綱渡りになる可能性もある。女王、内親王も、順次結婚適齢期を迎える。皇位継承問題が解消したわけではない。紀子さまは十一日に四十歳になる。「眞子、佳子の時よりつらい」と、これまでにない負担感も訴えたようで、更なる慶事の期待は酷かもしれない。秋篠宮ご夫妻が今後どう考えるからはこれからだ。
 皇太子ご夫妻はどう考えるのだろうか。実は昨年夏ごろ、「皇室典範に関する有識者会議」の急進展に「皇太子さまが『ちょっと待ってもらえないだろうか』との意向らしい」との情報が会議の一部メンバーに伝わり、動揺が走った局面もあった。また「ご夫妻は、敬宮愛子さまを一人っ子にしたくないお気持では」と推測する側近もいる。
 もちろん無理強いするような「期待感」は慎むべきだろう。一方で、皇室制度の論議は大いにあっていい。ただ、生身のご本人方の気持や皇室の伝統からかけ離れて性急に大なたを振るうことは、皇室と国民との関係にとってふさわしいものではないように思う。
 皇族方が、ご自分や家族の将来について、また皇族としての立場、皇室の連綿と続く歴史について、どう考え、どう歩んでいくのか―ご本人方の気持を尊重しつつ、穏やかに議論を深めて行くべきだろう。

(以上)

 この社説が示す如く、国権在民である国民の中に於ける天皇の地位、そして皇室の在り方について種々の論説が提言されることでありましょう。けれどそれ等の主張が学者を含めてそれぞれの人の単なる経験知のみによる提言である時、事態は更に昏迷の度を深める結果となるかも知れません。教育の問題がそうでした。教育の改善、教育制度の改革が叫ばれ、それに手をつければ、つける程、教育の現場の状況は“崩壊”の一途を辿っています。憲法の天皇の地位の問題も、皇室典範の問題も、その場限りの人間の狭い経験知に頼っての改正では心許ないこと限りがありません。何故なのでしょうか。教育で言えば、教育の目的が「人格の完成」であるならば、「人格とは何か」「人の心とは何か」の認識が余りにも欠けている為であります。それが分からずに教育は人を何処に導こうとしているのでしょうか。

 憲法、皇室典範の問題も同様です。天皇の地位を定める憲法、皇室の在り方を規定する皇室典範を改めると言いながら、私達日本国民が集うこの日本国のidentity即ち国体とは何か、国家・国民のこの地球上に於ける役割は何か、について何も知らないでいます。これも出た所勝負の個々の知識ではどうにもならない事でしょう。今こそ、衆知を尽くして日本と日本人、そして日本語の起原を探究する時でありましょう。

 上の探究に当り参考となるべきものを列挙しましょう。伊勢神宮正殿の唯一神明造りの構造、宮中に於ける大祓祝詞の真実の内容、大嘗祭の式典の意義、三種の神器の精神上の意味、立太子式典に於ける壺切りの太刀の内容、その他宮中三殿の中の賢所に秘存されている種々の調度と記録等々はすべて太古の私達日本人の祖先が、現在の私たちに遺して下さった「人間とは何か、日本とは何か、日本語とは如何なる言葉であるか」をそれぞれの呪示(謎)として伝えて下さった参考物件であり、これを現代の言葉に翻訳する鍵がアイウエオ五十音言霊布斗麻邇の学なのであります。

 皇室の将来を占う鍵は何処でもない皇室の中に時が来るまで静かに、太古のままに秘蔵されています。日本民族の「青い鳥」は数千年の長い間、日本国の首都の中枢、皇居の賢所の中で、日本国民が気付くのを密かに待っているのです。

(終り)