「コトタマ学とは」第二百十八号 平成十八年八月号

   第六章 皇室と言霊 三種の神器

   剣(つるぎ)

 古代の日本の刀は両刃でした(図参照)。それを太刀(たち)または剣(つるぎ)といいます。剣は精神の何を表しているのでしょうか。剣によって表わされるのは、人間が生まれた時から授かっている判断力のことなのです。物事を理解しようとする場合、言い換えますと物事を分かろうとする場合、そのものを分析すなわち分けなければなりません。分析すなわち分けなければ永久に分かりません。分けるから分かるのです。日本語はよく出来ているではありませんか。この分析する・分ける働きを表徴する器物を太刀と呼びます。太刀は「断ち」に通じます。

 物事を分析すると、そのものの細部については、はっきりしてきます。例えば映画について考えてみましょう。まずその映画の物語の筋はうまく出来ていたか。役者の演技は上手だったか。色彩は良かったか。音響効果はどうか等々が分析されます。しかしそれだけで映画を理解したことにはなりません。細部の部分部分が理解されたならば、今度は再び部分部分を総合して元の姿に返して初めて全体としてそのものが理解されたことになります。この映画は全体として良い作品か、否かの判断が出来ます。この総合する働きを「剣(つるぎ・連気)」と呼ぶわけです。現在でも一緒に何かすることを「つるむ」といいます。

 右に説明しましたように、分析(太刀)と総合(剣)の両方の働きを表わして古代の剣は図で見るように両刃でありました。これに対して物事を断ち切るだけの働きの剣は刀(片名)と呼ばれました。

 剣でもって人間の天与の判断力を表現したのは日本ばかりではありません。世界の宗教書には多くみることが出来ます。新約聖書の中に「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな。平和にあらず、返って剣を投ぜんために来れり」というイエス・キリストの言葉があります。「私はただ世の中を平和にするために来たのではない。人々に正しい判断力とは何かを知ってもらうために来たのです」という意味であります。

 仏教の禅宗には「両頭を截断すれば、一剣天に倚(よ)って寒し」などという格好のいい言葉があります。「あれか、これか、ああしたらよいか、こうしたらよいか、という経験知の迷いをすっぱりと捨て去ってしまうと、物事の正邪善悪を即座に決定することが出来る人間天与の判断力が精神宇宙を貫いて立っているのを自ら感じることが出来るのだ」という意味でありましょう。

 このように、剣とは人間の判断力のことを表わしています。そして古代の日本人はその判断力の精神構造まではっきりと自覚していたのです。それが先に「心の先天構造」の項で説明した天津磐境(あまついはさか)と呼ばれる言霊十七個で構成された、人間誰しもが与えられている頭脳の思考構造です。ウ―アワ―オエヱヲ―ヒチシキミリイニ―イヰの十七個の言霊の構造のことです。

 以上、三種の神器の内の剣の意味についてお話してきました。三種の神器の草薙の剣などというと、何か神話のおおとぎ話のようで、現代人にとっては遠い世の中のことぐらいにしか思われないでしょうが、しかしそういう器物で表されたものが実は読者自身の生まれながらに持っている判断力の構造を表徴したものなのだと知ったなら、それは身近なものとなってくるのではないでしょうか。

 人が判断するとはどういうことなのか、と三種の神器の剣は現代人に無言の問いかけをしているのです。単なる宮中の儀式の道具なのではありません。大昔の霊知りの天皇は、この天与の判断力を見事に行使出来る人だったのです。

(次号に続く)

   布斗麻邇(ふとまに・言霊学)講座 その四

 前回までの講座で人間の精神の先天構造を構成する四つの母音宇宙、ウアオエと三つの半母音宇宙ワヲヱが出揃いました。次に何が現出するでしょうか。古事記の文章を先に進めます。

 次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹須比智邇(いもすいちぢに)の神。次に角杙(つのぐひ)の神。次に妹生杙(いもいくぐひ)の神。次に意富斗能地(おほとのべぢ)の神。次に妹大斗乃弁(いもおほとのべ)の神。次に於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(いもあやかしこね)の神。
 以上、八神が次々に現われ出て来ます。そして更に同様な形で「次に伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に伊耶那美(いざなみ)の神。」と続きます。続いて書かれていますから、前の八神と後の二神は同じ系列の神と思われ勝ちでありますが、実は関係は深いけれど、同じに取り扱うことの出来ない神々でありますので、後の二神は八神の解釈が終わった後に説明を申上げることといたします。

 さて、新しく現出しました八神の名前を改めて御覧下さい。どれもこれもこんな名前の神様なんて本当にいるのかな、と思わざるを得ない奇妙な名前ばかりです。こんな名前を指月の指として持つ言霊とは一体どんな言霊なのであろうか、全く見当もつかないように思われます。今までの講座で解説された母音言霊の神名は、説明をよく聞けば、「成程」と納得することが出来ました。けれど新しく現われた神名は、読んだだけでその想像を超えたもののように思われます。読者が本当にその様な感触をお持ちになったとしたら、その感触は正しいと申し上げねばなりません。この八つの神名を指月の指とする八言霊――これを父韻言霊と呼ぶのですが――人類の歴史のこの二千年間、誰一人として口にすることなく、人類社会の底に秘蔵されていたものなのです。ですから、今、この謎を解いて「実はこういうものなのだよ」と申上げても、即座には頷き難いのも当然と言えましょう。

 とは申しましても、言霊布斗麻邇の講座でありますから、奇妙だとか、難しいといっても、避けて通るわけにはいきません。これから言霊父韻というものの内容と働きについて、また父韻それぞれの働きについて出来る限り御理解し易いよう説明を申上げます。「何故そうなるのだ」ではなく、「人間の心の働きの深奥はそのような構造になっているのか」と一応の合点をして頂くつもりでお聞き頂き度いと思います。勉学が進みます毎に言霊学の素晴らしさに驚嘆なさることになりましょう。

 先ず父韻とは何か、を明らかにしましょう。それには一歩後に退いて、母音について少々お話しなければなりません。今まで出て来ました母音宇宙を指し示す神名の後には「独り神に成りまして身を隠したまひき」という文章が続きました。「その宇宙はそれのみで存在していて、他に依存することなく、現象として姿を現わすことがない」と解釈しました。その意味はまた、「自立独歩していて、それが他に働きかけることもない」とも受け取れます。母音宇宙自体が何かの活動をすることはないということです。他に働きかけることをしない母音宇宙から現象は何故現れるのでしょうか。その現象発現の原動力となるものが父韻というものなのであります。

 宇宙の剖判によってウの宇宙からア・ワ、オ・ヲ、エ・ヱのそれぞれの宇宙が現われます。その剖判して来た母音宇宙と半母音宇宙とを結んで、そこから現象(子音)を生む原動力となるのが言霊父韻、チイ・キミ・シリ・ヒニの四組八個の父韻というわけであります。父韻は働きでありますから陰陽があり、作用・反作用があります。そこで父韻は二つで一組、計四組で八父韻となります。

 父韻とはどんなものなのでしょうか。譬えば頭脳中枢で閃く火花のようなものです。この火花が閃く時、母音と半母音宇宙を結び、現象を起こします。昔のドイツ哲学がFunke(火花)と呼んだのは多分この父韻の働きの事であろうと思われます。中国の易経で八卦と呼びます。仏教で八正道と呼ぶものはこの父韻を指したものと考えられます。但し、ドイツ哲学も、八卦も、八正道もすべて概念的名前であり、正しく八父韻を指したものではありません。呪示であります。

 では八つの父韻は心の中の何処に位置しているのでしょうか。それはまだこの講座では説明していない言霊イとヰの次元宇宙に在って活動しています。但し、言霊イとヰの宇宙についての説明がされておりませんので、父韻がそこに在ると申しましても、どのようにして在るのか、の説明の仕様がありません。それ故、父韻の占める心の位置の解説は後に譲ることといたします。

 八つの父韻のそれぞれの働きについて解説しましょう。勿論、父韻は先天構造内の動きであり、五官感覚で触れることは出来ません。ではどうするか、と申しますと、先ず父韻を示す神名を解釈すること、そして解明された神名の内容を指月の指として、筆者の研究体験をお話することとなります。読者の皆さまはこの話の中から活路を見出して頂きたいと思います。

 宇比地邇(うひぢに)の神・父韻チ
 宇比地邇の神とは一つ一つの漢字をたどりますと宇は地に比べて邇(ちか)し、と読めます。けれどそれだけではまだ何のことだか分かりません。宇を辞書で調べると「宇(う)はのき、やねのこと。転じていえ」とあります。いえは五重(いえ)で人の心は五重構造の宇宙を住家としていますから、宇は心の宇宙とも取れます。天が先天とすると、地は現実とみることが出来ます。すると宇比地邇で「人の心の本体である宇宙が現実と比べて同様となる」と解釈されます。以上が神名の解釈です。とすると、その指示する言霊チとは如何なる動きなのでしょうか。

 ここで一つの物語をしましょう。ある製造会社に務める若い社員が新製品を売り込むために御得意先の会社に課長のお供をして出張するよう命じられました。自分はお供なんだから気が楽だと思っていました。ところが、出張する日の前夜、課長から電話があり、「今日、会社から帰って来たら急に高熱が出て明日はとても行けなくなった。君、済まないが一人で手筈通りに行って来てくれ。急なことでこれしか方法がない。頑張ってくれ」というのです。さあ、大変です。お供だから気が楽だ、と思っていたのが、大役を負わされることとなりました。一人で売り込みに行った経験がありません。さあ、どうしよう。向うの会社に行って、しどろもどろに大勢の人の前で製品の説明をする光景が頭の中を去来します。夜は更けて行きます。妙案が浮かぶ筈もありません。寝床に入っても頭の中を心配が駆けずり廻っています。疲れ切ったのでしょうか、その内に眠ってしまいました。……朝、目を覚ますとよい天気です。顔を洗った時、初めて決心がつきました。「当たって砕けろ。ただただ全身をぶっつけて、後は運を天に任せよう。」あれ、これの心配の心が消え、すがすがしい気持で出掛けることが出来たのでした。

 向うの会社に着いてからは、想像した以上に事がうまく運びました。大勢の前で、自分でも驚く程大きな声で製品の説明が出来、相手の質問に答えることが出来たのでした。未熟者でも、誠心誠意事に当たれば何とか出来るものだ、という自信を得たのでした。

 話が少々長くなりました。この若者のように、自分の未熟を心配し、何とかよい手段はないか、と考えても見つからず、絶望したあげく、未熟者なら未熟者らしく、ただ誠意で事に当たろうとする決心がついた時、人は何の先入観も消えて、広い、明るい心で事に当たる事が出来ます。生まれて今までの自分の経験を超えて、この世に生を受けた生命全体を傾けた誠意で事に臨もうとする心、この心を起こす原動力となる心の深奥の“火花”、これが父韻チであります。神名宇比地邇の宇(う)はすべての先入観を取り払った心の宇宙そのもの、そしてその働きが発現されて、現象界、即ち地(ち)に天と同様の動きを捲き起こすような結果を発生させる働き、それが父韻チだ、と太安万呂氏は教えているのです。当会発行の本では、父韻チとは「宇宙がそのまま姿をこの地上現象に現わす韻(ひびき)」と書いてあります。ご了解を頂けたでありましょうか。

 この父韻を型(かた)の上で表現した剣術の流儀があります。昔から薩摩に伝わる示源流または自源流という流派の剣で、如何なる剣に対しても、体の右側に剣を立てて構え(八双の構え)、「チェストー」と叫んで敵に突進し、近づいたら剣を真直ぐ上にあげ、敵に向って斬りおろす剣法です。この剣の気合の掛声は「チェストー」タチツテトのタ行を使います。その極意は「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということだそうです。

 以上、父韻チを説明して来ました。父韻チは心の宇宙全体を動かす力動韻でありますので、人間の生活の中で際立(きわだ)った現象を例に引きました。けれど父韻チは全部この様な特殊な場面でのみ働く韻なのではありません。私達は日常茶飯にこの力動韻のお蔭を蒙っています。仕事をして疲れたので少々腰掛けて休み、「さて、また始めようか」と腰を浮かす時、この父韻が動くでしょう。また長い人生に一日として同じ日はありません。サラリーマンが朝起きて、顔を洗い、朝飯を済ませ、「行って来ます」と言って我が家を出る時、この父韻は働いています。気分転換に「お茶にしようか」と思う時、駅に入ってきた電車の扉が開き、足を一歩踏み入れようとした時、同様にこの父韻は働きます。日常は限りなく平凡でありますが、同時に見方を変えて見るなら、日常こそ限りなく非凡なのだ、ということが出来ます。ただ、その人がそう思わないだけで、心の深奥では殆ど間断なくこの父韻は活動しているのです。この父韻チを一生かかって把握しようと修行するのが、禅坊主の坐禅ということが出来ましょう。禅のお坊さんにとっては生活の一瞬々々が「一期一会」と言われる所以であります。と同時にこの言霊父韻チを日常の中に把握することは、禅坊主ばかりでなく、私たち言霊布斗麻邇を学ぶ者にとっても、大切な宿題でありましょう。

 妹須比智邇(すひぢに)の神・父韻イ
 須比智邇の神の頭に妹(いも)が付きますので、この父韻は宇比地邇の神と陰陽、作用・反作用の関係にあります。この父韻イのイはアイウエオのイではなく、ヤイユエヨのイであります。神名須比智邇は須(すべから)らく智に比べ邇(ちか)し、と読めます。宇比地邇同様漢字を読んだだけでは意味は分かりません。そこで宇比地邇の神の物語を例にとりましょう。若い社員は、あれこれと考え、心配するのを止め、先入観をなくし、全霊をぶつけて行く事で活路をみつけようとしました。そして御得意の会社に白紙となって出て行きました。「自分はこれだけの人間なんですよ」と観念し、運良く相手の会社の社員の中に溶け込んで行く事が出来たのです。一度溶け込んでしまえば、後は何が必要となるでしょう。それは売り込むための物についての知識、またその知識をどの様に相手に伝えるかの智恵です。こう考えますと、神名の漢字の意味が理解に近づいて来ます。須比智邇とは「すべからく智に比べて近(ち)かるべし」と読めます。体当たりで飛び込んで中に溶け込むことが出来たら、次は「その製品についての知識を相手の需要にとってどの様に必要なものであるか、を伝える智恵が当然云々されるでしょ。それしかありませんね。」と言っているのです。「飛び込んだら、後は日頃のテクニックだよ」ということです。父韻イとは飛び込んだら(父韻チ)、後は何かすること(父韻イ)だ、となります。重大な事に当たったなら先ず心を「空」にすること、それは仏教の諸法空相です。空となって飛び込んだら、次は何か形に表わせ、即ち「諸法実相」となります。仕事をする時、如何にテクニックが上手でも、心構えが出来ていなければ、世の中には通用しません。けれど心構えだけでは話になりません。テクニックも必要です。両方が備わっていて、初めて社会の仕事は成立します。父韻チ・イは色即是空・空即是色とも表現される関係にあります。御理解頂けたでありましょうか。

 角杙(つのぐひ)の神・父韻キ
 宇比地邇の神・妹須比智邇の神(父韻チ・イ)に続く角杙の神・妹生杙の神(父韻キ・ミ)の一組・二神は八父韻の中で文字の上では最も理解し易い父韻ではないか、と思われます。角杙の神から解説しましょう。角杙の角とは昆虫の触覚の働きに似た動きを持つ韻と言ったらよいでしょうか。「古事記と言霊」の父韻の項で、この父韻の働きを「心の宇宙の中の過去の経験、または経験知を掻き寄せようとする韻」と説明してあります。目の前に出されたもの、それを「時計だ」と認識します。いとも簡単な認識のように思えます。若し、この人が時計を見たことが一度もない人だとしたらどうなるでしょうか。その人は目の前で如何にその物を動かされたとしても、唯黙って見ているより他ないでしょう。「時計だ」と認識するためには、それを見た人が自分が以前に見た物の中から眼前に出された物に最も似ている物を心の宇宙の中から思い出し、それが時計と呼ばれていた記憶に照らして、「あゝ、これは時計だ」と認識する事となります。人間の頭脳はこの働きを非常な速さでこなす能力が備わっているから出来ることなのです。この様に、心の宇宙の中から必要な記憶を掻き繰って来る原動力、これが父韻キの働きであります。

 以上のように説明しますと、「あゝ、父韻キとはそういう働きなんだ」と理解することは出来ます。けれどその父韻が実際に働いた瞬間、自分の心がどんなニュアンスを感じるか(これを直感というのですが)、を心に留めることは出来ません。そこには“自覚”というものが生れません。そこで一つの話を持ち出すことにしましょう。

 ある日、会社の中で同じ会社の社員と言葉を交わす機会がありました。日頃から人の良さそうな人だな、と遠くから見ての感じでしたが、言葉を交わしてみると、何となく無作法で、高慢な人だな、という印象を受けました。それ以来、会社の中で会うと、向うから頭を下げて来るのですが、自分からは「嫌な奴」という気持から抜け出られません。顔を合わせた瞬間、「嫌な奴」の感じが頭脳を横切ります。自分には利害関係が全く無い人なのに、どうしてこうも第一印象に執らわれてしまうのだろうか、と反省するのですが、「嫌な奴」という感情を克服することが出来ません。或る日、ふと「そういえば、自分も同じように相手に無作法なのではないか」と思われる言葉を言うことのあるのに気付きました。「なーんだ、自分も同じ穴の狢だったんだ」と思うとおかしくなって笑ってしまいました。「あの人に嫌な奴と思うことがなかったら、今、私に同じ癖があるのに気づかなかったろう。嫌な奴、ではなく、むしろ感謝すべき人なんだ」と気付いたのでした。そんなことに気付いてから、会社でその人にあっても笑顔で挨拶が出来るようになりました。

 この日常茶飯に起こる物語は、父韻キについて主として二つの事を教えてくれます。その一つは、人がある経験をし、それが感情性能と結びついてしまいますと、それ以後その人は同様の条件下では条件反射的に同じ心理状態に陥ってしまい、その癖から脱却することが中々難しくなる、ということです。同じ条件下に於ては、反射的に何時も同じ状況にはまってしまうこと、そして反省によってその体験と自分の心理との因果に気付く時、自分の心の深奥に働く父韻キの火花の発動を身に沁みて自覚することが出来ます。因果の柵(しがらみ)のとりことなり、反省も出来ず、一生をその因果のとりことなって暮らすこと、これを輪廻(りんね)と言います。そこに精神的自由はありません。第二の教えが登場します。物語の人は、嫌な奴と思った人と同様の欠点を自分も持っていたことを知って、「嫌な奴」の心がむしろ感謝の心に変わります。因果のとりこであった心が感謝の心を持つことによって、容易に因果から脱却出来ました。この心理の変化を敷衍して考えますと、八父韻全般を理解しようとするには、言霊ウ・オの柵にガンジガラメになっている身から言霊アの自由な境地に進むことが大切だ、という事に気付くこととなります。言霊父韻とは正しく心の宇宙の深奥の生命の活動なのですから。

 妹生杙(いくぐひ)の神・父韻ミ
 角杙の神の父韻キと陰陽、作用・反作用の関係にある父韻ミを指示する神名です。この生杙の神という神名ぐらい実際の父韻ミにピッタリの謎となる神名は他にはないでしょう。角杙の神の時、杙というものを昆虫の触覚に譬えました。人が生きるための触覚と譬えられる働き、とはどんな働きでありましょうか。変な例を引く事をお許し下さい。日本の種々の議会の議員さんが選挙で当選するのに必要な三つのもの、といえば地バン、看バン、カバンです。言い換えると、地バンとは選挙区の人々とのつながりのこと、看バンとは知名度、そしてカバンとは勿論豊富な選挙費用を持つことです。議員さんにとって選挙で当選したから一息、という訳にはいきません。当選したその日から、自らの三つのバンを更に大きく強く育てて行き、次の選挙への準備をすることです。地バンである選挙区の人々、今までに顔見知りになった人々へ、議員自身の影響力を更に売り込んで行かねばなりません。どんな人にどの様に自分を売り込んだら良いか、その働きの最重要なものが言霊ミであります。言霊父韻ミとは、自分の心の中にある幾多の人々と、如何なる関係を結んで関心を高めて行くか、相手の心と結び付こうとする原動韻即ち父韻ミが重要となります。どんな小さい縁も見逃してはなりません。縁をたよって自分の関心を売り込む力です。これは正(まさ)しく生きるための触覚であります。政治家にあってはこの生きるための触覚を手蔓(てづる)と言います。その他物蔓・金蔓・人蔓、手当たり次第に関係の網(あみ)を広げて行きます。

 政治家ばかりではありません。この生杙という父韻ミは、人が社会の中で生き、活躍して行くためにはなくてはならぬ必要な働きであります。社会に於てではなく、人間の心の中との関係についてもこの触覚は重要な働きを示すでありましょう。自分の心の中の種々の体験とその時々のニュアンスに結び付き(生杙)、またそれを掻き取って来て(角杙)、小説を書き、印象画や抽象画を描き、また既知の物質の種々の法則の中から微妙な矛盾を発見して、新しい物質の法則に結びつけて行く才能の原動力もこの言霊キ・ミの働きに拠っています。

(以下次号)