「コトタマ学とは」第二百十七号 平成十八年七月号

   第六章 皇室と言霊
 日本の皇室には、昔から色々な伝統の行事やその行事に使われる器物などが伝承されています。しかし、国民にはそれらの内容や意義はほとんど知らされてはいません。実はそれらの行事を司る宮内庁の祭官の方々も、その意義を知らないことが多いのだそうです。天皇即位の式典である大嘗祭につきましても「その祭典の形式の意義が全く分からなくなってしまった」と室町時代のある公卿の日記にかかれていると聞きました。

 言霊学の理解が進みますと、それらの皇室の行事や器物の内容と意義が手に取るように分かってきます。今回はその中から周知の二点についてお話します。

   三種の神器
 昭和から平成に変わり、日本の皇室は以前よりは国民に近い存在と感じられるようになりました。それでも天皇の即位式とか大嘗祭、皇太子の立太子式などの皇室の儀式をテレビで見ますと、国民生活の中では見慣れない形式や道具類が多いようです。これらの儀式が遠い昔からの皇室の伝統に従って行われていることはお分かりのことでしょうが、その一つ一つの意味内容については、一般の国民はもちろん、その筋の専門家や国学者の方々にも理解されていない点が多いように見受けられます。

 前にもお話しましたように、今から二千年ほど前、道徳と政治(実践智)の法則である言霊の原理を世の中の表面から隠してしまった時、その原理が永久に忘れられてしまうことを心配して、色々な建造物や宮中の儀式の形式に表徴として遺す政策がとられたのでした。天皇即位式、大嘗祭、立太子式などの形式もその方針によって作られたものであります。

 ですから、二千年前と同じ姿で、今、完全に復活した言霊の原理の立場から、これら宮中の伝統儀式を見ますと、その形式が意味する内容は手に取るように明らかに理解することが出来るのです。今から、比較的説明の簡単なものを取り上げてみましょう。

 先年平成天皇の即位式が行われました時、三種の神器という言葉をテレビで耳にしました。実は、三種の神器とは、先の第二次世界大戦時までは天皇のいらっしゃる所には必ずお側に置かれることに定められた、天皇の位の証の宝物でありました。その三つとは剣・曲玉・鏡であります。

 三つの宝物を固有名詞で呼びますと、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」・「八坂曲玉(やさかのまがたま)」・「八咫鏡(やたのかがみ)」です。それぞれの固有名詞の由来については今は省略しまして、何故天皇の位を示すものとして三種の神器があるのかに的を絞ってお話しましょう。

 中国の古書に「形而上を道といい、形而下を器という」という文章があります。「精神的な法則を道と呼び、それを表徴して作られた物体を器というのだ」という意味です。その意味で、三種の神器という器物は人間の精神的な原理・法則を表したものということが出来ます。まず剣から始めることにしましょう。

(次号に続く)

   布斗麻邇(ふとまに・言霊学)講座 その三

 前号の布斗麻邇講座で「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神(あめつちのはじめのとき、たかまはらになりませるかみのみなは、あめのみなかぬしのかみ)」の文章を、「何も起こらない心の広い広い宇宙の中に、何か分からないけれど、人の意識の芽とも言った現象の兆しが起ころうとした時」と解説しました。そしてそれは広い宇宙の中のことでありますから何処をとっても、それは宇宙の中心であり、何かが起ろうとするのは、まぎれもなく「今」であり、「此処」である、と説明しました。天の御中主の神(言霊ウ)は何か分からぬが、人間の意識の芽のようなものであり、やがては「我」という意識の始まりでもあります。

 心の先天構造である、人間の意識では捕捉することが出来ない宇宙に、初めて何かが起ころうとする天の御中主の神(言霊ウ)を踏まえて、古事記の文章の次に進むことにしましょう。

 「次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。」
 「次に」
 次に、とありますのは、何も起こっていない心の宇宙の中に、何か知らないが、意識の芽とも言える何かが起ころうとしている(その宇宙を言霊ウと名付けるのですが)、「その意識で捕捉できない心の動きが、更に進展して行くならば次に」ということであります。心の中で何かが起ころうとしている気配がある。けれどそれが気配を感じるだけで、何も起こらず、そのうちにその気配も消えてしまうということはまゝあることです。それはそれで言霊ウまでで終わってしまいます。けれど、更に先天の活動が進展して行けば、「次に」ということになります。こんな話は言わずもがなの話のようでありますが、この後に出て参ります、先天宇宙の「宇宙剖判」という出来事を説明するために必要なことでありますので、前もってお話申上げました。

 「高御産巣日の神・言霊ア。神産巣日の神・言霊ワ」
 広い心の宇宙の中に天の御中主の神と神名で呼ばれる言霊ウの宇宙が活動を開始し、更にその活動が進展しますと、言霊ウの宇宙から高御産巣日の神と呼ばれる言霊アの宇宙と、神産巣日の神と呼ばれる言霊ワの宇宙が現出します。

 事は心の先天構造という五官感覚では把握できない領域の話でありますから、手に取って見るような説明は難しいのですが、出来るだけ平易に説明してみましょう。高御産巣日・神産巣日とう二つの神名の指月の指から、その神名が心の何を指し示してくれているのか、を考えてみましょう。高御産巣日(たかみむすび)、神産巣日(かみむすび)という漢字を仮名に置き換えて書いてみます。すると「カミムスビ」「カミムスビ」となって、高御産巣日の方が頭にの一字が多いだけの事が分かります。後程お分かりになることですが、日本語の中に使われるタの一音は物事・人格の全体または主体として使われることが多い音です。そのタの一音以外では二神名は「カミムスビ」と同音に読めます。「カミムスビ」は「噛み結び」となります。噛み結ぶ、即ち緊密に結び合って何かを生み出すもの、更に一方は主体で、他方は客体であるもの、と言えば、それが何であるか、は想像がつきます。そうです。高御産巣日・言霊アは主体宇宙、神産巣日・言霊ワは客体宇宙であることを示しています。言霊アは心の先天構造内の主体宇宙のことであり、言霊ワは客体宇宙のことであります。

 初発(はじめ)の心の働きの芽であり、兆(きざし)である言霊ウが始まろうとして、そこで止まってしまえば、次の段階のアとワ(主体と客体)への変化は起こりません。それが頭脳内に起こるということは、先天構造を構成している心の宇宙の内部で次の活動が起こったことになります。高御産巣日と神産巣日の二神が生まれ出たということ、即ち言霊アとワが現れ出たということは、言霊ウの宇宙が言霊アとワの二つの宇宙に分かれた、ということになります。この宇宙の活動はこの後も次々と他の宇宙を現出させることとなるのですが、この様な心の宇宙の中で次々とその宇宙が分かれて他の宇宙を生むことを言霊学は宇宙剖判(ぼうはん)と呼んでいます。剖判の剖は「分ける」です。そして判は「分かる」であります。
 この宇宙剖判を図で示してみましょう。

 五官感覚(眼耳鼻舌身=げんにびぜつしん)でとらえられることが出来ない先天構造の中の内容の説明ですから、何とも心もとない、難しいことを言うようになりますが、ない能のあらましは御理解頂けることと思います。この宇宙のまだ分かれない未剖の言霊ウから言霊アとワの主体と客体に分かれること、この剖判が欠く事の出来ないに人間頭脳の働きの特徴であることに御留意下さい。この不可欠の特徴が人間の認識の作用上、重要な意義をもたらすこととなります。そのことについてお話することにしましょう。

 先に「剖判」の剖は「分ける」、判は「分かる」と説明しました。人は何物か、または何事かに遭遇した時、これは何かと思うと同時に、その事物を頭の中で分析します。そして分けた部分々々を調べ、内容が「分かった」と納得します。分けなければ分かりません。分けるから分かるのです。この当り前と思える法則が人間に与えられた認識法則の最重要法則の一つなのであります。広い何もない宇宙の中に何か分からない意識の芽が芽生え始めました。言霊ウであります。意識が更に進展すると、言霊ウから言霊アとワ(主体と客体、私と貴方、僕と君、心と物、…)に分かれます。宇宙剖判です。ウからアとワに分かれました。初めのウとア・ワと数えて三つの言霊、神名でいう天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神を神道で造化三神と呼びます。物事の始まり、未剖のウからアとワの二言霊に分かれた事、この事は人間の心の営みのすべての始まりであります。

 言霊の内容や働きを数(かず)で表わすと、これを数霊(かずたま)と呼びます。二千年以上昔に書かれました中国の「老子」という書物にはこの造化三神の法則のことを「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」と言っております。造化三神の法則をお分かり頂けたでありましょうか。

 造化三神の法則について、もう一つの重要な事をお話しておきましょう。近代の人々、特に現代人はこの造化三神の法則について、アとワ、すなわち主体と客体に分かれる以前に、主体未剖の言霊ウがあることを知らないで生きています。ですから、「私が彼に会った時」、「僕があの物を見た時」その時が物事の初めだと思い込んでいます。既に主体と客体に剖判した「私」と「貴方」から思考が始まります。言霊学的に見れば、ウ∧ワアの三者から始まる思考が、現代人はアとワ、主体と客体、の偶然の出会いからの思考と変わります。どちらでも同じなのでは、と思われるかも知れませんが、実際には天と地程の思考の差が生じて来るのです。この認識の違いが結果として人間の心の持ち方の上でどの様な事になるか、今の所では、読者の皆様の研究課題とさせて頂くことにしましょう。心の宇宙剖判が更に進んだ所で詳細な解説を予定しております。

 言霊ウの宇宙が剖判して言霊アとワの宇宙か現われます。主体と客体です。主体アである私のことを昔は「あれ」(吾)といい、客体ワである貴方のことを「われ」と呼んだ時代がありました。今でも地方によって年寄りが「お前」のことを「われ」と呼ぶのを聞くことがありましょう。言霊アの内容として、漢字で書きますと、吾(あ)、明(あ)、灯(あ)等々が考えられます。また言霊ワには我(わ)、和(わ)、輪(わ)、枠(わ)等々が考えられます。

 「この三柱(みはしら)の神は、みな独神(ひとりがみ)に成(な)りまして、身(み)を隠(かく)したまひき」
 天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神は独神で、身体を現わすことのない神だ、ということです。独神とはうまい表現であります。意味を説明すると難しくなります。哲学用語を使いますと、「それ自体で存在していて、ほかに依存しないこと」の意となります。言霊ウ、ア、ワの宇宙はそれぞれ一個で厳然と実在していて、他に何々があるから、これもある、という依存なく、それ自体が実在体である、の意であります。また「身を隠したまひき」とは、それ等の宇宙はすべて先天構造を構成しているものであり、人間の五官感覚で捕捉することが出来ない領域のもので、現象として姿を現わすことがない、の意であります。

 これも中国の「老子」の中の文章ですが、「谷神(こくしん)は死なず」とあります。アイウエオの母音は声に出してみると、どれも息の続く限り「アーーー…」と声が続いて変わることがありません。山の深い谷は木々に覆われて上から見ることが出来ないので、「身を隠したまひき」の母音宇宙の喩えに使われ、発音して変化のなく永遠に続くことから「死なず」と表現されました。山中の深い谷に水が流れ、宇宙空間の無音の音の如く響く母音は、宇宙であるから消え絶えることがない、と母音を説明した文章であります。二千年以上昔に、わが国の言霊学の影響を受けた老子がかくの如き言葉を遺した事から考えて、精神的に古代に於ける言霊学の他国に及ぼした影響の大きかった事が偲ばれます。

 先天構造内の宇宙剖判が更に進展しますと、次に何が起こるでしょうか。古事記の文章を先に進めて行きましょう。

 「次に国稚(くにわか)くして、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)える時に、葦牙(あしかび)のごと萌え謄(あが)る物に因りて成りませる神の名(みな)は、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天(あめ)の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠(かく)したまひき。」
 「国稚(くにわか)くして」
 「心の先天構造の内部がどの様な状態になっているか、まだその内部の実状を明らかにする作業がそれ程進展していないので、」の意であります。「国」とは組(く)んで似(に)せるの意。言葉を組んで、実際の状態に似るよう整えることです。その作業が成熟していないということです。

 「浮かべる脂(あぶら)の如くして」
 水の上に浮かんでいる脂(あぶら)のように形も定まらない、の意。前に述べましたように先天構造の内容がまだはっきりしていないで、浮遊する脂の如く不安定で、ということです。

 「水母(くらげ)なす漂(ただよ)える時に」
 水母なす、とは暗気の喩えです。一面がまだ暗くて安定せず、漂っている時、の意であります。

 「葦牙(あしかび)のごと萌え謄(あが)る物に因りて成りませる神の名(みな)は、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。」
 「葦牙のごと萌え謄る物に因りて」といいますと、読者の皆様は先ず何を連想なさいますか。人の心の中で、こういう状態になることを経験した方は多いのではないでしょうか。それは間近に処理しなければならない重大な事で、どうしてよいか分からない問題を抱えた前夜のことなど、床に入っても寝付けず、頭の中は過去のいろいろな出来事が走馬灯の如く駆け廻っている時の状態こそピッタリではないでしょうか。葦の芽も茎の四方八方、上下何処からでも新しい芽が出て来て、何処が始めで何処が終わりだか分からない程入り乱れます。その様な状態で現出して来るもの、それは宇麻志阿斯訶備比古遅の神というわけです。宇麻志は霊妙な、の意。阿斯訶備は葦の芽のこと。比古遅は男の子の美称、と辞書にあります。全部で霊妙な葦の芽の様な複雑な関連を持った原理の実態、といった意となります。これは一体何なのでしょうか。一言でいえば人間の心の中にその様に現出して来る経験知識であります。この経験知識が畜させされている心の宇宙、即ち言霊ヲであります。人間の経験知識は他の経験知識と複雑・密接に関連しながら、言霊ヲの宇宙に収納されているのです。この言霊ヲに漢字を当てはめて、その内容を説明すると、緒(を)や尾(を)などが考えられます。生命(いのち)の玉(たま)の緒(を)と言えば、それは記憶のことであり、尾では「尾を引く」の言葉もあります。また言霊ヲを端的に表現する文章が仏教禅宗無門関に見ることが出来ます。

   【牛窓前を過ぐ】 五祖(法演和尚)が言った。「譬(たと)えば牛が窓前(そうぜん)を過(よぎ)って行った。頭角や四蹄が皆過ったのに、どうして尻毛は過ぎ去ることが出来ないのか」(無門関第三十八)

 「天(あめ)の常立(とこたち)の神」
 天の常立の神とは、大自然(天)が恒常に(常=とこ)成立する(立=たち)実体であり、主体であるもの(神)と説明することが出来ます。それは言霊オのことです。宇麻志阿斯訶備比古遅の神(言霊ヲ)が経験知識そのものの宇宙とすると、天の常立の神(言霊オ)はその経験知識を記憶し、それを活用する主体の宇宙ということが出来ます。言霊オに振漢字をすると、男(お)、雄(お)、牡(お)等が考えられます。

 「この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。」
 この説明は造化三神のところでしてありますので、此処では省きます。古事記の文章を先に進めます。

 「次に成りませる神の名は、国(くに)の常立(とこたち)の神。次に豊雲野(とよくもの)の神。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。」
 国の常立の神、言霊エであります。国家・社会が恒常に(常)成立する根源宇宙(神)という事です。天の常立の神が「大自然を恒常に成立させる根源宇宙」であるならば、国の常立の神は国家・社会を恒常に成立させる宇宙ということが出来ましょう。次の豊雲野の神は言霊ヱであります。言霊エは選ぶ、で道徳・政治行動の主体を意味します。それに対して言霊ヱの豊雲野の神は道徳や政治活動で打ち立てられた法律とか、道徳律に当たるものであります。豊雲野の神という言霊ヱを指示する指月の指の意味は何なのでしょうか。それは後程明らかにされますが、ここでは簡単に触れておきましょう。豊雲野の豊(とよ)は十四(とよ)の意です。人の心の先天構造を表わす基本数は十四で表します。雲は組の呪示です。野とは分野・領域のこと。豊雲野の全部で先天構造の基本数、十四個の言霊を組むことによって打立てられた道徳律の領域である宇宙、ということになります。道徳律とは道徳の基本原理に則って、「こうしてはいけない、こうせよ」という教えのこと。

 言霊エのエの音に漢字を当てはめると、選(え)らぶ、が最も適当でしょう。言霊ヱのヱには絵(え)、慧(え)が最適でありましょうか。

 何もない広い宇宙の一点に意識の芽とも言うべきものが芽を出します。言霊ウであり、また今・此処であります。次の瞬間、これは何かの心が加わると、言霊ウの宇宙は言霊アとワの主体と客体の宇宙に剖判します。私と貴方の立場に分かれます。更に意識が進展しますと、言霊アの宇宙は言霊オとエに、言霊ワの宇宙は言霊ヲとヱの宇宙へと剖判します。主体(ア)と客体(ワ)に分かれて、更に「これは何か」の心が加わると、アの主体からは今眼前にあるものと同じ経験をした事があるか、の言霊オ、さらには眼前のものをどう処理したらよいか、の将来への選択の言霊エに剖判します。次に客体の言霊ワから、経験知の蓄積である言霊ヲの宇宙と、それをどうまとめて将来に資するか、の参考となる道徳の教えの領域の宇宙言霊ヱとが剖判して来ます。上図に示します。

 図に示されますように、これまでで四つ角母音宇宙が出現しました。そこでこの四個の宇宙からそれぞれ如何なる人間の性能が発現されて来るか、を確めておきましょう。

 言霊ウの宇宙(先に発現時では何か分からないが、人間の意識の芽ともいわれるもの、と説明されましたが)、宇宙剖判が進展して行きますと、人間の五官感覚に基づく欲望性能が発現して来ます。そしてこの欲望性能は社会的には産業・経済活動となって行きます。

 言霊アの宇宙からは、人間の感情性能が発現します。この性能は社会的に芸術・宗教活動に発展します。

 言霊オの宇宙からは人間の経験知が発現します。経験知とは体験したものを、後で振り返り、記憶を思い起こして、想起した複数の経験の間の関係を調べる性能です。この性能が発展して社会的に所謂科学研究となります。

 言霊エの宇宙から発現して来る現象は個人的には物事を円満に処理する実践智であり、これが発展して社会的になったものが一般に政治活動であり、道徳活動であります。ここで言霊オの経験知と言霊エの実践智とは全く違ったものである事にご注目下さい。

 ここで、先に読者の皆様に研究課題として残しておきましたウ→アとワの宇宙剖判について説明申し上げることにしましょう。何もない宇宙の中に何か知れないけれど、意識の芽とでも言ったものが発現します。宇宙剖判が更に進みますと、言い換えますと、その芽に何かの意識が動きますと、その芽である言霊ウから瞬時に言霊ア・ワ、すなわち主体と客体となる宇宙が剖判し、現われます。主客の二つに分かれなければ、そのものが何であるか、は永遠に分かることはありません。そこで分かろうとすると、宇宙は更に剖判して、言霊オ・ヲが発現します。言霊オ・ヲは記憶であります。眼前にあるものが何であるか、は想起した記憶と照合されて、これは何々だと断定されます。

 この時、人間の思惟は二つの方向に分かれます。この物事が何々だ、と断定された時、その断定された事物と主体である自分との対立という事態から思考が開始されますと、言霊オの領域に属する思考となります。この思考形体を図示しますと、 の哲学でいう弁証的思考です。物事をすべて自分の外に見て考える思考です。これに対し、もう一つは、ウ→アとワさらにエとオ・ヱとヲと宇宙剖判を承知した上で、その進展の先に物事を解決しようとする思考です。この思考は言霊エの領域の思考です。その形式を図示しますと、 となります。言霊オの思考の数霊(かずたま)は三または六であり、言霊エの思考の数霊は四または八であると申せましょう。この事は講座が進むに従って更に詳しく解説申上げます。

(次号に続く)