「コトタマ学とは」第二百十六号 平成十八年六月号

   春の七草
 せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろといえば、春の七草です。昔、その年の邪気を払い、万病を除くとして、一月七日に吸い物として、後には粥の中に入れて食べる習慣がありました。実はこの行事も、今より二千年前、故あって世の人の意識の底に隠されてしまった言霊の原理を後世に黙示として伝えるために広められた習慣なのです。

 すずな(蕪[かぶ]の古名)は、鈴の形に似る人間の口から発音される言葉のである言霊を指します。すずしろ(大根の古名)は、言葉が耕される代(畑)の意味で五十音言霊図のことです。なづな(ペンペン草)は名の綱で、五十音図は名(言霊)が綱のごとく縦横に連なっている事を教えています。ごぎょう(よもぎ)は、五行で儒教の木火土金水、言霊学のアイウエオ五母音のことで、人間の精神宇宙の五つの次元・界層を表わす言葉です。せり(芹)は、選(せ)るを示し、人間の選択・実践の英知の働き(言霊エ)を示しています。はこべら(はこべ)は運ぶ、運用・活用の意を表わします。言霊五十音の精神要素を選り、運用していった結果、最後にほとけのざ(かすみぐさ)である人間精神の最高道徳の鏡(八咫鏡)の実態である五十音図(天津太祝詞[あまつふとのりと]音図)が完成します。春の七草の行事は、この言霊学の霊妙な働きを謎の形で後世に伝えようとしています。

 七草粥で新しい年を祝い、精神の七草である言霊の原理でもって世界三千年の邪気を祓って「梅で開いて松でおさめる」(大本教お筆先)新しい人類の世紀を創造することが、日本語で生きる日本人の使命ということが出来ましょう。

(この項終わり)

 ちはやぶる――枕詞(まくらことば)、千早振る。辞書に「いちはやぶる、の意で勢いの鋭いの意とある。神にかかる。続柄まだ不明」とあります。言霊の学で見れば意味は明瞭、「道が早く振る」の意。「道」とは道理または言霊原理のこと。「振る」とは活用すること。言霊原理の早い活用が可能であったの意で、神代といわれる時代は言霊の原理が現実に活用されていたので、「千早振る」は神または神代にかかる枕詞でありました。

(枕詞と言霊学)

   布斗麻邇(ふとまに・言霊学)講座 その二

 今月より言霊の学問である布斗麻邇の講座の本論に入ろうと思いますが、先にお話申しましたように、言霊の学問の教科書となるものは古事記(と日本書紀)より他にはありません。古事記の上つ巻の神話が唯一の頼りであります。先師小笠原孝次氏が、この世に生きる人間の「心の構造とその動き」として初めて古事記神話の解釈によって言霊学の本を世に送りました時、その本の名前を「古事記解義言霊百神」と名付けました。言霊の学問は古事記を説く以外に方法はありません。

 そこで私も今、「言霊学とは何ぞや」をお話申上げるについても、古事記の文章を一字一句、一行、二行とその内容を説明させて頂くこととなります。古事記の本文を読んでいただくと分かることですが、初めから神様の名前が次から次へと数限りなく出て来ます。まるで掴み所のない、途方もない文章なのです。けれど、画竜点睛(がりゅうてんせい)という言葉があります。竜を画いて、その睛(ひとみ)を画き加えると急に活動する趣きが出て来る、の意です。または一言・一句(一部の行為)で、全編(全部)が引き立つ事の意です。少々意味は違いますが、古事記神話という途方もない文章が、一たび、その古事記神話は有りきたりの神様の物語ではなく、私達人間が今・此処で何かをしようとする時の心の構造と、その動きを呪示(じゅじ)したものなのであり、その構造と動きの単位・要素が、私達日本人が日頃使っている日本語を構成しているアイウエオ五十音の言霊なのだ、と気付く時、この古事記の文章は、今度は途轍もなく正確な人間の心と言葉に関係した究極の学問なのだ、ということが、読む人の心にビンビンと伝わって来るように理解されて来る書物なのです。余程の偏見を持った人でない限り、心の底に素直に入って来る真実の教えなのであります。

 そこで言霊布斗麻邇のお話も当然神様の名前の意味・内容、それを表現するアイウエオ五十音の言葉の単位との関係、そしてそれ等の言霊が心の中でどのように活動して人間の生活が営まれて行くか、の働きの問題が説明されて行くことになります。その結果、現代人が夢想にも出来ない人間の最高至上の精神構造に読者を導く「禊祓」の章で完結します。その初めより終わりまでが、神名で言いますと、伊耶那岐・伊耶那美の二神の愛と葛藤の物語として述べられています。その間、学問で言えば厳密な人間の心と言葉の法則が、また物語小説で言えば全編が二神の心の宇宙を舞台とする壮大な愛と絆の物語が流れるように語られることとなります。以上の物語と原理法則の流れを御理解頂くために、お話の前に各章の順を追って簡単な説明を予め述べておくことといたします。それによって、読者の皆様が物語りの流れと原理法則同士の関連についての予備知識となれば幸いであります。

 第一章 天地のはじめ
 この章は古事記の書き出しの言葉「天地の初発の時、(あめつちのはじめのとき)…」に始まり、「……次に伊耶那岐(いざなき)の神。次に伊耶那美(いざなみ)の神。」に終わる章です。十七の神が現われます。言霊で言うと十七個の言霊です。現代の物理学は物質の先験構造を明らかにしてその中の要素を電子、陽子、中性子……等、究極の要素(クォーク)として十六個の核子の存在を予想しているようでありますが、日本伝統の言霊学では人間が意識で捉えることが出来ない心の因子として十七個の言霊を発見し、それに母音五、半母音四、父韻八、計十七個の言葉の単位を当てはめ、この十七の言霊が人の心の先天構造を構成すると教えています。その先天言霊の一つ一つを指示するのが、古事記の十七の神名であります。即ちアイウエオ(五母音)、ワヰヱヲ(四半母音)、チイキミシリヒニ(八父韻)計十七言霊です。

 第二章 島々の生成
 心の先天構造が明らかにされましたので、その活動で人間が自分(おのれ)を自覚することとは如何なることか、が明らかとなります。淤能碁呂島(おのごろしま)です。「おのれの心の島」の意であります。そしてその「おのれ」が物事を「判断する」とはどういうことなのか、が明らかとなります。次に、先天構造内の父韻と母音とが結合して、意識で捉えることが出来る後天現象の要素である子音を生む工夫が計られ、失敗もあるのですが(この失敗によって人間の心理の重要事項が知らされます)、遂に子を生む正しい仕方を知り、「子生み」の作業に入ることとなりますが、その作業の前に、生まれる子音三十二個が人間の心の中の如何なる位置に収まるか、またそれ等の子音が結合して言葉となって活動する時、どの様な状態を現出するか、があらかじめ検討されます。この作業を「島生み」と申します。島とは心の締まりの意です。

 父韻、母音、半母音計十七音言霊の心中に占める位置を示す島の名はそれぞれ「淡路の穂の狭別の島(あわじのほのさわけのしま)」、「伊豫の二名の島(いよのふたなのしま)」、「隠岐の三子の島(おきのみつごのしま)」、「竺紫の島(つくしのしま)」、「伊岐の島(いきのしま)」の五島であります。いずれの島の名も地図上の島名とは何の関係もありません。心の位置を示す呪示です。

 次に生まれて来る現象子音三十二個の心の中に占める位置を示す島名が三つあり、「津島(つしま)」、「佐渡の島(さどのしま)」、「大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)」であります。これ等も地図上の島とは関係がなく、ただ島の名前の指示する内容に意味があります。

 心を構成する五十音言霊(五十神名)が占むべき心の位置が定まりましたので、次にその五十音言霊を整理し、活用する働きの順序、意義、内容が定められます。古事記はこれもまた島の名で表現します。吉備(きび)の児島、小豆(あづき)島、大(おほ)島、女(ひめ)島、知訶(ちか)島、両児(ふたご)島の六島と続きます。このような島の名前がどういう意味を持つかは本文の説明の時明らかとなります。

 第三章 神々(子音)の生成
 伊耶那岐、伊耶那美二神の現象子音の創生の準備として言霊百神の占むべき心の位置が決定されましたので、次に現象子音の生成の作業に入ります。生まれる子音はタトヨツテヤユエケメ・クムスルソセホヘ・フモハヌ・ラサロレノネカマナコの三十二子音であります。これで先天音十七、後天音三十二、計四十九音となり、これ等四十九音を神代神名(かな)文字で示す作業火の夜芸速男(ほのやぎはやを)の神、またの名火の迦具土(ほのかぐつち)の神(言霊ン)を加えて、言霊合計五十となります。

 第四章 言霊の整理、活用の検討
 この第四章は古事記神話の神代文字言霊ンが生まれ、五十神、言霊五十個が全部出揃った事を受けて、伊耶那岐の命がその言霊全体を自ら整理、活用の作業を始める所、即ち神話の文章「この子を生みたまひしによりて、御陰灸(みほとや)かえて病(や)み臥(こや)せり」と伊耶那美の命が病気になる所から始まり、……「殺されたまひし迦具土の神の頭に成りませる神の名は、正鹿山津見(まさかやまつみ)の神、……かれ斬りたまへる刀の名は、天の尾羽張(をはばり)といひ、またの名は伊都(いつ)の尾羽張といふ」所までをいいます。

 第三章に於て伊耶那岐・美二神の「子生み」という協同作業は終わり、伊耶那美の命は子種が尽きて用がなくなり、神避りました。「神避(かむさ)る」と言っても、死んで魂の国に行った、というのではありません。伊耶那岐の命の主観世界から、伊耶那美の命の本来の客観世界へ帰って行った、というわけであります。そして伊耶那岐の命は主観世界の責任者の立場から、自分一人で言霊五十音の整理・活用の検討作業に入ります。その努力の結果、五十音言霊の初歩的な整理の完成図として和久産巣日(わくむすび)の神(天津菅麻[すがそ]音図)を確認し、更に検討を進めて行って、主観的にではありますが、人間最高の心の構造である建御雷の男の神(たけみかづちのをのかみ)の自覚に到達するのであります。これは未だ證明を伴わない究極真理(天津太祝詞音図)の原図です。

 更にこの章において言霊五十音を八種の神名(かな)文字に表わす手法が明らかにされます。

 第五章 黄泉国(よもつくに)
 この章の始まりは「ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国の追い往でましき。……」であり、終わりは「かれそのいはゆる黄泉比良坂は、今、出雲(いずも)の国(くに)の伊賦夜坂(いぶやさか)といふ」であります。

 五十音の言霊を自らの責任で整理・操作して心中に建御雷の男の神という主観内ではありますが最高の真実に到達した伊耶那岐の命は、自分の妻である伊耶那美の命のいる、客観世界の黄泉国に行き、そこの文化を経験することで、自らの心の中の真理が通用するかどうか、を試そうと高天原から出掛けて行きました。そしてそこには、高天原にはない、矛盾に満ち、その矛盾の中から種々雑多な実験と工夫が間断なく湧き上がって来る自己主張の世界の実状に恐れ戦(おのの)いて、高天原に逃げ帰って来ます。逃げ帰りながらも、追いかけて来る黄泉国の文化、主張を自らの判断力である十拳剣(とつかのつるぎ)を後手(しりで)に振りながらそれ等の真相を見極め、最後に追いかけて来た妻神、伊耶那美の命と、高天原と黄泉国との境にある千引石(ちびきのいは)を挟んで相対し、高天原の主観的真理と、黄泉国の客観的真理とは決して同一にならないことを知って、岐美二神は永遠の離婚を宣言することとなります。これを「言戸(ことど)の度(わた)し」と申します。以上が第五章の内容です。

  第六章 禊祓
 第六章、これが言霊学の教科書としての古事記神話の最終章となります。この章以後の神話は上つ巻の終わりの「鵜草葺不合(うがやふきあえず)の命」まで言霊学の応用問題と申せましょう。

  黄泉国より高天原に帰還した伊耶那岐の命は、黄泉国の文化が高天原のそれとは全く異種の文化と知り、それを知りながら、全人類の文明を創造して行くためには、その異種の文化をも自らの責任として、世界文明創造の糧として取り込む為にはどうしたらよいか、の検討に入ります。この創造の手法を「禊祓」と申します。

 伊耶那岐の命は自らの領域である主観世界の基盤に立ち、更に伊耶那美の命の領域の客観世界をも併合した御身(おほみま)の立場に立ち、伊耶那岐の大神となって、禊祓の大業の検討に入ります。主観世界であると同時に客観世界を取り込む立場、それは人間生命そのものの立場と申せましょう。その立場から、如何なる地球上の文化をも取捨選択することなく受け取り、それに新しい息吹を与えて世界文明創造の糧として生かして行く、所謂禊祓の大業の検討に取り掛かります。その結果、人間の最高・究極の精神構造を示す天照(あまてらす)大神、月読(つくよみ)命、須佐男(すさのをの)命の三貴子(みはしらのうずみこ)の誕生という心の内外両證明を兼ね揃えた人間生命の絶対真理の自覚の完成となります。

 以上が言霊布斗麻邇の学のあらましの内容であります。読者の御勉学の参考になればと、古事記本論の解説に入る前に申し述べました。言霊学の教科書としての神話は、文庫本にしてたった十二頁の神々の物語であります。この短い文章の中で、伊耶那岐・美二神の愛と創造と葛藤の流麗な物語が展開されます。その物語の裏に秘められた神々の名前の指し示す所を、「言霊五十音の教科書なり」の観念の下に繙いて行く時、人間の心と言葉に関する一切の法則が眼前に姿を現わすこととなります。その学問的真理の立場から見ても、その流麗さは他の追随を許さない驚嘆すべき書であります。編者の太安万侶の才能の豊かさに頭を垂れること幾度でありましょうか。

 前置きはこの位にして、古事記の文章の解説に入ることにしましょう。御手許に古事記の本を参照しながらお読み下さると便利かと思います。


 第一章 天地の初発の時

 古事記の神話は「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかまはら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。……」と始まります。この「天地のはじめ」を前文でお伝えしましたように「眼前に展開している大宇宙が大昔、何かの活動を始めた時」と、天体物理学や天文学が考える「宇宙の始め」と解釈しますと、「コトタマ学」の「コ」の字も現われては来ません。ここでは眼の鱗(うろこ)を剥(は)がして、「心の内面の広い広い宇宙」なのだ、とお分かり下さい。この心の宇宙の「はじめ」となりますと、何もない心の中に「何かが起ころうとする時、」ということになります。「何かが起ころうとする時」とは何時だ、と考えると、それは「今」だ、という答えが出て来ます。よくよく考えてみますと、人間は常に「今、今、今……」に生きているということになります。そうすると、そこは何処だ、と言えば、「此処」だ、ということになりましょう。人間は常に「今、此処」に生きています。西洋の哲学者スピノザはこの「今」のことを「永遠の今」と呼びました。

 「若者は明日に希望を馳(は)せ、老人は昔に生きる」と言うじゃないか、と反論するかも知れません。けれど若者が明日の希望を夢見るのは矢張り今であり、老人が昔を懐かしむのも今なのです。そうと理屈としては分かるけれど、心中にしっくり行かない方も多いことと思います。何故なのでしょうか。

 仏教の禅に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という言葉があります。過去の心は既に過ぎ去ったもので、「これだ」と掴むことは出来ない。現在の心といっても、次から次へと移り変わってしまうから、これも掴むことは出来ない。未来心とはまだ来ない日の心なぞ尚更掴むことは出来ない。どれもこれも空々漠々、確かにこれだ、ということが出来ない、ということです。その常に移り動いている心からは、止まっていて、動かないものも、動いているように見えて、動かないものを、これだ、と指定することは出来ません。要は自分が動いているから、すべてのものが動いて見えるのです。

 若し何らかの工夫の上で、永遠に動かぬ今に立つことが出来るならば、その今・此処の中に、自分に関係する過去の一切のことが今・此処にぎっしりと詰まっており、その過去一切のものを活用して、今の一点に於て自分の責任で、自分の思うままに、将来への創造の第一歩を自由に踏み出す事が出来るでしょう。矢張り禅の言葉に「一念普(あまね)く観ず無量劫(むりょうごう)、無量劫の事即(すなわち)今の如し」とあります。簡単なようでいて、「今・此処」を掴むことは宗教修行の一生をかけた目的となっています。

 常に前に前に進むことが善だと信じ、その結果「まだ、まだ」と現状に半分不足・不満の念を残す現代人が、比較的容易に今・此処の心を確保する方法をお伝えいたしましょう。それは何時、如何なる時にあっても、「今、自分が置かれている状況は、自分にとってすべて必要だから起こっていることなのだ。だから私は希望はどうあれ、これ等の状況一切を有り難く受け入れ、感謝の心で迎えよう」と心を空っぽにしてこれに対します。すると案外、素直に自分の置かれた状況を冷静に受け止めることが出来るのを感じます。そうしたら、自分を取り巻く状況の真実がはっきり見えて来るものです。それによって対応する手段が心の中に次々に浮かんで来ましょう。この方法はどんなに大きな事件についても活用可能です。何故なら人々の心の本体は広い広い宇宙そのものなのであり、その宇宙の内蔵精神は愛であり、慈悲であり、人々は誰もがこの宇宙の心を心として生きていますから、感謝の念で物事を見ますと、物事の状況(実相)をよく把握することが可能となるからです。ある先輩から聞いた話ですが、愛という字は「受ける」の字の中に「必ず」という字が入って出来ています。愛とは人それぞれの本体である宇宙(これを言霊アと呼ぶのですが)が持つ基本の心なのでありますから。

 大きな鏡の前に立ってみて下さい。貴方はその鏡に映ずる容姿と、人としての経験、社会的財産、等々が御自分のすべてだ、と思っていらっしゃるのではないでしょうか。若しそうだとしたら、それは大変な間違いです。人の心は、眼前に見る客観宇宙と同じ広さの、内観される心の宇宙を本体とし、鏡で見る自我は、その宇宙本体から一瞬々々現出する現象の自我に過ぎません。私達が今まで「自分」と思っていたのは、自我の本体ではなく、現われ出た現象の自我に過ぎないものなのです。人がこの世に生きているということは、言霊の学問を学んで行く間に、素晴らしく大規模で現代人が夢にも思えない程精妙な生命が人類という大きな使命を持ったものの一員として、限りない生命を生き貫いて行くのだということを認識なさることとなるでありましょう。

 神話の初めの「天地のはじめ」を解説するのに、風呂敷を広げすぎたかも知れません。でもお話する私自身としては、人という生物がこの地球という素晴らしい天体の中で、今後人類が辿(たど)るであろう栄光の歴史をお伝えしようとして、これでも慎重に筆を動かしているつもりなのです。言霊学とは、現代の原子物理学や、人間の遺伝子の学問と同様の厳密な法則を備えており、これを正しく操作・活用するならば、この地球上を環境的に、政治的、経済的に、また芸術的に真実の楽園たらしめることなど朝飯前の如く考えられ、心中ワクワクとしながら筆を執っているのであります。

 古事記の文章を先に進めます。
 「高天原に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。」
 神話の中で高天原という言葉は種々の意味に使われています。しかし此処に出る高天原は、神話が始まって間もない時で、まだ何も分かっていないことでありますので、「広い広い心の宇宙の何も起こっていない処」の意と解釈するのが妥当と思われます。「成りませる神の名は、」の「成る」を文章通り神様の名前と解釈しますと、「成る」の字が妥当となり、言霊の教科書だから、と考えますと、「鳴る」の字が当てはまると思います。次に「天の御中主の神」の意味を考えてみましょう。「天の」は「心の宇宙の」の意であることは容易に分かります。次が問題です。「御中主」とは、文字通りにとりますと、「まん中にいる主人公」の意となります。何もない宇宙の中に何かの意識とまでは行かない、かすかな何か分からないものが出現しようとしました。そして宇宙は広い広いものですから、その何処に位置しましても、初めて生れ出た処が宇宙の中心と言って間違いではありません。としますと、「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神」の全部を、意識で捉えることが出来ない先天の心の動きとして表現しますと「何もない広い広い心の宇宙のまん中に、初めて何かが起ころうとする、目には見えない心の芽が生まれる宇宙」ということになります。やがてはこれが人間の自我意識に育つこととなる芽であります。そしてこの「天の御中主の神」という神名に、宮中賢所秘蔵の言霊原理の記録は「言霊ウ」と名付けたのであります。言霊ウに漢字を附しますと「有(う)」、「生(う)」、「産(う)」、疼(うずく)、蠢(うごめく)等となります。

 古事記神話の冒頭の文章をもう一度書いてみます。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神」です。これが直ちに「広い、何もない宇宙の真中に、初めて何かが起ころうとする、そしてそれはやがて自我という意識に育って行く、その元の宇宙」となる、とどうして言うことが出来るのか。まるでこじつけではないか、と思われる方もいらっしゃるかも知れません。そのことについて少々申上げることにしましょう。仏教の禅に「指月の指」という言葉があります。「あれがお月様だよ」と指差す指のことです。いくら指を凝視しても何も分かりません。指の指し示す方向をずっと見て、その方角の彼方にある真理に気が付くことです。その指し示している方向にある自らの心の真相を見つけることが肝要なのです。古事記の神名はその案内役なのです。昔、呑み屋の客が酒を呑んで、「マダム、今日のはつけにしておいてくれ」と言います。貸しておいてくれ、という事です。マダムは帳面に酒代と名前と日付を書き込みました。月末までには精算するのが普通でした。そしてその帳面の表に「記」と書いてありました。記で「つけ」と読んだのです。古事記という字を改めて読んでみて下さい。「こじつけ」となるではありませんか。但し、ただの「こじつけ」ではありません。古事記の編者太安万侶が、言霊学の真理を遥か後世の日本人に伝えるために仕組んだ、一世一代の後世の子孫に仕掛けた真剣勝負の賭(かけ)であったのです。人類の生命を賭けて、子孫に向って切った大見得であったのです。その意味で、古事記神話の神名はすべて指月の指であり、更に古事記神話全体が指月の指である、と申すことが出来ます。

 もう一つ気が付いたことを申し添えることとしましょう。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、……」とありますように、撰者太安万侶は神話を読む人に「天地の初発」とは「人間の心の、何も起こっていない宇宙から、今・此処に何かが始まろうとする時なのだ」ということを知っている、という前提で文章を説き起こしています。でありますから筆者自身もこれからは、安万侶氏の意に添って解説を進めて行こうと思います。「人の心の真実の本体は精神宇宙そのものなのだ」ということの自覚・自証を伴いませんと、今後の解説は単なる情報「あっ、そういうものなのか」に終わってしまうことでしょう。然しそれを越えて、自らの自覚・自証を伴った理解を確立なさる時、その学問は、それ自体が社会を、日本を、そして世界を動かす精神的原動力となって人類の第三文明時代の創造の行動の鏡となることでしょう。耳学問から実践のエネルギーの発動へ、関心のある方は御質問をお寄せ下さい。一問一答の中に光を見出して頂き度く存じます。

(次号に続く)