「コトタマ学とは」第二百十五号 平成十八年五月号

   鏡 餅
 日本には、正月に床の間に上下二段のお供え餅を飾ってお祝いする風習があります。これを鏡餅と呼んでいます。神社では正月に限らず御神前に鏡餅をお供えしてあるところもあるようです。神社では鏡餅のほかに酒・米・塩・魚・菜っ葉…等々を御神前にお供えします。鏡餅をはじめ、これ等のお供えものをするのは何のためなのでしょうか。

 まず常識で考えますと、人間の日々の労働の結果授かった日常の糧を神様に捧げて、生きることの喜びに対する感謝の意を表すのだということになりましょう。「神様はお供えものをいつ、どうやって食べるの」と子供が母親に尋ねます。母親の答えは「神様は人の真心と食物の香りを召し上がるんだよ」でした。この答えを聞いて「うまいことをいうものだ」と感心したことを覚えています。

 この常識的な考えはまことにもっともなことですが、ただそればかりでは理解することが出来ない点もあります。人は餅を食べます。その感謝としてお餅を神様に供えることは理解できますが、丸い形の二段の鏡餅としてお供えするのは何故なのか、と疑問を持つことも出来るわけです。本章の冒頭でお話しましたように、人が神様に対する態度には「斎(いつ)く」と「拝(おろが)む」の二種類があります。感謝の心を込めて色々な食物を神様にお供えするという考えは、「拝む」人間の態度から出た答えであることは確かです。神様を拝み、その御利益に対する感謝のお供えものというわけです。

 しかしそれだけでは説明のつかないものについては、人間の真の本質は神であるという「斎く」立場から、言い換えますと、言霊の立場から解釈しなければならなくなります。「斎く」ことが常識的であった太古の時代が、後世に遺した教訓と伝統が役に立ちます。

 鏡餅は上下二段に丸い餅が重ねられています。上の段は、人間の心を構成している五十個の言霊を表しています。そして下の段は、その五十個の言霊を操作運用する五十の方法を示しているのです。五十個の言霊を順序正しく五十の操作をしてますと、その結果として人間の社会的行為の基準となる三つの精神構造が出来上がります。「古事記」はこれら三つの構造を「三貴子(みはしらのうずみこ)」と呼んでいます。神様の名前でいいますと天照大神、月読命、須佐男命です。それぞれ政治・道徳、宗教・芸術、科学・産業という三つの活動の行動の基準となる精神構造を表わしています。

 基準となる構造を鏡と呼びます。餅は「百道(もち)」の意味を示します。言霊の数五十、その運用法五十。計百の原理、道です。百の原理で作られた鏡の意味で鏡餅を御神前に飾ります。社殿の奥にいる神様とは、実はこの鏡餅で示される百の道なんだよ、と参拝者に教えているというわけです。

 鏡餅の言霊の学問上の意味についてお話したついでに、御神前にお供えする品物についてその言霊学上の意味を取り上げておきましょう。お供えものの主なものとしては、酒・米・魚・菜・塩等があります。順に説明しましょう。

 酒は「さか」で性質を意味します。物事のすべての性質は、言霊の段階で捉える時、初めて真の姿が現われるぞ、という教えです。米は「いね」で「い」とは五つの母音のうち創造意志を表わす母音です。その意志の音といえば言霊のこととなります。魚は昔「ナ」と呼ばれました。今でも岩魚と呼ばれる魚があります。言霊によって作られた物の名、それは物事の真実の姿です。それはまた神様そのものでもありましょう。菜も同様「名」の表示です。では塩は何の意味を表わしているのでしょうか。

 塩は食物に味を付ける最も一般的な調味料です。塩気のない料理は考えられません。と同時に人生に味付けをするもの、それは生命意志の法則である八つの父韻です。八父韻が四つの母音宇宙に働きかけて初めて現象を生み出します。父韻の働きかけを「潮時」として母音から現象が生れます。八つの父韻は陰陽二つが組となった四組のバイブレーションであることを先にお話しました。また海の潮が干満のあることから、潮をもって父韻を表わすことがあります。「潮の八百路(やおぢ)」とか「潮の八百会(やおあい)」の言葉が大祓祝詞にみえますし、仏教の法華経には八父韻を表徴して「海潮音」と呼びます。

 以上のことから御神前に供える塩は八つの父韻言霊を呪示したものなのです。聖書の「汝は地の塩なり」とは有名な言葉です。人は社会の中にあって、その社会の発展と調和に役立つことがこの世に生まれてきた使命なのだ、と教えているのです。

 以上、簡単に日本神道で御神前にお供えするいくつかの物の言霊学上の意味についてお話いたしました。現代人と太古の人との心の相違について御参考になれば幸いです。さらに鏡餅に添える品物(橙(だいだい)・海老(えび)・裏白(うらじろ))についても説明を加えると次のようになります。

 橙は世々代々の意で問題はありません。海老は慧の霊の意です。慧とは仏教で般若と呼ぶもので、実践智(言霊エ)を表わします。鏡餅の下に敷く裏白には面白い意味が秘められています。白は昔「申す」と読み、言葉の事を指しています。それはまた言葉の法則である言霊の原理に通じます。鏡餅の下に裏白を敷いて、この二千年間は鏡餅の真の姿である言霊の原理は世の中の「裏」に隠れてしまっているのだよ、と教えているのです。含蓄のある比喩ではありませんか。

 さらについでに申し上げますと、日本の言霊の原理が仏教や儒教にも影響して、言霊の学問を知らないとなかなか解釈し難い言葉を遺しています。仏教で「言辞の相」という言葉があり、儒教に「白法」という文字を見ることが出来ます。皆、日本の言霊の原理を指した言葉であります。

(次号に続く)

   布斗麻邇(ふとまに・言霊学)講座 その一

 昨年の始めから十数回にわたり「言霊学より見た日本と世界の歴史とその将来について」の講座が三月にて完結しましたので、今月からは初心に帰り、言霊学(昔の言葉で布斗麻邇(ふとまに)と呼びます)講座を開くことといたしました。初めて講座に参加される方のために、言霊学とはどんな学問なのか、それをお聞き下さることによってどんな効能を手にされるのか、…について少々説明させて頂き度いと思います。

 言霊学とは人間の心と言葉に関する学問であります。今から推定八千年乃至一万年前に私達日本人の遠い祖先によって発見・完成されました。その内容を簡潔に申しますと、人の心は五十個の言霊(ことたま)によって構成されており、それより多くも少なくもない、ということであります。人はこの五十個の言霊を操作運用して生活を営んでおり、その操作法も丁度五十通りあります。五十個の言霊を五十通りに動かすことによって人は生きております。そして五十個の言霊を理想的に五十通りに運用することによって、人間が持ち得る最高の精神構造に到達することが出来ます。この究極・最高の精神構造を信仰上の神と崇(あが)めますと、その神名を天照大神と申します。その最高の五十音の言霊の配列による構図の表徴的器物を八咫鏡(やたのかがみ)といいます。この八咫鏡の言霊構造を生きた人間の心の内容として説明するのが言霊学であります。

 この言霊学の教科書は古今・東西、唯二つしかありません。古事記と日本書紀であります。言霊学(布斗麻邇)は訳有って今から二千年前、神倭(かんやまと)朝十代崇神天皇によって社会の表面から隠されました。そして後世、この学問がどうしても必要となる時の用意のために、今より約千三百年前、古事記が太安万呂により、日本書紀が舎人(とねり)親王達によって編纂されました。時の天皇の勅命によってであります。

 では言霊学の教科書としての古事記・日本書紀はどのような書物なのでしょうか。古事記は全文が漢字で、日本書紀は全文が漢文で書かれています。日本書紀は全文が漢文で書かれていますから、漢文(中国文)が読める人なら書紀は誰でも読めます。けれど漢文を読める人でも古事記は読むことが出来ません。漢文が読めてどうして……?と思うでしょうが、事実なのです。その理由をお話するのは骨が折れますから、例を引きましょう。

 古事記本文の初めに近く「次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、……」という文章があります。この文章を古事記原文は「次国稚如ニ浮脂一而、久羅下那洲多陀用幣琉之時、……」と書かれています。初めから原文を読んだのでは、何のことだか全く見当もつかなくなりましょう。以上、短文ですが例を御覧になれば御理解頂けると思いますが、日本語の文章に、私達が難しい漢文の字に假名または平假名でルビを付けるように、安万呂は日本文の一字々々に、その意味、または発音が同じ漢字を選んでルビを振ったのです。これでは中々完全に読む人は出ては来ないでしょう。一七九八年(寛政一〇年)本居宣長が原文を日本の文章に翻訳し、「古事記伝」を完成し、初めて人々が読めるようになりました。

 二つの教科書の中で、日本書紀は講座の後半に取上げることにして、古事記を先にお話しましょう。古事記は上・中・下の三巻に分れています。上つ巻は神々の神話です。中つ・下つの両巻は神倭朝初代神武天皇より三十三代推古天皇までの実際の歴史を載せてあります。

 古事記神話の中で、「天地の初発の時(あめつちのはじめのとき)、……」に始まる一章から「身禊」の章の天照大神・月読命・須佐男命の三貴子(みはしらのうずみこ)に至るまでが言霊学の教科書であり、次の「天照大神と須佐男命」より最終章「鵜草葺不合命」までが言霊学原理の応用問題ということになります。そしてこれら古事記の上つ巻の神話が示す精神内容を解明し、言霊学という人類の最高精神秘宝の中に読者をお導きさせて頂くのが本講座の目的であります。

 さて講座の本論に入る前に、言霊学の唯一の教科書といわれる古事記(日本書紀)の神話について、現代人には夢にも考えないであろうと思われる神秘と言うか、不可思議というべきか、途方もない文章の構成についてお伝えすることにしましょう。

 先にお話しいたしました如く、ユダヤが世界統一を完成・完遂するまでに、天皇、皇室または外戚の何方(どなた)かに、言霊布斗麻邇の学問を復命(かえりごと)申上げること、これが当言霊の会の責務であります。この事業が皇祖皇宗の新文明創造上の最も重要な仕事ということが出来るでありましょう。この名もほとんど知られていない小さな会が、人類の文明創造の歴史の転換・推進の鍵を握っているなどということは、全く夢の如き絵空事と思われるかもしれません。けれど歴史を転換し、更なる創造を続けて行くための主体性(鍵)をしっかりと握り、歴史創造のゴーサインのベルを押す任務は世界で唯一つ、この言霊の会が握っていることを忘れてはならないでしょう。出来得べくば、そのベルを自らの責任に於いて押し得る人が三人集まれば最上です。天の御中主の神(ウ)、高御産巣日の神(ア)、神産巣日の神(ワ)三柱を造化三神と呼ぶように、ウ<ア・ワは物事の始めであり、老子はこの事を一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず、と数霊を以って説明しています。

 言霊学の教科書の本論となる部分は、神話の初めの「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神。……」から「三貴子」まで、即ち天照大神・月読命・須佐男命の誕生まで、と前にお話しました。この言霊学の教科書となる神話の中に全部で百余りの神名が出て来ます。正に神様オンパレードです。この事がキリスト教などの一神教に対して日本の神道が多神教といわれる所以であります。この様に神様の名前が羅列されますと、古事記の神話は何を言おうとしているのか、さっぱり分からなくなります。

 更に古事記の神話は「天地の初発の時、……」と文章が始まります。こう言われれば、「天地の初発」とは「この太陽や地球を含んだ宇宙が大昔の昔に何もないところから活動が始まった時、……」と解釈するより他に受け取りようがなくなります。即ち広い意味で地球物理学、宇宙物理学や天文学等々の問題と解釈せざるを得なくなります。書店に並ぶ古事記の神話についての註釈欄を見てもその事がはっきり窺えます。例を引いてみましょう。

 宇魔志阿斯訶備比古遅の神=葦の芽の神格化。神名は男性である。 天の常立の神=天の確立を意味する神名。 国の常立の神=国土の定位を意味する神名。 豊雲野の神=名義不詳。以下神名によって土地の成立、動植物の出現、整備等を表現するらしい。 妹阿夜訶志古泥の神=驚きを表現する神名。等々。

 以上少々神名についての国語学者の註釈欄から引用しましたが、読んでみて、お分かりになる方は少ないのではないでしょうか。そしてこの訳が分からぬことから、ともすると私達日本人の祖先の人々が学問的には幼稚で、幼稚なるが故に「おおらか」な心の持主だと思い勝ちになるのではないでしょうか。かくて古事記が太安万呂から撰上されてから現代まで約千三百年の間、古事記の神話は古代日本人の知識の幼稚さとおおらかさを示す、単なる神話として文学的にのみ受け留められて来たのが実状であります。

 一般の常識の観点から古事記神話を読むならば、どう考えても絵空事のような神様の物語としか思えない文章が、観点を一転してこの神話を読む時、この何の変哲もない神話が、日本人だけでなく、世界人類全体が、少なくとも今後の人類の営みの中で各分野の指導的役割を担う人ならば必ず知らなければならない人間精神に関係する心と言葉の究極、最高の真理である言霊学原理の世界唯一の教科書であることが分かって来ることとなります。本講座はこれより神話の初めから終りまで、一字一句も忽せにすることなく、解釈を進めて行きます。お読み下さる方は、この神話を通して人間の心と言葉のすべてを掌に執る如く御理解頂けることと存知ます。

 私は先に「観点を一転すれば」と申しました。絵空事のような神様の物語が、一転して精細・厳密な、そして一貫した合理性ある心と言葉の原理である言霊学の教科書となるには、観点を変えるのも合理的でなければなりません。そこで観点を変える重要な二つの点を明らかにしておこうと思います。

 一、第一の観点の転換は神話冒頭の一句「天地の初発の時」の解釈であります。現代常識で「天地のはじめ」と聞けば、何の疑いもなく、現代宇宙物理学や天文学がいう所の何十億年か、何百億年か以前の、この眼前の宇宙が生成活動を開始した時と解釈します。けれど古事記の「天地のはじめ」はそうではありません。目を外に向けて、広い戸外や天空を見上げて下さい。そこには地上のいろいろな生活の営みや、太陽や多くの星が輝いています。銀河や、光年の尺度で計る無数の星がまたたいているでしょう。今度は眼を閉じて心の中を思って下さい。そこにある心の宇宙の中には過去、現在、未来のいろいろな事が思い浮かぶでしょう。古事記神話のいう「天地のはじめ」の天地とは、この心の宇宙のことを言っているのです。「なーんだ、そんなことか」と思うかも知れません。けれど古事記のいう「天地」とは心の宇宙のことだ、と気付かなければ、言霊学は永遠に認識の外に止(とど)まってしまうこととなります。何故なら、その次に来る古事記の言葉「天地のはじめの時」の「はじめ」の持つ真実の意味に到達することが不可能となるからです。

 私達が思う「広々とした心の宇宙(その中で心の幾多の現象が現れたり、消えたりする訳ですが)の初発(はじめ)とは何でしょうか。それは心の中から何かの出来事(現象)が始まろうとすることでありましょう。何か始まろうとする一瞬、それは「今」でなければならないでしょう。同時にその処は「此処」でなければなりません。広い広い心の宇宙の中に、何かが始まろうとする一瞬、それは時は「今」、場所は「此処」であります。この認識が、古事記神話が言霊学の教科書だ、とする必要・不可欠の条件の第一であります。

 二、古事記の神話を言霊学の教科書だと断定する第二の重要な条件は、言霊学の根本原理の記録が長い間、宮中賢所に秘蔵・保存され、明治時代に入り、明治天皇御夫妻がその存在にお気付きになった時から、隠没・秘蔵されて来た学問の復活が始まったのであります。

 先にお話申上げたことですが、言霊学は私達日本人の祖先の数百年乃至数千年に及ぶ長年月の研究努力の結果、発見・完成された人間の心と言葉に関する学問であります。日本を宗師国として世界は数千年に及ぶ長い間、この言霊原理の下に平和で心豊かな社会を謳歌して来たのです。詳しいことは「古事記と言霊」の歴史編を参考にして頂くこととして、今から約二千年の昔、崇神天皇の時、故有ってこの原理は政治への活用を封じられ、社会の表面から隠没されたのでした。隠されたと言っても、永久にその存在を無にしたのではありません。必要な時が来れば、この学問は国家・社会の指導原理として世に復活されなければなりません。その復活のため種々の施策の一つとして、隠没後七百年、今より千三百年前に、勅命によって編纂されたのが古事記・日本書紀でありました。しかし、その時はまだ原理そのものを有りの侭に復活させる時期ではありませんでしたので、撰者として勅命を受けた太安万呂は、苦心の結果、言霊布斗麻邇の学問を神々の物語の形式による言霊原理の呪示(謎)の形で「知らしてはならず、知らさいでもならず、神はつらいぞよ」(大本教祖お筆先)の如く、今直ちに真実に気付く人は出ないが、言霊布斗麻邇という言葉が将来頭脳内に閃いた人にはその真意が分かるように、古事記神話をまとめたのであります。

 更に特筆すべき事として次のことが挙げられます。古事記神話の最初に登場する天の御中主の神より五十番目の火の夜芸速男(やぎはやを)の神までがアイウエオ言霊五十個のそれぞれと一神一個づつ対応するのですが、その組合せだけは古事記神話には載せず、言霊と神名とのタイ・アップの記録は宮中賢所に秘蔵したのであります。

 この様にして古事記が書かれて約千二百年、明治の世となり、明治天皇と御結婚された昭憲皇太后は一条家よりお輿入れ遊ばされたのですが、そのお嫁入り道具の中に古代の三十一文字の和歌を作る要諦が書かれた本があり、その本に和歌と五十音言霊との関係の記事が載っていたそうであります。その事から明治天皇が賢所に保存されていた古事記神話の中の神と五十音言霊との結び付きの記録の存在に気付かれ、それ以後明治天皇御夫妻と、皇后の書道の先生でありました国学者、山腰弘道氏との三人によって日本民族伝統の五十音言霊学の復活の研究作業が始まったと聞いております。

 以上の事実が言霊学を勉学する上で何故重要な一事となるか、と申しますと、たとえ古事記神話の神々の名前が五十音言霊の一つ、一つに当てはまるのだ、ということに気付きましても、日本語を造る基本となる五十音の言霊と、古事記の五十神との合理的な結び付きを、一人または数人乃至数十人の労作を数年…数十年と重ねて完成させようと努力しましても、到底出来得ることではないことだからであります。

 言霊学を学ぶに当たり、勉学者が常に心得ておくべき重要な二点についてお話を申し上げました。お分かり頂けたでありましょうか。「人には心がある。心とは何であろうか。心と言葉とはどんな関係があるのか」の疑問を起こし、高天原と呼ばれた地球上の高原地帯に集まった賢者達が、幾万の人数と、幾百、千年の歳月をかけて完成した言霊学であります。それは五千年程昔「物がある。物とは何であるか。物共通の法則とは何か。」の疑問を起こし、子々孫々にわたって研究・努力を重ねて今、ここに一応の完成を遂げようとしている人類の物質科学文明と同様のものであったに相違ありません。それは心と言葉のすべてであります。講座が進むに従って、現代人の持つ心の知識が如何に小さく、貧弱なものであるか、を自覚されることと思います。と同時に人間という生物に生まれた時から授与されている人間性能というものが、現代人が意識しているものとは比べ物にならない、想像もつかない程偉大で荘厳な力強いものであることに気が付かれるに違いありません。そして人類が、言い換えますと、将来の人々が、自らに授与されている心とその性能の可能性に気付き、それを自覚するならば、人類の将来は素晴らしいものがある事に勇躍することとなりましょう。以上を講座に入る前段のお話として、希望にあふれた言霊学講座を開始することとしましょう。

(次号に続く)

   言霊イ(言霊学随想)

 人間自我の霊位自覚の進化を言霊母音で示すと、ウオアエイの順である。この五母音のそれぞれに言霊の動くの意の子音「ル」を添えるとウル、オル、アル、エル、イルとなる。以前にも会報でお伝えした事柄であるが、今・此処で更に掘り下げて検討してみよう。

 ウル(自分のものにする)は言霊ウ段階の人間性能を良く表現している。音図上でも母音より半母音へ、がウからウで示されることがこの事実を示している。この次元は始めも終りも「……たい」である。次はオルであるが、この次元の性能は常に過去より現在までの経過の確認作業に尽きる。過去からこれこれの経過をへて、今、此処に「おる」となる。担う因縁の叙述の次元である。

 次の「アル」は如何であろうか。唯ただ今、此処に、茶碗がある、墓がある、私がある、……アッケラカンと「有る」ことを示している。「天上天下唯我独尊」、言葉も説明もない。仏教で謂えば諸法空相であり、言葉を離れた境地である。大人も諸法空相を知れば赤子に帰る。この言霊アの境地を初地の佛と呼ぶ。アの境地にある人は、黙っていれば佛である。阿羅漢という。けれど一度口を開けば地獄である。「お里が知れる」という言葉がある。この境地には慈愛の目はあっても、「こうしなさいよ」という言葉は出て来ない。この境地から言葉が出て来るには、更に自覚の段階を上がらなければならない。言霊イとエへである。

 この言霊アの境地(諸法空相)から言霊イ・エ(諸法実相の真実)に自らの修行のみで進もうとする人には何と五十六億七千万年を要すると仏説は説く。この修行の道にある人を因位の菩薩という。現在の人類の歴史の大転換の時に、因位の菩薩では役に立たない。この修行を成就させる為にはアイウエオ五十音言霊の学が必要不可欠である。この学なくして諸法実相の完遂は不可能である。

 人類の過去より将来の展望を今・此処の一点に掌握し、それに所を得しめる言霊イとエの次元とは、イは言葉、エはその言葉の活動が発現する次元である。一切を掌握して端座する姿を「イル」という。宇宙意志の座である。そこから発言する言葉は言霊五十音で構成された言葉(特にその子音)でこれが光の言葉である。光の言葉を発する性能が言霊エ(選[えら]ぶ)である。その言葉は生命が心と身体(いのちがこころとからだ)に分離する以前の生命そのものの言葉である。この自覚にある人をスメラミコトといい、仏説で果位の菩薩と呼ばれる。人類の第三生命文明時代はこの人達によって創造される。

(おわり)