「コトタマ学とは」第二百十三号 平成十八年三月号

   鈴
 神社には拝殿の軒から綱を垂れ大きな鈴が付けてあります。参拝者は先ず綱を振って鈴を鳴らし、それからお詣りします。何故鈴を鳴らすのか、ご存知でしょうか。

 それは神様にお詣りする前に気持を引き締めるためでもなく、または心を込めてお詣りしますから神様どうか私の願事をよく聞いてください、と神様の注意をこちらに向けようとして鳴らすわけでもありません。鈴を鳴らす理由は言霊に関係しているのです。

 古代の日本人は、神様といえば何であるかを知っていました。それが分からなくなったのは二、三千年前からのことです。人間がそれによってこの世に生を受け、それによって生活し、人間がどう行動すれば結果はどうなるかをすべて知っている大いなるもの、それを人間は神と呼びます。とするなら、その神とは言霊に他ならないことをお気付きになるでしょう。人間の心は言霊によって構成され、人は言霊の法則通りに生活し、その法則の枠から出ることが出来ません。人間の生命すべては言霊なのです。言霊こそ神なのです。

 神社参拝の折に人々が綱を振って鳴らす鈴はその古代の名残なのです。鈴の形をよくご覧下さい(図参照)。鈴の形は何かに似ていませんか。そうです。人が口を開けたところの形を表徴しているのです。口を開けば言葉が出ます。その言葉を構成している一音一音の単位が言霊です。一音一音は単に音だけのものではありません。音と同時に、例えば「タ」といえば広い宇宙の中の「タ」と名付けるべきすべての内容を含んでいます。「タ」という言霊です。

 参拝者にとって正面の本殿の奥にいます神様とは、実はあなたが今手で綱を振って鳴らしている鈴の音、それに表徴されている言霊なのだよ、ということを教えてくれているのです。

 三重県に伊勢神宮があります。御祭神は、内宮が天照大神、外宮は豊受(とようけ)姫大神です。このお宮は昔、拆釧五十鈴宮(さくくしろいすずのみや)と呼ばれました。釧(くしろ)とは古代の腕(うで)に巻く飾(かざ)りのことです。その周りに小さい数個の鈴がついているものがあるので、五十鈴にかかる枕詞となったと辞書にあります。先に書きましたように、五十鈴すなわち五十個の鈴とはアイウエオ五十音の言霊のことです。伊勢神宮の御祭神天照大神とは、実は五十音の言霊を以って表わした人間の行動の鏡となる精神の構造に与えられた神名のことなのです。

 神社の拝殿前の鈴と言霊との関係をご理解いただけたことと思います。神社で行う色々な儀式習慣には、多くの現代人には想像も出来ない特別な風習が沢山あります。先年行われた天皇即位の大嘗祭の儀式の様式についても、その様式の理由や起源について「分からなくなった」という記録が、すでに室町時代の宮中祭官の記録に残っている程です。けれどそれらの神道の儀式の様式や風習の起源とその理由について、言霊の原理はすべて明白に解明してくれます。

(次号に続く)

   日本と世界の歴史 その十三

 人類の第二物質科学文明の終了の時となり、新しい人類の第三文明時代を創造するための重要な三つのキイ・ワードを取り上げました。それは第一に日本皇室、第二にユダヤ民族、そして第三に当言霊の会の現在の状況であります。この中、先々月と先月の会報に於て第一と第二のキイ・ワードについてはお話いたしました。そこで今月は第三のキイ・ワードである当言霊の会の現状についてお話を申上げることといたします。

 このように申しますと、「第一の日本の皇室は伝統数千年といわれている。第二のユダヤ民族の予言者についても数千年の歴史があることが分かっている。それに比べて言霊の会は創設されて十数年、明治天皇から始まったという言霊学の復興の運動といった処で高々百年、何とも心細い限りではないか」とお思いになる方が多いのではないでしょうか。その事については「全くその通りなのです」と言わざるを得ません。月にわずか百数十部の会報の発行、月一回の言霊学講習会は公共施設の区民館会議室を借り、細々と活動している当言霊の会は自慢したくも仕様のない小さな会なのですから。

 けれども、有形な財産の何もない当会なのですが、若し人がいて、その人が当会の発行した三冊の書籍と、会創設以来続いている二百十数号に及ぶ言霊布斗麻邇の原理の研究会報「コトタマ学」をお読み下さり、「此処はどうも納得し難い」という箇所はお尋ね頂き、トコトンお話合い下さるならば、「コレハ、コレハ」と驚嘆の声をあげられることとなりましょう。当会は以前より伝わる習慣で「値なくして授かったのですから、値なくして与えよ」のささやかな警めの下に、積極的に人を集めることも、金を集めることもなく、この学問を以って何かの価値を得ようともせず、いずれこの学問が人類の為に役立つ、とお考え下さる公共の方が出現すれば、喜んで学問の真実をお伝えし、当会自体は「わが事終えり」と巷間の中に姿を消すこととなりましょう。この学問は欲をかくことと関係のない、欲得では理解することが出来ない、仏説法華経の所謂「価値(あたい)は三千大千世界(宇宙)なり」(提婆達多品[だいばだったほん])という人類の秘宝なのであります。……第一の日本の皇室の存在も、第二のユダヤの予言者の行為も、実はこの言霊の学問と深い関係があることなのです。

 さて、第三のキイ・ワードの言霊の会について最初に結論を披(ひら)けかしてしまったようでありますが、その言霊の会が如何様に日本の皇室とユダヤの予言者との歴史的出合いとなり、その行末がどのように展開して行くのか、をお話して行くことにしましょう。

 先に説明しました如く、最初に言霊の学問の存在に気付かれ、復興の仕事を始められたのは明治天皇御夫妻でありました。時は十九世紀の終わりの頃であります。その頃、物質科学の世界にも人類文明の発展に重大な意味を持つ事となる科学的発見が成されています。放射性物質の発見です。この発見が長い物質科学の研究の中で、物質の先験的構造の研究の始まりを意味したことと言うことが出来ますが、丁度同じ頃、人類の心の中の文明創造の歴史に於ても、二千年近い昔に封印された言霊の学問、即ち人間の心の先験構造を明らかにする学問の中の天津磐境(いはさか)の原理について復興の燈火がともった事は重大な意義があったと思われます。この時を一にする心と物の両分野の同時発見は、人間の顕在と潜在の意識の法則であると同時に、人類歴史に於ける皇祖皇宗の御経綸の成さしめる業であったでありましょう。この事実は、現在社会に於ける心と物との両分野の相互作用の面で参考になる現象であります。

 三千世界 一度に開く梅の花 梅で開いて松でおさめる神の国が来るぞ<
 いろは四十八文字で世を治めるぞ

以上のお筆先は皆言霊原理による世界の政治が始まる事の予言でありますが、神懸かりはそればかりではなく、言霊学の内容に立ち入って、冠(かんむり)島の神事(天之御柱)、沓島の神事(国之御柱)等々の神事を女史自身の行として言霊の学問が今に世の中に出現することを予言しています。また日本皇室の前途について「世の建替え、建て直し」の神懸かりによって深い洞察の予言をしております。現在までの日本皇室の変遷を見る時、驚異的予言であったと思われます。

 ここで、明治天皇御夫妻の言霊学(言の葉の誠の道)の復興の御仕事以来、今日までの経緯を簡単に辿ること ノしましょう。明治天皇御夫妻の研究のお相手をしました山腰弘道氏、その子明将氏の筆によって見ますと、その研究の根幹は宮中三殿の中の賢所に保存されていると推察される、古事記の神話の「言霊百神」と言霊五十音との照合の記録であります。平易に申しますと、天の御中主の神=言霊ウ、高御産巣日の神=言霊ア、神産巣日の神=言霊ワ……」という神名と言霊との組合せの記録が賢所に秘蔵されてあった、という事実であります。神代と古事記に記された大昔、既に布斗麻邇として発見されていた言霊五十音の原理はこの五十神と五十音の組合せによって成立します。この組合せは五十個数の五十通りの組合せという尨大な組合せの中から唯一得られるもので、二人、三人の人が生きている内に完成させることなど不可能なものであり、この組合せこそ大先祖の日本人の現代の日本人である私達子孫への最高・唯一の贈物であったと言うべきものでありましょう。言霊学の復興はこの記録の発見の上に完成されたわけであります。

 聞き知るはいつの世ならむ敷島(しきしま)の大和言葉(やまとことば)の高き調べを(明治天皇)
 敷島の大和言葉をたて貫(ぬ)きに織る倭文機(しずはた)の音のさやけさ(昭憲皇太后)

両陛下の右の御歌を見る時、完成された理論には到らないでも、両陛下の感性は、言霊原理によって構成された日本語の素晴らしい創造性の美を感得なさっていらっしゃった事が窺えるではありませんか。

 言霊学復興の仕事は明治天皇から次の大正天皇には伝わらず、研究のお相手をした山腰弘道氏の次男、山腰明将氏に伝わりました。この学問研究がこの時、一端天皇家を離れ、民間に移った事は、今になってみると、重要な意義があったことに気付くのであります。その事については後程お話申し上げることといたします。

 山腰明将氏が言霊布斗麻邇の学問について如何なる方法でその復活を計っておられたか、は明瞭には聞いておりません。先師小笠原孝次氏の話によれば、弟子達の質問に対して山腰氏は「君達に言霊学の詳細を説いても余り意味がない。何故ならこの学問は天皇御一人のみが体得・自覚する学問なのであり、私は時が来れば陛下に御報告(復命[かえりごと])申上げるために勉強している。折角の質問だから少々はお話しよう」というのが常であったようです。ただ氏の勉学の集大成とも言える一冊の手刷りの本があります。題は「言霊」。講述者は山腰明将氏、筆記者は私の先師、小笠原孝次氏。時は昭和十五年三月。日米英の太平洋戦争が不可避と思われていた時、何とか戦力において劣勢な日本が精神的な国家・民族の力を引き出そうとして、日本肇国の基礎であり、日本語の語源である言霊学の復興に務める山腰氏の話を聞いてみることにしようという内閣の希望により、時の大臣、陸海軍の大将・元帥、それに警視総監等が東京築地の海軍将校の社交場であった水交社に集まり、昭和十五年三月二日より十週間、十回にわたり開かれた山腰明将氏の「言霊」と題する講演会の記録であります。筆記は小笠原孝次氏がその任に当った、と先師御自身から聞きました。

 この講演記録を読めば直ぐに気付くことですが、山腰氏の講演は、その気概天を突くの勢があり、素晴らしいものであったことが分かります。その趣旨は主に日本語の音韻学に裏付けられた説明で、古事記の言霊百神の原理を解説したものでありました。ただ残念なことには、音韻学という人によく知られていない学問を基盤とした解釈でありましたから、その啓発は飽くまで理論的領域の中に留まり、日本国の、また日本民族のための政治、国際問題の解決という実際問題に応用することまでには理解を得られずに終ったことであります。その結果、日本は無謀な戦争に突入し、昭和二十年八月、全面、無条件降伏に終ったのであります。

 大東亜戦争敗戦後、山腰明将氏御自身、並びにその研究に大変な危難が襲いかかります。敗戦後数年して氏は占領軍のジープの自動車事故により肝臓破裂で急死されたのです。その上、氏の遺された尨大な言霊研究資料が火災によって全部焼失したことであります。山腰明将氏の一番の弟子と目されていた先師小笠原孝次氏の悲歎は言葉に尽くせないものであったようです。「師の急逝を悼みながら、茫然自失、自分が生きているのか、死んでいるのか、分からない状態で一ヶ月が過ぎました」と私に話して下さったことを覚えています。その一ヶ月の後、先師は猛然と立ち上がります。「師の死と研究資料の焼失を目の前にして、何が何だか分らなくなった自分は、一ヶ月が経って漸く気をとり直すことが出来ました。資料焼失とはいえ、今此処に山腰氏の「言霊」と古事記の神話が残っている。言霊学が人間の心と言葉の全貌をとらえた究極の学問だ。というからには、自分の生命そのものだ、という事だ。ならば、自分自身の心の深奥を明らかにするならば、必ずや古事記の神話の領域に出合うに違いない。日本と世界人類の将来はこの無力の自分の努力に懸かっているのだ、と思いました。自分は古事記の所謂「天地の初発の時、……」とは何か、を坐禅によって突き止めようと、第一歩から始めようと決意しました。……」

 かくて師の東京、多摩川畔の坐禅が始まりました。昭和二十六・七年頃のことであります。(会報六十六号中の随想「釣糸」参照)そして師は昭和二十八年、禅宗坐禅の「色即是空、空即是色」の問題を完全に解決し、それによって古事記神話の冒頭の一節「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神(言霊ウ)……」の天津磐境の中の言霊五母音の宇宙剖判を理解・自覚することが出来たのでした。

 神倭皇朝十代崇神天皇が天皇と三種の神器との同床共殿の制度を廃止し、日本に言霊学を自覚して政治を行う天皇がいなくなって以来二千年、自分自身生身(なまみ)の心の中に言霊の存在を確め得た地球上第一番目の人に先師はなった訳であります。師は自分の心の中に言霊の存在を確認する作業に成功した初めての人となりました。宗教や哲学の用語によって言霊を考え、説明することは出来ます。けれど生きた自らの心の中にその存在を確め得て、初めて自覚認識の完成ということが出来るでありましょう。研究資料全部の焼失という逆境がもたらした逆転満塁ホームランでありました。先師の古事記百神解義の仕事は常にこの自身の心の中に求める着実な方法に貫かれ、成果を挙げて行きました。

 先師の零(ゼロ)からの洞察が、歴史の渾沌を見事に判断、解決した一例をお話しましょう。
 昭和天皇は敗戦の翌年一月、人間天皇宣言の詔勅を出されました。「古事記・日本書紀の神話と日本の皇室とは関係がない」と言い切ったのでした。皇室に関連して皇祖と言えば天照大神のことでありました。その永い間続いた皇祖皇宗から連綿と受け継がれた天皇位について、仏説の正法・像法・末法の話をしました。その国柄を、古事記・日本書紀の神話の否定という形で御破算にしてしまいました。その結果、天皇位は正法、像法の時代から末法時代に転落してしまいました。端的に表現すれば天皇空位時代となりました。この事に関して先師は次のようにお話されました。

 「天皇御自身が宣言された以上、綸言汗の如し、といわれるように、訂正は出来ません。ですから、敗戦までの現人神(あらひとがみ)としての天皇に帰ることは今後は出来ないことです。とすれば、天皇位は今の如き根無し草の象徴天皇が続くか、または言霊原理の昔に立ち返り、人類の第一精神文明時代の天皇の如く、世界の政治を自らの責任に於て親裁することが出来る権威を備えた天皇となるか、でしょう。そのように広大な目でみることが出来るなら、宣言の中の古事記・日本書紀の神話の否定は意義がないわけではありません。日本敗戦の時まで、「古事記を説く者は死す」といわれ、古事記神話を個人的に説くことはタブーとされて来ました。古事記の内容を表徴する器物は皆皇室の秘物に属し、天皇位に関係しないものはないためでしょう。古事記と皇位との関係の否定は本来悲しむべきものですが、皇祖皇宗の御経綸如何の目から見るなら、その関係の天皇御自身による否定は、古事記の皇室独占の束縛を否定したこととも受取ることが出来ます。今や古事記の神話は皇室の秘事(ひめごと)ではなくなりました。解禁されたのです。呪縛(じゅばく)から開放されたと言ってもよいでしょう。全世界に向って扉が開かれたわけです。志ある者は自由に古事記神話を通じて言霊学の深奥に入り込むことが出来るのです。言霊学復興の速度は今後一段と進むことでしょう。」

 私が先師、小笠原孝次氏の所へ教えを請うてお尋ねしたのは、確か昭和三十七年、東京オリンピックの年より前のことでした。その時、先師の著書は一冊もありませんでした。すべてはお尋ねして、お話をお聞きする勉学でありました。その時より二十年、先師の自らの心に問う言霊学は深さと広さを増し、著書も「古事記解義、言霊百神」「第三文明への通路」「言霊精義」「言霊開眼」「世界維新への進発」「神道より見た禅宗無門関」、その他パンフレット多数、と次々に発行されました。昭和五十七年十一月、先師はなくなられる一ヶ月前、私に後事を託され、秋の空の美しい日の正午過ぎ、東京幡ヶ谷の病院で逝去されました。七十九歳、あと二ヶ月少しで八十歳となる時でありました。私が五十七歳の時であります。

 先師がなくなられて五年の歳月が流れました。この間、私は二冊の本を書きました。「言霊」と「続言霊」であります。先師から後事を託され、「私が死んだら、私が貴方に教えたことはすべて忘れてください。そして貴方が自分の好きなようにやって行って下さい」と言われた以上、先師の著書をそのまま教科書として使うわけに行きません。上記の二冊は幼稚な文章でしたが、私が言霊の仕事をさせて頂く心構えを確認するために書いたつもりです。書けてみますと、先師が「後を頼みますよ」と言われた「後」とは、主に二つの事があるのに気付いたのでした。一つは言霊原理を世の中に知らして行きながら、皇祖皇宗の原理に基づく世界文明創造の現在と将来を、原理によって目覚めた眼によって常に見据えて行くこと。もう一つは、先師が言霊百神の本の中で(二三七頁、七行〜八行)、後から来る人に宿題として遺した言霊原理の完全復興の問題であります。即ち古事記、禊祓の行の中の奥疎(おきさかる)神、奥津那岐佐毘古(おきつなぎさひこ)神、奥津甲斐弁羅(おきつかひべら)神以下の神名が指示する心の働きの内容の解明のことであります。以上の二つの仕事を私に課せられた宿題と思いつつ、昭和六十三年「言霊の会」を創設し、現在に到っているのであります。お蔭様にて懸案でありました禊祓の精神構造も略々解決し、覚めた眼で世の中の実相を見詰めながら今、此処に第三のキイ・ワードの「言霊の会」の現在を物語っている次第なのであります。

 懸案の奥疎神以下六神の神名で示される心の動きの解決に約七年の年月を要しました。更にその後の禊祓の中の十四神名の解決に十年を費やしたのであります。何とも気の長い話のように聞こえるかも知れませんが、その十七年間は「あっ」という間の十七年でありました。疑問に答えてくださる先師は既にこの世になく、質問を出すのも自分、その疑問のすべてに答えるのも自分しかいません。幾度絶望のドン底に落とされたか、分かりません。その都度、気を取り直し、太安万呂氏のかけた謎々の向うにある真相に迫って行く努力の連続でありました。その解決の鍵は生き通しに生きている「神であり、同時に人である、人間」の今・此処に出合うことであります。禅で謂う「一念普く観ず無量劫、無量劫の事即ち今の如し」です。自分の出す問いに生き通しの自分が答えてくれます。疑義を提出するのは現在の私、それに答えてくれるのは二千年以上前の私、と言った具合です。この質問と応答の作業の中で、私は完全に人は死なないのだ、という事実を知らされました。

 平成十五年に入り、私は請われるままに「大祓祝詞の話」と題して神社神道で称える大祓祝詞を言霊原理によって解説する話を始めました。哲学とか信仰の書は、それを平易な口語文に直そうとすると、言葉の平易なると同時にその内容が原文の厳正さから離れてしまい勝ちであります。私は大祓祝詞の文章の難解さを平易な文章に改め、しかもその内容が曖昧になることを避けようと注意しながら、話を進めて行きました。講習会での話は八回、八ヶ月かかりました。その話が、私のもう一つの課題である言霊原理完全復興への転機となりました。毎度お話することですが、言霊のことを一字で霊とも呼びます。言霊は今・此処に存在し活動しています。霊が走る、霊駆る、が「光」の語源です。大祓祝詞の中で突然の如く頭の中を横切った「光」の言葉が、永い間求めてきた言霊原理を綜合する頂点のキイ・ワードとして飛び込んで来たのでした。感激で呆然とする思いだったのです。

 古事記の禊祓の後半の文章の一部を引用しましょう。
 ここに詔りたまひしく、「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は弱し。」とのりたまひて、初めて中つ瀬に堕(お)り潜(かづ)きて滌ぎたまふ時、成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひ)神。次に大禍津日(おほまがつひ)神。この二神(ふたはしら)は、その穢(きたな)き繁(し)き国に到りし時の汚垢(けがれ)によりて成りませし神なり。次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直毘(かむなほび)神。次に大直毘(おほなほび)神。次に伊豆能売(いづのめ)。……

 詳しい説明は後に譲り、簡単に申しますと、外国の文化を吸収して、これに新しい息吹を与え、世界人類の文明に取り込む時、八十禍津日神、大禍津日神の内容では、光と闇が織り交じった、玉石混(ぎょせきこんこう)のもので不可能であり、純粋な光によっている言霊そのものが今・此処に活動する言葉(光の言葉)でなければならないことを説く箇所であります。この光の言葉の自覚という課題が現在本言霊の会に対しての皇祖皇宗の最高至上の命令であることを「大祓祝詞の話」の講話は教えて呉れたのでした。物理的な光は壁に当れば、その先は闇です。けれど心の光には障碍がありません。今、此処にいる人から光の自覚は言霊学の学びの進歩と共に大きな灯となって世界を照らして行くものなのです。時が来れば、地球が夜から朝に変わるように、人類の不幸の闇を打ち消す大きな心の灯が形成される日は極めて近い、ということが出来ます。

 世界を転換させる三つの重要な「現在」のキイ・ワードの第三、言霊復興に尽力した人々の心の流れをお話して来ました。そして、三つのキイ・ワードを一つにまとめる「光の言葉」に辿り着きました。この光の言葉が実際に三つのキイ・ワードをまとめて行くのか、は次回にお話申上げることにしましょう。

(次号に続く)