「コトタマ学とは」第二百十一号 謹賀新年 平成十八年一月号

   言霊学の歴史  その三(前号に続く)
 筆者が事細かく言霊のお話をしますと、読者の中には、二千年も前に世の中から隠されてしまった言霊の原理というものが、どうして再びこの世の中に復活してくることが出来たのだろう、と疑問を持たれる方もいらっしゃることと思います。そこで近代の言霊の原理についての歴史をお話することにしましょう。

  物は焼けてしまえば跡形もなくなります。けれどもその物を作ったり見たりした人の記憶は長い間残ります。一度人の心の記憶に印画されたものは、その人一代はもちろん、子々孫々の心の中に受継がれ、消え去ることはありません。そして必要があれば、その責任を負う人の頭脳を通じて記憶として蘇るものなのです。ましてそれが民族の言語を生んだ原理ともなれば、その言語がその民族によって語られ、それによって民族の歴史が創られている限り、言霊の原理が時到らば再び復活することは当然ということが出来ましょう。

 第十代崇神天皇により言霊の原理の政治への適用が廃止され、世の人々から言霊の原理の存在は次第に忘れ去られていったのですが、その後の歴史の中で、その行跡や遺された文章などによって言霊の原理を明らかに、またはある程度知っていたと思われる人々の名前を挙げることが出来ます。「古事記」を撰上した太安万呂、日本書紀撰上の舎人親王、その他役小角(えんのおづぬ)、柿本人麻呂、菅原道真、空海、日蓮等々です。

 これらの人たちが遺された行跡や文章から、言霊のことをどのように表現していたかを考察するのは興味溢れる問題ではありますが、紙数の関係上、今回は省略することに致します。

 近代になって初めて言霊の原理の存在を知り、言霊研究の先鞭をつけられたのは明治天皇であります。天皇のお歌の中には「敷島の道」とか「言の葉の誠の道」という言葉が数多く見られますが、これらの言葉は、現在世の中でいわれているような単なる三十一文字(みそひともじ)の和歌の道のことではなく、言霊の原理を指したものなのです。

 明治天皇の御製に次のような歌があります。
   聞き知るはいつの世ならむ敷島大和言葉の高き調べを
   しるべする人をうれしく見出でけり我が言の葉の道の行手に
   天地を動かすばかり言の葉の誠の道をきはめてしかな

 古代においては三十一文字の和歌は、ただ単に事物や感情を歌うだけでなく、その中に言霊の原理を巧みに織り込むことによって言霊の原理(布斗麻邇)の修行を積む方法であったのです。万葉集から古今集までの和歌にはそのような歌が幾多発見されます。

 明治天皇の皇后となられた昭憲皇太后が一条家よりお輿入れの折、そのお道具の中に言の葉の誠の道に関する書物が入っていて、天皇は皇后と共に言霊の存在に気付かれた、と伝えられています。明治天皇が日本民族の伝統である言の葉の誠の道(言霊布斗麻邇)の真理に精通しようといかに希望されていらっしゃったか、前記のお歌がよくそれを物語っているように思われます。

 明治天皇・皇后お二方の「古事記」上つ巻に基づく言霊学研究のお相手を務めたのが、山腰弘道氏(旧尾張藩士、皇后付きの書道家)でありました。氏は筆者に言霊学を教えてくれました小笠原孝次氏の、そのまた先生であった山腰明将氏の父親であります。

 太平洋戦争後に亡くなられた山腰明将氏の遺された文章の中に、「古事記」の神代の巻に出て来る神様の名前がそれぞれアイウエオ五十音の一つ一つと結び合わされていました。前に説明したことですが、「古事記」の神様の名前と五十音の一つ一つを結び付ける作業は一人や二人の人の研究だけでは到底出来ない言霊学の奥義でありますので、この奥義は、多分長い間宮中に秘蔵されていたものであろうことが推測されます。

 山腰氏の学問を受継いだ小笠原孝次氏の生涯をかけた研究によって、その時までは全く信仰的・哲学的でありました言霊の学問が、現在に生きている人間の心の学問として、考える人間の心の構造を明らかにした精神の科学としてまとめ上げられたのでした。

 希望する人ならば誰でも、古代の日本人の祖先がそうであったそのままの姿で、人類の第一の文明の真髄であった精神の原理をマスターすることが出来るようになりました。アイウエオ五十音言霊の原理は、二千年の暗黒の歴史の中から不死鳥のように蘇った、ということが出来るでありましょう。

(次号に続く)


   日本と世界の歴史 その十一

 過去十回のお話を通して日本と世界の歴史を、その始めから現在までどのような経路を辿って来たかを明らかにして来ました。そして現在、私達は今後の歴史を創造して行くために、どの様に考え、思い、行動したらよいか、を御理解頂くために、三つの重要な観点を明らかにする三つのキイ・ワードを提唱しました。即ち一に日本の天皇、二にユダヤ民族、そして三に言霊の会であります。

 実際に現在、社会一般の歴史学から日本や世界人類の将来が論議される場合、その主張は大変複雑で、中々学者以外の人々には容易に理解し難いようであります。しかし歴史の過去も将来も、歴史を動かしている根元の原動力というものを把握してしまいますと、そんなに複雑なものではありません。そこでその歴史創造の原動力を担う者として三つのキイ・ワードをお話した訳であります。これ等歴史の原動力となる三者が歴史上のある一点に於て出合い、縒り合される時、日本と世界の歴史は、現在の世界の人々が想像もしない突飛な方向へ、それでいて目を覚ますと、いとも当り前と思われる、当然落ち着くべき処に落ち着く方向に動き出して行く事になります。

 会報の三頁にこの三者の歴史年表を並列して示しました。読者の御理解を頂く参考となれば幸いであります。先ずは今、現在、この三者が過去を背負い、将来を展望する、この時にそれぞれどの様な実相(真実の内容)を持って存在しているか、を改めて年表に沿ってまとめてみましょう。

   日本の天皇
 高天原と呼ばれる高原地帯に集まった聖の集団による「人の心と言葉」についての長年月の研究の結果、発見されたアイウエオ五十音言霊布斗麻邇の原理を保持した聖の集団が、人間の最高理想の文明を創造するために日本列島に下りて来ました。一万年乃至八千年以前のことであります。そしてこの日本の気候・風土・風習の実相を観察して、原理に基づいて古代日本語を作り、日本国を肇国したのです。この心と言葉の真理の光の恩恵に全世界が靡(なび)き寄せられるように、地球上に古代日本の朝廷を「霊(ひ)の本(もと)」として、世界は人類の歴史上第一の精神文明時代を生きることとなりました。この時以来、日本並びに世界の人々は、この五十音言霊の原理を歴史創造の原動力として、何時までも永遠に、人々の精神の底流にこの原理を保持しながら、文明創造の経綸の中で生き続けて行くことになります。

 日本の朝廷は邇々芸皇朝、彦穂々出見皇朝、鵜草葺不合皇朝と続きます。その間、人類は第一精神文明時代を建設し、言霊原理に則り、五千年の長い間、平和と豊穣の生活を送ったのであります。葺不合皇朝の中葉、日本三貴子の一人である須佐男命の霊統をひく者達が中心となり、従来の布斗麻邇の原理とは異なる物質法則を求め、研究のために高天原日本より外国に向って出発して行きました。物質科学文明の揺籃時代が外国に於て芽を出すこととなります。今から五千年程前のことであります。

  今より約三千年前、葺不合皇朝の末期、外国に於ける物質研究の熱が高まることに時代の転換の気配を察した日本の朝廷は、来朝のユダヤ王モーゼに天津金木の原理(カバラ)を伝授し、「この後、汝と汝の子孫は世界の人々の”守り主“となれ」という命令を下し、以後三千年間は人類の第二物質科学文明創造の時代である、としてその主宰としての役目をユダヤ民族の王、即ち予言者に委任したのであります。これ以後人類の三千年は直接には日本天皇の手を離れ、社会の底流を支配するモーゼとその子孫の予言者の統治する所となります。ここに於て人類の第一精神文明時代は終焉し、日本は神倭皇朝の時代に入ります。

 それより更に千年後、第一精神文明の中心であった日本に於ても完全に第二物質科学文明時代に入るために、神倭朝第一代神武天皇、第十代崇神天皇の計画により、精神文明の基本原理を象徴する三種の神器を天皇の御座より遠ざけ、伊勢の神宮の御神体として祭ったのであります。これによって崇神天皇より後の天皇は言霊の原理の自覚のない、ただ神器を祭る伊勢神宮の信仰上の大神主としての役目につかれた事になります。日本肇国の眼目であった言霊布斗麻邇の学は完全に人類社会の裏に隠されてしまいました。日本国民は自らの国家の大眼目の学問を信仰の対象の神として「何事のおわしますかは知らねども」と歌われた如く、その実態を見忘れてしまいました。(神器の同床共殿制度の廃止と同時に伊勢神宮の本殿の唯一神明造り、古事記・日本書紀の神話による言霊原理の黙示を作ることにより、物質文明完成の暁には、日本国民の中に言霊の原理が蘇るよう諸種準備が整えられました事は歴史の中で詳しくお話しました。)

 神倭皇朝百二十四代、二千七百年間、特に第十五代応神天皇より第百二十四代昭和天皇までの時代は、天皇は三種の神器を保持・保存する世襲の伊勢神宮の大神主の役に終始し、政治の表面には出ない事となりました。第一精神文明時代にあった日本より世界への諸種精神文化の輸出はなくなり、ただ外国文化の輸入にのみ頼ることを国是としたのであります。天理教教祖の「高山の眞の柱は唐人や、これがそもそも神の立腹」と謂われた所以となりました。大小の戦いに明け暮れた歴史の中にあって、歴代の天皇はひたすらに三種の神器を護持する役目のみに専心する時代であったということが出来ます。

 一九四六年、昭和二十一年一月、昭和天皇は天皇制史上最も重大な詔勅を出されました。「古事記と日本書紀の神話は日本皇室と関係がない」と断言されたのであります。神武天皇以来昭和天皇までの二千七百年の神倭皇朝は皇祖である天照大神を表徴する三種の神器の中の八咫鏡(やたのかがみ)と共にあるという天照大神の神勅(古事記・日本書紀)によって天皇制は国是として定まり、一貫してその掟の下に日本の政治体制は定められて来ました。政治という権力の座にはいろいろな人々が入って来ました。けれど日本民族の通念として天皇制は全面的に肯定されて生き続いて来ました。大戦争後の敗戦の結果とは言え、二千七百年間続いた日本という国の国柄を全面的に否定された事は歴史上の大転換を意味します。「綸言(りんげん)汗の如し」とあります。天皇の詔勅は一度発令されたら取消しは出来ません。ここに於て、日本の国家も、天皇の位も一挙に消失したと言っても過言ではなくなりました。この昭和天皇の詔勅の意味する所を日本民族のアイデンティティーの基盤から真実を把握している人は広く国民の中にも、皇室は勿論、歴史・国語学者の中にも恐らく一人もいないのではないか、と思われるのであります。

 仏教に正法・像法・末法の説があります。略して正像末の三時ともいいます。正法時とは釈迦がなくなった後の五百年間の事で、仏の教えと修行とその証が共にあって、仏の教えが世に行われている期間の事と辞書にあります。次の像法の時とは、正法の次の千年間のことで、教えと修行はあるが、それを実行して証果を得る者がいない時代のことです。末法の時とは釈迦の入滅後、正法・像法につぐ時期で、仏法滅尽の濁悪の世の中のことであります。平易に言いますと、正法とは仏がい、またはいるが如く仏を慕い、その教えがそのまま世の中に行われていた時代、像法とは生きた仏の記憶が去り、仏像を拝み、御利益を得ようと励む時代、末法とは仏の教えも行も世の中から遠いものとなり、仏教そのものが世の中と関係ないものと思われるようになった時代ということです。

 この仏教の正像末の考えを日本肇国より現在に当てはめて見ましょう。聖の集団が言霊原理を保持してこの日本に於て国家を建設してから、邇々芸・彦穂々出見・鵜草葺不合の三皇朝時代は、言霊布斗麻邇の自覚者である天皇が連綿と皇位につき、その原理のままに世の中に政治が行われ、平和と繁栄の社会が続きましたから、これを正法と呼ぶことが出来ましょう。次の神倭皇朝の時代は言霊原理は伊勢の神宮奥深くに信仰の御神体として祭られ、その信仰の下に国家が成立していましたから、(仏教の仏像を礼拝する如く崇めましたから)、これを像法時代と読んで然るべきものといえましょう。

 昭和二十一年の昭和天皇による「古事記・日本書紀の神話と皇室とは無関係である」との断言的詔勅は、その像法的信仰としての天皇と国家との関係をも否定し去ったことになりました。正法としての言霊原理の自覚も、また像法としての三種の神器を御神体とする伊勢神宮の大神主としての信仰の国家元首の立場も天皇とは関係ないものとなりました。一万年乃至八千年続いた言霊布斗麻邇の真理に基づく、民族のアイデンティティーと同一であった天皇の地位は完全に消滅し、人間天皇を宣言した天皇となりました。天皇制を支える一切の精神的なものが失われたのです。この事は天皇制に関する文字通りの末法の到来となりました。約二千七百年、百二十四代続いた神倭皇朝はここに終焉を遂げたのであります。日本国は肇国以来初めて天皇空位時代を迎えることとなりました。

 昭和天皇に次いで現在の天皇が即位しました。年号も平成と改められました。平成という時代の名前が何処からとられたのかは忘れてしまいましたが、その名を聞いた時から筆者は「平民と成る」ことだ、と直観しました。古事記と日本書紀の神話との関係を断った天皇家としては、「平民に限りなく近く成って行く」事以外は存在する所はない筈ですから。最近の紀宮内親王の御結婚の報道を見てもお分かりになるように、天皇・皇后両陛下は全く平民と座を共にされ、私達国民の娘を持つ両親が、その娘の披露宴におけると同じように座に着かれた事であります。その和やかそうな雰囲気をテレビの画面で見て、何となく「ほっ」とした気持で、新郎・新婦と共に天皇・皇后両陛下をも祝福したい気持を持ったのは筆者だけではなかった筈であります。

 天皇という法制上の地位は「国民統合の象徴」という文章で憲法の中で規定されています。この憲法上の文章の意味がどういうものなのかは別にして、実際には一国民となられた天皇が憲法によって「象徴」と呼ばれる国家の憲法が定める特殊な役職に就かれているということでありましょう。紀宮様の御結婚式の和やかさを見聞きして、「国民統合の象徴」の意味がどうであれ、天皇と国民との関係がこの様に親しみのあるものであれば、「まぁまぁ、良いのではないか」と国民の大多数の人々は思うことでしょう。筆者の私もそう思って何処が悪いのか、と疑りたくない気持があります。でもふと日本人という立場に帰ってみると、天皇家と国民との関係、日本民族が世界人類に対しての使命、過去一万年の国の歴史が国民の心の深層から語りかけて来る声と天皇家、等々の考えが雲の如く起こって来ることを止めることが出来なくなって来ます。大きな矛盾が余りにも多く有り過ぎます。しかも日本国民の中の有識者の大多数がその矛盾に一顧だにしていないことが気になります。

 国民一人一人の心の矛盾はその日、その日の対応で事なく済ませるかもしれません。けれど肇国以来一万年という長い年月の間に培って来た国家・民族の生き方をただ便宜的に変更して、そこに生じ、年月と共に増大する精神的矛盾を省みることなく放置するならば、何時の日か、手に負えない混乱を惹き起こすことは必定です。これから今もって誰も気付かない日本国の抱える矛盾について例を挙げて説明することにしましょう。

 先ずは国歌「君が代」を例にとりましょう。会報百三十六号「君が代」(言霊学随想)を参照下さい。

 君が代は 千代に八千代に さざれ石の いはほとなりて こけのむすまで

 右の国歌の中の「君」とは誰のことか、と聞けば「国歌の中にあるのだから、君とは天皇を指すのだろう」と誰しも思います。その天皇の代が千代に八千代に永遠に続くということです。ここに既に矛盾があります。現在の日本は憲法によって主権在民ということになっています。ですから厳密に言えば、国歌の中では「君が代」でなく「民の代」であるべきです。そんな細かいことは差し置いて、言葉の語源から国歌の内容を考えてみましょう。

 君(きみ)の語源は伊耶那岐・伊耶那美のキミです。「古事記と言霊」の「禊祓」の章をお読み下さい。伊耶那・伊耶那の二神が一体になった姿を伊耶那岐の大神と呼びます。この神は宗教で謂う最高創造神として、人類の文明創造の神です。黄泉国(よもつくに)、即ち外国から生まれて来る種々の文化(国歌の中でこれを「さざれ石」と言います)を吸収して、これを光(霊駆り)の言葉である日本語で表現することによって、新しい生命を与え、世界文明の中に(いはほ、五十音言霊図)の中に所を得しめる、これが伊耶那岐の大神の文明創造の内容であり、同時に日本天皇の自覚の内容であることを国歌は教えています。正法時の天皇(スメラミコト)は実際にこれを行う自覚がありました。像法時の神倭皇朝百二十四代の天皇はその可能性を将来に期待する信仰を持った人でありました。しかし、日本伝統の天皇としての内容をすべて失った末法時の天皇は、この語源との矛盾に如何に対応すべきか。日本の将来を考える人は、先ずこの一事に注目すべし、と思われます。

(次号に続く)