「コトタマ学とは」 <第二百十号>平成十七年十二月号

   言霊学の歴史 その二(前号に続く)
 五、この文明創造の方針の大変革に当って、日本の政府では種々の準備に万全を期しました。そのいくつかの例を次に列挙することにしましょう。

  A.言霊の原理の自覚を表す三種の神器(鏡・曲玉・剣)は、代々天皇の御座所近くにおかれていました。二千年前、崇神天皇の御代、三種の神器を伊勢五十鈴の宮に天照大神という神様としてお祭りして、天皇から切り離してしまいました。この事実は「日本書紀」崇神天皇の章に詳しく載っています。天皇が実践智の鏡である言霊の原理の自覚を失ってしまったことを意味します。この歴史的事実を「天皇と神器との同床共殿制度の廃止」と呼んでいます。

  B.言霊の原理はただ世の中から忘却されたのではなく、物質文明促進のため、一定期間、方便のため世の表面から隠されたものです。だから物質文明が進歩し、完成に近づいた時には、再び日本人の脳裏に蘇ってこなければなりません。そのための施策が色々講ぜられたのです。

   C.三種の神器のうち、特に八咫鏡を天照大神としてお祭りした伊勢の神宮の本殿の構造を現代まで「唯一神明造り」と呼んでいます。その建築構造は、時が来て言霊の原理からみると、アイウエオ五十音図にそっくりそのまま写しかえることが出来るように造られています。五十音の言霊を並べて人間の精神の理想構造を表したものを器物として形どったのが八咫鏡なのです。唯一神明造りとはただ一つの神の内容が明らかとなるよう造られたもの、という意味です。例えば神宮の最高の秘儀として尊ばれる本殿下の「心の御柱」を初めとして本殿の構造、千木、鰹木に至るまで、言霊の原理に則って形づくられています。

  D.宮中の重要な儀式の中に言霊の原理は巧妙に取り入れられました。例えば先に行われた天皇一代に一度の大嘗祭や、天皇の子が皇太子として立つ儀式の一つである壺切りの儀など、今では宮内庁の人々でもその意義が分からなくなってしまっていますが、言霊の原理からみると、どうしてその様な形式で行うのかが一目瞭然となります。日本人の宝である原理を儀式の形で後世に伝えようとしたわけであります。

   E.そしてこの章の主題である「古事記」・「日本書紀」の神代の巻の神話も、以上お話してきました趣旨に基づいて編纂されたものです。崇神天皇が言霊の原理を信仰の対象として神様に祭ってしまって七百年、言霊の原理は名実ともに日本人の意識から完全に忘れられようとしている頃、方策の最後の手段として計画され編纂されたのが「古事記」・「日本書紀」だったというわけです。
言霊の原理は、将来の日本人の意識に甦る時に供えて確かに後世に伝えねばならず、そうはいっても当面の方針に従って明らさまに書くわけにいかず、当時の聖達はさぞ苦心したことでしょう。その結果、神話という形で言霊の原理の詳細を遺すこととしたのです。その苦心は見事に「古事記」・「日本書紀」の神代の巻としてまとめられました。今、言霊の原理がはっきりと解明され、理解された眼で記・紀の両書を読みますと、一字一字、一行一行驚くべき新鮮さで心の中に神話の物語が元の言霊の原理となって甦ってきます。最初の「天の御中主の神」から五十番目の「火之迦具土神」までが、それぞれ言霊の五十音を表徴した神名であり、五十一番目の金山毘古の神から百番目の須佐男の命までが、言霊五十の運用法なのであることが明らかに理解されてくるのです。

 しかも最初の五十の神々が五十音のどれを表すかの要点は、宮中の賢所に二千年間保存されてあったと聞きます。賢所とは文字通り世界中で最も賢い所であるということがいえましょう。

 「古事記」や「日本書紀」の神代の巻の神話が、日本固有の学問である言霊の原理の教科書なのだという筆者の主張に対して、当然起って来る疑問に対する解答をお話してきました。これをお読みになった読者の中には「そんな話は日本のどんな歴史書にも載っていない」と眉に唾される方が多いことでしょう。ただ話を聞いただけではそう思われるのも当然のことです。しかし、もし読者が「古事記」の示す天の御中主の神言霊ウ……と、先に心の先天構造の項でお話したことを読者ご自身の心の中に分け入って確められるならば、そして言霊の原理が確かに生きている人間の心の構造を明らかにしている事実に気付かれるならば、この本に書かれたことが真実かも知れない、と思われるに違いありません。それらの証明は、この章の次からお話いたします事柄の数々によって、確めていただきたいと思います。

 さて、今まで言霊の原理が世の中の表面から隠されてしまったことについてお話をしてきたのですが、それなら、隠されたものがどんな経緯で今お話しているような言霊の学問として蘇ってきたのか、ということになります。隠されたものが、真に二千年の長い間隠されていたのですが、それがこの世に現われる歴史については次項「言霊学の歴史 その三」としてお話することにします。

 (次号に続く)


   日本と世界の歴史 その十

 先月号の終りに「来月号より今日以後の日本と世界の歴史がどのように展開して行くのか、その実際について話を進めて行くことにします。御期待下さい。」と申しました。その後、今から展開して行く日本と世界の将来について、どのように話を進めたら皆様により確実に理解して頂くことが出来るか、を考え、三つのキイ・ワードに集約することを決めました。その三つのキイ・ワードとは次のようなものであります。

 第一、現在の日本の皇室(約一万年程の昔「人とは何か」の精神的全貌を解明した聖の集団が高天原と呼ばれる地球の高原地帯よりこの日本列島に天下って来て、その把持する言霊布斗麻邇の原理に基づいて人類の生活に最高理想の社会文明を建設しようとの意図の下に、人類の文明創造の永遠の計画を立て、活動を開始して以来、その聖の皇朝は邇々芸皇朝、彦穂々出見皇朝、鵜草葺不合皇朝と続き、更に二千六百余年前より神倭皇朝となり、現在の平成の天皇に至るまでの、所謂皇祖皇宗の営みが如何なる経過を辿って来たか、また現天皇家がおかれている立場は如何なるものであるか、を明らかにすること、これが第一のキイ・ワードであります。)

 第二、モーゼとその霊統を継ぐ霊能者達(三千年余前、ユダヤ王モーゼが日本の朝廷に於て鵜草葺不合朝第六十九代神足別豊鋤天皇より天津金木の原理、彼等の所謂カバラの原理を授かり、その原理に叶う人類の第二物質科学文明の建設と、その成果より手にする力を以って世界を再統一するという使命を担い、孜々営々その任を全うせんと世の陰に於て活動し、今日までにその任務を略々遂行・完成させた所謂キング・オブ・キングズの現在と今後の活動の様相を明らかにすること、これが第二のキイ・ワードとなります。)

 第三、コトタマの会(神倭朝第十代崇神天皇により言霊布斗麻邇が神として伊勢神宮に祭られ、言霊学の内容が日本と世界の表面から隠されて千九百年後、明治天皇が皇后様と共に、山腰弘道氏を従えて言霊原理の復活に当たられてより百年、皇祖皇宗の人類文明創造の規範原理である言霊布斗麻邇の学は山腰明将氏、小笠原孝次氏によって復活の事業は進み、現在当言霊(コトタマ)の会がその原理、人類永遠の、唯一の秘宝を継承・保持しています。この言霊の会が今何を考え、何事を成さんとするか、を除いては、少なくとも現在の所、日本と世界の今後の動向を語ることは出来ません。これが第三のキイ・ワードとなります。)

 考え出されました三つのキイ・ワードとは以上の三点であります。この三つの立場から、言霊原理を鏡として見る時、現在の人類が置かれている状況、その状況をもたらした過去一万年の原因を明らかに見極めることが出来ます。そしてその状況に歴史創造の新しい息吹、即ち天津太祝詞音図の八父韻の並びタカマハラナヤサによって組直すならば、一転の齟齬もなく人類を新しい第三の文明時代に導くことが可能な道を皆様にお話することが出来る、と筆者自身十一月の講習会を楽しみにしていたのでした。

  十月の講習会の後、何人かの立て続けの訪問を受けました。それらの人々から「歴史を創造するとはどういう事ですか」「歴史を創造するという言葉の意味が今一つピンと来ないのですが、……」という言葉を聞きました。その事から私は「ハッ」と思い当たることがあったのです。

 「対岸の火災視」という言葉があります。実際には自分達の身の上に重大な影響を与えることとなる問題であっても、それを自分事(ごと)とは思えず、まるで他人事と思ってしまっていることを言った言葉です。原爆戦争の恐怖、大気圏オゾン層の問題、地球温暖化の問題、教育崩壊の問題、どれをとってもこのままでは人類社会は駄目になってしまう、と思わない人は余りいない筈です。にもかかわらず、誰も自分自身が何とかしなければ、とは思っていません。どうしてでしょうか。一つには問題が余りに大きすぎて、自分一人何とかしようとしてもどうしようもないと初めから諦めてしまうからでしょう。またはそれらの問題が今日、明日の事ではないと思われる為かも知れません。

 「歴史創造」の問題も右と同じに考えて、自分の身に余る問題だと直ぐに考えてしまう為かも知れません。若しそう考えるとするなら、それ等の人達に「言霊学から見た日本と世界の歴史はこのように展開して行くよ」という話をしても「あゝ、そうなの」で事は済んでしまうことになります。この時、その人は自分達が住む地球上の出来事も「明日になれば太陽は昇るよ」式に受け取ってしまうに違いありません。どうしてそうなってしまうのか、を考えなければならない、と思われます。そうなってしまう原因を明らかにした後で、歴史創造の話をするべきだ、という事となりました。そこで、お約束した今後の歴史の実際の話は少々お待ち頂いて、「対岸の火災視」の内容をはっきりさせ、孤立無援の何の力もないように思える自分でも、日本の、そして世界の歴史の創造に参画することが出来る道があることを明示した後で、改めて今後の歴史の話をすることにしました。御了承を御願い申上げます。

 さて、毎度お話することですが、人が住む境涯に五段階があります。母音で表すと、ウ(五官感覚に基づく欲望)、オ(経験知)、ア(感情)、エ(実践智)、イ(言霊原理、創造意志)の五境涯です。言霊ウとオの次元段階にある人は物事を自らの外、即ち客観的に見聞きし、考えます。この客観的思考では日本や世界の歴史の問題は単なる物語として自分自身は関与しないものと受取ります。ただ自分と自分の身内に関係する社会的問題だけに反応するに過ぎません。ですから「歴史を創造する」という言葉は何となく分かるようで気分は全く乗って来ないでありましょう。歴史は社会的に造られて行くものであって、自分自身がこれに関わるものではない、というわけです。

 それでも、事が自分一人の生涯(の歴史)、または自分の家庭の行き先(の歴史)ということになると、歴史を自分のことと考えるのではないでしょうか。自分は一生をどう生きたいか。自分の家庭はどんな希望と計画を持って暮らしたいか、となると、歴史の創造という言葉は何となく自分と結び付いて来ます。それは事が自分の主体性と関わるからです。そしてその主体性とは感情、即ち言霊アの段階のものであることを知ります。

 言霊ア・オ次元の所産である宗教・信仰はこの時代に如何なる影響を与え得るでしょうか。かって宗教・芸術の領域の主宰神である月読命は産業・経済の主宰神である須佐男命と協力してこの社会を統治しました。須佐男命は物質世界を担当し、月読命は精神世界を受け持っていました。ところが、世界に産業革命が進むにつれて、人々の物質的方向への関心が高まり、それに反比例する如く、人々の宗教信仰への関心は低下する一方となりました。宗教心は人間個人の安寧に力を示すことはあっても、国家や人類の危急に答えることは不可能に近くなりました。

 自分自身に関係ない他人、国家、世界の出来事に「幸あれ」と真剣に考え、祈る事が出来るのは、言霊のア次元の感情が宗教でいう愛とか慈悲の心として発現する時です。自分はほとんど何もしてあげられない、けれど「可哀想だ、仕合せに、」と祈らずにはいられない心、それは宗教心、信仰心です。この心は世界人類の一員である自分、神の子である自分、と同時に世界中の神の子としての人間の幸福を祈らずにはいられない真摯な心であります。けれどこの言霊アの境涯の中からも日本と世界の歴史を創造する心は発現し得ません。真の宗教心は世界人類と同根同仁の心を持つことは出来ますが、その世界をどの様な将来に創造して行くか、の智恵は言霊アの次元からは発現することはありません。以前、福井の永平寺の偉いお坊さんの日常生活がテレビで報道されたことがありました。私はその番組を興味を持って一時間近くを見たのですが、その世の中を知り尽くしたようなお坊さんの口から世界人類とか、人類の歴史とかいう言葉が一言も聞かれなかったことを覚えています。何故なのでしょうか。言霊アの次元は人類愛を持つことは出来ますが、その人類の将来を如何に創造するか、現在の懸案を如何に処理するか、の事となると、お坊さんが「煩悩」として否定して来た言霊オの経験知識、所謂「学問」の世界へ下りて行かなければなりません。学問の論争の世界へ再び帰らねばならないからであります。

 結局人類の「歴史を創造する」という言葉を理解し、身を以って実践することが出来るのは、生命創造意志である言霊イの次元と、その言霊原理を活用する実践英智の次元である言霊エの次元を自らが境涯とする立場だけということになります。人間の純粋感情である言霊アの立場に立って愛と慈悲の心で人類の全体と自分とが一体である共感を体験したならば、その愛と慈悲の次元の内容である言霊イとエの次元の言霊学を理解した時、人はこの世の中にあって自分の身を処理し、自分の家庭生活を営むと同様に、人類全体の問題に対処して人類文明の歴史を推進し創造することが可能となります。この立場に立つ人を天津日嗣スメラミコトと呼びます。天津日とは人間精神の先天構造原理である言霊布斗麻邇の原理のことであり、嗣とは継承保持するの意であります。太古の天皇(スメラミコト)もそのような人でありました。スメラミコトとは命(みこと)を統(す)べるの意であります。人類を構成する人間一人(ひとり)一人はみなこの世に生まれて使命を持って生きています。それら一人一人の命にそれぞれ所を得しめ、その上で人類全体の調和が保たれるよう統べる人の意であります。人類の第一精神文明時代のスメラミコトがそうであった如く、今、開かれようとしている人類の第三文明時代の創造責任者も同様の自覚者でなければならないでありましょう。

 このようにお話すると、「スメラミコト」なる人は、努力に努力を重ね、人間として今までにない新境地を拓(ひら)いた人、または何処からか地上に舞い降りた神様の如き特異な超人間的人物であろうと思われるかも知れない、としたらそれは全くの誤解です。何故そう言い切れるのか。それは日本人の大先祖が私達に遺したアイウエオ五十音言霊学というものが平凡な人間の心の全構造とその動きを説いた学問だからであります。この学問を修得したからといって、超人間的な偉い人になる訳がありません。自分という何といって取り立てる所のない人間の心の構造を知った、というに過ぎないのですから。またこれもよく聞く話ですが、「言霊学というのは世界人類を統治するスメラミコトの学問であって、私達自分の幸福のことばかり考えている人間には所詮及びもつかない高処(たかみ)の学問なのだ」というようなことも見当違いの考えなのです。

 人間はこの世に生まれた時から基本的に五つの性能を授かっています。言霊ウ(五官感覚に基づく欲望性能)、オ(経験知性能)、ア(感情性能)、エ(実践智性能)、イ(生命創造意志性能)の五性能です。この五つの性能は人がその性能を意識的に知っても、知らなくても、この社会の中で生きて行くのに十分間に合うように働いて呉れています。「そうなら言霊学を学ばないでもいいではないか」と思われるかも知れません。でもそれは暴論というものです。特に現代の如く教育が偏跛になり、知識偏重の時代では、自分達だけの幸福しか望んでいない、という家庭にも教育頽廃の波は打ち寄せて来ます。テロや暴力行為も他人事では済まされない事態になって来ました。今の世の中は何処かおかしいのです。だとしたら今、何とかしなければならないではありませんか。

 そこでちょっと考え方を変えてみて下さい。一つの例を取り上げましょう。何か自分または家族の身の上にトラブルが起ったとしましょう。自分(達)のことですから何とか処理しなければなりません。こっちへぶつかり、あっちにぶつかりしながら、自分の持っている経験知を総動員して考えます。それで円満解決なら目出度しです。もし解決出来なかったら、方法を変えて言霊学にお出まし願ってみたらどうでしょう。「言霊学にお出ましを」とはどういうことなのでしょう。それは処理しなければならない事態に対処する自分の心を言霊学の法則に従って考えることです。

 子供が登校しなくなりました。聞いても答えてくれません。親の目で見れば、それが勉強が分からなくなってしまったとか、いじめだとか、……であることは分かりましょう。ではどうしたらよいか、となると中々難しい事となります。この時、そのトラブルが言霊学でいうウの次元か、オの次元で起っている、と気付くことから始まります。言霊ウとかオとかの言葉が出て来れば、それは言霊学の法則によって考え出したことになります。

 親はそれまで言霊ウの欲望の世界や言霊オの学問の世界では、他人にそれ程遅れをとるとは思っていませんでした。自信もあったのです。けれど今回の子供の出来事でその自信も吹き飛んでしまいました。どうしたらよいか、分からなくなりました。この時です、言霊学の門をくぐるのは。「自分は今まで自らの力でこの世の中を乗り切って行く力を十分持っていると思っていた。けれど今回の子供の事件でつくづく自分の無力を思い知らされた。この無力な自分が今日まで大過なく暮らして来られたのは、ウとオを常に抱くように慈しみ愛して下さっている言霊アの自分の生命の次元のお陰に他ならない。今日まで生きて来られたこと自体奇蹟だったのだ。何と有り難いことであった」と知ることとなります。この親は言霊学五つの母音の中のウオアの三母音を知ったことになります。

 右の心中の出来事は、宗教でいえば信仰の態度ということになりましょう。しかし、この親である人は、信仰を事としたわけではありません。「神」なる言葉も使いません。言霊ウ・オ・アの三音を以って信仰の何たるかを見事に体験・自覚したことになったのです。言霊学の中身に一歩踏み込んだことになります。そして言霊学の言葉で自分自身の心の内容を検証した事は、この人自身の魂に百八十度の転換が起った事ともなります。「えっ、ウオアの三つの母音の内容だけを知ることがそれ程重大なことなのですか」といぶかる方もいらっしゃるでしょう。そのことについて少々お話申上げましょう。

 「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と共にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬(よろず)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。これに生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。」(ヨハネ伝一章)先月号にも取り上げましたヨハネ伝の言葉です。またこの言(ことば)とは言霊である、とも書きました。太古、言霊(ことたま)のことを一音、霊(ひ)とも呼びました。言霊が活動すること、それは霊が走る霊(ひ)が駆(か)ける、で光(ひかり)となります。言霊は人の心の今・此処に於て「魂の光」として活動して万(よろず)の物、即ち森羅万象を生みます。二千年以前、神倭朝第十代崇神天皇が方便として言霊原理を世界の表面から隠してしまって以来、日本も世界も世の中は精神的暗黒の闇に閉ざされました。貧困、飢餓(きが)、戦乱、病災、交々(こもごも)起り、お釈迦様は八苦の娑婆(しゃば)と呼びました。すべては社会から「光」が消えたがための出来事です。その光が、言霊原理が漸くこの世の中に戻って来ました。「みたまあがり、去にませし神は今ぞ来ませる。魂箱もちて去りたるみたま、魂返へしなせそ」(石上(いそのかみ)神宮鎮魂歌)。今、その魂箱である言霊五十音原理の「さわり」の母音ウオア三音によって自己の心の構造を検証した人は、復活した言霊の「光」を世に先駆けて真実の光の灯(ひ)を高々と頭上に掲げた方々なのです。人類の二、三千年の暗黒の歴史の中から因縁によって奇しくも一人立ち上がり、言霊の灯の下に新しい光明の時代を築くパイオニアとして光の中に飛び出すことが出来た新しい歴史の創造者なのです。

 宗教信仰は言霊アの世界へ人を導きます。この境涯は限りなき愛と慈悲の心で人を包んで下さることを知ります。それ故に自らも他人を限りなく愛と慈悲の心で接しなければ、と決意します。けれど前に申しました如く、この愛と慈悲は人対人との間のみであり、人対人類、人対世界の問題には観念のみの祈り以外、何の実効ある行動を教えてはくれません。それ以後の行動と判断の指針は世界でただ一つ日本の古神道、言霊布斗麻邇の学の独擅場(どくせんじょう)なのであります。古事記の言葉を借りて言えば、科学は須佐男命、哲学・宗教・芸術は月読命、そして言霊布斗麻邇こそ天照大神の実体なのであります。

 言霊はすべて五次元の中の言霊イの次元に、時間としては今(イの間)に、場としては此処に生命(いのち)(イの道)として存在し、活動しています。言霊イの次元には言霊以外のものは存在しません。人類は幾十億いようとも、イの次元に於てはただ一つの共同体なのです。この消息に精通するまでは理解し難いかも知れませんが、言霊原理に即した如何なる言葉も一度理解し、これを言葉として表現したならば、全世界の人々の魂の中に光の活動となって影響を与えることとなります。その人は既に新しい歴史創造の担い手なのです。受け取る人の意識がそれを知る、知らないに関わりなくであります。言霊のウオアの三母音によって自分の生命のホンの一部でも検証することが出来た方は、ご自分の良心に従って検証を続け、母音の階段を更に登って行かれる事を希望します。そしてその人の居る場がそのまま光の発信所となります。大声で演説することも、デモることも、共同して何かすることも必要ありません。

 話が随分長くなりました。これが私の「歴史創造」の話の前提条件となります。今後の新文明時代創造の話を聞いて下る方々が、右のような人達であると認識し、希望して話を進めようと思います。実際の歴史創造の話が一ヶ月先送りされてしまいました。御了承くだされば幸いであります。次号では三つのキイ・ワードの内容を年代順に並列させた年表を描き、歴史の現在をそのイラストと参照しながら日本と世界の歴史の今後のお話をすることといたします。

(次号に続く)