「コトタマ学とは」 <第二百九号>平成十七年十一月号

   言霊学の歴史 その二
 日本の古典である「古事記」や「日本書紀」の神代の巻は、単なる神話ではなく、神話の形式を借りた言霊原理の手引書であり、教科書なのだということを前項、前々項でお話をしてきました。「古事記」は七一二年太安万呂により、また「日本書紀」は七二〇年舎人(とねり)親王らにより撰上されたものです。

 「もしそうなら、太安万呂や舎人親王たちは何故に言霊の原理をそのものズバリと書かず、神話の形式をとったり、煩雑な神様の名前などを使ったりして、全く廻りくどい方法を用いたりしたのか?」という疑問が当然起ってきます。

 それが民間の一個人の書いた小説や民話のようなものならともかく、「古事記」や「日本書紀」は、その当時の行政府の事業として計画され、完成されたものであることが記されています。とするなら、その記述が言霊の原理そのものを明らさまに書くことなく、神話の形式をとって、一見謎々のような文章にあえてしなければならない確乎とした理由があったに違いないのです。しかも、暗示している対象の言霊の原理は、人間の精神の究極最高の真理であり日本語の原典なのです。

 この事情を歴史学的に説明しようとしますと、少なくともこの本一冊分くらいの紙数が必要となりますから、ここでは結論を手短にお話するに留めることにしましょう。箇条書きにすると、次のようにいうことが出来ます。

 一、大昔、日本人の祖先の長年の研究の末に人間の心の構造が解明され、アイウエオ五十音言霊の原理として完成されました。

 二、その原理を保持した聖の集団が地球の高原地帯からこの日本列島に渡って来ました。そして、まず、原理に基づいて日本語を作ったのです。また、その日本語が表現する実相そのままの社会・国家体制を築き理想の精神文明を創造しました。

 三、精神文明の成果は世界中に伝播し、地球上には数千年にわたって精神文明繁栄の時代が続いたのです。世界の各民族に今なお現存する神話は例外なく「大昔、精神的に豊かな平和な理想時代が存在した」ことを伝えています。これらは事実存在した精神時代を、神代という表現で後世に伝えたものなのです。

 四、歴史のある時点に、その時までの精神文明に次いで物質文明の創造が急務であることを感じた聖の集団は、精神文明の基礎である言霊の原理を一定の期間、方便として世界の人々の意識から隠してしまう方策を決定したのでした。なぜなら物質文明は生存競争の場においてのみ、その創造は促進されるからです。物質科学研究は弱肉強食の競争社会において、最も急速な進歩を遂げることは現代人がよく認識するところでしょう。平和・互譲の精神時代は方便として終焉を告げることとなりました。三千年程前、日本からの精神文明の輸出は停止され、二千年前、日本においても言霊原理の社会への運用は完全に停止されてしまいました。

 (次号に続く)


   日本と世界の歴史 その九

 前号に於て人類文明創造の歴史の大きな節目となる二十世紀の世界の状勢について解説いたしました。神選ユダヤ民族の責務である人類の第二物質科学文明の建設並びにその科学の成果による人類全体の再統一という二つ仕事がこの二十世紀の終わりまでに略ゞ完成した事の確認であります。

「物とは何か」の解明に当った物質科学は、二十世紀に至って物質の根元要素である原子核内構造の究極要素として十六個のコークを発見しました。原子核内エネルギーの解放は日常のものとなりました。また人間生命の肉体における究極の遺伝子DNAのすべてを解明することに成功しました。生命の客観方向への探究は見事に成功を収めました。人類はまた科学の夢であった宇宙への旅を現実のものとしました。更にIT技術の進歩は人間の社会全体との関係を根底から変革する勢いです。現在進行中の情報機器の発明競争は日進月歩で、その行末は計り知れないもののようであります。

 以上の如く、科学の猛スピードの技術進歩は人間社会に今まででは想像も出来なかった便利さをもたらしましたが、その便利さの裏側で、これも今までの人類が経験したことのない恐怖の落とし穴が待ち構えていることを感じないわけには行きません。謂わく「核戦争」、「大気汚染」、「異常気象」、「教育破壊」、「クローン人間」……。便利人間で寿司詰めの特急電車の暴走は脱線事故発生寸前の様相を呈しています。

 ユダヤの第二の使命、これ等便利機械の産出する巨大な金力・権力・武力を手段とする世界統一の仕事も終着点へ一歩々々と近づいています。と同時にその便利世界の恩恵からこぼれた人達の狂気の抵抗は恐怖のテロとなって悲惨な殺傷が繰返えされてもいます。ここにも二十世紀が醸し出した悦楽と恐怖の地獄相が展開しています。

 以上のような最終目的に達しようとする直前の騒乱にも拘らず、ユダヤは自らの使命の完全達成へ向って突進することでしょう。かくて三千年程前、葺不合朝六十九代神足別豊鋤天皇がユダヤ王モーゼに命令、委託したユダヤの使命、第二物質科学文明の建設とその富による世界人類の再統一の仕事は略ゞ二十世紀末までに終了し、その事業が次の世に遺した栄光の光と影を如何に処理し、次に始まる人類の新文明を如何に設計するか、が二十一世紀の人類の課題だということが出来るでありましょう。

 更に言い換えますと、二十一世紀に入った現在とは、人類が過去に開発して来た第一精神文明と第二物質科学文明の双方の文明時代の因縁を背に負って、この二つの文明が相結んで二つながらに新しい文明時代を建設して行く人類の作業が始まる時であり、始めなければならぬことを人々が厳粛に認識すべき時だ、ということが出来ます。

 この事実に関して、当会会報第十二号(平成元年六月二十日発行)の最後の頁、「雑感」の文章を引用します。


 「雑感」出雲風土記意宇郡の章に「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)……今は国引訖(くにひきお)えぬと詔(の)りたまひて意宇(おう)の杜(もり)に御杖衝(みつえつ)き立(た)てて、意恵(おえ)と詔(のりたま)ひき」とある。水臣津野命は須佐男命の系統の神である。御杖とは人間天与の判断力、軍隊で言えば指揮刀である。意宇とは言霊オ(科学)とウ(産業)のこと。国引とは世界統一である。大国主命即ちエホバ神(神選民族)が科学と産業を手段として世界統一を成就する時が近づいた。今世紀中には実現する。その時「意恵(おえ)」と言う。統一後の人類はオウからオエ(道徳)に精神転換する。二十一世紀は科学と道徳の時代である。科学に法則がある如く道徳にも法則がある。日本語のなかに秘められた言霊布斗麻邇である。(この文章は出雲国意宇(おう)郡の名の由来を述べる章の中に見えます。)


 この出雲風土記の神話は、第二物質科学文明の最終世紀である二十世紀に次ぐこの二十一世紀が実現しなければならない言霊オとエを創造の主流に据える心構えをよく表現し、教えています。けれど二十世紀までの人類精神のウ・オの流れを、新世紀に於てオ・エに転換する道はどこにあるのでしょうか。人類の歴史創造の新しい方向を決定するに当って、過去三千年間、人類の精神的支えであった言霊ウ・オ(産業・経済・科学)と言霊ア・オ(芸術・宗教)の性能について検討することにしましょう。

 物質科学を進歩・発展させる原動力は欲望と好奇心です。そしてその探究の方法は物事を自分の外(そと)方向に観察し、調べることです。これを哲学的に表現すると、科学する自分の主体を捨象するという事です。即ち科学する人の年齢、身長、体重、育ち、地位等々は問題にしません。また探究の対象(物)の姿(実相)にも関心を示しません。対象を研究項目によって抽象化します。そのためにこの地球上の社会で生きる人間が、どの様に生きるか、どうすればよいのか、の生きるための合目的性を持ち合わせません。コンピュータの性能が進歩して、人間の仕事の大方を代行することは出来ても、現社会の中で人は如何に生きるか、を教えてはくれません。科学はただ、人間の好奇心が赴(おもむ)くままに、外なる物質領域の当面の姿を開顕してくれるに過ぎないのです。生きた人間の心には常に背を向けている研究なのです。

 言霊ア・オ次元の所産である宗教・信仰はこの時代に如何なる影響を与え得るでしょうか。かって宗教・芸術の領域の主宰神である月読命は産業・経済の主宰神である須佐男命と協力してこの社会を統治しました。須佐男命は物質世界を担当し、月読命は精神世界を受け持っていました。ところが、世界に産業革命が進むにつれて、人々の物質的方向への関心が高まり、それに反比例する如く、人々の宗教信仰への関心は低下する一方となりました。宗教心は人間個人の安寧に力を示すことはあっても、国家や人類の危急に答えることは不可能に近くなりました。

 二十世紀に入って国家間の戦争は多発し、またその生命への脅威は武器の大規模化のために限りなく増大して行きました。それに対して宗教的人道主義の活動は次第に無力化の一途をたどっています。人類の第二物質科学文明の促進のため方便として作り出された生存競争社会の当然の成行きとしての戦争は、単なる人道主義としての宗教心では抑止することが不可能となりました。人類社会の底を流れる世界文明創造という大法則の意識を欠如した宗教心では当然の帰結でありましょう。

 更に心寒く感じるのは、哲学を筆頭として一切の学問が二十世紀が遺した人類の歴史的矛盾、地球全体の危機の実態を把握することが出来なくなっていることです。危機の実状の片隅を針で突くような言挙げはあっても、人類の生命に関する地球全体の実相を見極めようとする力も意欲をも失ってしまっていることであります。更に心細いのは、学者自身がその力がなく、それも追求する勇気も失ってしまっている事を知っていないことでありましょう。「哲学の貧困」、「神は死んだ」のでありましょうか。

 右の観察は私達が迎えた二十一世紀に対しての悲観論を述べるためのものではありません。二十世紀末までに人類が成し遂げた物質科学文明の一応の完成と、その完成が近づく中に起って来た人類社会の矛盾が増大し、二十世紀までに人類の所有する一般の知識では矛盾から創造への転換を望むことが出来ない事、そしてその不可能を心底より知ることによってのみ次の時代に生きる創造の道が開けることを告げ度いためであります。科学が提唱するであろう物質的環境改善への個々の提案は事態の或る面の改善を計ることはあっても、それは事態の一部の糊塗に過ぎず、宗教者からの提案も個々人の思いつき以外の何物でもなく、いづれの案も事態の全面解決をただ先延ばしするに過ぎないことは明瞭なのです。二十世紀が遺した人類社会の矛盾は、人類が過去三千年の創造の影の、そして負の領域が人類の能力では耐え切れない程大きくなり、爆発寸前の様相を呈し始めている証拠であります。影の部分と対面し、直視することが要求されています。この事から目をそらしては二十一世紀を語ることが出来ません。

 人は「今・此処」に生きています。今・此処以外に人は生きられません。この今を「永遠の今」などと呼びます。この今の自覚を求めることが従来の真摯な宗教の目的でありました。禅では「一念普ねく観ず無量劫、無量劫の事即ち今の如し」と表現します。この今に過去の人類の数万、数百万年の営みのすべてが詰まっています。この一切の営みの因縁を「今」に於てご破算とし、本当の自由の立場から過去の営(いとな)みのそれぞれを配置変えして将来を築くこと、これが「創造」であります。この時、過去の因縁の絆(きずな)を断つこと(ご破算)が出来ず、過去の因縁の傀儡(かいらい)(操り人形)となって魂の盲目の道をひた走るならば、人類六十億人は底なしの断崖から自らの足で駆け落ちて行く事となりましょう。昔、ある自殺の名所といわれた海岸の断崖の道に、数メートル間隔に「ちょっと待て、考えろ」と書いた立札が立っていたのを思い出します。(現在はその断崖にホテルが建ち、自殺の名所は昔語りとなりました。)

 二十一世紀に入って五年近くが経った現在、立ち止まり、両足でしっかり大地を踏まえ、栄光の新世紀の歴史の創造について話をすることにしましょう。

 人は「今」に生きています。今・此処が生命の存する処です。これは前にお話しました。考えてみると、今の人々は過ぎ去ったこと(過去)とまだ来ないもの(未来)は考えますが、現在自らが立っている「今」を見ることは不得手のようです。何故か。心が常に動いているからです。自分自身が動いているから、流動する世の中の真実の姿を見極めることが出来ません。世の中の真相を見ようと思うなら、自分自身が立ち止まり、動かないことが必要条件となります。「そうなのか」と頷(うなづ)く方はいても、「動かない」自分になることは至難の業(わざ)かも知れません。素晴らしい音楽に聞きほれている時、美しい景色に見入っている時、自らの心は揺れ動きません。何故でしょうか。それは素晴らしい音楽とか、美しい自然に接することによって、自らの心が永遠なるもの、悠大なるものに接しているからです。そんな時、人は一切の束縛を脱して自由な心に浸ることが出来ます。けれどその自由な自分を意識し得るのは飽くまで限られた時間であり、音楽が終わり、景色から目が離れれば、「元の黙阿弥」心は動きっぱなしの状態に戻ってしまいます。心(こころ)の語源が「コロコロ」だという所以です。

 どんな忙しい時でも、緊急時にも、必要な時は動かぬ心、即ち不動心を自覚しようとするなら、それは宗教の仕事です。修行の方法に二種類があります。他力信仰と自力信仰です。他力とは、いろいろな事に迷い、悩む自らの心を「煩悩」と断じ、煩悩から脱しきれない自分の弱さを思い、その弱さを素直に認め、その弱さにも拘らず生まれてから今まで大過なく生きて来られたことに対しての大きな恩を神仏に感謝し、その感謝の心によって神仏に抱かれている自分を見出して行く事を言います。大きな温かいものに包まれていることを感じる時、人は無限なものに接し、不動心を得ます。次に自力に移りましょう。自力の行も自分の心を見詰めることに変わりはありません。ただ違うのは、その自らを見詰める主体としての自分が、自分本来の仏、または宇宙だ、と信じることであります。そう信じる仏としての自分が日常の自分の行いを見て、その行いの中の他人への批判、好き嫌い、傲慢等を発見し、その原因となる自らの心の中にある経験知識を本来の自分(仏)ではない、「否」と心中で否定して行く業であります。この否定を繰返すことによって、経験や知識は自らの仏の心の道具なのであって、自分ではない、と知り、生まれたばかりの赤子の心、即ち仏であり、宇宙の心に帰って行くのです。これが自力の行であります。他力も自力も行き着く先は仏・神の心、言霊学でいうアの宇宙であります。この母音宇宙を自覚する時、人は心の中にアオウエイの母音宇宙の「天之御柱」が心中に樹っていることを理解するのです。それは人間天与の判断力のことです。禅ではこの判断力を剣(つるぎ)に見立て、「両頭を截断すれば、一剣天に倚(よ)って寒し」などと称えています。

 歴史の話をすると言いながら、宗教信仰の行の話などして頭が狂っているんじゃないか、と思われるかも知れません。けれど人類全体の一つの文明時代が終わり、次の新文明創造に入ろうとする節目の時、先にお話しました如く、ここ二千年来(世界では三千年来)に提唱された一切の人類の学問・技術・思想・主義ではこの節目の意義・内容について何一つ気付かず、それ故に何らの言挙げもなく、等閑(なおざり)視にされています。この重大な事態について一言(ひとこと)で捉える立場を手にすることが出来ない結果、言わざる、見ざる、聞かざるの三猿を極めこんでいるわけです。まずこの事実を明らかにすること、次にこの現在の人類が置かれている重大な立場とその真相を把握するために必要にして充分な立場を先にお知らせしておかない限り、今後の歴史がどう展開して行くか、の予見の内容を理解して頂くことすら期待出来ないことが明らかだからであります。でありますから、これから本会報がお知らせする世界と日本の今後の歴史的な出来事について、どの様な立場にお立ち頂ければ御理解と共に御同感をされ得るか、を前もってお知らせ申上げ度く思うからであります。御了承をお願いする所以であります。

 さて、従来の宗教信仰によって物事を見る目が揺れ動かない立場を手にする事をお知らせいたしました。この立場が確かにある、ということにお気付きになった方は、信仰の目標である愛と慈悲の境涯、心弱き自分を愛と慈悲の目でじっと見守って下さる境域の存在に気付くこととなります。それが言霊学のいう言霊アの世界であることも知ります。そして同時にその愛と慈悲(または美)の次元の先に言霊エ(実践智)と言霊イ(言霊)の次元領域が存在することをためらうことなく認めることとなります。言霊学の殿堂への正式の入門がそれであります。

 宗教信仰は言霊アの世界へ人を導きます。この境涯は限りなき愛と慈悲の心で人を包んで下さることを知ります。それ故に自らも他人を限りなく愛と慈悲の心で接しなければ、と決意します。けれど前に申しました如く、この愛と慈悲は人対人との間のみであり、人対人類、人対世界の問題には観念のみの祈り以外、何の実効ある行動を教えてはくれません。それ以後の行動と判断の指針は世界でただ一つ日本の古神道、言霊布斗麻邇の学の独擅場(どくせんじょう)なのであります。古事記の言葉を借りて言えば、科学は須佐男命、哲学・宗教・芸術は月読命、そして言霊布斗麻邇こそ天照大神の実体なのであります。

 生命は今・此処に於て躍動します。この「永遠の今」以外の場はありません。宗教はこの「今・此処」を教えますが、その今・此処の中に何が存在するのか、何も存在しないのか、を教えません。言霊学だけがその中に何があるか、その構造はどうなっているか、を余すことなく教えてくれます。今、それを簡単にご披露しましょう。詳しくは「古事記と言霊」を御参照下さい。

 今・此処に存在する言霊は母音五、半母音五(ウ音が母音と重複)、父韻八、以上十七言霊は先天構造言霊。更に子音三十二、ン音一計三十三言霊は生命の後天構造言霊。総合計五十個の言霊ですべてであります。この五十個の言霊が秩序正しく存在し、その活動によって人間の精神現象の一切を現出させます。また五十個の言霊は五十通りの活動をして、結論として人間行為の最高の働き、天津日嗣天皇(スメラミコト)の世界文明創造の経綸の原理を顕現します。以上が今・此処に活動する生命の全内容である五十音言霊の説明です。

 「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と共にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬(よろづ)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。これに生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒(くらき)は之を悟らざりき。」(ヨハネ伝一章)言(ことば)とは言霊のことであります。このヨハネ伝冒頭の言葉がいみじくも指摘するように、日本語のすべては言霊によって作られました。言霊のことを一字で霊(ひ)とも呼びます。その言霊が走ること、それが霊駆(ひか)りであり、光なのであります。それ故、言霊を自覚した上での言葉を霊葉(ひば)即ち光の言葉と呼びます。でありますから言霊の自覚による言葉は人の心の一切の暗黒を消し去る力を備えています。光が照れば闇は瞬時に消えます。闇をどこかに追い払ったのではありません。闇は消えたのです。この事は歴史の転換に当り重要な素因となりますので御留意なさっておいて下さい。

 万物は言霊によって作られました。それ故に頭脳の中で、言霊原理の自覚の下に考案され、計画された一瞬の今・此処の物事は、それが明日の事であれ、来年、否十年後、百年、千年の後の事であろうとも、作製された映画のフィルムが何時・何処でもその実際の映像を映し出す如く、この宇宙世界に計画通りに実現させることが可能となるのであります。三千年前、神足別豊鋤天皇がモーゼに命じ、委託した使命が、三千年を経た今日、その計画の言葉の如く実現した実状を近々世界の人々が気付き、驚嘆するであろうことは掌の上を指す如く明らかであります。この言霊原理の言葉の力を昔より御稜威(みいづ)といいます。先に申しましたが、物質科学の研究のメスが物の原子核内に入れられた二十世紀初頭の頃、時を同じくして日本の皇室内に於て明治天皇が皇后様共々、宮中に保存されている記録を頼りに、言霊学の復活の研究を始められた事であります。また同じ頃、大本教々祖出口なお女史が言霊学の復活を世の中に告げんとして、種々の神示の形によって母音、半母音、父韻等々の学問内容を神懸かりで予言した事でもあります。皇祖皇宗の歴史創造の御経綸は言霊原理隠没後二千年近くを経て、正確にその計画はこの世に実現して来ました。これも御稜威のしからしめる業の証明と申せましょう。更に神選民族ユダヤの第二物質科学文明完成と世界の再統一に一応のメドがついた二十世紀より今世紀初頭にかけて、この日本に於て言霊布斗麻邇の原理が理論と共にその精神内の自覚完成が共々出揃って実現したことであります。これも皇祖皇宗の一糸の乱れもない御経綸の御稜威の現われでありましょう。

 皇祖皇宗の御経綸の下では、人類の歴史がその計画通りに数千年にわたって実現されて行く、という事など現代人には全くの戯言(たわごと)としか思えないことでしょう。しかしそれは真実なのです。言霊ウとオの二つの次元の目から歴史を考えるなら、それは戯言と考えて当然のことです。現代人にとって千年どころか、明日の身さえ予測出来ないのですから。けれど人間精神の自覚を進化させて、言霊ア・エ・イの領域に観点を移すならば、今・此処の中に過去と将来を見通すことは掌を指さす程に容易となることであります。と申しても半信半疑でありましょうから、此処で言霊学の一端を説明しておきましょう。

 生命は今・此処に於て躍動を続けています。今・此処以外にはありません。ということは、過去に起った歴史的事実はすべて今・此処に躍動する生命の頭脳に印画され保存されていることです。この歴史の営みの要素々々を、過去を調べる人間の精神の構造を示す赤珠音図の父韻の並び(ア段で示すと、「ア・カタマハサナヤラ・ワ」)の順で並べてみると、純正で正確な人類の歴史が浮かび上がって来ます。この「日本と世界の歴史」の講話の中で述べられた歴史もこの作業によって記述された歴史であります。その記述には個人的な経験から来る意見は一切ありません。人間の生命法則が把握した真実の歴史であります。では今後の歴史の正確な予測は如何にして決定するか。将来を創造する生命の構造の法則、それを父韻で示すと、「ア・タカマハラナヤサ・ワ」となります。この父韻の順序で今・此処に存在する歴史的要素を並べてみると、これから展開される日本と世界の歴史が見通されて来ることとなります。ここにも個人的経験知識の入り込む余地はありません。

 二十一世紀に入って五年、いよいよ今後の日本と世界の歴史を見通す話に入る前の心構えについてお話しました。来月より現実の歴史の個々の分野の予見の話を始めることと致します。御期待下さい。

(次号に続く)