「コトタマ学とは」 <第二百七号>平成十七年九月号
   易経

 人間の精神の先天構造を前章(先月号)のように図で表わしますと、中国から始まったといわれる易をご存知の方はすぐにお気付きになることでしょう。「易の太極図と全く同じだな」と。そうです、同じです。ただ違うことは、言霊図が物事の最小単位の実体である言霊で構成されているのに対し、太極・陽儀・隠儀……という概念用語と―とか−−という数理をもって示されていることです。まず局の太極図と二種類掲げることにします(図参照)。

 易というと現代人はよく大道で見られるように、筮竹(ぜいちく)の数をかぞえて人の吉凶禍福を占うものと考えるでしょう。けれど、この局の教えが今から数千年以前、中国の伏羲(ふぎ)という聖王が始めた東洋哲学の奥義であり、有名な孔子が十翼といわれる十篇の注釈書を書いたことを知る人は少ないようです。

 上に示しました太極図について注釈書には「この故に易に太極(たいきょく)あり。之、両儀(ぎ)を生ず。両儀四象を生じ、四象(しょう)は八卦(け)を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず」と説明しています。註釈に使われている言葉自体が東洋哲学の難しい概念ですから、意味が分かりにくいのですが、易経をよく読んでみると、この太極図が前の章で示した言霊十七個による心の先天構造と全く同じように、何もない宇宙から現象が現われてくる過程を説明しているのだ、ということが理解されます。

 それなら、心の先天の構造を表わした局の太極図と現在行われている筮竹の占いとは、どんな関係なのかを考えてみましょう。

 中国の古代の「左伝」という書物に「聖人は卜筮(ぼくぜい)を(わずら)はえず」とあります。また「筍子」という書物の大略篇には「善く易を爲(おさ)むる者は占はず」と書いてあります。聖人とは、人生の道理について深く悟った人ということでしょう。聖人の聖という字は耳と口の王様と書きます。耳と口と言えば言葉だとすぐ分ります。他人の言葉を耳で聞いて、その意味を正確に判断し、その答えを道理にかなって出す人、ということです。となると、先にお話しました心の先天構造をよく分っている人と同じ意味になりましょう。

 従来の「古事記」の註釈書では「天の常立の神」を「天の確立を意味する神名」と解釈しています。言霊学でみるとどうでしょうか。言霊オとは過去の現象を思い出して、その現象同志の因果関係を調べる、いわゆる経験知の出て来る天の宇宙ということでした。天の常立の神という名前は、この経験知をよく表わしているではありませんか。宇宙大自然(天)を恒常に(常)成立させる(立)実体(神)であると「古事記」は説明しているのです。それは学問・科学そのもののことであります。

 つまり「人の心がよく分かった人は筮竹で占うことはしない」ということです。
 「善(よ)く易を為(おさ)むる者は占はず」も同様な意味の言葉です。易の太極図を心でよく悟った人は、筮竹を使わないというのです。

 聖人は筮竹の占いをしませんでした。聖人の考えることは易の太極図の道理そのものだった、ということが出来ます。中国に孔子・孟子以後、聖人がいなくなりました。そこで、将来の不安から逃れるために筮竹の法が流行し出したのです。 

 さて、日本で天津磐境(あまついはさか)と呼ばれる心の先天構造図と中国の易の太極図とは、原理の上で、また歴史的ににどんな関係にあったのでしょうか。どちらが古くて、どちらが歴史的に新しいのでしょうか。世の大方の人々はもちろん「中国五千年の歴史」といわれ、日本の歴史はたかだか二千年なのだから、中国の太極図の方が古いに決まっていると思われることでしょう。果たしてそうなのでしょうか。何千年の昔のことを明らかにする問題でもあるのですが、その話は後に譲ることにします。ここでは天津磐境と太極図が表現は違っても内容は同じものなのだ、ということだけに留めておきます。 

(次号に続く)

   日本と世界の歴史 その七

 先号会報に於て、鵜草葺不合皇朝より神倭皇朝に移る頃からユダヤ民族の来朝、帰化が盛んになったこと、並びに十一代崇神天皇による言霊原理の社会からの隠没後、民衆の精神的不安に対処して幾多の施設が講ぜられたことをお伝えしました。この二つの事柄はともに日本と世界の歴史をお話するに当り大変重要なのでありますが、それについて意外に現代の歴史学では等閑視されている事があります。そのことについて少々お話してみたいと思います。

 神倭(かむやまと)皇朝第一代神武天皇の頃より中国・朝鮮よりの人々の来朝、帰化が多くなって来た事は既にお話しました。そして厳談の歴史学では、その来朝の人々を朝鮮人または中国人と書いてありますが、実はそれらの国々の人々と混血した更なる西方からの民族の子孫であったのであります。当言霊の会にユダヤ人が時々訪れますが、それ等のユダヤ人の中には、西方のユダヤ、イスラエル国家の滅亡と、東に於ける日本の神倭皇朝の建国が時代的に同時であり、その後の日本文化とユダヤ文化が余りにも似ていることから、日本はユダヤ国家の「成れの果て」だ、と主張してやまない人もいる位です。そんな言い伝えがある程、神倭皇朝発足以来、外国人の来日、帰化の現象は増大し、十五代応神天皇の時以後は爆発的に帰化人が多く渡って来た事が窺えます。

 帰化ユダヤ人の増大と、彼等の持つ経済・産業の能力の優秀さの故に、彼等の日本社会に於ける地位・勢力は無視出来ぬ程に大きくなったことが想像されます。推古天皇の御宇、帰化人東(あずま)の漢(あや)の直駒(あたいこま)は大臣となり、経済的にばかりでなく、政治的にも一大勢力となったことが窺えるのであります。その時代、皇太子でありました聖徳太子の事績について一言お話したいと思います。

 聖徳太子は日本古来の神道(言霊学)に精通し、更に中国の儒教、印度の仏教に詳しく、親しく仏教書の講義をされる程でありました。太子の作った十八条の憲法の第一条「和を以って尊しとなす」は有名であります。この第一条の内容は単に「仲良くする事は大切だ」という意味なのではありません。言霊学の言霊ワの一事の意味をよく知り(言霊ワの説明については「コトタマ学入門」の「事や物に名前をつけること」の章参照下さい)、その上での言挙げとなったものです。太子は皇祖皇宗の布斗麻邇による人類歴史創造の内容を熟知しながら、日本古来の言霊学を秘蔵し、表に仏儒の二教を立て、生存競争社会での人心の安寧を計った第一人者でありました。現代社会の一部の右翼思想家が謂う「日本古来の教えを疎んじ、仏教を礼賛した人」とは程遠い、古神道の英傑であられたのであります。

 次に太子の数多い治績の一つである京都太秦(うずまさ)の広隆寺の由緒書の抜粋を記します。
広隆寺――京都市右京区太秦蜂岡町三六。本尊は聖徳太子。蜂岡山(ほうこうざん)と号し、聖徳太子御願七寺の一、山城第一の古刹。太秦寺(うずまさでら)とも号す。推古天皇の十一年、太子が秦河勝(はたのかわかつ)に弥勒菩薩半跏像を下賜、河勝これを奉いてこの寺を創建。三十年、新羅(しらぎ)、任那(みまな)の二国から贈られた仏像を当寺に安置したことが日本書紀に記されている。秦氏は帰化人の中で最も繁栄した一族で、六世紀には既に七千戸の人々が住んでいたという。

 十月十二日の夜、広隆寺境内にある大酒神社の牛祭は天下の奇祭とされている。

 以上の広隆寺の由緒書についてもう少し説明して、帰化ユダヤ人の実状を浮き彫りにすることにしましょう。太子は帰化ユダヤ人の由来を知った上で、ユダヤ人の活動の根拠地として太秦に広隆寺を建てさせたものであります。太秦は漢音がダージーと読み、ユダヤ人の魂の祖モーゼの子が建国したと伝えられる東ローマ帝国のことであります。寺の内に昔は十二の井戸があったといわれ、その井戸の石に伊凌井(いさらい)の文字が見られるといいます。現存は三つだそうです。伊凌井はイスラエルであり、十二の井戸はユダヤの十二部族を表わしています。寺内に酒公なる人を祭った大酒神社があります。大酒は大辟(おおさけ)の転訛であり、それはユダヤ王ダビデの漢音名であるといわれます。

 更に大酒神社の十月十二日の牛祭とは、神選民族ユダヤの転職である万有意識即ち言霊ウを分析して、物質の本質を探究するユダヤ民族三千年の責務を表わしていまする七夕(たなばた)の織姫(天照大神)と牽牛(須佐男命・エホバ)の牽牛、言霊ウの意味をも表わします。それは五行でいう金星(ウ)と同意でもあります。

 聖徳太子が秦河勝に下賜した弥勒菩薩半跏像とは、仏説「弥勒菩薩下生経」にある如く、釈迦生存時、その甥である弥勒は仏教に反逆し、仏身を傷つけた罪で追放され、五十六億七千万年の放浪、修業の後、成仏し、弥勒菩薩となっで下生、衆生を救うといわれ、即ち物質世界の真相を究明し、その偉勲によって、仏と並んで人間社会を救済する仏として活躍することを予言された菩薩であり、それの丁度、高天原で叛乱を起こし、黄泉国に追放された須佐男命が物質科学を興して、人類の第二文明を完成させる事と対応する皇祖皇宗の歴史経綸の立場を説明する話とも一致することとなります。聖徳太子の達見を伝える話なのであります。

 話をもう一つの話題に移しましょう。言霊原理が世の中の表面から隠された約二千年、朝廷ではその間の人心の不安、同様に供える種々の方策を講じました。そればかりではなく、民間に於きましても言霊原理が昔に存在したという事実を知った人々が明らさまにではなく、陰にその素晴らしい精神秘宝を構成に伝えようとする心情を汲み取ることが出来る事績を遺しております。それについて一、二の話をしてみることといたします。

  十年以上前の事、私は東京のJR原宿駅の近くにある「香の会」の以来で弘法大師のお話をその会員の前ですることになりました。と言っても、私が弘法大師のことを特別に知識している訳ではありません。ただ、大師が言霊学を学んだことがある、という話を聞いていたというだけであります。まとまった話が出来るわけがありませんので、仲焼刃で図書館へ行き、館員に頼み込んで弘法大師全三十数冊を借り、大急ぎの斜読(はすよ)みをしました。全巻漢文で綴られ、旧制中学五年間の漢文の知識では、内容の十分の一の理解も出来なかったことを覚えています。そんな読み方ではありましたが、それでも大師全集の中では数頁に一つ位の割で「言霊原理を知らなければ、この文章は書けない」と思われる文言に枚挙に遑がない程出合った、のであります。その上、日本民族伝統の言霊布斗麻邇を知っていて、それを秋からに説くことが出来ない“もどかしさ”が時には激烈な朽ちよう文章となって迸(ほとばし)るその気魂のすさまじさを感じることが出来ました。三十余巻の大師全集の中では、民衆救済、産業開発の大師の慈悲の姿は薄れ、陀羅尼密教の本尊である言霊布斗麻邇への渇仰と、その胸中からする時代批評が色濃く論じられるのを読みとることが出来たのであります。その斜読みのお陰で弘法大師についての講演は好評をはくしたのであります。

 この弘法大師全集との出会いは後日譚があります。それから数ヵ月後、私は家内とともに関西旅行をしたのですが、その旅の中で高野山金剛峰(こんごうぶ)寺にお参りする機会に恵まれました。お寺の広大な基地を見学し、弘法大師を祀る大師堂の前に来ました。若い白装束姿のお坊さんの団体が二十人程、大師堂の前でお経を斎称していました。この人たちが去った後でゆっくりお参りしようか、と思い、待っていたのですが、中々お経は止みそうにありません。そこで仕方なくお坊さん達の脇に進んで、端の方でお参りしました。家内と共に「高天原成弥栄」を小さい声で三称し、八拍手をしました。私自身何の感慨も起っていません。ただお参りの挨拶を、と気軽に思っていたのです。ところが、気が付くと私の眼から流れ出るように涙が落ちているのです。「滂沱(ぼうだ)」とはこういう涙のことをいうのでしょう。楽しくも悲しくもありません。感情的なものは何もありません。それなのに両眼からあふれる如く涙が止まりません。拭っても拭っても止まりません。「何故」と考えてもその原因が分かりません。そのうちに隣にいたお坊さん達のお経も終わり、去って行きました。大師堂の前には私達二人がいるだけです。けれどまだ涙は止まりません。その内、やっと気が付きました。「そうだ、空海さん、喜んでいるのだ」ということに。

 言霊学の先師、小笠原孝次氏の話によれば、西暦八○六年空海は留学の中国より帰朝し、真言宗を伝えました。平城天皇の御宇といわれます。天皇、公卿達の前で基地用の報告となる真言密教の法話をし、賞賛され、終って天皇よりお茶を賜った際、天皇は次のようなことを空海に言われたといいます。「今日は汝の真言密教の話は見事でありました。それについて私は何も言うことはない。ただ一つ、日本には古来から真言密教の原本となる言霊布斗麻邇の学問といものがある。汝はそれを知っているか」と言って、言霊学のホンの「さわり」をお話されたといいます。頭脳明晰な空海は直ちにそれを理解し、その後の真言(マナ)密教は空海独特の色合いを深めたといいます。大師全集三十数巻の一番最後の本の、そのまた最後の頁に、大師が伊勢神宮に参籠し、終って神前に奉納、奏上した言葉「……民、空海謹み謹みも申す。……」の真剣味あふれた言葉を思い出します。世の中に伝えようとしてその時ではないことを知っていた人の心の内、その心情が痛いほど理解されます。空海、弘法大師が真言宗を開いて千二百年、今、言霊布斗麻邇の大法はその姿を明らかにして、大師堂の前にあると知った時の、生き通しに生きている空海さんの喜びが如何ばかりであったでしょうか。その事に私は気付く事が出来たのでした。千二百年の間、金剛峰寺に信仰の対象として生きて来た空海さんと、幸福にも言霊学開顕(かいけん)の任にある私の心の中の空海さんが、その時、お互いを見つめ合い、歴史の重さと、皇祖皇宗の人類歴史創造の舞台である「今・此処」に膨れ上がる希望と栄光を共にした一瞬だったのではなかろうか、と今も尚、私は考えております。

 言霊布斗麻邇の原理とそれによる世界統治の業を日本古神道と呼びます。これを隠没させるに当り、新しく神社神道を創設しました。言霊の原理そのものは隠し、その象徴や儀式形態のみを以ってする宗教を創設し、人心の安寧に寄与させたのであります。その時以前、日本の古代に於ては人が神を拝む風習はなかったのです。それ故、神社神道では儀式の形式に言霊原理の象徴を形にしたものを取り入れ、また儒教・仏教の儀式を真似て信仰形式としたものであります。

 今から二千年前の日本民族伝統の言霊原理の隠没は、物質科学文明創造を促進する為の、いわば方便としての隠没であります。この世から抹殺することではありません。物質科学文明完成の暁には再びこの社会に復活させなければなりません。よく引用することですが、大本教教祖のお筆先「知らしてはならず、知らさいてもならず、神はつらいぞよ」と言った具合のものです。そこで私達日本人の祖先の聖の人々が採用した手段は驚く程巧妙なものでありましたる先に説明したものと合わせて、ここに列記することにしましょう。

 もう一人「知らしてはならず、知らさいでもならず、神はつらいぞよ」の気持ちの中で悪戦苦闘した人として鎌倉時代の日蓮上人を挙げることが出来ます。日蓮といえば、鎌倉時代、元(げん)の大軍が日本に攻め寄せた時代、「念仏間、禅天魔、真言七国、律国賊」と言って当時流行の仏教各派を批判し、困難の時代には法華経を奉じる日蓮宗の心に於いて国民全体が一体とならねばならぬ、と主張したことによって幕府の勘気に触れ、打首にされそうになったり、二度も伊豆・佐渡に流刑になった事で知られています。けれど伊勢神宮に参籠し、荒木田某なる神主より言霊布斗麻邇を学び、千葉外房の清澄山に登り、太平洋から昇る日の出に向って「南無妙法蓮華経」を唱え、経の中の経である法華経全体が指月の指となる言霊布斗麻邇の大法を胸中に抱き、日蓮独特の法華経の弘通に務めた人であることを知る人は少ないようであります。

 日蓮が日本伝統の言霊布斗麻邇をどのように思っていたのか、知るに恰好の日蓮の手紙があります。流されていた佐渡の国より弟子の三沢某という武士に送った手紙であります。

   我に付きたりしものどもに、真の事を言はざりけると思いて、佐渡の国より弟子共に内な申す法門あり
此は仏より後、迦葉(かしょう)、阿難(あなん)・竜樹(りゅうじゅ)・天親・天台・妙樂・伝教・義親等の大論師、大人師は知りて而もその心の中に秘めさせ給ひて、口より外に出し給わず、其の故は仏制して言ふ、我滅後末法に入らずば此大法言ふべからずとありし故なり。日蓮は其使にはあらねども其時刻にあたる上、存外に此大法をさとりぬれば聖人の出でさせ給うまで、先づ序文にあらあら申すなり。而るに此の大法出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は、皆日出でて後の光、巧匠の後に拙なきを知るなるべし。此時には正像の寺堂の仏像僧寺の霊験は皆消え失せて、但此の大法のみ一閻浮堤に流布すべしと見えて候。

 以上が三沢鈔(みさわしょう)と呼ばれる日蓮の手紙の文章であります。手紙文でありますから呼んでそれ程難解な箇所はありませんが、少々説明しますと「日出でて後の光」とは太陽が昇った後で燈心につけた光の意。あってもなくてもよいもの、という意。一閻浮堤とは全人類社会という程の意であります。日蓮宗が奉ずる法華経には、巻末に「観音賢菩薩行法経なる経が附加されております。普賢菩薩とは普(あま)ねく賢(かしこ)い菩薩(果位の菩薩)ということで神道でいう天皇(スメラミコト)を示します。このお経では付言が用いる三つの宝(金剛杵、金輪、摩尼珠)のことが書かれています。この三つの宝は神道でいう三種の神器に当ります。金剛杵(こんごうしょ)は剣に、金輪(こんりん)は鏡に、摩尼珠は曲玉に当ります。法華経全体が言霊布斗麻邇の指月の指という所以であります。また行法経には言霊の運用についての示唆も書かれており、興味深いものです。

 ここで翻って目を外国に歴史に向けてみましょう。先にイスラエル・ユダヤの二国家の滅亡の話をしました。ユダヤ民族の神エホバは先に民族の三種の神宝(アロンの杖・黄金のマナ壷・十戒石)を民族から奪い、次に彼等の国家を滅亡させることによって、民族全体を地球の表面に散らし、そのことによって彼等の神選民族としての使命の達成に向って活動を開始させたのであります。ユダヤ民族の使命とは何か。一つには、各地を放浪し、その土地々々の民衆の中に入って生存競争社会を醸成させ、その社会で生き残るための物質科学研究を盛んにし、人類第二の物質科学文明を創造する中核となることであります。そしてもう一つの使命は、想像された文明の利器がもたらす金力と権力と武力を以って、世界の各民族・国家を一つのものとして再統一することであります。

 ユダヤ民族は十二部族あるといわれます。その中の祭祀を取扱うレビ族は先にお話しました如く、滅亡した国家を離れ、東に向かい、シルクロードを通って中国、朝鮮を経てその土地々々の人々交じり合い、最終的に始祖モーゼの魂と使命の故郷である日本に入り、日本各地で着々と地歩を固めて行きました。レビ族以外の十一部族は、レビ族とは反対に滅亡の国家から西に向って民族移動を開始しました。そして先に日本より外国に向って出発していた須佐男命物質科学研究集団の動きと一緒になり、その中核ともなり、須佐男命集団が開発した日本古来の言霊原理を物質方向に応用した東洋医学、本草学、錬金術等の技術は次第にユダヤ民族の受け継ぐ所となり、次第にアラビアのアルケミーとなり、次いで近代的な物理学や化学・天文学・植物学園だの人文科学等へと進歩して行ったのであります。

 図をご覧下さい。物事を自分の外に客観的に見て考える時、その基本構造は図で示すように、正反合の三角構造で表わされます。簡単に説明しますと、現在の私の考えを正とします。そこに他人がその説の不備なことを発見して反なる考えを提出します。すると、この正反の二者が理論的にに勝利するためには、正と反のどちらをも容認出来る新しい合の立場の考えを提出しなければなりません。合の立場を提出出来た方が勝ちで、出来なければ敗者です。この場合、上を向いた△は形而上学(A図)であり、下を向いた▽は形而下学(B図)です。両方を一つとした構造(C図)はユダヤのカゴメのマークで、現代のイスラエル国家はこのカゴメのマークを国旗にしています。この三角形構造の考え方で暮らす限り、生存競争社会から逃れ出ることは出来ず、その考え方に優秀な人は常に人に勝つ人であり得ます。産業・経済並びに学術的思考に秀でているユダヤ民族は、その存する所、常に生存競争を捲き起こし、その競争の勝者であることが可能ということになります。この生存競争に常に勝つことを可能にするユダヤの原理をカバラといい、ヘブライ語の子音と数霊(かずたま)を以って構成され、百戦不敗の原理なのだそうです。そのカバラの原理の根元は須佐男命が持つ言霊学の天津金木であることは前に説明しました。

  このようにしてユダヤ民族が滲透した世界には日常的に、産業経済的に弱人強食の生存競一色となり、国家・民族間の戦争は止むことなく、人々は戦争と戦争との間の束の間の平和を憩うという有様であります。そして何時の間にか、各民族の太古に何千年もの間、心の底から鼓腹撃壌的に平和な世を謳歌したこのある時代の存在を忘れ、仏教の説く如く火宅の世が現世で当り前の世の中だと観念してしまったのであります。そして正しくここ三、四千年の歴史の意図がそうであった如く、その泥沼の如き騒乱の中から、目を見張るような現代物質科学文明の輝かしい成果が創造されて来たのでした。

 ここでもう一度、言霊の原理から見た歴史の時間とは何か、を見当してみることにしましょう。人間はウオアエイ五母音で示される五つの性能を持っています。その中で言霊ウ(五官感覚に基づく欲望)と言霊オ(経験知)から見る時間は一言(ひとこと)で言えば約束事の時間ということが出来ます。今年は西暦二○○五年、平成十七年です。月は年を十二で割ったその一つ、時は時計の針が示すもの、これ等はそうするように人類が定めた約束事です。その「時」の中で、人々は「私は何歳になった」とか、「明日は借金返済の日だ」……とか言って、現象が現象を生む輪廻の業(ごう)の中に生きています。

 言霊ア(感情)の段階の目でみて、初めて永遠の今を知ります。人は時の流れの中に流され生きるのではなく、永劫の今を生きることを知ります。永遠の今の目で見る現象は常に新鮮で美しく、物事のただ一つしかない実際の姿を見ることが出来ます。その時に感じる愛とか一期一会なる言葉は言霊アの段階で初めて知る言葉であります。けれど、その段階にあっても、遭遇した事態を万人に良いように処理し得る方策を得ることは出来ません。

 人間生命の自覚進化の最終段階、言霊イ・エの観点に立って、人は初めて時間と空間の束縛から脱し、反って時間・空間の主人公となり、永劫の今の中に存在する五十音言霊とその法則を自らのものとして自覚し、恒常に国家、民族、人類の歴史創造の担手(にないて)となって、人類文明を創造して行くことが可能となります。皇祖皇宗の言霊原理による人類文明創造の歴史を知り、その担手となります。

 以上の人と志願との慣例から歴史を見る時、次のようなことが言えるのでありましょう。人類の第二物質科学文明創造のため、第一精神文明創造の原器である言霊布斗麻邇は社会の表面から隠没しました。けれど皇祖皇宗の人類文明創造の活動が無くなった訳でも、消えた訳でもありません。それは人類の心の奥で清冽な、厳格な流れとなって一瞬の休みもなく活動し続けています。ただ言霊原理の存在を忘れ去った人類が拠り所とする言霊ウとオの、業が業を生む欲望と知的傲慢さの行動が醸し出す霧が霞のようなベールが本流の清冽な流れの表面を被ってしまったのです。この泡沫(うたかた)のような第二次的な苦悩に満ちた葛藤の歴史の因果関係だけを世界の人々は歴史だと勘違いしてしまったのでした。

 このような歴史の本流の表面に欲望のベールを被せ、生存競争を煽ったのは放浪の神選民族ユダヤであり、エホバであり、五大天使の一人ルシファーの変身したサタンであります。彼等は歴史の表面にベールを被せる作業を推進し、同時にそのベールの中に現われる諸現象に対処して絶対不敗の原理(カバラ)を以って目的を達成して行ったのです。

(次号に続く)