「コトタマ学とは」 <第二百五号>平成十七年七月号
   古事記(前号に続く)

 それだけではありません。神代の巻の最初の章「天地の初発」の中に出て来る神様の名前が全部で十七、これは人間の頭脳の先天構造の言霊の数十七とも一致するのです。「天地のはじめ」とは、精神的にいえば先天のことということが出来るでしょう。少々長くなりますが、「古事記」の「天地のはじめ」の章を書いてみましょう。

 天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天の御中主の神。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神。この三柱の神は、みな独神に成りまして、身を隠したまひき。
 次に国稚く、浮かべる脂の如くして水母なす漂へる時に、葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅の神。次に天の常立の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。
 次に成りませる神の名は、国の常立の神。次に豊雲野の神。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。
 次に成りませる神の名は、宇比地邇の神。次に妹須比智邇の神。次に角杙の神。次に妹活杙の神。次に意富斗能地の神。次に妹大斗乃弁の神。次に於母陀流の神。次に妹阿夜訶志古泥の神。
 次に伊耶那岐の神。次に妹伊耶那美の神。

 以上が「古事記」神代の巻の第一章「天地のはじめ」の全文章です(角川文庫「古事記」、武田祐吉訳注)。確かに神様の名前が十七出て来ます。日本の古代の大和言葉に同音または同意の漢字を当てた文章ですから、それぞれの神様の名前がどんな意味を持っているのか想像もつかないでしょう。けれど「天地のはじめ」が「何物もない心の宇宙から人間の思いが現われようとしている時」のことをいっているのだ、ということを心に留めておいて、この本の「思考のはじまり」の項でお話しました人間の目覚めの時の意識の動きの構造を考え合わせてみますと、「古事記」の神名と言霊との関係が次第に鮮明に理解されてくるのです。

 心の宇宙の中に何かの思いが起ろうとして、まだ実際には現れてこないうち、言い換えますと心の先天構造の内容を言霊で示した図を再び取り上げます(図参照)。

 この図を心に留めておいて「古事記」の最初に出て来る神名、天の御中主の神を考えてみます。心の先天の中に「今・此処」で何かが起ろうとする瞬間、その動き、うごめき、生まれようとする気配の宇宙に言霊ウと名付けたことは以前にお話しました。さて天の御中主の神の天は心の先天部分を示しているということが出来ましょう。その先天の中に何かの意識が起ろうとしています。実際に起ろうとする意識は「今・ここ」以外にはありません。そしてその意識がいかに小さいものであっても、宇宙は無限に広いものですから、一点をどこにとっても、それは宇宙の中心に位置しています。しかもその中心の自覚者(主)です。そうしますと「古事記」が「天地のはじめ」の章で示した天の御中主の神という神名は正しく言霊ウの宇宙をそのまま指し示しているではありませんか。

(次号に続く)

   日本と世界の歴史 その五

 先号において、人類の第一精神文明時代から第二の物質科学文明時代への転換が、日本人の祖先の聖(霊知り)である皇祖皇宗の、歴史と人間に対しての深い洞察の下に行われたことをお話し申し上げました。

 人間は神とけだものとの中間の生きものだ、などと言われます。見ず知らずの人のために自分の生命を捨てて助けようとする人がいます。正に神にも等しい崇高な行為です。そうかと思うと、けものに劣るような残忍な行いをすることもあります。同じ人間でありながら、どうしてこうも違う行為をするのだろうかと首をかしげざるを得ないこともしばしばです。けれどどちらの行為も紛(まぎ)れもない人間の仕業(しわざ)なのです。この日常の思念では受け容れ難い、二つの極端を共有する心、人間の業(ごう)ともいうべき心を、理屈としてでなく、自分の心の中に深く洞察・自覚した聖の人達が、そういう人間性を持つ人間の社会をどの様に変革して行ったら永遠にして理想の人間社会の建設が可能となるか、を見極め、計画を立て、周到な準備の下に世界人類の社会を、第一精神文明時代から第二の物質科学文明時代へと移行させて行ったのであります。それは人類というものが持つ「性(さが)」を知り尽くした人によってのみ為し得る政治的決断であったのでありました。

 第一精神文明時代は、文明創造の原器となるアイエオウ言霊五十音布斗麻邇による日本語(大和言葉)によって運用されて、社会秩序が確立されており、その言葉の光が人間の魂の底まで行き渡った光明世界でありました。言葉がそのまま人々の心の癒しとなり、人々は各自の心の自我主張が通用する範囲を自ら知り、同情と互譲の精神がみなぎっている社会でありました。然し、これから展開される第二の物質科学文明時代は、その社会基盤と考えられるのは言霊ウの領域の欲望と言霊オよりする個人的好奇心と自己の経験知の自己主張です。その結果は生存競争、弱肉強食の社会の出現であります。この社会の実現のためには、第一精神文明時代の同情・互譲の言葉は禁句となります。その精神基盤であった言霊布斗麻邇の原理は一時的に、言い換えれば、第二物質科学文明が完成する時まで、社会の表面から隠さねばなりません。

 言霊布斗麻邇を社会の表面から隠したら、どの様な社会が現出するでしょうか。言霊原理という精神文明時代、誰しもが知り、馴染んでいた光が消えます。古事記の神話でいう「天照大神の岩戸隠れ」が実現します。社会は「ここに高天の原皆暗く、葦原の中つ国悉に闇し。これに因りて、常夜往(とこよゆ)く。ここに万(よろず)の神の声(おとなひ)は、さ蝿なす満ち、万の妖(わざわひ)悉に発(おこ)りき」となること必定です。この計画の実行には非常な決断を要したことでしょう。けれどその予測が有りながら、日本の朝廷に於ては確乎とした方針の下にGOサインを出したのでした。この決定によってその後の人類全体の想像される苦難の道の如何に厳しいものであるかを知りながら、人類が一度は辿らねばならぬ苦難の道、その行手に人類が手にする第二の栄光が如何に大きなものであるかを確信してGOサインを出したに違いありません。と同時にその長い年月の人類の苦難に対処する方策を次々と実行に移して行ったのであります。

 第二次世界大戦が終り、日本は戦敗国となり、幾多の苦難を味わいました。けれど国民の心は何処かホッとした空気を感じてもいました。戦争から開放された安堵感がありました。それも束の間、米ソ二大強国の確執となり、ソ連邦の崩壊後は世界の到る所で民族間対立が起り、湾岸戦争、そして今回のイラク戦争、テロ行為の拡大と、全世界は戦火と戦火の挟間でまさに束の間の平和を喜び合うといった状況です。世界の何処かで銃声の聞こえない日はありません。そんな中で生活する人々にとっては、戦争というものが人間社会には付き物であり、人類の続く限りなくならないものと思われているのではないでしょうか。そう思うのも無理はありません。ここ二・三千年の間、人類社会は日本は勿論外国に於ても戦争々々で明暮(あけく)れして来たのですから。しかし決してそうなのではありません。その二・三千年より以前、人類は少なくとも五千年間、大きな戦争のない平和で仕合せな社会が続いていた事を心に留めて頂きたいと思います。この人類の第二物質科学文明創造の時代の戦争は、飽くまで物質科学創造促進のための方便として、生存競争社会の中に起る一時的な現象なのだということを知らねばなりません。戦争、競争という確執の泥沼から蓮華の花の如き美しい物質科学文明の実が熟して、その結果、人類は夢にも見なかった素晴らしい社会の実現が約束されているのです。

 さて、日本朝廷が第一より第二の文明に転換するに当り、実行した諸施策について説明して行くことにしましょう。先にお話しいたしましたが、今より三千余年前まで続いた日本より諸外国への、言霊布斗麻邇に基づく諸種精神文化の伝播、普及の事業を中止した事に始まります。また同様続けられて来た日本天皇の即位後の十年乃至十数年かけた外国巡幸の制度も中止されました。日本と外国との関係が疎遠となったのであります。これによって外国に於ける物質に対する客観的探究の風潮が急速に広がって行きました。同時に生存競争社会が形成されて行ったのであります。

 外国に遅れること三・四百年、日本の第二文明時代への転換が始まります。鵜草葺不合皇朝第七十三代狭野尊天皇は大和橿原に新しく神倭(かむやまと)皇朝を樹立し、第一代天皇に即位しました。神倭磐余彦天皇(神武天皇)と申します。この神倭磐余彦(いはれひこ)天皇(神武天皇)より、今から十七年前になくなられました昭和天皇まで百二十四代の皇朝を神倭皇朝と呼びます。鵜草葺不合より神倭への皇朝名の変化、それはとりも直さず日本朝廷の文明創造の目的内容の変革であり、政治方針の転換を意味しています。この転換を示す言葉は古事記には載っておりません。しかし日本書紀には略々明らかにその文章を見ることが出来ます。それを引用してみましょう。

 誠(まこと)に皇都(みやこ)を恢(ひら)き廊(ひろ)めて大壯(おほとの)を規(はか)り(つく)るべし。而るを今運屯(いまよわかく)蒙(くらき)に属(あ)ひて、民(おほみたから)の心朴素(すなお)なり。巣(す)に棲(す)み穴に住みて、習俗惟常(しほざこれつね)となりたり。夫(そ)れ大人制(ひじりのり)を立てて、義(ことわり)必ず時に隨う。苟しくも民に利(かが)有らば、何ぞ聖の造(わざ)に妨(たが)はむ。……

 ――線を付した箇所を簡単に解釈しましょう。「昔から世を治める者は、その 政 をするに当って人としての原理に叶った方法を考え、それによって立てられた道理はその時々の状況に適切に対処出来て来た。これからは、人民の利益(かが)となることならば、聖の行うわざとして妨げのある筈はないのだ」となります。邇々芸命の日本肇国以来、政治の原器であった言霊布斗麻邇を離れ、人民の利益如何を直視することから政治が始まる現代の民主主義政治にも似た色合いが濃く窺える言葉であることが理解出来る日本書紀の文章であります。

 神倭磐余彦天皇のこの宣言によって日本の第二文明時代は幕が開けました。神倭皇朝第一代天皇は奈良、平安時代の淡海三船による諡(おくりな)によって神武天皇と称せられます。神武天皇のこの宣言を受けて、実際に古代より日本朝廷の政治の根幹であった言霊布斗麻邇の原理の取扱いに大変革を実行しましたのは神倭皇朝十代崇神天皇でありました。神武時代より約六百年が経った頃であります。日本書紀巻第五の御間城入彦(みまきいりひこ)五十瓊殖天皇 (いにゑのすめらみこと)(崇神天皇)の章の一部を引用しましょう。

 五年に、国内(くぬち)に疫疾(えのやまひ)多くして民(おほみたから)死亡(まか)れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす。六年に、 百姓(おほみたから)流離(さすら)へぬ。或(ある)いは背叛(そむ)くもの有り。その勢(いきおひ)、徳(うつくしび)を以て治めむこと難し。是を以て、晨(つと)に興(お)き夕(ゆふべ)までに(おそ)りて、神祓(あまつかみくにつかみ)に請罪(のみまつ)る。是より先に、天照大神(あまてらすおほみかみ)・倭大国魂(やまとりおほくにたま)、二(ふたはしら)の神を、天皇の大殿(みあらか)の内に並祭(いはひまつ)る。然して其の神の勢(みいきおひ)を畏(おそ)りて、共に住みたまふに安からず。故(かれ)、天照大神を以ては、豊鋤入姫(とよすきいりひめの)命に託けまつりて、倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭る。仍(よ)りて磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろき)を立つ。亦、日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を以ては、渟名城入姫(ぬなさのいりひめ)命に託けて祭らしむ。然るに渟名城入姫、髪落(かみお)ち体痩(やすか)みて祭(いはひまつ)ること能はず。(註に、大国魂神とは、大己貴(おほなむら)神の荒魂(あらみたま)なり、とあります)

 古事記神話の禊祓の章に生まれる二十七神の中の十六、十七、十八番目の神、神直毘(かんなおひ)の神、大直毘(おほなおひ)の神、伊豆能売(いづのめ)の三神、特に伊豆能売について最近気が付いたことがありましたので、早速お伝え申上げることといたします。先ずは禊祓の簡単な復習(おさらい)から始めることとしましょう。

 先に邇々芸命の天孫降臨に際し、天照大神は邇々芸命に八尺(やさか)の勾珠(まがたま)、鏡、草薙剣(三種の神器)を授け、「これの鏡は、もはら我が御魂として、吾が前を拝くがごと、斎きまつれ」という神勅を賜わっています。そのため、鏡(八咫の鏡)は代々の天皇の座所と同じ処に置かれるのを常とされました。これを同床共殿(どうしょうきょうでん)の制度と申します。その内容は八咫の鏡に表徴される人間精神の最高規範である天津太祝詞音図の原理の自覚の下に、歴代の天皇は政(まつりごと)を行へ、という皇祖の命令でありました。今や神倭皇朝十代崇神天皇は皇祖の御命令に反し、第一代神武天皇の決定された宏謨の実行のために、自身の身近から八咫の鏡を豊鋤入姫に託して、宮中以外の場所に移したのであります。これを天皇に於ける同床共殿制度の廃止と申します。その内容はこの崇神天皇以後の天皇にあっては、言霊布斗麻邇の原理を持つことなく、ただ血統のみによって天皇の位を継承する所謂人間天皇となられ、その八咫の鏡を天照大神の御神体としてお祀りする伊勢神宮の大神主という身分に於て、日本国民の信仰的な尊敬の的となったのであります。この同床共殿制度の廃止によって人類の精神文明の原器である言霊布斗麻邇は完全に人類社会の裏に陰没し、人々は次第にその存在の痕跡をも忘れ去って行ったのでありました。第一代神武天皇によって方針が決定され、第十代崇神天皇によって実行された、この国家統治に関する重大な事柄を、発案、実行したことによって神武天皇を始馭天下天皇、崇神天皇を御肇国天皇と同じ名で呼ぶのであります。

 崇神天皇による神器と天皇との同床共殿の制度の廃止によって、日本はそれまでの人類の第一精神文明発祥地であり、輸出国であった地位を失い、今後はどの様な国家の方針によって生きて行くべきか、朝廷に於ても論議されたことでしょう。幾千年の長きにわたって続いた来た政治の体制が崩壊したのですから無理もありません。その日本国家の行末に関する大問題を一気に解決する事件が朝廷内に、と言うよりむしろ皇室の内部に起こります。「そんな事って実際にあるのかな」という神霊的現象が起こるのであります。その事を古事記・日本書紀に則ってお伝えすることといたします。詳しくは会報八十一号「底・中・上筒の男三命について」をご参照下さい。

 古事記神倭皇朝十四代仲哀天皇の章の中の「神功(じんぐう)皇后」の項より引用いたします。
 その太后息長帯日売(おきながたらしひめ)の命は、当時神帰(そのかみかみよ)せしたまひき。かれ天皇筑紫の訶志比(かしひ)の宮にましまして熊曽の国を撃(う)たむとしたまふ時に、天皇御琴を控(ひ)かして、建内の宿禰(すくね)の大臣沙庭(さにわ)に居て、神の命を請ひまつりき。ここに太后、神帰(かみよ)せして、言教え覚(さと)し詔(の)りたまひつらくは、「西の方に国あり。金・銀(くがねしろがね)を本(はじ)めて、目の炎耀(かがや)く種々(くさぐさ)の珍宝(うずたから)その国に多(さは)なるを、吾(あれ)今その国を帰(よ)せ賜はむ」と詔りたまひつ。ここに天皇、答へ白したまはく、「高き地(ところ)に登りて西の方を見れば、国土(くに)は見えず、ただ大海のみあり」と白して、詐(いつわ)りせす神と思ほして、御琴を押し退(そ)けて、控(ひ)きたまはず、黙(もだ)いましき。ここにその神いたく忿(いか)りて、詔りたまはく、「およそこの天の下は、汝の知らすべき国にあらず、汝は一道(ひとみち)に向ひたまへ」と詔りたまひき。ここに建内の宿禰の大臣白さく「恐(かしこ)し、我が大皇(おほきみ)。なほその大御琴あそばせ」とまをす。ここにややにその御琴を取り依せて、なまなまに控きいます。かれ、幾久(いくだ)もあらずて、御琴の音聞えずなりぬ。すなはち火を挙げて見まつれば、既に崩(かむあが)りたまひつ。

 何とも恐ろしいことであります。驚いた神功皇后や大臣の建内の宿稱は天皇の御遺体を安置する宮を建てたり、また朝廷の穢(けがれ)の大祓をし、心をとり直して再び神の命を請いたてまつったのであります。更に古事記の文章を引用します。

 ここに教え覚(さと)したまふ状、つぶさに先(さき)の日の如くありて、「およそこの国は、汝の御腹にます御子の知らさむ国なり」とのりたまひき。ここに建内の宿禰白さく「恐し、我が大神、その神の御腹にます御子は、何の子ぞも」とまをせば、「男子(をのこ)なり」とのりたまひき。ここにつぶさに請ひまつらく、「今かく言(こと)教へたまふ大神は、その御名を知らまくほし」とまをしかば、答へ詔りたまはく、「こは天照らす大神の御心なり。また底筒の男、中筒の男、上筒の男三柱の大神なり。この時にその三柱の大神の御名は顕(あらは)したまへり。今まことにその国を求めむと思ほさば、天つ神地つ祗(かみ)、また山の神と河海の諸神(もろかむ)たちまでに悉に幣帛(ぬさ)奉り、我が御魂を船の上にませて、真木の灰を瓠(ひさご)に納(い)れ、また箸(はし)と葉盤(ひせで)とを夛(さは)に作りて、皆々大海に散らし浮けて、度(わた)りますべし」とのりたまひき。

 道の長乳歯の神(みちのながちはのかみ)、時量師(ときはかし)の神、煩累の大人の神(わずらひのうしのかみ)、道俣の神(ちまたのかみ)、飽咋の大人の神(あきぐひのうしのかみ)――この五神は黄泉国の文化を世界文明に摂取するに当り、その文化の内容を明らかに把握するために掲げられた五つの判断項目を示します。

 昔より今日に到るまで、天つ神の神懸りとしての言葉には必ず言霊原理に関する言葉が神霊よりの言葉である證として述べられます。その證のないものは天つ神の神懸りではありません。右の古事記の「我が御魂を船の上にませて、……以下の文章はまさしくその言霊原理の證の言葉であります。その説明は余りに長くなりますので、此処では省略し、会報八十一号を参照して頂きますが、ここではただ一つ、三筒の男の命の出現について説明させて頂きます。

 天照大神の御神懸りが下り、それに付いて底・中・上筒の男の命の出現がある時、その神懸りの言葉は一から十まで言葉通りに行へという厳命なのであります。その御言を人間の考えで解釈してはならない、という事です。筒の男の命と申しますのは、天照大神(伊耶那岐の大神)が黄泉国の文化を人類の文明に組み入れるに際し、黄泉国の文化の内容を大神の光の言葉によって宣り直す行為があります。その宣り直すことによって、どういう順序・内容を経て世界文明に組み入れられるかを、八子音によって確定することが筒の男の働きです。子音という現象音によって定められますので、「こうにも見える、あゝにも見える」ということのない、確乎たる順序で行われます。御言の通りに行えば、その言葉の通りに結果が出て来る、という證が三筒の男の命なのであります。神功皇后の三韓進攻も、この天照大神の神言の通りに「うますぎる程うまく」成功したのであります。それは言霊原理から見て最高の歴史的経綸であったからです。

 神功皇后は多大の戦果を手に日本に凱旋(がいせん)します。出征より以前、既に御腹にあった御子を日本の浜辺に上がってから生みます。この御子が神倭朝第十五代応神天皇となって即位することとなります。以上の仲哀天皇、神功皇后、応神天皇親子のいとも数奇な物語は二つの点で重大な意味があります。それを説明しましょう。

 第一はこの朝鮮出兵が天照大神という精神原理の中の最高神の神懸りの指示によってなされた事であります。現在、伊勢に祭祀される人類愛、最高の神といわれる天照大神が、何故外国に対して「金銀宝石などの財宝」をわがものにせんとする目的のために侵略という戦争を促したのでしょうか。古事記の文章を単に表面的な意味にとれば間違いなく物欲しさの侵略戦争であります。しかし、翻ってこれを言霊布斗麻邇に基づく人類文明創造の歴史経綸の視点に立って見る時、この侵略戦争が長い二千年の後を見据えた深謀から起された出来事であったことが理解されて来るでありましょう。

 一度世界文明の基礎となる文化を起こしながら、その後は世界の歴史のトップランナーの地位から長い間離れて、人々の注目の的から外れてしまっている民族は多く見られます。例えばギリシヤ、ペルシャ、エジプト、エチオピア等々です。この神武・崇神・応神の頃の日本はどうだったのでしょうか。人類の第一精神文明時代の長い間、その文明の中心国家であった日本は、今より三千年以前の、文明創造の基礎精神が心から物質へと百八十度の転換をした時、その指導者と国民の心の不安定さは察するに余りあるものがあったのではないでしょうか。その状態そのままで推移するならば、立国の基盤である言霊布斗麻邇を失った結果、国体維持の中心の柱を持たぬ弱小国になり、やがては起るであろう生存競争世界の渦の中で、何処かの国の侵略を受け、国家としての存続は勿論、そのうるはしき精神遺産の影も消えた民族に成り下る可能性さえあった筈です。

 言霊原理が外国の国民の意識から隠されたのは三千年前、日本のそれは二千年前です。その差、一千年の期間は、物質科学文明の揺籃より初期進歩の時代に当ります。天照大神の神懸りが指摘する三韓の「金銀財宝」とは、単に「金銀財宝」なのではなく、日本より千年の間、先輩である第二物質科学文明の成果を表徴するそれを指摘したものであったのです。侵略戦争の結果は韓国から、また韓国を経由して西方からの諸種文芸、文化、文物の流入が堰を切ったように盛んになります。また学者、種々の職人の入国が続きました。日本国はこの時より外国に於て発明された物心文化を輸入することによる国家の樹立を国是とすることとなります。応神天皇の御宇のこの転換により、日本の国家は人類の第二物質科学文明の時代に於ても外国に比べて大きく後塵を拝することなく、「まあ、まあ」の文化程度を保って独立国家として生き長らえて来ることが出来ました。そして現代、今後始まろうとする第二物質科学文明時代より新しい人類の第三文明時代への転換に際し、第一精神文明の基礎原理であった言霊布斗麻邇を太古同様に保持し、更に第二物質科学文明である物質原理の習熟度に於ても高度のものを持つ国家として、第三文明への人類の飛躍を提唱するに適(ふさ)わしい立場に立つことが出来る姿を整えた国家として立ち上がる事、これを目的とし、国家の進むべき道を指し示したのが神功皇后に降臨した天照大神の神示であったのであります。その言霊原理による文明創造の歴史経綸の深謀遠慮には想像を絶するものがあると申せましょう。

 第二の問題に入りましょう。ご承知の通り日本国は太古より、先の昭和天皇の昭和二十一年年頭の古事記・日本書紀の神話否定の人間天皇宣言の時まで神道立国でありました。でありますから、神倭朝第一代神武天皇以来、第百二十四代昭和天皇まで百二十四人の歴代天皇の謚(おくりな)の中には、「神」という字の入った天皇名がさぞ多いのではないか、と思う方がすくなくないのではないでしょうか。ところが、今会報で既に述べました如く、神武天皇、崇神天皇、応神天皇の三天皇のほかには神の字のつく天皇は一人もいらっしゃらないのであります。そしてこの三天皇が、申上げましたように、人類の第一精神文明から第二の物質科学文明への転換に関して重要な仕事をなされたことを考えますと、何か、その「神」の字の名にまつわる因縁があるのではないか、と勘繰(かんぐ)り度くなるのは人情です。さて、日本全国に神社はどの位の数あるのでしょうか。実際数は知りませんが、その中で一番多いのは何神社でしょうか。これは推察ですが、多分八幡神社でありましょう。ではその八幡神社の御祭神は?と尋ねます。八幡様という神様は日本の古来からの神の中にいらっしゃらないのです。その内容が不明なのです。そしてその神社の由緒書に必ず出て来る御祭神は応神天皇であります。八幡様という神様の由来は不明で、応神天皇ははっきりしています。そこにこの号の会報で書かれました応神天皇をめぐる歴史的事実が生々しく浮かび上がって来ることになります。八幡は「ヤーハ」「ヤーヘ」と読めます。それは旧約聖書にあるエホバ神と同一の発声の名なのです。エホバは、四・五千年以前、人間の心とは反対に、物質特有の原理を求めて、高天原日本より、客観世界探究のため外国に出て行った集団名、須佐男命の外国における名前、ヤーエの事であります。この事が明らかになりますと、天理教々祖、中山ミキ女史の御神示「高山の眞の柱(天皇のこと)は唐人や、これがそもそも神の立腹」という神懸りの意味も理解することが出来ましょう。武・神・応の神とはエホバ神のことであったのです。古代の高天原日本には「神を拝む」という風習はありませんでした。

(次号に続く) 

 訂正のお知らせ
 会報二百四号(六月号)の七頁下段のB図を下の如く訂正いたします。

   日本書紀