「コトタマ学とは」 <第二百三号>平成十七年五月号
   天地の初発(はじめ)の時

 偉大な宗教書や民族の神話は「天地のはじめ」を説いています。日本人も世界の人々も随分長い間、この「天地のはじめ」ということについて、途方もない間違った解釈をしていました。その誤解から世界の歴史は紛争の歴史となり、人々の心がどんなに歪められてきたことでしょうか。
 今こそ、その誤解を改める時です。きっと、人々の心は暗雲が去ったあとの青天白日のような晴れやかさを取り戻すことでしょう。

   「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時」

 日本の古典である「古事記」をお読みになったことのある方は多いことと思います。その古事記の神代の巻の最初の文章には、「天地の初発の時、高天原に成(な)りませる神の名は……」とあります。またキリスト教の旧約聖書の創世記第一章の最初に「元始(はじめ)に神天地を創造たまへり……」と書かれています。

 古事記で「天地の初発(はじめ)の時」といい、旧約聖書に「元始に」と書かれている「はじめ」とは、何のことを指しているのでしょうか。大方の人は私たちが生きているこの大きな宇宙が形成される初めの時、と考えることでしょう。現在ばかりでなく昔の人も、宗教学者でさえそのように考え、疑うことさえしなかったようです。幾十億年、いや幾百億年、幾千億年か昔、宇宙が混沌として何もはっきりした形をしていなかった時、人の知恵では計ることのできない偉大な、眼には見えない力を持った神が、銀河系を、星雲を、太陽を、地球を創造していったと解釈して来たようです。

 「その神の愛子であるイエス・キリストのお生まれになった我等の地球が宇宙の中心であり、従ってその地球の周りを太陽が動いているのであって、地球が太陽の周りを動いているなどと主張する地動説は神への冒涜である」といって天文学者ガリレオ・ガリレイはローマ教会によって宗教裁判にかけられました。これも「元始に神天地を創造たまへり」を教会自体が「この宇宙や地球は、神様がまるで私たちが手工芸で何かを作るようにお作りになった」と解釈していたためでしょう。

 宗教界の主張に反して、近代の科学は太陽の周りを地球が動くという地動説を完全に証明してしまいました。宗教の私達人類の生活に及ぼす影響力は、日々年々低下していくのが実情のようです。

 このような論争や混乱は、すべて「天地の初発」とか「元始」のとんでもない間違った解釈から来ているのです。私たち人類は、いつ頃からこの「初発」について見当違いをしはじめたのでしょうか。多分この二千年間、次第に進歩して来た物質科学の影響のためでしょう。

 「古事記」の「天地の初発の時」も聖書の「元始に」も、それを聞くと私たち現代人はすぐに、幾百年も昔のことを思い浮かべるかも知れません。しかし、それは天文学的や地球物理学的な宇宙―太陽や地球など―が形成された初めの時のことではありません。神話や宗教書のいう「天地」とか宇宙というのは、今まで説明して来ましたように、心の宇宙のことを指していっているのです。

 人が何も思ったり、考えたりしないでいる時、心は宇宙そのものです。エネルギーが満ち満ちていて、しかも何もない広い宇宙です。その宇宙に何かが起ろうとする瞬間、それが「天地の初発の時」であり、「元始に」の時なのであります。ですから、その「初発」というのは幾百億年も昔のことではなくて、常に「今」のことをいっていることになります。何かが心に起ろうとする瞬間が、人にとって「今」なのであり「ここ」でなければならないでしょう。神話や宗教書の「元始に」とは必ずその「今・ここ」の心が現象を起そうとする初めのことをいっています。

 人の心は、実はいつもこの「今・ここ」に生きています。ただ私たちは過ぎ去った出来事にわだかまりを持ったり、これから先のことに不安を抱いたりして、「今・ここ」をともすると見失いがちになっています。それらのことに心を煩わされず、広い宇宙のような心持ちでいられたら、どんなにか楽しい人生を送ることが出来るでしょう。

 古代の日本人は、この「今・ここ」に生きる術を心得ていたようです。昔の人は「今・ここ」を中今(続日本紀)と呼んでいました。その宇宙そのもののような広い心こそ、愛と芸術が尽きることなく流れ出て来る心なのです。万葉集の中に見られる素直で心情溢れる歌も、昔の日本人の明るい心から生れ出たものでありましょう。

 以上のように世界中の神話や宗教書がいう「天地の初発」とか「元始に」ということが、常に「今・ここ」で心の宇宙から何かが生まれようとしている時と解釈しますと、もう決して物質科学の研究と宗教・神話は葛藤を起すことはありません。科学は精神科学を含めて研究の対象を、自己本体の外側に客観として見る研究学問です。それに引き換え、宗教や神話は自己の内面を主観として省みる学問研究である、という区別がはっきりとつくからです。

 科学との葛藤がなくなるばかりでなく、人間の心を純粋に主観として見て心の構造を明らかにした言霊の学問では、人間が科学を研究するその心、科学する心の構造まではっきりと解明することが出来たのでした。
 次の項から話を本筋に戻して、先天構造の研究を先に進めることにしましょう。

(次号に続く)

   日本と世界の歴史 その三

 先月号にて人類の第一精神文明時代の三つの皇朝についてお話申し上げました。第一の皇朝を邇々芸(ににぎ)皇朝といい、五人の天皇(スメラミコト)が相次いで政治の座につきました。いわば言霊布斗麻邇の原理に基づき、その時以前、世界中に行われていた強い者勝ちの覇権的な社会を次々に言向(ことむ)け和(や)わし、布斗麻邇の原理の光に靡(なび)かせて行った精神文明創業時代の皇朝であります。世界中の国家・民族は大体この皇朝時代に、その時まで夢にも見ることがなかった言霊の光の政治の存在を知り、喜んでその傘下に身を委ねるようになったものと推察されます。

 二番目の彦(ひこ)(日子)穂々出見(ほほでみ)皇朝に於ては八人の天皇が相次ぎました。この皇朝時代に布斗麻邇の光の中に世界各地の人々はその善政を謳歌し、精神文明の花が全世界に開いた繁栄の時代を迎えたものと推察出来ます。旧約聖書に「全地は一つの言葉、一つの音のみなりき」と書かれた布斗麻邇文明の成果の花咲く時代でありました。

 これに続く第三番目の鵜草葺不合(うがやふきあえず)皇朝の時代も精神文明繁栄の時代でありました。と言うよりむしろ爛熟の時代と申したらよい時代でありました。この皇朝時代、実に七十二世の天皇が相次ぎました。霊(ひ)の本(日本)である日本朝廷の徳を慕い、世界各地より王、王族の来朝が相次ぎ、文字通りこの日本は世界文化の中心となり、言霊原理に由来する各種文化は広く世界各地に伝えられ、現在世界各地に遺っている民族の神話はこの時代に言霊原理によってそれぞれの民族に適応するように作られたものであります。

 では二番目の彦穂々出見皇朝と第三番目の鵜草葺不合皇朝とは何が違うのか、と申しますと、彦穂々出見時代が精神文明の最盛期であり、鵜草葺不合時代が爛熟期だというだけでなく、葺不合皇朝の時代には、継承された精神文明が爛熟の時代を迎えただけでなく、その精神文明の内側に、やがて人類の第二文明となる物質科学文明の種が芽生え始めた時代でもあったのであります。この日本民族の、また世界人類の文明創造の流れの変容の消息を説明するためには、話をもう一度、言霊原理発見と完成の高天原時代に戻して考える必要があります。即ち言霊原理の総結論完成の時の古事記の文章に立ち返って検討してみることといたします。

 言霊学の総結論である三貴子(みはしらのうずみこ)誕生の古事記の文章は次の通りです。
 
この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」と詔りたまひて、すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝が命は高天の原を知らせ」と、言依さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。次に月読の命に詔りたまはく、「汝が命は夜の食す国を知らせ」と、言依さしたまひき。次に建速須佐の男の命に詔りたまはく、「汝が命は海原を知らせ」と、言依さしたまひき。

 以上の三貴子誕生について伊耶那岐の命の言葉の中には、日本天皇の世界人類の文明創造の御経綸についての重要な意味内容が二つ述べられています。その一つは三権分立の確立であり、二つ目は三位一体の協力体制の命令です。簡単に説明しましょう。

 三権分立
 天照大神、月読命、須佐男命の三神が人間精神の全領域を統治するに当り、天照大神は高天原(言霊エ)を、月読命には夜の食国(よのおすくに)(言霊オ)を、須佐男命は海原(うなばら)(言霊ウ)を主宰せよ、という命令、委託であります。更に説明を加えますと、天照大神は言霊五十音で結界された言霊イの領域と、その運用である言霊エ次元を治めよ、と委任しました。月読命には人間の持つ精神性能の中の宗教と芸術の精神領域(言霊アとオ)を委任しました。そして須佐男命には海原(ウの名の原)即ち言霊ウの精神領域である産業・経済の分野の責任を負え、という命令です。即ち言霊ウとオの次元領域であります。以上が三権分立の掟(おきて)です。

 三位一体
 伊耶那岐命はその子三神、天照大神・月読命・須佐男命に人間精神の三大分野を統治する委任をされた際、アイエオウ五十音布斗麻邇の原理を天照大神のみにその使用を許可し、月読命・須佐男命には与えませんでした。言霊原理は言霊エの政治・道徳の次元に於てのみ運用・活用が可能であったからです。そこで人間の心の働きには、天照大神を中央の本立とし、言霊原理を操作運用して、文明創造の経綸を行い、月読命(宗教・芸術)と須佐男命(産業・経済)とは天照大神の脇立となってそれぞれの領域の仕事を天照大神の言霊原理に基づく指示に従って遂行する、という三位一体の体制をとったものでありました。人類の第一精神文明時代においては、社会のすべての営みは精神原理である言霊原理の運用・活用によって行われたのです。これを三位協力一体の制度と申します。言霊原理を与えられなかった月読命には思考概念を、須佐男命には数の操作が与えられた事を特筆しなければなりません。

 人類の第一精神文明の時代は、以上説明しました三権分立、三位一体の原則に従いながら、邇々芸、彦穂々出見、鵜草葺不合の三皇朝が継立して行ったのでありますが、第三番目の鵜草葺不合皇朝、特にその皇朝の中半過ぎに到って皇朝内部にそれ以前にはなかった一種の風潮が芽生え出したのであります。前にお話しましたように、葺不合皇朝として表面は精神文明の熟成の時代であることに変わりはないのでありますが、その体制の底に異変が起って来たのであります。

 その異変とは何であるか、は先ずその皇朝の名、鵜草葺不合が示すところであります。鵜草(うがや)とはウ(言霊ウ)の神(か)の屋(や)根の意であります。その屋根が未(いま)だ葺(ふ)き上がっていない、即ち完成していない、の意です。どういうことかと申しますと、第三の精神文明の皇朝である鵜草葺不合皇朝は勿論、精神文明華やかなことに間違いないのだが、その体制の奥底に精神文明ならざる物質科学文明という第二の人類文明の芽が吹き出して来たが、まだそれは芽吹いたばかりで、その完成は遠く、次の時代に持ち越されることになる皇朝、と言った意味を持つ皇朝の名なのであります。

 ではその異変と変革はどのようにして起って来たのか、は言霊百神の古事記の文章の次に詳しく述べられていることであります。
 
かれ、各(おのおの)依(よ)さしたまひし命(みこと)の隨(まにま)に、知らしめす中に、速須佐之男命、依さし賜へる国を治らさずて、八拳須心前(やつかひげむなさき)に至るまで、啼(な)きいさちき。その泣く状は、青山は枯山の如く泣き枯らし、河海は悉に泣き乾しき。ここをもちて悪しき神の音なひ、さ蝿如(ばえな)す皆満ち、万(よろず)の物の妖悉(わざはひ)に発(おこ)りき。故、伊耶那岐大御神、速須佐之男命に詔りたまはく、「何とかも汝(いまし)は言依させる国を治らさずて、哭きいさちる」とのりたまへば、答へ白さく、「僕(あ)は妣(はは)の国根(ね)の堅洲国(かたすくに)に羅(まか)らむとおもふがからに哭く」とまおしたまひき。ここに伊耶那岐の大御神、大(いた)く分怒(いか)らして詔りたまはく、「然らば汝はこの国にな住(とど)まりそ」と詔りたまひて、すなはち神遂らひに遂ひたまひき。……

 上の古事記の文章を現代文に直すと左の如くなります。
 父神、伊耶那岐命の命令に従って、天照大神は高天原、月読命は夜の食国(宗教・芸術)、須佐男命は海原(産業・経済)の領域を主宰して仕事にいそしんでおりましたが、或る時が来て、三貴子の中の須佐男命が、自ら委任された産業・経済の仕事を放り出して、高天原の原理であるタカマハラナヤサの十拳剣(とつかのつるぎ)の方法でない、産業・経済の世界の物質を取り扱う独特の方法があるのではないか、と思いつめ、その方法である八拳剣のカサタナハマヤラの方法を見つけようと盛に勝手な研究をトコトン始めたのでした。高天原の清浄・平穏な雰囲気の中に異状な不協和音が鳴り響き出し、剣呑な状況が現われて来ました。それを見兼ねた伊耶那岐命は須佐男命に問い質(ただ)しました。「お前はどうしてお前の責任である産業・経済の仕事をしないで、高天原のリズムを乱す言葉をわめきちらすのだ」須佐男命が答えました。「私は物とは何かという研究・学問がしたくなり、そのためにお母神のいます客観世界へ行きたくて泣いています。」伊耶那岐命は命令を守る心が須佐男命にはないことを知って大いに怒り、「お前がそういう心ならば、この高天原にいることは許されない。外国へ行ってお前の好きな研究をしなさい」と言って、高天原から黄泉国(よもつくに)へ追放したのでした。

 上の古事記の須佐男命追放の文章を更に平易に須佐男命の気持ちの側から書いてみると次の様になります。
 「私、須佐男命は長い間、高天原日本で姉神、天照大神の保持する五十音言霊布斗麻邇の原理に従い、姉神と協力して物質の生産・管理(産業・経済)の仕事をやって来た。姉神が保持する言霊の原理は人間の心の学問としては最高で、一点の誤りもない、立派なものである。私は長い期間、社会の物質に関する営みに従事して来た結果、物質世界には心の世界とは異なった法則が働いているに違いないと思われて仕方がない。私は是非ともこの物質法則を知りたくなった。どんな苦労をしようと、私はその道を歩みたい。この平穏・無事な高天原では駄目だというなら、外国へ行ってでも研究を続け度い」ということになります。

 かくてこの高天原日本から、精神の究極の原理である言霊布斗麻邇ではない、物質世界の究極の原理を求めて、須佐男命物質科学研究集団とも呼ばれるべき人々が外国に向って出発して行ったのであります。人類第二の物質科学文明の始まる第一歩はかくの如くして実行されたのでありました。今より四乃至五千年程前のことであります。

 須佐男物質科学研究集団は日本より先ず朝鮮半島に渡り、そこに檀君国を建設したと伝えられます。彼等は更に中国東北部より中国北部に進み、印度に到達しました。中国北部に建設した国は商または殷(いん)と称しました。それ等の国は西域より進んで来た異民族によて滅ぼされ、周(しゅう)が建国されたと伝えられています(契丹古伝)。須佐男研究集団の研究は、初めの間は精神文明の言霊原理を物質に適用する方法で始められましたが、年を経るに従い、物質研究特有の方法を開発していきました。彼等の第一の武器は数の概念であります。須佐男物質科学研究集団の歩みは、初めの間は極めて遅々たるものでありましたが、次第にその速度を増し、数を駆使する研究の成果を積み重ねて行き、その結果、鵜草葺不合朝の精神文明の社会の中にあって軽視することが出来ない社会的勢力に成長し、物質重視の風潮を黄泉国外国の中に形成して行くこととなります。

 三位一体のもう一つの翼を担う月読命の働きはどうなのでしょうか。月読命の仕事領域は人間の心の中から言霊原理を除いた全ての領域です。そして月読命は言霊原理を与えられない代わりに思考の概念を授かりました。彼等の仕事は須佐男命と同様に、初めの間は言霊原理の概念による解釈が専らでありました。世界の各民族の神話の作成も彼等の仕事であります。中国の伝説にある三皇五帝といわれる三皇の燧人氏、伏羲氏、神農氏の中の伏羲氏に、高天原の原理「天津金木」を中国漢学の概念に脚色し、「易」として伝えたのも彼等の仕事でありました。その他世界各地に概念哲学や原始宗教を教伝するのも彼等でありました。

 葺不合皇朝の後半より、先に述べました各国の王や王族ばかりでなく、民間の賢人、学者の来朝も盛んになってきました。竹内古文献によって見ると主だった人々だけでも次のようになります。

 伏羲  葺不合皇朝五十八代 御中主幸玉天皇の御宇(みよ)
 モーゼ 同    六十九代 神足別豊鋤天皇の御宇
 釈迦  同    七十代  神心傳物部建天皇の御宇
 老子  神倭皇朝 一代   神武天皇の御宇
 孔子  神倭皇朝 三代   安寧天皇の御宇

 人類の第一精神文明の基幹原理であるアオウエイ五十音布斗麻邇の学は、物事を見る側、即ち主観を反省することによって成立する学問であります。これに対し、物質科学研究は物事を観る側である主観を捨象し、見られる側である客観を抽象化して研究する学問であります。科学は物質を破壊し、その内容を調べることから始まります。須佐男物質科学研究集団の仕事も初期の間は精神法則である言霊の原理を物質の現象に当てはめて考える手法を採用して研究を進めて行ったのですが、時が経つに従い、現代科学が採用している「破壊・研究」の方法に次第に手法を変えて行きました。精神学問からの科学の独立へ向ったのであります。そして須佐男科学研究集団が日本を出発してより約千年余、その成果はまだ幼稚ではありますが、それでも一般民衆の生活に影響を与える程の勢力に成長して行きました。その科学研究の原動力である人間の好奇心は、人間の心の内部に対しても浸透して行き、人々の間に自我意識の芽を育てて行ったのであります。精神文明時代の全体主義的福祉の社会から大きく個人主義的幸福追求の時代風潮が生まれようという気配が芽生え、広がって行ったのであります。

 このようにして鵜草葺不合皇朝の末期の頃(四千年から三千年前頃まで)には、この社会風潮のうねりは大きくなり、無視出来ない高まりとなって来ました。このことをいち早く知った高天原日本の朝廷は、会議の結果、この風潮を五千年間続いた人類の第一精神文明時代を終了し、次の第二の人類文明時代に転換させるための絶好の機到来と位置づけ、種々の政策を決定し、実施して行ったのであります。その結果――

 一、鵜草葺不合皇朝初代以来、天皇は即位後世界各地を巡幸し、言霊布斗麻邇の原理より考案した諸種の精神文化を教伝するのを常としていましたが、その巡幸を中止し、高天原日本の朝廷と世界各地との直接の連絡を廃止しました。その為、布斗麻邇という精神的最高原理の存在の意識が外国に於て薄れていったのであります。

 二、その後更に千年経ち、言霊原理の保持国であった高天原日本に於ても、その精神真理を以ってする政治を廃止し、言霊原理を世の中の表面から隠没させる事となります。その政策は神倭朝一代神武天皇の御宇に決定され、その実行は六百年後の第十代崇神天皇によって実行に移されました。即ち三種の神器の同床共殿制度の廃止であります。

 ここに於て約五千年間続いた人類の第一精神文明時代は名実共に終焉を迎えたことになります。人類全体の文字通り命運に関わるこの大変革を推進した高天原日本朝廷の意図は果たして何であったのでしょうか。その経綸の将来に何を望んだのでありましょうか。人類の新しい文明創造の旅路のお話は次号よりに譲ります。

 (次号に続く)

   伊豆能目(いづのめ)(言霊学随想)

 会報「コトタマ学」の号数が今月号で二百三を数えるに到った。この二百三の会報の中に、随所に「言霊学の全貌が明らかになった今」とか、「言霊布斗麻邇が古代にあったと同様の姿に復活した……」などと書かれた文章に出合います。そうかと思うと「言霊原理は既にその九十五パーセント以上が明らかになっている」とも書かれています。全貌が明らかなら、百パーセントとどうして書かないのか、と文章を書いた筆者自身不思議に思う時があります。意識の上からは百パーセント解明したと思いながら、筆者の潜在意識の中にまだ納得していない箇所があるから、無意識的に百パーセントを九十五パーセントと割引して書いてしまうに相違ないのだ、と思い、言霊百神と呼ばれる百の神様の名前を心の中で一つ一つ点検してみました。有りました。見つかりました。

 神直毘神、大直毘神、伊豆能売 の三神

です。理論的にはこの三神の前後の神を続けて読みますと、その心の流れがいともスムーズに流れて(これを樋速日[ひはやひ]といいます)矛盾を感じないものですから、分ったものと早合点してしまったのです。「古事記と言霊」の本の中のその三神の箇所を更めて読んでみましたら、そのことがはっきり読み取れます。

 そこでこの一ヶ月程の間、この三神のことばかりを意識のFOCUSに置いて思案して来ました。その結果、この三神以後の古事記の神名が示す内容が、今までの筆者の学問常識ではとても捕捉し得ない大きな力の存在に気付きました。それこそが生命(イの道)の光(霊駆り)の世界の出来事であることを知りました。有り難いことでありました。詳細は折に触れお話申上げようと思っています。ご期待下さい。

(終り)