「コトタマ学とは」 <第二百三号>平成十七年五月号 | |||
先月号にて人類の第一精神文明時代の三つの皇朝についてお話申し上げました。第一の皇朝を邇々芸(ににぎ)皇朝といい、五人の天皇(スメラミコト)が相次いで政治の座につきました。いわば言霊布斗麻邇の原理に基づき、その時以前、世界中に行われていた強い者勝ちの覇権的な社会を次々に言向(ことむ)け和(や)わし、布斗麻邇の原理の光に靡(なび)かせて行った精神文明創業時代の皇朝であります。世界中の国家・民族は大体この皇朝時代に、その時まで夢にも見ることがなかった言霊の光の政治の存在を知り、喜んでその傘下に身を委ねるようになったものと推察されます。 二番目の彦(ひこ)(日子)穂々出見(ほほでみ)皇朝に於ては八人の天皇が相次ぎました。この皇朝時代に布斗麻邇の光の中に世界各地の人々はその善政を謳歌し、精神文明の花が全世界に開いた繁栄の時代を迎えたものと推察出来ます。旧約聖書に「全地は一つの言葉、一つの音のみなりき」と書かれた布斗麻邇文明の成果の花咲く時代でありました。 これに続く第三番目の鵜草葺不合(うがやふきあえず)皇朝の時代も精神文明繁栄の時代でありました。と言うよりむしろ爛熟の時代と申したらよい時代でありました。この皇朝時代、実に七十二世の天皇が相次ぎました。霊(ひ)の本(日本)である日本朝廷の徳を慕い、世界各地より王、王族の来朝が相次ぎ、文字通りこの日本は世界文化の中心となり、言霊原理に由来する各種文化は広く世界各地に伝えられ、現在世界各地に遺っている民族の神話はこの時代に言霊原理によってそれぞれの民族に適応するように作られたものであります。 では二番目の彦穂々出見皇朝と第三番目の鵜草葺不合皇朝とは何が違うのか、と申しますと、彦穂々出見時代が精神文明の最盛期であり、鵜草葺不合時代が爛熟期だというだけでなく、葺不合皇朝の時代には、継承された精神文明が爛熟の時代を迎えただけでなく、その精神文明の内側に、やがて人類の第二文明となる物質科学文明の種が芽生え始めた時代でもあったのであります。この日本民族の、また世界人類の文明創造の流れの変容の消息を説明するためには、話をもう一度、言霊原理発見と完成の高天原時代に戻して考える必要があります。即ち言霊原理の総結論完成の時の古事記の文章に立ち返って検討してみることといたします。 言霊学の総結論である三貴子(みはしらのうずみこ)誕生の古事記の文章は次の通りです。 以上の三貴子誕生について伊耶那岐の命の言葉の中には、日本天皇の世界人類の文明創造の御経綸についての重要な意味内容が二つ述べられています。その一つは三権分立の確立であり、二つ目は三位一体の協力体制の命令です。簡単に説明しましょう。 三権分立 三位一体 人類の第一精神文明の時代は、以上説明しました三権分立、三位一体の原則に従いながら、邇々芸、彦穂々出見、鵜草葺不合の三皇朝が継立して行ったのでありますが、第三番目の鵜草葺不合皇朝、特にその皇朝の中半過ぎに到って皇朝内部にそれ以前にはなかった一種の風潮が芽生え出したのであります。前にお話しましたように、葺不合皇朝として表面は精神文明の熟成の時代であることに変わりはないのでありますが、その体制の底に異変が起って来たのであります。 その異変とは何であるか、は先ずその皇朝の名、鵜草葺不合が示すところであります。鵜草(うがや)とはウ(言霊ウ)の神(か)の屋(や)根の意であります。その屋根が未(いま)だ葺(ふ)き上がっていない、即ち完成していない、の意です。どういうことかと申しますと、第三の精神文明の皇朝である鵜草葺不合皇朝は勿論、精神文明華やかなことに間違いないのだが、その体制の奥底に精神文明ならざる物質科学文明という第二の人類文明の芽が吹き出して来たが、まだそれは芽吹いたばかりで、その完成は遠く、次の時代に持ち越されることになる皇朝、と言った意味を持つ皇朝の名なのであります。 ではその異変と変革はどのようにして起って来たのか、は言霊百神の古事記の文章の次に詳しく述べられていることであります。 上の古事記の文章を現代文に直すと左の如くなります。 上の古事記の須佐男命追放の文章を更に平易に須佐男命の気持ちの側から書いてみると次の様になります。 かくてこの高天原日本から、精神の究極の原理である言霊布斗麻邇ではない、物質世界の究極の原理を求めて、須佐男命物質科学研究集団とも呼ばれるべき人々が外国に向って出発して行ったのであります。人類第二の物質科学文明の始まる第一歩はかくの如くして実行されたのでありました。今より四乃至五千年程前のことであります。 須佐男物質科学研究集団は日本より先ず朝鮮半島に渡り、そこに檀君国を建設したと伝えられます。彼等は更に中国東北部より中国北部に進み、印度に到達しました。中国北部に建設した国は商または殷(いん)と称しました。それ等の国は西域より進んで来た異民族によて滅ぼされ、周(しゅう)が建国されたと伝えられています(契丹古伝)。須佐男研究集団の研究は、初めの間は精神文明の言霊原理を物質に適用する方法で始められましたが、年を経るに従い、物質研究特有の方法を開発していきました。彼等の第一の武器は数の概念であります。須佐男物質科学研究集団の歩みは、初めの間は極めて遅々たるものでありましたが、次第にその速度を増し、数を駆使する研究の成果を積み重ねて行き、その結果、鵜草葺不合朝の精神文明の社会の中にあって軽視することが出来ない社会的勢力に成長し、物質重視の風潮を黄泉国外国の中に形成して行くこととなります。三位一体のもう一つの翼を担う月読命の働きはどうなのでしょうか。月読命の仕事領域は人間の心の中から言霊原理を除いた全ての領域です。そして月読命は言霊原理を与えられない代わりに思考の概念を授かりました。彼等の仕事は須佐男命と同様に、初めの間は言霊原理の概念による解釈が専らでありました。世界の各民族の神話の作成も彼等の仕事であります。中国の伝説にある三皇五帝といわれる三皇の燧人氏、伏羲氏、神農氏の中の伏羲氏に、高天原の原理「天津金木」を中国漢学の概念に脚色し、「易」として伝えたのも彼等の仕事でありました。その他世界各地に概念哲学や原始宗教を教伝するのも彼等でありました。 葺不合皇朝の後半より、先に述べました各国の王や王族ばかりでなく、民間の賢人、学者の来朝も盛んになってきました。竹内古文献によって見ると主だった人々だけでも次のようになります。 このようにして鵜草葺不合皇朝の末期の頃(四千年から三千年前頃まで)には、この社会風潮のうねりは大きくなり、無視出来ない高まりとなって来ました。このことをいち早く知った高天原日本の朝廷は、会議の結果、この風潮を五千年間続いた人類の第一精神文明時代を終了し、次の第二の人類文明時代に転換させるための絶好の機到来と位置づけ、種々の政策を決定し、実施して行ったのであります。その結果―― 一、鵜草葺不合皇朝初代以来、天皇は即位後世界各地を巡幸し、言霊布斗麻邇の原理より考案した諸種の精神文化を教伝するのを常としていましたが、その巡幸を中止し、高天原日本の朝廷と世界各地との直接の連絡を廃止しました。その為、布斗麻邇という精神的最高原理の存在の意識が外国に於て薄れていったのであります。 二、その後更に千年経ち、言霊原理の保持国であった高天原日本に於ても、その精神真理を以ってする政治を廃止し、言霊原理を世の中の表面から隠没させる事となります。その政策は神倭朝一代神武天皇の御宇に決定され、その実行は六百年後の第十代崇神天皇によって実行に移されました。即ち三種の神器の同床共殿制度の廃止であります。 ここに於て約五千年間続いた人類の第一精神文明時代は名実共に終焉を迎えたことになります。人類全体の文字通り命運に関わるこの大変革を推進した高天原日本朝廷の意図は果たして何であったのでしょうか。その経綸の将来に何を望んだのでありましょうか。人類の新しい文明創造の旅路のお話は次号よりに譲ります。 (次号に続く)
会報「コトタマ学」の号数が今月号で二百三を数えるに到った。この二百三の会報の中に、随所に「言霊学の全貌が明らかになった今」とか、「言霊布斗麻邇が古代にあったと同様の姿に復活した……」などと書かれた文章に出合います。そうかと思うと「言霊原理は既にその九十五パーセント以上が明らかになっている」とも書かれています。全貌が明らかなら、百パーセントとどうして書かないのか、と文章を書いた筆者自身不思議に思う時があります。意識の上からは百パーセント解明したと思いながら、筆者の潜在意識の中にまだ納得していない箇所があるから、無意識的に百パーセントを九十五パーセントと割引して書いてしまうに相違ないのだ、と思い、言霊百神と呼ばれる百の神様の名前を心の中で一つ一つ点検してみました。有りました。見つかりました。 神直毘神、大直毘神、伊豆能売 の三神 そこでこの一ヶ月程の間、この三神のことばかりを意識のFOCUSに置いて思案して来ました。その結果、この三神以後の古事記の神名が示す内容が、今までの筆者の学問常識ではとても捕捉し得ない大きな力の存在に気付きました。それこそが生命(イの道)の光(霊駆り)の世界の出来事であることを知りました。有り難いことでありました。詳細は折に触れお話申上げようと思っています。ご期待下さい。 (終り) |