「コトタマ学とは」 <第二百二号>平成十七年四月号
   五種類の五十音図

 五十音図といいますと、私たちは小学校の時から教えられたアイウエオ五十音図がただ一つあるだけと思ってきました。その上、五十音図が何故縦にアイウエオと並び、横にアカサタナハマヤラワと並ぶのかなどということは、全く考えたこともなかったというのが実情でしょう。そもそも音図とは何なのでしょうか。

 今までにお話してきたように、人間の心は全部で五十個の最小単位の要素である言霊から成立しています。その内訳は五つの母音、四つの半母音、八つの父韻、それに三十二の子音であります。人間の心はこれで全部ですし(言霊ンを加えて)、これ以上でもこれ以下でもありません。

 遠い昔、日本人の祖先は、心は五十の言霊から成立しているということを解明し、それと同時に、その五十音の言霊をどのように並べたら人間のその時その時の心の理想的な持ち方を表わすことが出来るかを明らかにしました。それが五十音図なのです。

 この五十音を配列する場合、自分自身である私の心の宇宙(心の五重)である母音を右側に並べます。そして行動の相手であるあなたの心の宇宙(半母音)を左側に並べます。その上で私とあなた、母音と半母音を結ぶ架け橋となる意志の運び方である八つの父韻を右から左へ横に並べます。
 さて、縦の母音(半母音)の並び方の順はどのように定めるのでしょうか。横の八つの父韻の順はどうなのでしょうか。それが問題です。

 先ず母音の順序です。この場合、人間のその時の最も行動の主眼となる心の次元を五母音の中心に置くことになります。図を参照して下さい。

 例えば、商売をする人の心の場合です。その心の主眼となるのは欲望です。言霊ウです。ですからウを五母音の中心に置きます。商売の心の世界が欲望ウだからといって、商人の心の中に他の四つの次元、経験知(オ)・感情(ア)・実践智(エ・道徳心)それに意志がないわけではありません。ただ商人は商売をする時、ウ言霊である欲望性能以外の次元はウ次元の目的を達成するための手段(道具)に使うこととなります。長年の経験(オ)も、明るい人柄(ア)も、そして嘘をつかない正直さ(エ)も意志の強さも、すべて商売を成立させる手段となります。

 その手段であり道具となる他の四つの次元の中で、目的達成に有効なものほど中心のウに近く配列していきます。そうしますとウ言霊を中心にして行動する人の心の母音は、上からアイウエオと並ぶこととなります。

 以上で縦の母音の並び方の法則は分りました。次に私とあなた、母音と半母音を結ぶ八つの父韻の並べ方についてです。

 八つの父韻といいますのは、私と貴方とを結んで私自身の行為の目的を達成させるための意志の運び方です。この意志の発動の仕方に八種類があり、それぞれ特有の動きがあります。また、八種類で動きのすべてです。他にはありません。ただ残念なことには、意志の動きというものは心の奥の奥のものですから、言葉で簡単に、そして分り易く表現することは困難です。これは言霊学の最も難解な箇所なのです。ですから、本書では八つの父韻の並べ方が、心の次元によって全く違って来るということを申上げておきます。一つ一つの父韻の動きに関しては、既刊「古事記と言霊」を御参照ください。

 そして音図の向って右の母音の私から意志が発動され、半母音のあなたと結び付いて行為が完結します。意志の動きは、右から左に向って流れることになります。そのようにして商売をする人の意志の順序は、意志を表わす言霊イの段階のキシチニヒミイリと決められました。

 そうしますと、縦に母音がアイウエオと並び、横に父韻がキシチニヒミイリとなって、五十音図は前に示したような、私たちが日頃使っているアイウエオ五十音図が完成されます。この音図のことを昔、古神道では天津金木(音図)と呼びました。

 私たちが日頃これだけしかないと思っていたアイウエオ五十音図は、実は人間の性能の一つである欲望(言霊ウ)の目的を達成するのに最も適した心の持ち方を示す音図(天津金木)だったのです。物質文明を中心としたここ二千年の人類の中では、この音図で示された心の構造が最も頼りになるという事実から考えますと、当然のことと頷かれます。

 現在、私たちはアイウエオの五十音図しか使っていないといいましても、今お話しました五十音図を作る法則を考えますと、このアイウエオの音図の他にさらに四つの音図がなければならない勘定になります。言霊オ(経験知・学問)、ア(芸術・宗教)、エ(実践智・道徳)、イ(創造意志)をそれぞれ中心とする音図です。現在は全く見慣れないのですが、大昔にすでに確定していた音図なのです(音図表参照)。人間の持つ心の性能をよくよく観察して見届けますと、それを五十音図としてまとめて表わすことの出来た私たちの祖先の、精神の緻密さに驚嘆するばかりです。

 しかし、四つの五十音図のうち、言霊イの天津菅麻(音図)だけは、母音と父韻とも、先にお話しました配列の法則と趣を異にします。何故なら人間の創造意志は他の四つの性能に働きかけて現象を起させる原動力でありますが、意志それ自体は直接に現象として現われることがないからです。従って八つの父韻の定まった順もありません。

 〔注〕アイウエオ五十音図の起源はたかだか数百年だ、というのが現在学会の通説です。その理由は、それ以前には五十音表の書かれた文書が史実の上で見当たらないためです。けれど私たちが使っていた日本語が、先にお話しました先天構造の原理と五十音図の原理から作られたという事実が理解されますと、五十音図が作られたのは大昔であることが了解されるでしょう。

(次号に続く)

   日本と世界の歴史 その二

 人間の心と言葉に関して究極の原理である五十音布斗麻邇を発見した聖の集団は、次に地球上にこの原理を応用して万物共有の樂土を建設しようとして、その創造の政治を行うに適した場所を求めて高天原の高原から平地に下りて来ました。その集団の長を邇々芸命(ににぎのみこと)といいます。そしてその長い旅路の末に、「ここぞいと吉き地」と永住の地として定めたのはこの日本列島でありました。先月号にてここまでお話しいたしました。

 古事記はこの「いと吉き地(よきち)」と終着地を決定しました後に「底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷椽(ひぎ)高しりてまし坐しき。」という文章が続いております。この文章を角川文庫の訳者によりますと、「地の下の石根に宮柱を壮大に立て、天上に千木を高く上げて宮殿を御造営遊ばされました」と書いております。このように単に宮殿を建てた、という形而下の出来事と解釈しますと、この文章より七、八行前にある古事記の文章「ここに天津日子番能(ひこほの)邇々芸命に詔りたまひて、天の石位(いはくら)を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、稜威(いつ)の道別(ちわ)き道別きて、天の浮橋にうきじまり、そり立たして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき」とある文章が全くの絵空事の如く、邇々芸命が何処かの天体から地球上の高千穂の山に舞い降りた、ということになってしまいます。

 単なる神話(神様の物語り)とするなら、それで何ら構わないのですが、その神話を国家の起源と結びつけますと、途方もない超越的な国家観が成立してしまうこととなりましょう。神話の内容は飽くまで言霊学の内容を後世に伝えるための黙示として見ることが必要であります。大昔には精神内容の表現に必要な概念的用語がありませんでした。そしてその用の為に用いられたのは自然現象による比喩であります。このことを頭に留めて古事記・日本書紀の神話に接することが肝腎であります。

 右のような訳で「底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷椽高しりてまし坐しき。」の意味を言霊学を通してみますと、次のように解釈されます。「人類文明を創造する政治の要諦(心構え)として、人間が生まれる時から授かっている五性能を表わす天津菅麻音図の母音アオウエイの最下段、イ次元に展開する言霊五十音(石根=五十葉音)を基盤として、その上に政治活動の判断の基準となる心の柱アイエオウの自覚をしっかりと打立て、その判断によって各文化を取り入れて、それを材料として人類文明を創造して行く最高の心構えであるア・タカマハラナヤサ・ワの十拳の剣を振るう(禊祓)生命の耀き(千木)の光を高々と打立てたのであります。」高天原に於て発見し、自覚し、培って来た人間究極の英智の光を、今、人類文明創造の歴史の出発点に立って、改めてその心構えを再確認した訳であります。この時を以って、人類の歴史の出発点と宣言したのでありました。人類の歴史の第一年であり、今から八千年乃至一万年前のことであります。

 現代の歴史家の説くように、古い時代の人間の生活を示す遺物や記録が発見、発掘され、それ等を年代順に並べ、それ等の関連性を推察することによって現われる一連の筋道が人類の歴史なのではありません。「蟹はその甲羅に似せて穴を掘る」といわれます。人類もその甲羅に似せて歴史を創造して行きます。人間の甲羅とは人の心の究極の構造、五十音言霊です。この五十音言霊布斗麻邇の原理に則り、その原理の運用法によって歴史を創造します。人間の生命の基盤を明らかにし、それによって人類の歴史の究極不変の目的達成の為に、言霊原理運用の方法を駆使して創り出して行く歴史、この聖なる意図的な歴史こそ人類の歴史であります。神であり、同時に人間である人間が綾なし、創り出す歴史、これが人類の歴史なのであります。

 そしてその歴史創造の責任者を天津日嗣天皇(アマツヒツギスメラミコト)と申します。天津とは大自然より授かった、の意。日は霊(ひ)で言霊原理のこと。嗣とは代々その言霊原理を伝え、自覚・保持している、の意。天皇とは現代の天皇とはその内容が全く違い、スメラミコトと呼びます。スメラは「統(す)べる」で統一する、統轄するの意。ミコトは全人類の声、の意です。アマツヒツギスメラミコトの全部で「大自然より授かった人間が人間であるべき究極の法則、即ち言霊布斗麻邇の原理を自覚、保持、継承し、その原理を以って全人類の言葉を聞こし召し、統一して大和(だいわ)の社会を創造する人」の意であります。第一代のスメラミコトは、高天原よりこの日本に来て、初めて人類歴史創造のための政庁を築いた邇々芸命ということになります。

 さて、日本に着いた邇々芸命を長とする聖の集団が「ここは吉き地」といって歴史創造の根拠地と定め、政庁を建て、先ず第一に何をしたでしょうか。それは言葉を作ったことであります。邇々芸命の最初の邇は、一である言霊原理を語源として、第二番目の芸術である日本語(大和言葉)を作った事であります。禅の言葉に「柳は緑、花は紅(くれない)」というのがあります。柳の葉は緑色で、花は赤く咲いている、というだけの意味ではありません。春の新緑の柳の葉を見た瞬間に人の心に映じる鮮やかなほのぼのとした緑の色彩、真っ赤な蘭の花が開いた時の息が止まるかと思われる鮮やかさ、その感じを物事の実相に喩えたのです。日本の風土にはそのような細やかな温暖な気候、何とも親しさを覚える風土があります。その様な人の心をゆさぶるような物事の実相、人の心の細やかさ等々を観察して、それぞれの実相を、また現象の究極の三十二の実相音(言霊)をもって一音、二音、または三、四音等々結び合わせて「これっきゃない」という名前をつけて行ったのであります。物事や出来事の事態が如何に複雑に見えようとも、それを観察する人々の答えが十人十色であっても、その実相(実際の内容)は唯一つであります。人々がそれぞれの経験の眼で見るから十人十色となるのです。経験を超えた人間天与の眼(宇宙の眼)で見るならば十人、百人いようとも、真実の相はただ一つなのです。その実相を見て、それに究極の実相音である言霊の音を以って名付けるならば、名前がそのままその姿、その事態を示します。その音、その言葉を霊葉(ひば)と申します。昔、わが日本のことを「惟神言挙げせぬ国(かむながらことあげせぬくに)」と言いました。物事にその実相を見、その実相に実相音を以って作った言葉(霊葉=光の言葉)で表現しましたから、万人が一様に見、理解する言葉となりましたので、その事について議論をする余地はない国なのだ、というわけであります。私達日本人が日常使っている日本語の原典である大和言葉が第二の芸術といわれる所以であります。この第二の芸術である大和言葉(日本語)がそのまま通用して誤りや滞りのない真実の社会を創造して行く政治の軌跡、これが真実の歴史であります。

 邇々芸命の集団がその遠大な構想を実践するべく日本に天降って来た時、日本や世界は果たして如何様な状態であったのでしょうか。そして聖の集団はそれに対して如何様な方法で世の中を治めて行ったのでありましょうか。所謂天孫降臨時の日本や世界の様相を古事記は「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、いたくさやぎてありけり」と述べており、また大祓祝詞(おおはらいのりと)には「……斯く依(よさ)し奉(まつ)りし国中に、荒ぶる神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神拂ひに拂ひ賜ひて、言問ひし磐根樹根(いはねきね)立ち、草の片葉(かきは)をも言止めて、……」とあります。邇々芸命集団が日本に到着した頃の世界は、大祓祝詞のいう「荒ぶる神等(かみたち)」の世界であったのです。「荒振る」とは言霊学でいう荒の音図の示す考え方、の意。荒の音図とは言霊ウの五官感覚に基づく欲望の世界、五十音言霊が縦に母音がアイウエオと並び、最上段のア段がカサタナハマヤワと横に並ぶ音図、即ち天津金木音図の世界のことであります。ア段がアからラに連なる心の運び方は正しく人間の欲望を主流とする世相であり、強い者勝ち、弱肉強食の社会のことで、権力一辺倒の世の中のことであります。この言霊学でいうアラの音図のやり方を振う、の意で「荒振る…」と申します。

 この腕力の強さと権力の大きい者が幅を効かす世の中のやり方に対して、邇々芸命集団のとった方策とは如何なるものであったのでしょうか。更に大きな権力と強い腕力を以って対処したわけではありません。大祓祝詞には「荒ぶる神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神拂ひに拂ひ賜ひて、言問ひし磐根樹根立、草の片葉をも言止めて、天の磐座放(いはくらはな)ち、天の八重雲を巌の千別きに千別きて、天降し依し奉りき」と詳しく述べております(会報百五十四号、「大祓祝詞の話」その三、参照)。

 邇々芸命の聖の集団の人達は荒振る神(人)と戦争をしたわけでも、論争をしたわけでもありません。話し合いをしたのであります。「荒ぶる神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神拂ひに拂ひ賜ひ、……」とあります。「君たちはそれで満足か、仕合せか」と問うたのであります。ただの言葉で質問したのではありません。先に申上げました光の言葉霊葉で問うたのです。人の心の奥の奥、底の底の暗闇(くらやみ)まで透る光明の言葉で問いかけたのです。光の届く処、闇は立所に消え去ります。否も応もなく、正しき道の存在に気付かせるのです。これが「神問はしに問はし賜ひ、神拂ひに拂ひ賜ひて」の内容であります。荒ぶる神等は自分等が夢にも見ることがなかった至福の世界の住民になることを心の底から願うようになります。

 その結果「言問ひし磐根樹根立、草の片葉をも言止めて」となります。どういうことかと申しますと「言問ひし」とは、聖の集団の方から先住の荒振る神(人)等に「今の世相で貴方等は満足しているか。仕合せか。」と問いかけた事であります。その話合いの結果、先住民の方の磐根、樹根を断ち(立)、草の片葉を廃止(言止め)させたのです。磐根とは五葉音の意。言霊学で謂う五つの次元、欲望(ウ)、経験知(オ)、感情(ア)、実践智(エ)、創造意志(イ)のそれぞれの人間性能が人間によって自覚・区別が行われていないで、統率がとれていない、支離滅裂の言葉(それは丁度現代日本の言葉の様相)のことです。樹根とは気の音のことで、感情論のことと思われます。感情の赴くままに行動すること。これ等の物の考え方を停止させ、廃止させたのでした。草の片葉とは種々の書き記した言葉の意。言霊原理に基づくことのない種々雑多な文字、またはこのような文字で綴られたいろいろな考え方のことです。それ等の言葉や考え方を一つ一つ使わないよう指導して行ったのであります。言霊学に於ける「禊祓」の行の如く、一切の他文化を否定することなく摂取し、それを新しい生命の原理に則した姿として生まれ変わらせて行ったのであります。その結果は旧約聖書創世記にありますように―
 全地は一つの言葉、一つの音のみなりき
の社会が生まれ出ることとなります。この新世界の誕生は権力や武力を以って為し得る業ではありません。光の言葉(霊葉)で示される如く、粗野な風習が光耀く徳の風になびき伏すように、暗黒が消え、光明の世界が現出していったことです。

 「全地は一つの言葉、一つの音のみなりき」とは、多分全世界がただ一つの大和言葉に切り換えられ、他の住民古来の言葉のすべてが廃止された、ということではないように思われます。各国家、民族、地方の文化としての言語はそのままに、国内の枢要な機関、また国と国、民族と民族間の外交上の言語が言霊原理に基づく大和言葉に切り換えられた、と推測されます。何故ならその言葉が「言葉即実相」を文字通り表わす言葉であり、惟神言挙げせずに通用する世界で一つの言葉であったからであります。そして世界で唯一つの言語であり得しめる言霊原理(これを一音で霊といいます)の元の国の意で、この日本の国名を「霊の本」と呼ぶようになったのです。

 邇々芸命の聖の集団が日本国土に到着し、世界人類の理想の文明創造のための政廳を創設して以来、「全地は一つの言葉、一つの音のみなりき」の統一された精神文明の時代の端緒を建設するまでには長い年月を必要としたことでありましょう。この世界樹立の時は今より約八千年程前と推定されます。この時から今より約二千七百年以前の神武天皇の神倭皇朝の創設まで約五千年の間に、古事記に於ては三人の神様、邇々芸命(ににぎのみこと)、日子火々出見命(ひこほほでみのみこと)、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)が生まれたと書かれております。五千年の間に三人とは変だ、と思われるかも知れません。「神様ならその位不思議でも何でもない」と感じる方もいることでしょう。しかし、武内文献によれば、それは三人の神様ではなく、一代で何人、何十人の天皇が皇位を継承する皇朝のことなのだ、とあります。そう考えれば合理的であり、納得が行くことです。特に鵜草葺不合皇朝(うがやふきあえず)は七十二代の天皇が続く皇朝でありました。この五千年の三代にわたる皇朝の時代は霊の本に於ける言霊布斗麻邇の原理に基づく世界政治により大旨精神的平和、豊穣の代が続いた精神文明時代でありました。この時代を人類の第一精神文明時代と呼んでいるのであります。

 この五千年にわたる精神文明の時代には、歴代の天皇は政庁を通じて、言霊原理の応用によって考案された人事諸般についての手法、産業・経済の振興、天文・気象の観測等の技法等の文化を世界各国に伝えて、文化の中心的存在となり、また、歴代の天皇は即位後、十年、十数年を費やして世界各地を巡行され、文物を伝え、また言霊原理を各民族の人々が理解し易いようその土地の神話の形で遺されたと伝えられています。これが現在各民族に伝わる神話の原典であります。この日本の天皇の徳を慕って世界各地の王や王族等は、新天皇即位の式典には遥々各地から日本に来て即位の祝典に参列したと伝えられています。また世界各地の王や王族が死にますと、その遺骸は日本に運ばれ霊の本の地に埋葬されました。歴代の天皇を祭る宮を皇祖皇太神宮(すめおやすめらおほたましいたまや)といい、外国の王等の廟を別祖(そとつみおや)太神宮と呼ぶ、と武内文献にあります。現在の伊勢神宮の古代に於ける形式ということが出来ます。

 人類の第一精神文明時代に日本に於て三つの皇朝DINASTYが続いたと先にお話しました。邇々芸皇朝、日子火々出見皇朝、鵜草葺不合皇朝であります。これら三皇朝のそれぞれの特徴についてお話をすることにしましょう。

 邇々芸皇朝――邇々芸命を初代天皇とし、五代続いた皇朝(武内文献による)。先にお話した如く邇々芸の名が示すように二の二、即ち第三の芸術である言霊原理に則り、その原理の表現である五十音言霊を要素とする大和言葉の創造、その言葉の実相が一つも誤ることなく社会制度が作られる政治の先駆時代の皇朝であります。人類の文明創造の歴史の経綸を打立てた創業の皇朝。

 日子火々出見皇朝――日子は言霊原理から作られた言葉(大和言葉)。火は穂の意。その真実の言葉が、社会の中で損(そこ)なわれることのない合理的な社会の建設の成果(穂)が、穂に穂が咲くと言われる如く豊かに実って来た時代の皇朝という意味であります。日子火々出見天皇を初代とし、八世続いたと文献にあります。

 鵜草葺不合皇朝――鵜草葺不合天皇を初代とし、七十二世続いた皇朝。
 (次号に詳述いたします。)

 (以下次号)