「コトタマ学とは」 <第二百号>平成十七年二月号
   生命意志

 前にもこの言霊イとヰ、父韻の八音の言霊の説明は難しいといいました。何故なら「物事現象は何故起るのか、現象が起ったと、どうして人間は認識することが出来るのか」という哲学者や宗教者がここ三千年間、求め続けている精神の根本問題であり、未だよく分かっていないことだからです。言霊のイとヰ、それに八つの父韻の説明が難しいといいますのは、その完全には分かっていない宗教や哲学の用語では、その根本問題を説明するには不十分だからです。そこで難しい用語を使わず、いとも簡単な例を挙げて説明を進めてみることにしましょう。これはまた言霊の学問の根本問題でもあるのです。

 ここに一本の木が立っています(図参照)。この単純な事柄と思えることについて考えてみましょう。木が立っているなと見る人がいなければ、この事実は成立しません。またその木が物として存在しなければ見ることが出来ず、やはり事実とはなり得ません。このように現象があるということは、見る方の主体と見られる方の客体の双方に関係しています。

 見る主体(人)と見られる客体(木)との関係は、単に木があるなと感じる五官感覚(言霊ウ)だけではありません。この木は何の木だったか、植物図鑑では何の種類に属しているか、という学問の世界(言霊オ)の関係もあります。その他、この木は絵に描くとすると何号のカンバスが最も映えるかな、という芸術的関係(言霊ア)や、この木を切り倒して道路を作った方が良いか、それとも保存して環境保護を優先すべきか、といった政治道徳的関係(言霊エ)も成立します。

 ここで図をご覧ください。見ている人だけで、木がないとしたら現象は起りません。ですから、人は現象にならない純粋の主体です。母音ウオアエイです。逆に木が立っているが、見る人がいないとしたら、木は現象にならない純粋の客体で、半母音ウヲワヱヰで表わされます。この主体のウオアエイと客体のウヲワヱヰがどんな交渉で現象となるのでしょうか

 緑の葉を付けた茶色の幹と枝の木が立っていて、人間の眼がそれをそのまま見るだけだと思われる方が多いことでしょう。確かにその通りかも知れないのですが、そう簡単なわけにもいかないのです。別の例を考えてみましょう。

 鐘があります。棒で突いてみます。鐘が振動して空気を震わせ、空気中に波動が伝わっていきます。けれどこの波動自体がゴーンという音を立てているわけではありません。この波動が人間の耳に入った時、初めてゴーンという音に聞こえるのです。突かれた鐘は、無音の波動を出しているだけなのです。客体である鐘の出す波動と、主体である人間の認識知性の波動、またはリズムといったものがぶつかって、双方の波動の波長がある調和を得た時、すなわち感応同交(シンクロナイズ)した時、初めて人間は鐘がゴーンと鳴ったなと認識することになります。

 もう一つ例を挙げましょう。雨の後に大空に虹がかかる時があります。この虹はそれ自体が七色の色を発しているわけではありません。七種の光の波動を出しているだけです。その波動が人間の認識の主体波動と感応同交する時、初めて七つの色の虹として主体の側において認識されることになります。

 再び前の図に戻りましょう。主体と客体が、正確に言いますと、主体と客体の五つの次元のそれぞれであるウとウ、オとヲ、アとワ、エとヱ、それにイとヰがシンクロナイズしてそれぞれの現象を生むのですが、母音も半母音もそれだけでは結び付く働きを起すことのない存在です。それぞれを結び付ける能動的な架け橋となるものが必要です。この役目をするのが最後に母音・半母音として残った人間の創造意志(言霊イ・ヰ)の実際の働きであるキシチヒミリイニの八つの父韻なのです。純主体と純客体とを結び付けて現象を生む人間の創造知性とでもいうもの、その韻律が八つの父韻で表わされます。主体と客体とを結び付けるバイブレーションは、この八種しかありません。

 するとこの八つの父韻が四次元の結び付きを生むのですから――8×4=32で合計三十二個の子音を生むことになります。この三十二の子音がこの世の中のすべての現象の最小の単位ということになります。

(次号に続く)


   会報「コトタマ学」二百号記念

 言霊の会発行の会報「コトタマ学」が今月号(平成十七年二月号)を以って二百号を数えることとなりました。十六年と八ヶ月前、第一号の発行以来一度の休刊もなく今日を迎えることが出来ましたことは、日本人の遠い聖の祖先、皇祖皇宗の人類文明創造の歴史的御経綸の御稜威(みいず)の賜でありますと同時に、会員の皆様方の並々ならぬ御協力と御鞭撻の御蔭と厚く御礼申上げる次第で御座います。
 第一号創刊の初頭に先師小笠原孝次氏の言葉
   世界は唯一の空間の拡がり
   世界は唯一の歴史の流れ
   世界は唯一の人類の集まり
   世界は唯一の真理の流れ

 を掲げ、人類が保有する最高唯一の精神真理でありますアオウエイ五十音言霊布斗麻邇の原理の解明と普及のために号を重ねて参りました。その結果、言霊の数五十、その用五十、計百の道であります古事記解義言霊百神の真理は、今や現代の日本語を以って平易に説明し、その道理を日常茶飯の出来事の如く実行し得ることが可能となって来たのであります。このことは暗黒の地獄に沈まんとする人類の明日に大光明を掲げる大慶事であり、日本人はもとより世界人類と共に慶賀喝采すべき事と言うことが出来ましょう。人類の明日(あした)を云々することが出来る基礎理論とその実行の方策は既に完成しました。残るは唯一つ、画龍点睛を施す時を待つのみであります。会員の皆様の一層の御協力と御鞭撻をお願い申上げる次第でございます。

 さてお堅い話はこれ位にして、雑談形式で話を進めることといたします。世の中に温故知新(古きを温めて新しきを知る)という言葉があります。古き過去をすべて自分のものと把握してしまうならば、これよりどう生きて行ったらよいかは自ら分かって来る、というような意味であります。先師小笠原氏は若い時から胃の虚相という持病をお持ちであり、その治療として知人であり、高名な漢方医である矢数道明先生の調合した漢方の煎じ薬を常用しておられました。私もお手伝いで先生の代りに矢数先生の医院へ薬を頂きに行った事がありましたが、矢数医院の部屋の額に確か温古堂矢数医院と書いてあったと記憶します。そんな事もあって温故知新という言葉を印象深く思い出されるのですが、その言葉に従って言霊の会の会報の一号から二百号までをざっと振り返ってみたいと思います。

 私は時々、創刊号の「霊能・易ブームについて」を読んでいます。その文章が上手に書けているからではなく、書いた私自身がまるで金縛(しば)りにでもされているように文章が堅すぎる事を反省するためです。当時、若い人々の間に霊能や易に興味を持つ方が多く、知人から是非その事について書いて欲しいという希望を頂いたためでした。それより以前、私は他の会の会報に寄稿したことは幾度かありましたが、自分が主宰する会の会報を書くことは初めてであり、創刊号として特別の十頁の文章を知っている限りの知識を総動員して一気に書き上げたものでした。勢いその文章は次から次へと知識の羅列となり、お読み下さった方は恐らく筆者の主張を理解なさるのに難渋なさったことであろうと、今でも冷汗もので読むのです。申訳ないことであります。

 この文章の堅さから解放されたのは第二十号の「五目色不動」連載の頃でありました。日蓮宗の坊さんで、百九歳まで生き、徳川初代家康から秀忠、家光と歴代の将軍の政治の帷幄に参画した天海僧上という人が江戸城の守り神として城の五方に黄赤青黒白の五色の目の色をした不動尊を祀ったことに始まる五目色不動探訪記であります。言霊学でいう天之御柱、五つの母音が心中に自覚された状態と関係することから会報に取り挙げたのですが、探訪記でありますので、文章が柔らかくならざるを得ないのは当然ですが、それ以外に筆者の文章を柔らかくする裏話があったのです。

 創刊以来数十号までは頒布する相手が定まっている訳ではなく、ほとんどは無料でこちらから「読んで下さい」と知人、友人に送っていたものでした。その中に小学校時代の友であり、尊敬する畏友であった直木賞作家のM氏も入っていました。書生風の堅い難解な会報(当時、私の書いた原稿を家内がワープロで打ち、そのゲラをスーパー・マーケットのコピー機でコピーした読みにくい会報でした)を送りつけられて、さぞ迷惑なことであったでしょうが、私の予想に反して年額三千円(当時)の会費を送って下さり、「金を出すから口も出す」の謂(いわれ)で次のようにアドバイスを頂いたのでした。「会報の奥付に一部いくらと値段を書く以上は、読んで頂く方は皆お客様の筈です。文章を書く自分の傍に読む自分を常に置いておかないと、文章は自分勝手なものになり、他人からそっぽを向かれてしまうのではないかな」というのです。完全に一本取られました。文章書きは彼が先輩です。それ以来、アドバイスを胸に畳み込んで、書く自分の中に読む自分を同居させることを心掛けている次第であります。

 この五目色不動探訪には後日譚があります。この探訪は、天海僧上が江戸城の周(まわ)りに祀ったとされる位置が、その後の社会変動の影響で在所が移転してしまい、すぐに見付かったのは三ノ輪の目黄不動と目白の目白不動と目黒の目黒不動の三不動であり、目赤不動と目青不動は私と家内が歩き廻った末の発見でありました。(現在は東京の名所として名所地図に載っております)この歩き廻って探した努力の結果、言霊イエアオウの順に色相として黄赤青黒白が並ぶことを潜在意識に叩き込まれたのでした。当時から十数年も経った頃、言霊の会に旧官幣大社の春秋の大祭の時、その神社に天皇から下賜される御物が持ち込まれ、「言霊原理と関係がありますか」と質問を受けたことがありました(会報百六十一号「道と器」参照)。お許しを得て中を開けて見ましたところ、立派な絹布の巻物が上に五本並び、その染色の順が五目色不動の色相でアイエオウと並び、天津太祝詞音図と一致することが明白だと直ちに理解されたことでした。見た瞬間に分かること、これが考古学的判断には必要欠く可からざることであると思ったのであります。その点五目色不動探訪のご利益と申せるかも知れません。(御物の絹の配色はアイエウオの順でウとオに変動がありますが、「道と器」を御覧になれば分かりますように、五本の絹織物以外の構造は言霊学原理そのものであるところからウとオの順の逆は後世の人間の思惑の影響と思われました。)

 五目色不動に続いて「神様の戸籍」の文章が連続で十二号、ズート後で穂高神社の一号、合計十三号が続きます。神様あるいは神社とは、二・三千年前、世界人類の文明創造の原理であった五十音言霊の学が皇祖皇宗の政治の御経綸のため、その方便として世の中の表面から陰没されることとなりました。そして古神道言霊学に代って、言霊原理を構成する言霊百神の神々が神社神道の神として各地神社に祀られることとなりました。言霊学に関係する神々を天津神、それ以外の神霊を国津神と呼ぶのであります。「神様の戸籍」はそれ等天津神の一神々々を言霊学の立場から言霊百音図のどの音に当る神なのか、を明らかにする作業でありました。

 筆者は家内と共に年二・三回のフルムーン旅行をするのが常でしたが、その旅行先に天津神の神社があれば少々の廻り道をしても寄ってお詣りしたものです。百神の御祭神をただ書斎でその名について思案するよりも、時に大きな示唆を与えられることが分かっていたからであります。特にその効用が大きかったのは長野県の戸隠神社、木曾御嶽神社、それに天津神ではありませんが大分県の宇佐八幡神宮等でありました。「神様の戸籍」をお読み下されば詳細に説明されていることでありますが、一例として戸隠神社参拝を挙げておきましょう。戸隠神社は上中下社と分かれてお宮があります。上社の御祭神を手力男命(たぢからをのみこと)と申します。上社より気持ちのよい林の道を下りますと中社に着きます。中社の立札に祭神名が八意思金命とあるのを見て、膝を叩いたのでした。手力男命とは古事記「天の岩戸」の章で、岩戸の中に隠れていらっしゃる天照大神を、岩戸の戸を力まかせに開いて、天照大神を岩戸の外に連(つ)れ出す役目の神名です。神話物語としてはこれでよろしいでしょうが、言霊学では如何なることなのか、以前より気になっていました。それが中社の神名を見て、疑義は氷解したのでした。その神名、八意思金命(やごころおもいかねのみこと)の八意とは意(こころ)を単に心と書かず、意志の意を用いることによって、八つの意志の働き、即ち八父韻を指しています。思金の金は神音即ち後天現象音である子音を表わします。すると神名八意思金命とは八つの父韻の自覚の上から後天現象三十二の子音の理解に進もうとする人、ということになります。天照大神を岩戸の外に引き出し、この世の中を明るい世界に転換させる手始めの作業とは、八つの父韻の働きを自らの心の中に知り、それによって三十二子音の自覚、認識を完遂させようとすること、と受け取れるではありませんか。三十二の子音認識は言霊学の奥の院であり、奥義でもあります。中社のこの祭神名を見なかったら、かくも明瞭に「天の岩戸」を開けることの真の意義を知ることは尚将来のこととなったでありましょう。(埼玉県秩父市の秩父神社にもこの祭神名、八意思金命を見ることが出来ます。)

 次に会報五十八号「旗印」を取り挙げることにしましょう。この号は筆者が先師小笠原孝次氏に初めてお会いすることが出来た日(昭和三十七年)から平成五年頃までの言霊の会の歴史的経過を書いたものです。その期間には先師より教えられ、また雑談として話をして頂いた、私にとって一つ一つが珠玉の如き真理であるものが詰まって活動していた時代でした。一日一日、一月一月、そして一年一年が忘れることの出来ない思い出に光り輝いている時でありました。計らずも、全く計らずも先生にお会いし、夢にも見ず、予想もしていなかった日本民族伝統の言霊の真理の中に没入することが出来、「人とは、人類とは何ぞや」を身の中に浸み込むように教えて頂き、またそれを一つ一つ体験させて頂いた日々でありました。

 その期間の私の生活は言霊(ヒ)が走る光の学問を教えられそれを体験して行く、謂わば光の修業時代とでも言ったら良いものでした。自分個人は全く醜い性格でありながら、一度光の学問に入るとそこは全く普段と異なる光の世界、光と闇の間を往復しているような生活でした。その光の部分を書き綴ったのが旗印という文章であったのです。最近筆者は先師にお会いする以前の、生れてから三十七歳までの生立ちを「過ぎし日の事など」として三回に分けて文章を会報に載せました。その生活は先師にお会いしてからの日々と較べますと、闇から闇へ手探りの毎日であったように思われます。遥か彼方に見ることのない光があると信じて一歩々々闇の中を歩いていた日々でありました。暗黒から光明の世界へ、言霊学は言霊という光の学問であることを最近漸く知り得た気持です。そして光の学問がマスター出来る時、今まで闇と思われていた一切のものが、矢張り光の影に過ぎなかったのだ、という事を感じています。そして今や、世界人類のすべての人々の魂の中の光が輝き出しつつあることを確信出来るように感じております。ここで先師の遺した言葉をお伝えしましょう。

 我は人類である。人類とは我である。人類を知ろうとするならば我を知ることである。それ以外の方法はない。

 次に会報八十六号(平成七年八月号)を思い出します。この会報の末尾に「筆者退院の弁」が載せてあります。筆者が入院前六ヶ月、入院期間六ヶ月、計一年間の療養生活を終えて無事退院した時の挨拶です。長い一年間でありました。この期間に於ても会報を一月の休みもなく発行することが出来ました事は、会員の皆様方の御協力の賜でありました。そして筆者個人にとりましては、むしろ短い期間でもあったように感じさせて頂いています。法定伝染病でありますので、外出は出来ませんが、それ以外は全くの自由、眠るなら二十四時間、目覚めていたいなら、これまた二十四時間、自由な身の上であります。「禍転じて福となす」の諺に従い筆者は生活の主体を昼から夜に移しました。夜九時の消灯時間と共に起き上がり、ベッドの上に正座して、思念をある一点に集中させる作業に取り掛かりました。古事記百神の中で、どうしても解明出来ない神名六つの解明であります。これは先師よりの宿題であり、筆者が古事記神話の解明の完結に当り避けては通れない懸案でもありました。奥疎(おきさかる)神・奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)神・奥津甲斐弁羅(かひべら)神、辺(へ)疎神・辺津那芸佐毘古神・辺津甲斐弁羅神の六神名です。この六神名はその以前から考えていたもので、どうしてもぴったりした解明を得ることが出来ない問題でした。神名を字句の意味上で煮詰めて行き、六神とその前後の神々の名とが連続して、その筋道が合理的に通る、という答えを得ることが出来た、と一瞬思うことがあります。けれどその内容を禊祓の実際の行法として見ると心中に断層が出来て、うまく繋がらなくなります。反対に行法の上ではうまく繋がるように思えるのだが、字句解釈とは全然一致しないことになり、これも失敗です。

 入院して三ヶ月程して、少々この夜中の正座の思索も種が尽きた感じで、どう考え、自らの心を反省しても迷路にはまって進むことも退くも出来ない状態に陥りました。どうにもならない私は朝食が終るとすぐに、身の廻りの物の整理や下着の洗濯を始めました。久しぶりに身体を動かした感じは誠に新鮮でありました。六神名の内容が同時にスラスラと解けたのはその晩のことでありました。それは何ヶ月も、何年間も考えて来たことが馬鹿に思える程、その解釈の成立は数秒間の出来事でした。自分自身が禊祓の実行者であったら、必ずこの心の過程を踏むに違いないという確信も同時に湧いて来ました。先師の宿題を果す事が出来た、出来たのだ、と心中叫んだものでした。この関門を通過して、禊祓のその後の行法も比較的スラスラと解釈が進みました。この六神名の内容を奈良の石上神宮の布留の言本、日文は「ユヰツワヌ」の五言霊で示しております。当会出版の「古事記と言霊」はこうして刊行することが出来ました。入院万歳であります。

 会報二百号記念のお話は先を急ぐことにします。平成十三年十一月、会報百六十一号より会報の表題を「言霊研究」より「コトタマ学」に変更しました。そしてこの題字のバックも満開になった桜の花びらに変えました。何故このように変えたのか、筆者の心が当時それ程はっきりした意図を持っていたことではない、と記憶します。ただ心の片隅でボヤッと何かが閃(ひらめ)いたのです。その何かとは何であるか、は変更した百六十一号から現在の二百号にいたる三年と数ヶ月の間に徐々に分かって来ました。それは小さい小さいこの言霊の会が、歴史的変動によって大いに揺(ゆ)れ動く現代世界に対してどの様な役割を持っており、その役割がどのような手順を踏んで実行に移されて行くのか、の消息が次第に明らかになって来た事であります。

 会報の改題が行われた時より数ヶ月前、「大祓祝詞(のりと)の話」という題で講習会が行われました。この大祓祝詞の話の中でそれまでは余り話されることがなかった「光と影」の問題が提起されました。光が当れば闇は立ちどころに消えます。暗がりは何処かに移動したのではなく、消えたのです。この道理は大祓祝詞にも、また古事記の禊祓の行法にも通用する根本課題となりました。奥疎神以下六神の解明と、光(言霊駆り=ひかり)という観点が分かると、大祓祝詞も古事記の禊祓の意義も従来の解釈が全面的に書き換えられました。「古事記と言霊」の禊祓の章の訂正のために第二改訂版が出版され、それと同時に大祓祝詞の「天津祝詞の太祝事を宣れ(ふとのりとごとをのれ)」の意義が掌を指さす如く平易で簡潔(かんけつ)な文章で言い表わすことが可能となりました。

 光(言霊駆り)という観点の登場で、言霊の会の霊位が言霊ウオアの段階から飛躍して言霊エイの眼で世界を見ることが出来るようになったのです。会報誌の名前が「言霊研究」から「コトタマ学」に改題されたのは、それが根本理由である、と今になって言うことが出来ます。理論探究の仕事が略々(ほぼ)完了して、実行の段階に進んだことになります。

 「コトタマ学」と改題して三年と三ヶ月を経て、言霊の会も人類世界の臨時政府の役目を漸くにして担う立場に立ったことになります。実行の時に入ったと申しましても、表立った宣伝もデモもお祭り騒ぎも一切する事はありません。そんな必要はありません。会員各位がそれぞれの居所に於て言霊学を学び、言霊学で示されるウオアエイの次元の自覚進化を行えばよいのです。霊駆りの松明(たいまつ)を高く暗黒の世界に掲げるだけで用は足ります。会報「コトタマ学」は今後とも皆様の御勉学のお手伝いをさせて頂く所存であります。

 会報「コトタマ学」二百号記念の御挨拶のしめくくりとして、末法千年の中の第一人者、浄土真宗の親鸞上人の言葉をお借りして、人類の歴史一万年にわたる皇祖皇宗の御経綸を言寿がさせて頂きます。

 人類歴史転換に際し、如何なる善も要にあらず。皇祖皇宗の御経綸にまさる善なき故に。如何なる悪も恐るべからず。皇祖皇宗の御経綸を乱す程の悪なき故に。

(おわり)