「コトタマ学とは」 <第百九十九号>平成十七年一月号 | |
神路山 神路山深くたどれば二道に千木(ちぎ)の片削(かたそぎ)出で合いなまし 同じ生命を、片や人間の内に求めた言霊の原理と、外に求めたDNA並びにコーク法則という科学の成果とが対称として如何なる関係になるのか、人類の文明創造上の極めて興味ある問題であるが、伊勢神宮の古歌は両者が同一に一致するのではなく、二道は相似形に出合うと予言しているのである。 人間精神の深奥を究めた言霊原理から見るならば、人類が直面しようとしているこの大問題を平然と予言し得る事が可能なのである。この一事からみても、人類が二、三千年の暗黒の夢から目覚め、光輝く第三生命文明時代の幕開けに向って努力する時が来たと言い得るであろう。 (この項終わり) 古事記と人間生命 言霊学のことをアイウエオ五十音言霊布斗麻邇と言い、また三種の神器の学ともいう。そしてその言霊学の唯一の教科書が古事記上巻の神話である。これ等言霊学、布斗麻邇、三種の神器、古事記の神話が如何なる関係にあるか、を考えてみよう。 太古より日本皇室に伝わる三種の神器とは草薙釼(釼)、八坂の曲玉(玉)、八咫鏡(鏡)である。この一つ一つについて簡単に述べよう(詳しくは「コトタマ学入門」138頁「三種の神器」参照)。 先ずは釼(つるぎ)であるが、古代の日本の釼は双刃(もろは)である。釼とは人間の持つ判断力の表徴である。双刃は片や“断ち(たち)”を、もう一方は“連気(つるき)”を表わしている。人が物事の内容を知るには、そのものを分析即ち断たなければならない。その判断力は「太刀」である。断ってその部分々々の内容が分かったら、その内容を総合して元の姿に戻す必要がある。この総合の働きを連気(釼)という。草薙釼とは人間の持つ天与の釼即ち判断力の表徴なのである。 次に曲玉であるが、人間天与の太刀(たち)の判断力を以って人の心を分析して行くと、最終的に五十個の言霊(ことたま)が現われる。この要素を曲玉で表現する。言霊とは人の心の究極の要素であると同時に言葉の究極の要素でもあるものである。即ち人の心は五十個の言霊で構成されており、それより多くも少なくもない。これを表徴するのが八坂の曲玉である。 人の心を分析して、五十個の言霊で構成されていることが分かったなら、次に天与の判断力の釼(つるぎ)の総合力で元の心の姿に戻す作業が行われる。そして最後に人間精神の最高理想の構造に到達する。この五十音の言霊で構成された最高の構成図を天津太祝詞音図という。この五十音図を八つの父韻を基調として並べた八角構造の音図のことを八咫鏡(やたのかがみ)と呼ぶ。 以上、釼・曲玉・鏡の三種の神器の内容と関係を簡単に述べたが、言霊学の唯一の教科書である古事記上巻の神話も、言霊学の記述に当り、矢張り三種の神器の釼・曲玉・鏡の順序に従うかの如く説明しているのである。この事を検討してみよう。 古事記は「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神。……」という文章から始まり、次々に神が現われ、伊耶那岐の神、伊耶那美の神で一段落する。天の御中主の神より伊耶那美の神まで十七神が登場する。この最初に現われる十七神が古事記で「天津神 諸 の命」という、人間の心の先天構造、即ち人間の天与の判断力の実体である十七個の言霊(天名=あな)である。三種の神器の釼とはこの心の先天構造を表徴している。 釼が十七個の言霊で構成されている心の先天構造であることを説明した古事記は、次に判断力の太刀の力である分析の働きを以って人間の心の現象を分析して行く。古事記の文章の「既に国を生み竟(を)へて、更に神を生みたまひき」とある所である。そして後天子音である大事忍男神=おおことおしを(言霊タ)以下三十二神(言霊)を生んで行く。先天十七神、後天三十二神、計四十九神(言霊)、それに言霊を神代文字化する言霊ン、総合計五十個の言霊となる。人間の心を分析して五十個の言霊が要素として現われる。この全部で五十個の言霊を糸で連結した分析の結論が三種の神器の曲玉を以って表徴される。 人間天与の判断力を十七の言霊で構成された心の先天構造(天津神諸=あまつもろもろの命・天津磐境)として自覚し、その働きによって人間の心が全部で五十個の言霊で出来ている事を確認した古事記は、今度は天与の判断力の釼(連気)の総合力によって生れ出た五十個の言霊を総合し、整理・活用して、元の生命の姿に戻す作用が開始される。これが金山毘古の神より須佐男の命までの五十神で示される作業のことである。 言霊五十音の整理・復元の作業は三段階に行われる。初めの金山毘古神(かなやまひこ)より和久産巣日神(わくむすび)までは五十個の言霊の初期整理の段階で、そこで得た整理の五十音構造を天津菅麻(音図)という。生れたばかりの赤ちゃんが持つ精神構造である。第二段階は、第一段階で得た菅麻(すがそ)音図を下敷として、これに更に整理・活用の為の手を加え、人間が人間社会の中で生産される種々の文化を受け入れて、人類の文明を創造するために如何様な心構えが必要であるかを、人間の主体内原理・法則として確立しようとする作業である。その結果として人間の主体内に於てのみ自覚された人類文明創造の法則を得て、これを建御雷の男の神と呼ぶ。人類が初めて主観内に自覚した人間最高理想の精神構造である(これが如何なる精神構造であるか、は古事記はこの段階では明らかに示さない。詳細は古事記神話の総結論である「三貴子(みはしらのうずみこ)」の誕生に於て明らかにされる)。 その人本人の心の内容を分析によって知り、それを再び総合によって元の姿に返す仕方の心構えを、今度は世界各地で生産される諸々の文化を吸収して、世界文明創造に役立たせる、所謂禊祓の原理として確立するために、人間の判断力(総合)は如何にあるべきか、の実際の探究と、その完全な証明が最後の段階である。この事の検討によって建御雷の男の神という主観内真理が、如何なる外国文化に適用しても成功して誤ることのない真理であることの証明が完成する。人間が持ち得る最高理想の心構えの確立となる。この様な精神的行法を古事記は「禊祓(みそぎはらい)」と呼んでいる。 ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾はいな醜(しこ)め醜めき穢(きたな)き国に到りてありけり。かれ吾は御身の祓せむ」とのりたまひて、竺紫の日向の 橘 の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき。古事記「身禊」の章は右の文章の如く説き起す。禊祓については幾度も説明して来たことで、今回は後に続く文章に関連する所を簡単に触れることとする(詳しくは「古事記と言霊」身禊の章参照)。 伊耶那岐の大神 衝立つ船戸(つきたつふなど)の神 道の長乳歯(みちながちは)の神、時置師(ときおかし)の神、煩累の大人(わずらひのうし)の神、道俣(みちまた)の神、飽昨の大人(あきぐひのうし)の神。 奥疎(おきさかる)の神、奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神、奥津甲斐弁羅(かいぺら)の神。辺疎(へさかる)の神、辺津那芸佐毘古の神、辺津甲斐弁羅の神。 八十禍津日(やそまがつひ)の神、大禍津日(おほまがつひ)の神、神直毘(おむなほび)の神、大直毘(おほなおび)の神、伊豆能売(いづのめ)。 底津綿津見(そこつわたつみ)の神、底筒(そこつつ)の男(を)の命、中(なか)津綿津見の神、中(うは)筒の男の命、上津綿津見の神、上筒の男の命。 以上が三種の神器の釼(天津磐境=あまついはさか)の連気の総合作用で言霊五十音が元の姿に復元される過程である。三種の神器の釼・曲玉・鏡の順序に従って古事記の「言霊学の教科書」としての神話が編纂されていることを御理解頂けたことと思う。またその過程の記述が余りにも簡潔すぎることを不審に思われる方も多いかも知れない。何故その様な記述をしたか、それはここまでの文章はこれから始まる「古事記と人間生命」という本題の前提文として書かれたものだからである。さて本題に入ることとしよう。 既に話した如く、心の先天、後天の構造とか、禊祓に於ける光の言葉による人類文明創造などと言うと、如何にも難解であり、またその難解な言霊学をマスターし、活用し得る人はどんなにか頭脳明晰で高潔な人格の持主であり、我々凡人から見ると雲の上の人の如く思われるかも知れない。例えば大宗教の開祖、教祖についてその人間放れした神人らしい記述が書かれているせいもあろう。実を言うと、かくいう筆者も自身の日常生活が余りにも世間知らずで、オッチョコチョイな生活態度を思うにつけ、昔の孔子様やお釈迦様、またイエス・キリスト様などは端正な態度で、すべてのことを承知した偉人、聖人であったのであろうと思うことが多かったものである。特に「論語」にある「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」などの文章を読むと、「あっちに突き当たり、こっちにぶつかる」自分なんか遠く及ぶものではない、と自棄を起したりする。 先月下旬に入った或る夜、連日の多忙で少々疲労気味で元気がなかった。静坐して自分の意気地なさを反省した。大切な言霊学を勉強させて頂いておりながら、時々弱気が起こる。自分には感謝の念が足りないのであろうか。自責の念が続いた。その時、ふと思った。尊い皇祖皇宗の人類文明創造の仕事に参画させて頂きながら、私は疲れるとついつい弱音を吐く。全く情けない人間だ。何時も「もっとしっかりせねば」と思いながら、改められない。「三つ子の魂百までも」と言うが、私のこの性質も変わりようがない。私はこういう人間なのだ。とつくづく知った。すると同時に、こういう人間でも生きている。こういう人間でも生命(いのち)は何時も変わりなく私を守り、生かして下さっている。生命とは言霊イの道即ち「いのち」である。そうだ。言霊学が言霊イの道であり、人間の道の学問であるから、言霊学とは私の如き横着で意気地がない人間そのものを映し出した学問なのだ。聖人君子を映し出した学問ではない。平凡な人間の空相と実相をそのまま映し出した学問なのである。そう気付いたのであった。 人間、この世に生きていれば、気の合う人にも、気が合わぬ奴(やつ)にも会う。ぶん殴ってやりたい奴もいる。喜怒哀楽交々(こもごも)である。ストレスを溜めない人などいるわけがない。にもかかわらず人は生きている。言霊イの次元の生命が他のウオアエの四次元の現象を総合して「霊駆(ひか)り」の調和を以って包み、新生活の創造に取り込んで下さるからだ。生命は頼まれなくても、言霊学で謂う「禊祓」を時々刻々、分また分、一秒一秒毎に行ってくれている。言霊学はただその創造行為を理論的に、行動力学的に映し出したに過ぎない。 (おわり) 過ぎし日々のことなど(言霊学随想)その三 十年余の勉強の成果を心血を注いで書いた論文が、人類の新時代創造という目的に何の役にも立たないもの、と分かった後では、燃え滾(たえぎ)っていた希望も意欲も破裂した風船のように萎んでしまいました。まるで死んでしまった人間のような二、三日が経ちました。その時、待っていたS氏より手紙が届きました。以前の心境なら小躍りして喜んだであろうような内容が書いてあります。「貴方の論文精読を終えました。人々がまだ気付いていないユニークな観点から人類の新しい時代の到来を予想する興味ある内容の文章です。私が関係する日刊K新聞社から単行本として出すよう手配したいと思います。ただ素人には馴染みのない用語が何箇所かにありますので、分かり易い言葉に換えて頂かねばなりません。打ち合わせもありますから近い内に一度おいで下さい。……」自分の論文を「没」と決めてしまった後では、喜ぶどころか、御厚意に応えることが出来ない恐縮さに心も縮む思いで手紙を読みました。早速その翌日お宅に伺い、初の挨拶の後、直ぐ私の心境を縷縷(るる)お話申上げ、自分の身勝手をお詫びし、「今回のことはなかったことにして頂き度い」とお願いしました。S氏は初め怪訝な顔で聞いて下さっていましたが、終りには私の率直な心を理解して下さってか、笑い顔になられ、「惜しいですな。これは君、売れますよ」と言って下さいました。…… (おわり) |