「コトタマ学とは」 <第百九十七号>平成十六年十一月号 | |
過ぎし日々のことなど(言霊学随想) 数日前の夜のことです。ふと目が覚めました。枕元の時計が零時三十分を指しています。すぐ眠ろうとしたのですが寝つかれません。寝そびれると、私は中々眠れないたちです。「えゝ、ままよ」とベッドの上に“静坐”をしました。眠れない夜には静坐で過ごすのが一番です。すぐ一つの思いが浮かんで来ました。「今、私を束縛しているのは何か」です。「肉体意識だ」と知りました。過去、合計で二十年程霊的治療や整体療法をやって来た影響でしょうか、私は自分の肉体への意識が他の人より強いようです。何事につけ肉体の状態に意識を向け、それにより実行か、中止かを決める私の癖はもう数十年も私が懸命に闘っているものです。近頃大分その影響は少なくなって来ました。肉体のことを「からだ」と言います。「カラの田」即ち空っぽの田です。田とは人間の全人格ということですから、人間としての内容、要素は全部詰まってはいるが、しかし空っぽだ、ということになります。しかも田には濁点がついていますから、現在完了形を表わします。その人間の内容・要素を表わすすべてがここで完了して、これ以上には発展して行かない、ということです。 肉体の症状とは現象です。色即是空の色であります。現象に実体はありません。更に考えますと、体自体も色であり、これもまた空(くう)です。実体のないものです。こう知ることによって肉体に拘泥(こうでい)する癖は克服されつつあります。この事を確め終えて、自らの心の反省は一段落しました。けれどその夜は、心が一向にスッキリしません。「まだ今、反省すべき事があるな」と気付き、更に静坐を続けました。「これでもない、あれでもない」思いが私のいろいろな場面を駆け廻りました。暫くして心がひっくり返るような事に気付きました。それは青天(せいてん)の霹靂(へきれき)とも言うべきものでした。その私の心を拘束しているものとは、私の仕事である「言霊学」そのものであることに気付いたのでした。 その瞬間、二十年間、言霊学の先師、小笠原孝次先生より教えて頂いた言霊の学、先師亡き後、私自身が思索、研鑚し、皇祖皇宗から導かれ、教え賜った事柄、自分自身の体験によって自証されて来た言霊知識等々のすべて、私の頭一杯にはちきれんばかりに詰まっていた言霊学のすべてが雲散霜消、何処かへ消え去ってしまったのです。私にとって驚くべき事態がむしろ寂光のような和やかな光の中に粛然と起ったのでした。私が大切だと思っていた言霊学の知識が一瞬にして姿を消してしまいました。……その私にとって茫然自失すべき出来事が起ったにも拘らず、心は平然としており、心地よくさえあるのです。すべてが消え去った後にはただ私という一人の人間だけが残されていました。 厳粛で平安な心地が暫くの間続きました。時計はもう三時を大分廻っています。突然、ハッと一つのことが浮かび上がって来ました。頭の中に詰まって、ハチ切れんばかりであった言霊学の知識が一瞬にして何処かへ行ってしまい、その後に人間である私が残ったということの意味がはっきり分かって来ました。言霊布斗麻邇の原理とは、今、此処に生きる私そのもののすべてなのだ、ということ。言い換えますと、人間生命のすべてなのだということを知ったのでした。 気持ちが昂揚して、まんじりともしないで朝を迎えました。大きく息を吸って伸(のび)をしました。ふと自分が、青天の霹靂のような出来事に出合ったのに、何の変化もしていないことに気付きました。依然として平々凡々な人間です。しかも長年勉強して来た言霊の学問の一語一語が頭の中から何処かへ行ってしまったのです。これでは何の取り柄もない人間であることは当然であります。何しろ言霊のことについて他人に話しかける気持ちが全然起らないのです。 これは一体どの様なことなのでしょうか。先ず頭に閃いたのは禅宗無門関という本にある「仏に会っては仏を殺し、祖に会っては祖を殺し……」という言葉です。物騒(ぶっそう)な言葉ですが、実は仏や祖(師)を殺すのではなく、仏や師から教わった教えをそのまま暗記して、それで自分は教えをマスターしたと思うのではなく、教えられたことを自分の心中で検証して、その通りで真実だと自証して初めて人に説法すること、という意味でありましょうか。 そう言えば、私が言霊学の師、小笠原孝次先生の所に初めてお伺いし、言霊学の手解(てほど)きをお願いした時の先生の言葉が思い出されます。「一般の学問でしたら、先生の教えたことを記憶し、その理論を理解したら、その学問は卒業したことになるでしょう。けれど言霊の学問は心の学問です。聞いて理解した処から勉強が始まるのです。私が先輩諸氏から教えられたり、私が研鑚したりして知り得たことは責任を以って貴方にお伝えしましょう。それを聞いて、理解し、実証し、人にお話し、活用して行くのは貴方の責任です。それでよろしかったらおいで下さい。お話します。」先生は見事にその言葉を実行なさったのです。数年が経ち、私が先生から教えられた事を概略理解し、人にもお話出来るようになった頃、先生から突然「島田さん、明日からもう来ないでいいですよ」とその理由も言わずに申し渡されたことを記憶しております。その時の私の愕然たる様を今でも忘れません。先生のお宅からの帰途、その言葉の真意を測り兼ね、家に帰って一服した時、やっと初めて先生のお宅に伺った時の先生の言葉を思い出し、先生の御恩に感謝することが出来たのでした。私が宗教書を買い込み、茨城県の筑波山に近い下妻という町の小さな家に籠ったのはそれから間もなくでありました。……現在、私は先生の言葉の如く、教えられた事のすべての自証を完了したというのでありましょうか。 以上お話した事から思い起こされます古事記神話の臼の原理と鈴の原理について考えてみましょう。この事は以前、会報で簡単に述べたことがあります。古事記の神話は冒頭の「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神(言霊ウ)。次に高御産巣日(たかみむすび)の神(言霊ア)。次に神産巣日(かみむすび)の神(言霊ワ)。……」から始まります(―線筆者)。この後の神名を言霊で示しますと、「ヲオエヱ、チイキミシリヒニ、イヰ(以上天名)、タトヨツテヤユエケメ、クムスルソセホヘ、フモハヌ、ラサロレノネカマナコ(子音)、ン」で言霊五十音は終わり、次に続く五十神が、既出の五十音言霊の整理、活用、操作の内容を示し、言霊学の総結論である三貴子(三柱のウズミコ)の誕生で言霊百神の原理の全貌が整います。言霊学の全体系が余す所なく教えられることとなります。そしてこの大業を成し遂げられました伊耶那岐の大神は「淡路の多賀にまします」(古事記)と言い、また日本書紀では―― と書かれています。言霊の神である伊耶那岐の大神は言霊五十音を生み、その運用法五十を完成し、言霊百神という人類世界の文明創造の大法を樹立し、その上で淡路(あわぢ)の洲(す)(言霊ス)に寂然と隠れ宅(す)んでいらっしゃいます。天の御中主の神(言霊ウ)に始まり、言霊百神の原理の一切を掌握して、すべてを自覚し、その上で言霊ス[巣(す)、住(す)、澄(す)、静(す)]の容(かたち)で隠れていらっしゃること、学業を卒業して、その原理の下に人類一切の事を見つめていらっしゃること、これを言霊ウ―ス、即ち臼(うす)の原理と申します。そして静寂の中から一度立ち上がれば、一切の森羅万象を創造します。このすべてを知って待機している姿は臼に、即ち動かなければドッシリしていて、一たび動けば粉(こ)(子・現象子音)が出来る臼に似ていることから、その語源となったのです。 言霊原理をマスターして、言霊スと澄みおさまった者が、活動の機会が来れば、やおら立ち上がり、ス―ウ―アワ―……と活動を開始して、人類文明創造の大業を成就し、最終的に元のスの座に落ち着きます。言霊スからスまでの活動です。その終わりのスは始めのスからの活動の終着点であり、スの座からの活動の現在完了形で終る処からスに濁点がついてズとなります。即ちスよりズへの活動であることから、これをスズ(鈴)の原理と呼びます。以上のことから、言霊学勉学の道は臼の原理であり、勉学し終えた人が言霊原理に基づいて人類文明を創造する道が鈴の原理ということが出来るでありましょう。果たしてこの臼の原理と鈴の原理が現在の言霊の会の在り方と関係があるのか、ないのか、今暫くの観察が必要でありましょう。 ただ私の心の深い処に微(かすか)かな予感のようなものを感じます。それはこの会報の題名を「言霊研究」から「コトタマ学」に改めた時の「お知らせ」の中で書いたことですが、「研究」の時代から「実行」「実践」の時代への転換を予想したことでした。今、その時が実際に近付いたのではないか、と思わせる微候が幾つか私の心の内に見え隠れして来た事です。勿論、それは誰の目にも映ずるようなはっきりした現象ではなく、現象以前のものです。聖書のイエスの言葉「目を目覚ましておれ」という警告の範囲のものです。けれど単なる予感かというと、そうでもありません。何故か。それが人類に愛を抱く人ならば何人でも予感する心の徴候であることであります。と同時に、現在の地球上の国際的政治・経済の状況を、何らの予見無しで率直に俯瞰することが出来るならば、人類社会が求心的に一つの渦を巻いて落ち着く処に流れて行っている事を明瞭に読みとることが出来ることによります。読者の皆様の御感想は如何でありましょうか。 数ヶ月以前、人間精神の次元的自覚の進化の段階の順序ウオアエイ五母音に一音「る」を結んで、うる、おる、ある、える、いる、のそれぞれの心構えの実相についてお話したことがありました。覚えていらっしゃいましょうか。私が現在、四十年間、聞き、学んだ言霊学が全部消えた如く心の表面から遠のいてしまい、ただ私という人間がポツンと地球上の表面に、否、宇宙の一点に独り坐っているということ、これが日本語の「いる」ということではなかろうか、と思っています。「いる」の客体形「ゐる」の「ゐ」の象形文字は 端坐して 吾と私語する 霜夜かな 櫻比古 私がこの世に呱呱(ここ)の声をあげたのは一九二五年、大正十四年七月十七日、場所は銀座五丁目の守宗産科医院であります。父親は島田岩見、島根県江津市浅利の産。母親はまつ、チャキチャキの江戸っ子、浅草の産。父親の職業は銀座西二丁目(現在二丁目)で建築設計並びに土木建築資料通信という小月刊新聞の発行をしておりました。小新聞でありましたが、その発送先には樺太や委任統治領の南洋群島などがあったことを覚えております。 七月の半(なか)ばに生まれた子は親不孝だ、と聞いたことがあります。理由は簡単です。その子を出産する前も、出産した後も、猛暑の続く季節、空調設備のない当時では母親泣かせであったでありましょう。言われた通り、私の一生は親不孝を絵に画いたようなものだと思っています。「恒産なければ恒心なし」(孟子)と謂われます。安定した収入のない人は心も安定を得られない、の意です。私は一定の職業に就いたのが五十才から六十才までの十年間位のことで、後の六十数年は無鉄砲というか、無茶苦茶な生活を押し通して来ました。恒産もなし、恒心もなし、むしろその無恒産、無恒心の波風を心のバネとして、自分の心の目標に飛び上がろうとした一生だった、と言えるかも知れません。若し両親が生きていたら、涙を流して悲しがったに違いありません。 そんな私でしたが、親から見れば何かの取得(とりえ)を感じたのでしょうか、父親は死ぬ一ヶ月程前に私を枕元に坐らせ、遺言らしき言葉を遺したのをはっきり覚えています。その最初の出だしの文句が、今で言う恰好(かっこう)よかったものですから、それと共にお伝えしましょう。「中国の十八史略という本に、『鳥の将(まさ)に死せんとする、その声や悲し。人の将に死せんとする、その言や良し』とある。父の最後の言葉だと思って、よく覚えておきなさい。」という出だしに次いで「人の一生はただの一度しかない。だから後で悔やむことのないよう、思ったことを真直ぐに進みなさい。どんなに辛いことがあっても挫けずに進みなさい。ただ自分の決めた道は自分の責任なのだから、決して他人に迷惑をかけないようにしなさい。これが言いたい言葉です。次は付け足しだが、人は年老いて来ると、仕事から離れる時が来る。年とって何もすることがないというのは味気ないものだから、お前も暇がある時には何か一つ、自分の身に合った趣味を持つよう心掛けるといい。これが私の言いたいことだ。聞いてくれて有難う。」 父親がこのとき程偉い、存在感のある人と感じたことはありません。敗戦前の家庭の中の父親というものは、全く雲の上の人と言った位で、私が父親と一緒に外出した経験は全部で二度か三度位しかなかったと記憶しています。その分だけ母親の方に親近感を感じ、甘えもしたものでした。母親は浅草で十数代続いた餅菓子屋の娘だと聞きました。当時、上京して内務省建築課に勤めていた父が母親の店の前を通りかかり、たまたま店が忙しいので手伝いに出ていた母に一目惚れし、酒好きの父が繁々と店に通って母を射止めたという話を母の姉(伯母)から聞いた時、「あの威厳顔の父にして……」と面白く思ったものでした。 その母が私が十四才の時、父が十七才の時になくなりました。父がなくなった時には、住居は銀座を離れ、世田谷区上町に移っていました。家の隣から広々とした畠が遥か遠くまで続き、「遥けくも来つるものかな」と思う程の田舎でありました。銀座の家は仕事場に改造され、終戦の年の五月、B29爆撃機による五百キログラムの爆弾の直撃を受け、跡形もなく吹き飛ばされてしまいました。爆撃を受けた時、家には家の人も他人もいなかったため、人的被害のなかったことは不幸中の幸いでありました。 さて、私は初め父の事業の後を継ぐつもりで理科系の学校に入ったのですが、昭和十九年から翌二十年の敗戦にかけて、学徒動員、茨城県勝田へのアメリカ潜水艦による艦砲射撃、学校所在地の水戸市空襲、友達の死等々のことが重なり、建築家への希望は消え、「死とは、生とは、国家とは……何であるか」の哲学的、倫理的思考の勉強に走り、学校の授業や成績のことなど念頭から全く消えて行ったのでした。 私の一生を決定づけたのは、私の偉友、O氏と親しく世界人類の将来について語り合うことが出来たことが挙げられます。氏は御自身の一身上のことで入信しておられた宗教団体(私も後に研究のため関係することになるのですが)の教理に従ってでありましょうか、「日本は勿論、全人類は数千年に一度の精神的大転換の時を迎えている。それは戦争で日本が勝つか負けるか、アメリカがどうかなどの事ではなく、もっと全人類に関係する大きな転換の問題であり、この人類的大転換というものを根底にして考える時、人類の明日を見通すことが出来るようになる」という意見でありました。この人類の歴史的大転換という言葉が私の脳裏にグサリと突き刺さり、その「大転換」とは何か、を知るために一生を賭けることになります。 三千年に一度の人類の歴史の大転換という問題を教えてくれる大学も、また個人も終戦直後の日本に存在する訳がありません。一九四七年以降、私の孤独な、盲滅法の勉強が始まりました。いくら勉強しても一銭にもならないことが始めから分かっている勉強です。でもどうしても知りたいという願望に突き動かされているように、私の全くのアウトサイダーの精神放浪が続きました。哲学、倫理学、歴史学、心理学、深層心理学、超心理学、深層治療心理学、文明評論等々の書を読み漁り、思索しました。 世の中で功成り名遂げた種々の人々にめぐり会うことも出来ました。偉い、尊敬すべき人もあり、変人もあり、それぞれに学ぶ所が有りました。中学在学中、片道二十キロメートルの道を往復徒歩で通学し、一日も休むことがなかったというお医者さん、この方は終戦後の総理大臣吉田茂氏の主治医をしていたと聞きました。裁判の時、滔々と霊現象を喋り、検事を煙に巻いてしまう弁護士さん、この方は長いこと東京弁護士会の副会長を務め、後年、私に宗教団体を創設して私がその教祖にならないかと真面目にすすめに来たことがありました。長年、無肥料、無農薬で稲を栽培し、立派な米を作り続けている精農家、この人は野良着に純毛の紺色のラシャを用いていました。寒さには勿論、暑い時でもラシャの着物は心地がよいと言っていました。また日本で十年、アメリカで十年、医学を勉強し、日本へ帰って来て開業したお医者さん、この方の診療所の受付には「診療費御相談に応じます」との札が下がっていました。東京の渋谷の道玄坂で占(うらない)の手相を見て暮らす白髪の老人と語ったことがあります。手相は見ても占はしない、と言っていました。私が「占は当るかね」と尋ねると「九十パーセントは当る。けれど真の信仰心を持った人は当る率がぐっと下がるね。執着が少なくなるせいだろう」とユニークな答えが返って来ました。大正天皇の治医を長年務めたという老医師を訪ねたことがあります。その人から自分で手刷りしたという伊勢神宮内宮の御神体、八咫の鏡の裏の拓本を見せられたのには驚きました。そこにはヘブライ語で「イチョラヤエ」とあるそうです。私には読めませんが、「唯一人の神、エホバ」という意味だそうです。 言霊学に関係ない拙い昔話を長々と続けて来ました。お気に召さなかったらお詫びします。ただ、この昔話を続けるのには一つの意図があるからです。それは志を持ちながら、この世の中にいてどうしてよいか分からぬ一人のアウトサイダーの心中が、如何に強がりを言っても、内心常に不安であり、血も凍りつく程の孤独感に嘖(さいな)まれるか、その結果、如何に光の当る世界に憧れるか、光と影の問題を浮き彫りにして、言霊学の結論である言霊子音の自覚、即ち「霊駆(ひか)り」の原理に結び付ける意図があるからです。 (次号に続く) |