「コトタマ学とは」 <第百九十六号>平成十六年十月号
     心の先天構造

 人間の心は十七個の言霊の先天部分と三十三個の言霊の後天部分、計五十個の言霊で構成されていると先にお話しました。その十七個の言霊で出来ている先天部分は、どんな構造をしているかをお話しましょう。

 先天部分ということは、もちろん現象としてはそれ自体は現れない部分のことですから、その中に意識を入り込ませて研究するわけにはいきません。現象となる前の世界を、現象となって現れてきた意識の眼で見ることは不可能です。それなら我々の祖先はどんな方法で研究したのでしょうか。

 まだ現象として現われない先天の構造を明らかにする方法は、ただ一つしかありません。それは現代の原子物理学が行っているように、大きな加速装置を使って原子核内の要素(と思われるもの)を高速で動かし、それを特殊な感光装置に衝突させ、そこで観察される種々雑多な現象の中から推理することによって、先天の構造を次第に組立てていくことです。その推理と感光装置の中で起る種々の現象との間に一つの矛盾もなければ、その推理は正当なものとなります。

 数千年の昔、心の構造を明らかにした私たちの祖先も、同様の方法を自分の心に適用したに違いありません。研究者自身の心の中に起る色々な出来事、感情・経験を持ち寄って、その無数の現象を生む元の世界の構造を探っていったのです。心の動きは機械装置によって加速することは出来ません。その代りに、古代の人々は心を空(から)にすることを覚えたことでしょう。現象を生んで行く元の心の宇宙を純粋に見ることによって、先入観のない観察の方法を獲得したことでしょう。現代人が「明るい心」「素直な心」と呼んでいるところの心の持ち方です。万葉集に載せられている数々の歌の中に、この「明るい心」を汲み取ることが出来ます。

 さて人間の心の奥の奥の構造などという、難しく、あまり耳慣れない内容を長々と続けていては、話が退屈になりがちです。細目は追々進めることとして、人間が具体的に物を考える以前、頭の中で精神的には何がどのように起り動いているのか、心の先天的な構造を、まず結論から書くことにしましょう。

私たち日本人の祖先が長い年月の試行錯誤の研究の末に、遂に明らかにすることの出来た心の先天部分の要素と構造は、次のように言霊によって示されます(図参照)。

 それを構成する言霊の数は十七個、五段階の構造を持っています。この先天の構造を太古、私たちの祖先は天津磐境と名付けました。天津とは現象界に現れない先天性の意であり、磐境(いはさか)とは五つの(い)言葉(は)の段階(さか)ということであります。この五段階・十七個の言霊が活動することによって、無数の色々な心の現象が生み出されていくのです。

(次 号に続く)


   神無月(言霊学随想)

 陰暦十月を神無月(かむなづき、かみなしづき)といいます。最近ではこの神無月の名を知らない人が多いのではないだろうか。そこでこの神無という奇妙な名前について言霊学の立場から思いつくままを書いてみることにしよう。

 先ず辞書(辞海)を引いてみる。「神無月―陰暦十月の異称。醸成月(かみなしづき)の意とも雷無月(かみなしづき)の意ともいう。俗説には、この月八百万(やおよろず)の神々が出雲大社に集まり行き不在になるのでいうと。」辞書の醸為(かみなし)の醸(かみ)とは醸(かも)すの古語で酒を醸造すること。為(なす)はその実行。十月にその年の新米で酒を造る、即ち醸為(かみなし)の意であろう。また雷無は十月に雷のないことから来た名ともいう。両解釈は共に国語学者の主張ではなかろうか。それに比べ、辞書に「俗説には」と書かれた説明は事が日本全国の神々の出来事であることから、歴史的な事情が隠されている予感を与えて興味深く思われて来る。日本全国の神社の神々がこの十月に全員出雲大社に集まり、会議を開き、そのため出雲の国以外の国には神様が不在となる、ということである。この会議で何事を相談するかというと、これも俗説で「全国の神々が毎年十月に出雲に集まって氏子の間の縁結びを相談する」、とある。そこで出雲大社の主祭神大国主神は縁結びの神とされている。

 神無月を醸成月、また雷無月との解釈も一理はあるけれど、それだけの意義で日本全国の月の名前になったとは些か力不足の感がある。そこで登場する俗説といわれる「全国の神社の神々が十月に出雲大社に集まり、出雲以外の国は神様不在となる」の伝説が注目されて来るのだが、その伝説がまた奇妙きてれつで、聞いただけで吹き出したくなるような物語である。何故このような言い伝えが起ったのか、全く理解しにくい事である。ところがこの日本の現代に不死鳥の如く復活した日本語の語源原理であるアイウエオ五十音言霊の学問の立場から見ると、そこに人類の文明創造の歴史上重大な意義が発見されて来る。それは人間個人にとって、また人類全体にとっても空恐(そらおそ)ろしい命運に関わる物語となるのである。これより話を進めて行くことにしよう。

 先ずは古事記の神話にある神物語から始めよう。
 この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」と詔りたまひて、すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大神に賜ひて詔りたまはく、「汝が命は高天の原を知らせ」と、言依さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。次に月読の命に詔りたまはく、「汝が命は夜(よ)の食国(おすくに)を治らせ」と、言依(ことよ)さしたまひき。次に建速須佐(たけはやすさ)の男(を)の命に詔りたまはく、「汝が命は海原(うなばら)を知らせ」と言依さしたまひき。

 以上が言霊の神である伊耶那岐の命が、言霊原理を完成し、その総結論として三柱の神、天照大神・月読の命・須佐の男の命を得られ、その三神にそれぞれ天照大神には高天原を、月読の命には夜の食国を、須佐の男の命には海原を統治の領域と限って治めよ、という所謂三権分立の制度の決定を述べた文章であります。そして言霊の原理は天照大神にのみに与えられ、他の二柱の命には与えられなかったのであります。

 日本の古代は、またその影響下にあった世界の国々は、三権分立の制度の下で、天照大神は言霊イ・エの言霊原理に基づく世界人類の歴史創造の経綸を、月読の命は言霊ア・オを領域として宗教・芸術その他の精神活動の主宰を、須佐の男の命は言霊ウを領域として、物質の生産・管理の仕事の統轄を、三権分立、三位一体、三柱の貴子協調の体制で平和、豊穣な時代を建設・保持したと伝えられています。言霊布斗麻邇の原理に則る心豊かで平和な時代は数千年間続きました。この精神文化華やかな時代を人類の第一精神文明時代と呼びます。(この間の詳細は「古事記と言霊」の歴史編参照)。

 人類の第一精神文明時代が円熟期を迎えた頃(今から五千年前)、その時まで三位一体、協調の一角であった物質生産とその管理の任に当っていた海原(ウの名の原)の主宰神、須佐の男の命の心に変化が起りました。変化とは次の様なものでありました。

 「今まで長い間、私は姉神天照大神の振るう言霊原理という精神原理の下、物質の生産の仕事を続けて来た。姉上の精神の真理は確かに素晴らしいもので、非の一点の打ちどころもないものです。その原理に従って物質を扱う仕事をして来たのだが、最近になって物質の領域には精神原理とは違った法則が支配しているのではないか、と思うようになって来た。私は是が非でもこの物質法則を心ゆくまで研究してみたいと思う。」そして事々にその主張を繰返すようになりました。高天原の三権分立・三位一体の協調体制が乱れ始めました。

 この高天原の状況を心配した親神、伊耶那岐の命は須佐の男の命と話し合った末、「高天原とは飽くまで協調の文明世界である。これに対し、須佐の男の命が主張する物質研究の世界は物事を分析・破壊し、更に競争社会の中で発展する研究方法を目指すものであるようだ。それならお前はこの高天原日本に留まってはいけない。外国へ行って研究しなさい」と言って、須佐の男の命を外国に追放(神逐ひ)したのでした。須佐の男の命科学研究集団の日本から外国への旅立ちでありました。

 その旅立ちから約二千年の歳月が経ちました。精神に対立する物質の研究が世界的に漸く成果を挙げて来ました。世界の人々の関心の主流が、それまで長い間続いた人間の内なる心から、外なる物質存在へ方向を転換する風潮が見え始めたのでした。その人の心の大きな風潮のうねりを察知した世界文明創造の責任者達(日本朝廷)は、この風潮を契機として世界文明の創造の方向を精神から物質へと転換する好機と捉えたのであります。人類文明は第一精神文明より第二の物質科学文明へ大きくその方向を転換します。科学文明時代の始まりです。

 物質研究は物質の破壊から始まります。その研究促進のための精神土壌は競争社会を最適とします。弱肉強食、生存競争の社会が求められます。その為には物質研究が一応の完成を見るまで、精神文明の基本原理である言霊布斗麻邇は社会の表面から隠される必要があります。今より三千年程以前、高天原日本より世界各地に向けた精神文明の輸出は停止されました。そして精神文明の創始国日本に於いても今より二千年前(崇神天皇時代)言霊原理の政治への適用を停止し、その原理は伊勢神宮の奥深く、日本人の信仰の対象である神という形で社会の底に隠没しました。神話でいうところの天照大神の「岩戸隠れ」であります。

 三貴子の中の天照大神が世の表面から隠れた結果、世の中を主宰する神は月読の命と須佐の男の命の二神となりました。初めの間は二神の力は相拮抗して双方相譲ることなく勢力二分でありました。月読の命は言霊アオを領域として、社会の宗教・芸術その他諸精神的学問(言霊を除く)を統轄し、須佐の男の命は言霊ウオをその働きの場とし、社会の産業・経済並びに物質科学研究の活動を総裁し、二神は戦争と平和、産業発展と環境保護等の意見の対立・妥協の繰返しの中に歴史を創り綴って行ったのでありますが、物質科学研究の成果が増大するに従い、その主宰である須佐の男の命の勢力が強くなり、ここ一、二百年の地球上の社会は正に須佐の男の命の独擅場の様相を呈するまでに至ったのであります。

  人類の第二物質科学文明の完成を目指し日本より外国に向った須佐の男の命のヘブライ語の名前をエホバと言います。そのエホバ神の申し子が三千年程以前のモーゼを始祖とし、代々その志を継いだユダヤの予言者達(大ラビ・キング・オブ・キングズ)であります。彼等は忠実に須佐の男の命、即ちエホバの意志を実行し、爾年三千年間、世界各民族の裏にあって科学文明創造の促進を誘導し、更にその物質科学の研究によって生産される豊富な富を活用して、徐々に世界の全民族、全国家を唯一つのものに統一する計画実現に向って着々その成果を挙げつつあり、今やその事業は完成間近であります。

 モーゼを始めとするユダヤ予言者の活動の原動力となるものを民間史竹内古文書、鵜草葺不合(うがやふきあえず)皇朝第六十九代神足別豊鋤(かんたるわけとよすき)天皇の章に見ることが出来ます。今より三千年余以前のことです。いわく―
「ユダヤ王モーゼ来る。天皇これを受け入れ、モーゼに天津金木(かなぎ)を教う。モーゼ帰るに臨み、モーゼとその子孫にその成すべき業を依さし給ひ、勅語(みことのり)してのたまはく、汝モーゼ、汝一人より他に神なし、と知れ、と。」

 天津金木とは人間本来持つ性能五つの中で、五官感覚に基づく欲望性能(言霊ウ)を五十音図の五母音の中心においた人間の精神構造の原理のことで、須佐の男の命の精神構造のことである。弱肉強食、生存競争場裡に於ける不敗の戦法原理であり、モーゼに教えたものをヘブライ語でカバラと呼び、現在日本の小学校で教える五十音図をヘブライ語の子音と数霊を以って編んだユダヤ独特の闘争原理であり、百戦百勝の戦法であります。

 「汝、モーゼ、汝一人より他に神なしと知れ」とは、「今後三千年間、物質科学文明を完成し、その成果のもたらす金力・武力・権力によって世界人類を再統一するまでの人類の第二物質文明時代の人民が神と崇めるのは、汝モーゼとその霊統を引くユダヤの予言者だけであるぞ」ということであります。三千年の長い年月、モーゼとその後裔(こうえい)の予言者にとってその魂を貫くような恐ろしい、決定的な宣言であり、予言であり、命令であったのではないでしょうか。このようにして人類が迎える第二物質化学文明完成の時を間近にした人類社会が須佐の男の命・エホバの独擅場となったのも当然のことと頷(うなづ)けるのであります。

 須佐の男の命の、日本におけるその後継神の名前を大国主(おおくにぬし)の命といいます。出雲の国の出雲大社の祭神です。三貴子の中の一神、天照大神が岩戸隠れをして以来、皇祖神といわれる天照大神の内容である神々もまた世の中の裏面に隠れました。残ったのは月読の命系と須佐の男の命系の神々であります。この両系統の神の勢力が前述の如く須佐の男の命系の段突の優勢に終り、その日本における総大将ともいうべき大国主の命は日本中の神々の上に君臨する立場に立ったのであります。辞書の所謂「男女の縁結びの協議のため一年の中の結び十月に全国の神々は出雲の国(実は出雲大社)に参集し、出雲以外の国々は神無月となり、出雲の国のみ神有月と呼ばれる」理由を、古事記神話の三貴子(みはしらのうずみこ)即ち天照大神・月読の命・須佐の男の命の誕生と、その後の三神間の協調と葛藤の綾である人類歴史の経過から説明して来ました。お分かり頂けたでありましょうか。(男女間の縁結びの協議ということに関しては後程言霊学の主体と客体の結びとして説明します。)

 さて、神って何でしょう。辞書を引くと、「神―人間の信仰心の対象となる、超人間的な威力を持つもの。宗教により国により異なる。例えばキリスト教では、宇宙を創造し、支配すると考える全智全能の唯一絶対の主宰者(上帝・天帝)をいい、神道(しんとう)では皇祖(そ)神を始め各地神社の祭神を称した。」とあります。この説明を読む限り、神とは信仰しない人にとってはあるか、ないか、分からないもの、信仰者にとっては必ずある、と信じるが、その神は自分以外のもの、そして仏教で仏を如来とも呼ぶように祈りによって自分の外から来るもの、と思われています。

 神について更に考えを進めてみましょう。神という、人間の外にあって超越的で絶対な威力をもつものとは、如何なる構造を持っているのでしょう。その超越したものと、現実の人間との関係はどうなっているのでしょう。超人的、即ち人間界を超越したものを知り得る筈がないではないか、とお答えが返って来ます。しかし現代物理学は人間の五官感覚を超越している原子核内の構造を既に究極寸前にまで解明し尽くしているではありませんか。神の構造とて分からない筈はありません。と言い度くなります。何故って。時が、終末の時が迫っているからです。物質科学研究の文明社会を創造する須佐の男の命、ユダヤ民族のいうエホバ神は既に原子爆弾という悪魔の武器を製造し、しかも国際政治状勢は極めて緊迫し、何時原子爆弾ロケットが飛び交っても不思議はない事態なのです。しかも、日本の出雲の国の「神無月・神有月」の言い伝えが表徴するように平和、調和、協調、美、愛、慈悲の宗教・芸術・哲学界を主宰する月読の命はとっくの昔に須佐の男の命の膝下に組敷かれて、もう手も足も出ない具合なのです。ヨーロッパで以前叫ばれたように、哲学は貧困となり、宗教の神は「死に体」なのです。人類はもう何がなんだか分からなくなっています。宗教・芸術・哲学界の神を力で捻じ伏せてしまい、好奇心と数字をもって欲望の赴くままに疾走する神には平和・協調の精神など物の欠片も持ち合わせぬ躁うつ病的小児的物欲の神なのです。世界人類の誰彼といわず、多かれ少なかれ、その神の犬笛の音なきメロディーに操られています。そしてもっと重大なことは、その事態に気付き、その重大性を知り、精神的0点に立ち帰り、「人間とはそも何者なりや」を追求し、人間の持つ「業」を知ろうとする人が余りにも少ない事なのです。

 「神無月」という言葉が全くの現実となった日本並びに世界の真実相は、一度その様相の一端を見ただけでその恐ろしさに血も凍りつくような危機感におそわれるに相違ありません。「目を覚ましおれ」のイエス・キリストの言葉は現代の人間にこそ言わるべきものなのです。

 以上のような人類の差し迫った課題や危機の悉くを解決し、更に今後の人類の永遠の平和と豊穣の社会を創造する原動力となる原理・法則として言霊の学問がこの地球上に再び姿を現わしました。それは日本国民の信仰の対象として崇められて来た伊勢の天照大神という神の実体である人間の心と言葉の究極の学問であり、真理であります。また長い間、各宗教が待望し、渇仰して来た救世主の心の実体でもあるものです。更にそれは人類の如何なる暗黒無明の悩みも一瞬にして光明と歓喜に変換させる、日本人の大先祖が現在の人類に遺して下さった世界で唯一至上の精神秘宝でもあります。一刻も早く日本人がこの秘宝の存在に気付き、勉学され、その秘宝の御稜威を以って、新しい世界の創造のために立ち上ることを希望するものであります。……この学問の詳細については当会発行の書籍「古事記と言霊」をご覧下さい。

 随想の終わりに最近思いついた事々を記してみましょう。御参考になれば幸いであります。

 仏説の金剛般若経の中に次のような文章があります。「この経を読み、行をはげんでも何ら御利益はありません。御利益がないと知ることが御利益なのです。」大層奇妙なことのように聞こえるかも知れません。けれどそれが真理なのです。これに擬って言霊の学問について一言申し上げましょう。「言霊の学問を勉強し、それを習得しても何の利益もなく、偉い人にもなりません。どんなに学んでも平々凡々の人間に変りはありません。変らないと知ること、それが利益なのです。そしてその平凡な人間の眼に映ずる世界、それが真実の世界なのです。」

 神無月には日本全国の神々が出雲(大社)に参集し、それぞれの氏子の男女の縁結びの相談をする、という所謂俗説を紹介しました。それが何を意味するか、には言及しませんでした。ここで一言申し上げておきます。古事記の神話は伊耶那岐・美二神のセックス行為に擬(なぞら)って人間の心と言葉の意義・内容を説明します。同様に神々が出雲に参集する理由を氏子の男女の縁結びと伝えます。男女間のセックス行為も、縁結びも人間の生活の最も基本的な、一般的な行為でありますから、そこから人間の生命とか、生活に関係する法則を説明するのに便利であるからであります。では出雲の男女の縁結びは何を表徴したのでしょうか。男女という言葉が表徴するのは、物事の陰陽、主体と客体、始めと終り、私と貴方、積極と消極、その他種々の関係が考えられます。言霊で言えば母音と半母音の結びです。それらの縁結びから世の中の有りとあらゆる現象が生まれて来ます。そしてその縁の結び方に四通りあります。言霊学はその四通りの結びを八つの父韻の四通りの並び方によって表わします。ウ―ウの結びはカサタナハマヤラ、オ―ヲの結びはカタマハサナヤラ、ア―ワの結びはタカラハサナヤマ、そしてエ―ヱの結びはタカマハラナヤサです。十月神無月に出雲に参集する神々にはウオアエ四段の言霊母音のいずれかを住家としているでありましょう。出雲大社の神、大国主の命は言霊ウの強大な神であります。それ故に参集して来る言霊ウ以外の母音次元を領域とする神々にも、ウ―ウの結びのカサタナハマヤラの結びのベールを被せてしまうに違いありません。そのベールのオーラが今日程強く厚くなったことはありませんから、その影響を受けて、人間界は完全にウオアエの根本性能の強調に混乱が生じ、言霊ウ次元以外の言霊オ(学問)、言霊ア(宗教・芸術)、言霊エ(道徳・政治)の各人間性能に色濃く欲望という魔物が入り込んで来ました。読者がその状況を毎日、新聞、テレビで嫌という程御覧になっている事であります。

 今随想の最後の一節として、神々の舞う神楽のことをお話しましょう。皆様大方は伊勢神宮の内外宮にお参りした事がお有りでしょう。西行法師が「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」と詠んだ神域の神々しさもご存知でしょう。しかしその内宮正殿は門の扉が固く閉ざされ、我々民間人は普通では正殿を眼前にすることは出来ません。いわんや、その正殿の中に入ることなど到底出来るものではありません。正殿の中に実際に何があるのか、知りようがありません。皆さんが決して入ることが出来ないと諦めてしまうのは、その方々が正殿の正面の門から中に入ろうとするからです。「伊勢神宮の正殿にはレッキとした裏口があります」(これは私の先師の言葉)。この裏口は出入自由です。お賽銭は不要です。中に入るとむさ苦しい老人が一人居眠りをして、人は来ないかな、と人待ち顔です。近づくと「いらっしゃい」と言って、お茶を淹れてくれます。その奥には生きた天照大神が端坐していて、自分自らを語り、貴方方の一切の質問に答えてくれ、更にこの世界をどうすればよいのか、を親切に教えてくれます。不思議なことに、その中に幾度か出入りする間に、貴方自身が古事記の岩戸の前の天の安の河原に参集した皇祖神の内容を成す神々の一人であった大昔の事を思い出すようになります。そして何時の間にか、天照大神がその光輝く御姿を全人類の前に現わす日の為に、御神前の神楽舞の練習をさせて頂いていることを知ります。そのお神楽舞の囃子言葉は

 たまきはる生命の御代を言寿(ことほ)がむ 永遠のおきては 高天原成弥栄(たかまはらなやさ)

 その裏門の表札には「言霊の会」と書かれています。

(この項終 わり)