「コトタマ学とは」 <第百九十四号>平成十六年八月号
     心の構造

 人間の心が五つの母 音・五つの半母音・八個の父韻・三十二個の子音から構成されているということが分りました。それなら母音や半母音・父韻・子音などは、それぞれどんな性質 や内容・働きを持っているものなのでしょうか。これから一つ一つ考えていくことにしましょう。それによって人間の心がどんな仕組みで出来ていて、またどん な活動をしているかが分ってきます。大方の人があまりやったことのない、心の中の探検を始めることにしましょう。

      母音

 まず母音から始める ことにします。
 秋か冬のよく晴れた日、ビルの屋上に上がって仰向けになって空を見上げた経験をお持ちでしょうか。お持ちでない方は想像してみて下さい。仰ぎ見た空は一 点の雲もないので、眼に入るのはただ一面の澄んだ青い空だけです。じっと見つめていると、その澄んだ測り知れぬ広さと大きさに畏怖の念を覚えます。それで もひるまないでじっと見つめていると、すーっと自我の意識が消えてしまう時があります。

 人は自分以外のもの を見たり感じたりすることによって、それを見ている自分の存在を意識するものです。澄んだ青一色の空を見つめて他を感じる何物もない時、自我の意識は次第 に消えていきます。ただ自我意識が消えるだけでなく、その内に自分がだんだん大空の方に持ち上げられ、吸い込まれていく感じになります。まるで宇宙と同化 して一体となってしまうような感じです。

 この感じは、一 見、極めて特殊な場合の体験のように思えますが、考えてみると決してそうではないことに気付くのです。人間は母親の腹から生まれてきます。それは同時に、 この宇宙から宇宙の中へ姿を現わしたことでもあるのです。人間の肉体という現象は、宇宙の中から生まれ出た宇宙の現象でもあります。自我意識の強い現代人 は、特に宇宙を自我の外にのみ考えて、自分自身が宇宙そのものの現象であることを忘れがちです。自分に起る出来事は自分の事件であると同時に、それは宇宙 の出来事でもあるわけです。

 以上のことを心 に留めておいて、今度は眼を閉じてみます。一色の青い空も何も見えません。思いを内に向けると、心の中に様々な記憶、空想、感情が現れては消えていきま す。それは際限がありません。もし今、それらの思いや感情を一時ストップして起らなくしたとすると、どうなるでしょう。空を見上げていた時と同じように、 自我は自分の存在を確かめるよすがを失って、自我意識は消えていくでしょう。消えると同時に、広い広い心の宇宙と一体となることを体験出来るはずです。

 眠っていたり、 または何かに驚いたり、感動したりした時以外、意識がしっかり覚めている時には自我がなくなることは滅多にありません。現実にそれを体験しようとするな ら、宗教の修行によるより他の方法はないかも知れません。現に仏教の禅宗の坊さんは、その心の宇宙―これを空といいます―を求めて一生座禅に励んでいま す。心の中が空っぽになると何が分ることになるでしょうか。今まで自我だとか頭脳組織だとか思っていた自分の心の本体は、実は宇宙そのものだ、ということ が分ってきます。自分が考えていること、今まで自分が考えていたこと、すべてが実は心の宇宙が考えていたのだ、ということが分るのです。自分の心の出来事 が同時に心の宇宙そのものの現象でもあることです。心の出来事が宇宙から現れてくることが分ります。

 もちろん私たちは、 いつも心の宇宙などというものを心に留めているわけではありません。心の現象は暑い、寒い、こうしたい、ああしたい、あいつは何故あんなことを俺に言った んだろう、さぁこれから先どうしたらよいか……などと心の中にはとりとめもなく次から次へと思いや考えが現れては消えていきます。それはまるで自分の意志 で制御できない程です。このように次々に心の中に現れてくる出来事を追いかけていては、心がどんな構造になっているか考えようがありません。現象と現象を 結びつけて考えて、それらの現象の同一点や相違する点を比較しながら心の意識や潜在意識の法則を探ろうとする心理学や深層心理学が、未だ心の構造を完全に は決定出来ずにいることも無理からぬことです。

 日本人の遠い祖先 は、この問題について大昔に完全な答えを出してしまっています。それは現れ出てきた心理現象を追いかけることを止めて、心の出来事(どんな些細な出来事 も)が起る前に帰ることから始めることでした。つまり、心の宇宙に帰ることです。こんがらがった物事を理解するには初めの零に帰らなければならない道理で す。この項の初めに私が心の宇宙のことを持ち出したのも、この理由のためでした。

 さて話をもう一度外に見える物質宇宙のことに戻しましょう。科学 者によると、この地球をロケットに乗って離れ、高度が数十キロに達すると、その宇宙空間にはもう空気も水蒸気なども、ほとんどないのだそうです。けれど何 もないのではなく、目に見えない(現象を起こしていない)種々のエネルギーが充満しているといいます。翻って、見ている方の側の心の宇宙はどうでしょう か。やはり同様にそこにも感知することの出来ない心のエネルギーがいっぱい詰まっており、そこに何かのキッカケがあれば、言い換えると何かの刺激が加えら れると、待ってましたとばかりに現象を生み出すことになります。それが心の宇宙の実体なのです。

 この果てしなく広い、エネルギーが充満し、しかも現象としてはそれ自身を現わさない心の宇宙に名を付けるのに、日本 人の祖先は五十音の中の母音を当てたのでした。母音はアイウエオと五個あるのに心の宇宙は一つである。この関係はどうなるのか、とお思いでしょう。当然の 疑問です。

 そこで心の宇宙のことをさらに考えてみましょう。この宇宙から起ってくる自分の精神現象をよく見つめていきますと、精神宇宙というのは単純なただ一つの 広がりなのではなく、五つの別個の広がりの積み重なったものであることが分かってきます。しかもその重なり方が単に五段階が重なっているというのではな く、一つの段階が終った時、その点を土台として次の段階が始まる、またその段階が完結した点で次の段階が……というように、哲学でいう五つの次元界層の重 なりという構造を持っていることが分かって来ます。この五段界層の宇宙の広がりに、それぞれ母音アイウエオの名を付けたのでした(図参照)。

 大きく息を吸い込んで五つの母音を実際に発音してみてください。母音のどの音も息の続く限り同じ音が続き、変化がありません。それは、この心の五つの宇宙が―そこからそれぞれの空間特有の精神現象が現れて来るのですが―その宇宙自体は決して現象として現れることはない先天的な永劫不変の実体であることを示しているのです。

 心の宇宙は分かるが、それが五つの次元から成っているということは耳慣れないと思われるかも知れません。そこでその一つ一つを説明していきましょう。

(次号に続く)

   禊 祓について

 古事記の神話が教える禊祓、言い換えますと世界人類の文明創造の方法が先月号で説明しました底津・中津・上津の綿津見の三神と底・中・上筒の男の三命によって主観的であると同時に客観的な、絶対的真理であることが検証されました。この事によって神話は直ぐに神話の総結論である天照大神・月読命・速須佐男の命の三貴子の誕生に移るかと思われますが、実はその間に文庫本で三行程の文章が挿入されているのであります。その事について解説を申し上げることとします。先ずその文章を掲げます。

 この三柱の綿津見の神は、阿曇(あずみ)の連(むらじ)等が祖神(おやがみ)と斎(いつ)く神なり。かれ阿曇の連等は、その綿津見の神の子宇都志日金拆(うつしひかなさく)の命の子孫(のち)なり。その底筒の男の命、中筒の男の命、上筒の男の命三柱の神は墨の江の三前(すみのえのみまへ)の大神なり。

 この三柱の綿津見の神は阿曇(あずみ)の連(むらじ)等が祖神(おやがみ)と斎(いつ)神なり。
 底津・中津・上津の三柱の綿津見の神は後の世の阿曇の連等が自分達の先祖の神だとしてお祭りしている神です、ということです。神話の総結論である三貴子の神々が誕生する前に、何故結論とは関係ありそうにも思えない阿曇の連という後世の一族のことなどを挿入したのでしょうか。その疑問に対しての答えはただ一つ「後世、言霊の原理が人類の意識に蘇(よみがえ)り、言霊の原理に基づく文明創造の時が来る時、その創造を司(つかさど)る政治の庁の基本的なやり方を示唆するため」であります。何故そのように言い切れるのか、を少々説明いたします。

 三柱の綿津見の神と阿曇の連とはその名前では無関係のように思われます。けれど言霊学に則って見ますと意味・内容が同じであることに気付くのです。綿津見の神とは、底津・中津・上津共に禊祓の出発点より終結点まで渡して(綿津)新文明の創造の中に取り込んで行く働きの事です。しかもその働きの経緯は底津(エ段)・中津(ウ段)・上津(オ段)共にテケメヘレネエセ・ツクムフルヌユス・トコモホロノヨソと底・中・上の筒の男の命が示す八個の現象子音によって明らかに示されました。次に阿曇の連はどうでしょうか。連は昔の身分、官職を表わす名です。阿曇とは明らかに続いて現われるの意です。とすると、綿津見と阿曇は禊祓という文明創造の行法(政治)に於ては同意味の事柄ということが出来ます。

 では三柱の綿津見の神が阿曇の連が祖神と斎く神だ、という文章は何を表わそうとしているのでしょうか。神話に於ける子とか子孫とかいう場合は、神が原理を表わす時、その子または子孫とはその原理や力の運用・実行者であることを示しています。以上のことを頭に留めておいて、次の古事記の文章を読みますと、その間の意味が更に明瞭に理解されて来ます。次の文章の初めに「かれ」とありますのは「それ故に」という意味で、両者の関係を更に敷衍して述べられていることが分かります。

 かれ阿曇の連等は、その綿津見の神の子宇都志日金拆(うつしひかなさく)の命の子孫(のち)なり。
 綿津見の神の子宇都志日金拆の命、とは何を意味するのでしょうか。宇都志日金拆の(うつしかなさく)命とは、宇は家(いえ)です。また五重で人の心の住家の意です。宇都志の都は宮子(みやこ)で言葉のこと、志はその意志またはその意志による生産物を示しています。また宇都志で現実の、をも示します。宇都志で人間が住む世界全体の生産する文化ということであります。その世界全体の生産する文化を、日(言霊)の原理に基づいて金拆(かなさ)く、即ち神の名である大和言葉に変換して咲かせる、の意であります。

 先に禊祓の奥疎から辺津甲斐弁羅に至る六神に於てお話いたしました如く、禊祓の出発点から終着点に導くためには、それを可能にする原動力となる言葉の力が必要でありました。また大禍津日、八十禍津日の項で学びました如く、五十音図を上下にとった百音図の下の五十音が示す外国(黄泉国)の文化を、上の五十音図(高天原が統治する言霊原理に基づいて創造させる人類文明)へ引上げるためには神直毘・大直毘・伊都能売の光の言葉が大切だと分かりました。禊祓を完成させる光の言葉(霊葉[ひば])の御稜威によって禊祓は完全に可能であるという証明が綿津見の神として成立したのでありました。その言霊原理の絶対の真理の確証が成立する事を示す三柱の綿津見の神の子である宇都志日金拆の命とは、現実の人類世界を統治する天津日嗣スメラミコトの世界文明創造の政庁の中の、外国の文化を人類文明に組み込んで行く役職のことであり、その実際の方法が、その役職名が示す如く、外国の文化を言霊原理に則り、大和言葉に宣り換えて行くことなのだ、ということを明らかに示しているのであります。阿曇の連とはそれより更に後世に於ける朝廷内の同様の役職名であるということが言えましょう。因みに民間歴史書である竹内古文書にはこの宇都志日金拆の命のことを萬言文造主(よろづことぶみつくりぬし)の命と書いてあります。スメラミコトの世界文明創造とは簡単に表現すれば、外国の文化を言霊原理に基づいて日本語に宣り直して行くことだ、ということが出来ましょう。この禊祓の原理を実際の政治に運用する方法として後世に伝えんとする意図が文庫本で三行の挿入文となって書かれたのであります。

 その底筒の男の命、中筒の男の命、上筒の男の命三柱の神は、墨の江の三前(すみのえのみまへ)の大神なり。
 挿入文には更に右の文章が続いております。底・中・上筒の男の命の三神は墨(統見・総見・澄見)[すみ]である言霊原理の総結論である三貴子(みはしらのうずみこ)即ち天照大神・月読命・須佐男命三神(三)という精神の最高規範(慧・江[え])が生まれてくる前提(前)となる大神であります、の意。禊祓の神業によって外国の文化の一切を光明の高天原の人類文明の中に摂取して行く創造行為の最高の規範の確認は、底・中・上の筒の男の命で示される言霊子音による検証という前提を経て初めて承認されるのだ、ということであります。高天原と黄泉国という両精神界の境に置かれた千引き石(道引の石)[ちびきいわ]とは、厳密に言えば、底筒の男(エ段)、中筒の男(ウ段)、上筒の男(オ段)にア段を加えた子音三十二個の言霊のことなのです。

 以上、三柱の筒の男の命と三貴子誕生との両神話の間に挿入された文章について説明をいたしました。古事記神話の撰者の並々ならぬ細やかな意図を御理解頂けたでありましょうか。かくて禊祓の総結論である三貴子(みはしらのうずみこ)の誕生の話に移って行くこととなります。

  ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名(みな)は、天照(あまて)らす大御神(おおみかみ)。次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、月読(つくよみ)の命。次に御鼻(みはな)を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、建速須佐(たけはやすさ)の男(を)の命。
 人間天与の五つの性能、言霊ウ(産業・経済)、オ(学問)、ア(芸術・宗教)、エ(政治)、イ(言葉)の中で人類文明に最も直接に関係するものと言えば、言霊ウの産業・経済と言霊オの学問、それに言霊エの政治活動の三現象でありましょう。禊祓の行によってこれら三性能の活動の最高理想の行動原理となる規範(鏡)が結論として完成しました。その典型的な規範に対して名付けられた神名が天照らす大御神(エ)、月読の命(オ)、建速須佐の男の命(ウ)の三柱の貴子(うずみこ)であります。それ等三神の親は伊耶那岐の大神です。太安万呂はこの三貴子の誕生を説明するに当り、親である伊耶那岐の大神の顔の目鼻の配置を利用しているのであります。安万呂の面目躍如たる所であります。即ち伊耶那岐の音図である天津菅麻[すがそ](音図)の母音を上にした五十音図を顔に見立てたのです。図を御覧下さい。

 伊耶那岐・美二神によって言霊五十音図が出揃った後、伊耶那岐の命のみで、五十音言霊を整理・点検して、主観内に於て完成した理想の音図の建御雷の男の神と呼ばれた音図、その主観内自覚の音図を禊祓実行の指針として掲げた衝立つ船戸の神と名付けられた音図、そして禊祓の実行・検証の結果、主観的であると同時に客観的な、即ち絶対的な真理と確認された音図が完成されました。この音図を天津太祝詞(音図)といいます。この五十音図全体、またはその五十音図の言霊母音エの段の配列を称して天照大御神と呼びます。実体はエ・テケメヘレネエセ・ヱの十音です。この音図のオ段、オ・トコモホロノヨソ・ヲの十音を月読の命と呼びます。更にこの音図のウ段、ウ・ツクムフルヌユス・ウの十音を建速須佐の男の命といいます。

  「コトタマ学」会報の五ヶ月にわたりお話申し上げて来た言霊学の奥義ともいうべき禊祓の大行についての解説の大略を終了させて頂くこととなります。日本人の大先祖である皇祖皇宗の高遠偉大な言霊学をお伝えするには如何にも力不足の域をまぬがれ得ないのでありますが、少しでも読者の皆様の御理解の役に立てばと一所懸命にお話させて頂きました。有難う御座いました。話の対象が大方人間の精神内の事柄でありますので、幾度、幾十度と自らの心の内を反省して、心中に見ることが出来た実相についてのお話であります。反省を繰り返す度毎に新しい事実が、また当然気付くべきことで見落としていた事実を発見することとなります。気付いたこと、新しく発見したことはその都度、会報誌上に発表し、皆様にお伝え申し上げているのでありますが、今月の会報まで百九十四号がすべてその繰り返しだと申しても過言ではありません。このような牛歩の筆を今後共御声援を賜りますようお願い申し上げます。

 さて一連の禊祓の話を終らせて頂いた眼で言霊学に関係ある種々の事柄を見廻しますと、そこにまた幾多の新しい事に気付きます。それ等の事の一、二についてお伝えしてみたいと思います。先ず初めに取り上げますのは奈良の石上神宮に三千年もの長い間伝承されているといわれる布留の言本(ふるのこともと)、日文(ひふみ)四十七文字についてであります。

 日文(ひふみ)四十七文字とは人間の心を構成する四十七言霊を重複することなく並べて禊祓、即ち人類文明創造の方法を説いている文章なのです。称え言(となえごと)でもなく、祈りの言葉なのでもありません。「時が来たならば、人類の歴史創造はかくの如くせよ」という教訓であり、予言でもあるものなのです。日文四十七文字を書いてみましょう。

 ヒフミヨイムナヤコトモチロラネシキルユヰツワヌソヲタハクメカウオエニサリヘテノマスアセヱホレケ
 人類の命運に関(かか)わる重大な教えであり、予言でもあるものを、そんな言葉の魔法とも思われる文章に仕立てて遺さなくてもよいではないか、またそのような文章など作り得ないはずだから、日文自体に実は何の意味もない四十七文字の単なる羅列に過ぎないのではないか、と思われる方も多いことでしょう。ところが、どうして、どうして言霊四十七音を重複なく並べたこの布留の言本(こともと)日文四十七文字はまごうことなく人間の心を構成する言霊四十七音を使って、言霊原理に基づき人類の文明を創造して行く大行、即ち禊祓の方法を余すことなく教えている言葉であることが、今回の禊祓のお話を終了した時点で掌に取るごとく明らかに確認することが出来たのであります。私達日本人の祖先の英智の高邁さ、霊妙さを改めて認識した次第なのです。

 日文と私との馴初(なれそ)めは、私が言霊学を先師小笠原孝次氏に師事して十年近く経った頃です。ある日、先生は「島田さんも言霊の理論には通じて来られたから、一つ宿題を出しましょう。奈良の天理市の石上神宮に三千年前から伝わる布留の言本、日文四十七文字があります。江戸時代末の頃、平田篤胤[あつたね](国学者)が心霊的に解釈した以外には未だにこれといった解釈がなされていません。この日文を考えてみてはどうですか。」と言われたのが始まりでした。「三千年間、未だに……」というのですから私は張り切って引き受けました。一九七○年代前半の頃と記憶しております。

 引き受けてはみたものの、日文を何回となく読み返してもどうしたら解釈らしいものが出来上がるのか見当もつきません。「ヒフミヨイムナヤコトモチ」とは「一二三四五六七八九十の十拳の剣(とつかのつるぎ)を以って」の意味だ、ということは分かるのですが、「ロラネシキル」が全く分かりません。「シキル」は仕切るの意であろうと思われますが、「ロラネ」は見当がつきません。「ユヰツワヌ」もはっきりしません。「ソヲタハクメ」は多分「それを田葉(たは)である五十音図の中の言霊で組んでみよ」であろうと解釈しました。「カウオエニサリヘテ」がまた見当がつきません。「ノマスアセヱホレケ」の「ノマス」は多分「宣(の)べよ」であり、「アセ」は「ア段の川の瀬」と思われるけれど、文書が前後にどのように続くのか不明です。「ヱホレケ」は全く不明。これではどうにもなりません。歯が立たないとはこのことをいうのでしょう。

 試行錯誤の中に一年余りが過ぎました。薄ぼんやりとした思考の中に光明が差し込んで来ました。先師が画いた十七先天言霊(天名[あな])と三十二の後天子音言霊(真名[まな]・神名[かな])によって示される思考の循環図(「古事記と言霊」107頁参照)の意味と内容が少しずつ自身の心をのぞく事によって理解が深まって来るに従い、それまで見当もつかなかった「ロラネ」や「ツワヌ」、更に「カ」の一音の意味が次第に分かって来たのです。と同時に日文四十七文字の言霊の列が指示する内容がおぼろげながら一連の文章にまとまって来ました。

 文章にまとまって来たと申しましても、それは言霊学という理論より推理した「言霊学の運用」という理論に過ぎません。勿論、それは現在お話申し上げているスメラミコトの世界人類の文明創造の実行行為(禊祓)の実際の心理描写なのではありません。けれど一応は先生からの宿題は果たした事となります。私はその解釈の文章を清書して先生に提出しました。(「言霊」随筆集「日文」参照)それを読み終わった先生は「まぁ、こんなものでしょうな。御縁ですからもう一つ清書して石上神宮の神主さんに送って差し上げたらよいでしょう」と言われた事を記憶しております。

 言霊原理による禊祓が明らかにスメラミコトによる世界人類の文明創造の手法であり、その手法の一つ一つの過程を詳細に皆様にお伝えすることが可能となった現在、改めて石上神宮の布留の言本、日文四十七文字を見ますと、禊祓の手法を言霊四十七音を以って正確に指示、教示したものであることを知ることが出来るのであります。

 現在明らかになった禊祓の行の心理の過程に基づいて日文四十七文字を区切り、その一節々々を指示する古事記の神名を以ってその分担を表わしますと、次のようになります。

 ヒフミヨイムナヤコトモチロラネシキル
 伊耶那岐の大神、衝立つ船戸(つきたつふなど)の神、道の長乳歯(ながちは)の神、時置師(ときおかし)の神、煩累の大人(わずらひのうし)の神、道俣(ちまた)の神、飽昨の大人(あきぐひのうし)の神。

 ユヰツワヌ
 奥疎(おきさかる)の神、奥津那芸佐毘古(おきつなぎさびこ)の神、奥津甲斐弁羅(おきつかひべら)の神、辺(へ)疎の神、辺津那芸佐毘古の神、辺津甲斐弁羅の神。

 ソヲタハクメ
 大禍津日(おほまがつひ)の神、八十(やそ)禍津日の神、神直毘(かむなおび)の神、大(おほ)直毘の神、伊都能売(いづのめ)。

 カ
 該当神名なし。

 ウオエニサリヘテノマス
 底津綿津見(わたつみ)の神、中津綿津見の神、上津綿津見の神、底筒(そこつつ)の男の命、中筒の男の命、上筒の男の命。

 アセヱホレケ
 天照大御神、月読の命、建速須佐の男の命。

(次号に続く)