「コトタマ学とは」 <第百九十三号>平成十六年七月号 | |
禊
祓について
先月号の会報の終りに古事記神話に示さ れる禊祓の行法が三つの段階で書かれていると申し上げました。第一段階は伊耶那岐の命と伊耶那美の命との交渉による黄泉(よもつ)国物語であり、第二段階 は黄泉国より高天原に帰還した伊耶那岐の命が、黄泉国に於ける体験を踏まえて、「我即人類、人類即我」の立場、言い換えますと、高天原も我、黄泉国も我が 責任という精神的立場である伊耶那岐の大神となって、黄泉国で生産される客観的文化を摂取し、これに新しい生命の息吹を与えて世界文明を創造して行く瞬間 々々の伊耶那岐の大神の心理の過程を明らかにした心理学的な文章であります。 以上の第一段階の伊耶那岐の命の黄泉国 の体験、第二段階の伊耶那岐の大神となって黄泉国の文化を取入れ、世界文明創造を行う大神の心理過程が、果たして確実に世界文明創造を可能にするか、を大 神の心を構成する五十音言霊図上の動きとして検証するという禊祓の最終段階が始まる事となります。この検証が成功するならば、日本語の語源であるアイウエ オ五十音言霊布斗麻邇の原理が地球人類の文明創造を可能にする必要にして充分な真理であり、人類唯一の精神秘宝であることが証明されるのであります。 文章が少々堅くなったようです。これも 言霊学の総結論の徹底解明を目指す私の意気込みと緊張のためでありましょうか。先にお話しました「我即人類、人類即我」などと言いますと、ともすると「人 類はわが所有(もの)であり、我は人類を思いの侭にする」という傲慢な専制主義者の言葉と思われるかも知れません。けれど古事記の神話を教科書とする言霊 学の全編をお読み下さるならば、この「我即人類、人類即我」という言葉が傲慢とは正反対な、謙虚さと愛と、人間生命の根本構造に根差した真理の言葉である ことに気付かれるでありましょう。以上、前置きはこの位にして、古事記「禊祓」の真意義の解明に入ることといたします。 伊耶那岐の命は自分の心を内省すること によって人間精神の最高の構造を発見しました。これを建御雷の男の神といいます。そしてこの自覚した主観内真理が、客観世界の文化を摂取して人類文明を創 造して行く上でも通用するものか、どうかを確かめるために黄泉国へ出掛けて行き、その物事を自分の外に見る客観世界の実状を体験して、高天原に帰って来ま した。そこで伊耶那岐の命は自らの主観内真理を指針として黄泉国の客観的文化を摂取し、その内容を取捨することなく生かして、人類文明を創造することが可 能であるか、どうかの検証に入ることとなります。この場合、自己内に主観的真理である建御雷の男の神を確立し、その上で黄泉国に出掛けて行って、その客観 的文化を体験し、高天原に帰還するまでが伊耶那岐の命であり、高天原に帰って、自らの主観内真理の他に黄泉国の文化を知ってしまった伊耶那 岐の命(自分自体)を出発点として、人類文明創造に取り掛かる伊耶那岐の命が伊耶那岐の大神と呼ばれるのであります。 古事記の最終結論に導く行法の検証を始 めるに当たり、その出発点の状況をもう一度確かめておく事にします。古事記は禊祓の開始に当たり「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊祓へた まひき」とありますから、伊耶那岐の大神は神自らの音図である天津菅麻音図の心になって臨まれた事となります。即ち何らの先入観のない白紙の心でありま す。そして禊祓実行の指針として自らの主観内に自覚した最高の心構えである建御雷の男の神を斎き立てました(衝立つ船戸の神)。更に大神は自らが黄泉国に 於て見聞・体験した諸文化の真相・実相の把握に必要な五つの観点(道の長乳歯の神以下飽咋の大人の神までの五神)を設定しました。かくして禊祓実行の方針 と摂取した外国文化の実相の把握とを確実にした上で、その自らの状態を出発点として禊祓に入って行くのであります。 禊祓の実践に入り先ず初めにした事は、先入観のない心が外国の文化を見 聞・体験した時、自分の心はどの様な状態になったか、を明らかに知ることであります(奥疎の神)。すると自らの心に斎き立てた衝立つ船戸の神という指針は 明らかに禊祓の行法を経て最終的に如何なる結果となって収拾されるか、が定まります。「結果はこうなるな」という予測が行われます(辺疎の神)。次に考え られるのは、最初の状況から出発して結果の方向へ事態を変えて行くために必要な手立ては何か(奥津那芸佐毘古の神)です。と同時に考えられるのは、予測さ れた結果を招来するための手段(辺津那芸佐毘古の神)です。次に考えるべきは最初の状況を動かし(奥津那芸佐毘古の神)、結果に導く(辺津那芸佐毘古の 神)二つの手段は実際には一つの言葉として働くこととなります。そのためには双方の手段は別々のものでなく、一つの言葉にまとめられなければなりません (奥津甲斐弁羅の神、辺津甲斐弁羅の神)。以上の六神で示される伊耶那岐の大神の心中の成り行き(経過)を確実に進行させる原動力となる言葉とは如何なる ものか。外国の文化を体験・摂取して、伊耶那岐の大神自身が変身して新しい文明創造の主宰神となるための必要にして充分な原動力とは如何なるものか。この 問題が今回の会報の主題となるわけであります。 古事記の新しい文章に入ります。 「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」 初めて中つ瀬に堕り潜きて滌ぎたまふ時に、 八十禍津日の神、次に大禍津日の神。 以上のような次元の自覚の有無、実相自 覚の有無は物事を観察する上で重要な事であり、禊祓の行為の前提としては欠かせない必要な事です。これはア次元の観察の功であります。けれど実相を見分け ただけでは、すべてのものを摂取して、それを材料として生かし、文明創造に資する事にはなりません。これが罪となります。この功罪を見分ける事が出来た事 を八十禍津日の神といいます。 大禍津日の神とは言霊イの次元、即ち言 霊原理そのもので禊祓をしようとする時の功罪が分かったことであります。言霊原理の存在がなければ、禊祓そのものが成立しません。けれど言霊原理を説いて も禊祓は何の進展もありません。この言霊イ次元の禊祓に於ける功罪の認識を大禍津日の神と申します。八十禍津日、大禍津日二神についての詳細は「古事記と 言霊」を参照して下さい。 この二神は、かの穢き繁き国に到りたまひし時の、汚垢により
て成りませる神なり。 次にその禍を直さむとして、成りませる神の名は、神直毘の
神。次に大直毘の神。次に伊豆能売。 神直毘とは、言霊オ次元に属する黄泉国 の学問のすべてを人類全体の学問として引上げることが出来る光の言葉の働きといった意味であります。大直毘とは言霊ウの次元に属する黄泉国の産業・経済の 産物を人類全体の産業・経済ルートに乗せ得る霊葉(ひば)の働きの意です。そして伊豆能売(いづのめ)とは御稜威(みいず)の眼(め)の意であり、言霊エ の次元にあって発揮される言霊原理の最高の光の言葉であり、人類が永遠に生きて理想の文明を築くための眼目となる働きという事であります。 次に水底に滌(すす)ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津
綿津見の神。次に底筒の男の命。中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。次に中筒の男の命。水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、
上津綿津見の神。次に上筒の男の命。 伊耶那岐の大神が禊祓の舞台としている 天津菅麻音図は母音が上からアオウエイと並びます。その中の上つ瀬のアと下つ瀬のイは禊祓の舞台としては適当でないことを知り、中間の中つ瀬に入りまし た。中つ瀬は言霊母音オウエの三本の流れです。今度はその三本を区別するために、中つ瀬の水底、中、水の上の言葉を使っております。水底はエ、中はウ、水 の上はオの心の流れであります。 次に水底に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見の
神。次に底筒の男の命。 中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。次
に中筒の男の命。 水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の
神。次に上筒の男の命。 以上、八十禍津日の神より上筒の男の命 まで十一神の解説をして来ました。御理解を頂けたでありましょうか。禊祓の法が三柱の綿津見の神によって黄泉国の文化が高天原の人類文明に摂取されて行く ことの可能性が検証され、その摂取の経過が現象八子音のチャンネルとして裏付けられました。かくお話しますと、読者の皆様には、裏付けの三連の八子音、テ ケメヘレネエセ(エ段)、ツクムフルヌユス(ウ段)、トコモホロノヨソ(オ段)の配列であることが今始めて発見・確 認されたように思われるかも知れません。けれど正確に申しますとそうではありません。そこが古事記神話の撰者太安万呂の文章の巧妙なところだと言えるかも 知れません。伊耶那岐の命はとっくの昔に「そうであろう」事を知っていたのです。伊耶那岐の命は自分一人で、主観内真理である建御雷の男の神を人間精神の 最高の心構えとして確立し、その時既に新生の文化の摂取がこの八つの子音の経過を以って実行可能であろうことを自覚していたのです。であるからこそ、伊耶 那岐の大神となって黄泉国の文化の禊祓をするに当り、その行法の指針として自らの主観内真理である建御雷の男の神なる原理を衝立つ船戸の神として斎き立て たのです。その結果、黄泉国という初対面の文化の摂取にも予想と同様の子音の配列が示す結果を得たことにより、主観内真理である建御雷の男の神なる原理 が、何時、何処に於ても、また如何なる文化に対しても適用して誤りのない、主観的と同時に客観的な、即ち絶対的真理であることの検証が成就したのでありま す。 底津・中津・上津綿津見の三神と底・ 中・上筒の男の三命によって禊祓の行為が人類文明創造の絶対真理であることが証明されましたので、古事記の神話は一気にその総結論である天照大神、月読の 命、速須佐男の命の三貴子(みはしらのうずみこ)の誕生に入ることになるのですが、実際には古事記はその間に一見なくてもよい様な挿話を文庫本で三行程入 れてあるのです。この挿話がスメラミコトの人類文明創造に当たって重要な意味を持っているのですが、その解説と三貴子誕生の話は次の機会に譲ることといた します。 (次号に続 く) |