「コトタマ学とは」 <第百九十三号>平成十六年七月号
     五十音図とその区分

 人間の心が五十個のコ トタマから成り立っていることを発見した日本人の祖先は、その五十個のコトタマを合理的に並べて人間の心を表わそうと工夫しました。そして平面的な五十音 図を作ったのです。現在、私たちが小学校で教えられるアイウエオ五十音図もその一つであります。実はこのアイウエオ五十音図のほかに、四通りの五十音図が 考案されました。そのそれぞれは、人が持つ心の持ち方によって並べ方が違うものでした。それらがどう違うのかは、後ほど詳しく説明することにします。

  五十音図を見 てください。それは五十個の音をただ漫然と並べたのではなく、きっちりとした規則があります。まず音図に向かって右の行は上からアイウエオと母音が五個並 びます。向かって左の行にワヰウヱヲと半母音が五個並びます。そして母音と半母音の行の間に、一番上のアの段でいうと、右から左にカサタナハマヤラと八個 の音が横に並んでいます。

 今、説明しやすくす るために、この八音をローマ字で書いてみましょう。KASATANAHAMAYARAとなります。するとこの八音のどの音にもAが付いていることが分かり ます。二段目のイ段はKISITINIHIMIYIRIで八音全部にIが付いているのが分かります。そうしますと、母音の先にKSTNHMYRがそれぞれ 付いて、母音と半母音以外の四十音を作っていることになります。この母音の先に付いて母音・半母音以外の音を作るKSTNHMYRの八個を八つの父韻と呼 びます。

 ローマ字を使っ たのは説明しやすくするためであり、実際は日本人の祖先が父韻と呼んだのはKSTNHMYRではなく、キシチニヒミイリのイ段の八音でありました。キにア が付いてカとなり、シにエが付いてセとなる……、と考えたのです。キシチニヒミイリの八音を父韻と呼びますと、五十音の中から母音五個・半母音五個、さら に父韻八個を除きますと三十二個の音が残ります。この三十二個の音を子音と呼びます。

 つまり五十音図 は、五個の母音、五個の半母音、八個の父韻、三十二個の子音から構成されていることになります。

 さて以上で五十 音図の区分は終りました。そしてこの五十音はただの五十音ではなく、五十個のコトタマであります。人間の心はこの五十個のコトタマで出来ているのですか ら、私達の祖先が五十音図を母音・半母音・父韻・子音と区分を定めたのは、人間の心が同様に区分されたコトタマによって構成されているということになりま す。そうです。人の心はそれぞれ全く性質の異なった五母音・五半母音・八父韻・三十二子音によって構成されているのです。

 それなら母音・半母 音・父韻・子音とはそれぞれ人間の心のどの部分に当たり、どんな内容を持ち、どんな働きをしているのでしょうか。五十音の区分は人間の心の区分でもありま す。そのそれぞれの区分を明らかにすることでコトタマの正体を説明していくことにしましょう。

[注]母音のウと半 母音のウは同じです。五十音図の場合、母音・半母音のウは重複し、半母音のウがンに転化して神代文字となったもので、全部で五十音となります。

(この項終り)

   禊 祓について

 先月号の会報の終りに古事記神話に示さ れる禊祓の行法が三つの段階で書かれていると申し上げました。第一段階は伊耶那岐の命と伊耶那美の命との交渉による黄泉(よもつ)国物語であり、第二段階 は黄泉国より高天原に帰還した伊耶那岐の命が、黄泉国に於ける体験を踏まえて、「我即人類、人類即我」の立場、言い換えますと、高天原も我、黄泉国も我が 責任という精神的立場である伊耶那岐の大神となって、黄泉国で生産される客観的文化を摂取し、これに新しい生命の息吹を与えて世界文明を創造して行く瞬間 々々の伊耶那岐の大神の心理の過程を明らかにした心理学的な文章であります。

 以上の第一段階の伊耶那岐の命の黄泉国 の体験、第二段階の伊耶那岐の大神となって黄泉国の文化を取入れ、世界文明創造を行う大神の心理過程が、果たして確実に世界文明創造を可能にするか、を大 神の心を構成する五十音言霊図上の動きとして検証するという禊祓の最終段階が始まる事となります。この検証が成功するならば、日本語の語源であるアイウエ オ五十音言霊布斗麻邇の原理が地球人類の文明創造を可能にする必要にして充分な真理であり、人類唯一の精神秘宝であることが証明されるのであります。

 文章が少々堅くなったようです。これも 言霊学の総結論の徹底解明を目指す私の意気込みと緊張のためでありましょうか。先にお話しました「我即人類、人類即我」などと言いますと、ともすると「人 類はわが所有(もの)であり、我は人類を思いの侭にする」という傲慢な専制主義者の言葉と思われるかも知れません。けれど古事記の神話を教科書とする言霊 学の全編をお読み下さるならば、この「我即人類、人類即我」という言葉が傲慢とは正反対な、謙虚さと愛と、人間生命の根本構造に根差した真理の言葉である ことに気付かれるでありましょう。以上、前置きはこの位にして、古事記「禊祓」の真意義の解明に入ることといたします。

 伊耶那岐の命は自分の心を内省すること によって人間精神の最高の構造を発見しました。これを建御雷の男の神といいます。そしてこの自覚した主観内真理が、客観世界の文化を摂取して人類文明を創 造して行く上でも通用するものか、どうかを確かめるために黄泉国へ出掛けて行き、その物事を自分の外に見る客観世界の実状を体験して、高天原に帰って来ま した。そこで伊耶那岐の命は自らの主観内真理を指針として黄泉国の客観的文化を摂取し、その内容を取捨することなく生かして、人類文明を創造することが可 能であるか、どうかの検証に入ることとなります。この場合、自己内に主観的真理である建御雷の男の神を確立し、その上で黄泉国に出掛けて行って、その客観 的文化を体験し、高天原に帰還するまでが伊耶那岐の命であり、高天原に帰って、自らの主観内真理の他に黄泉国の文化を知ってしまった伊耶那 岐の命(自分自体)を出発点として、人類文明創造に取り掛かる伊耶那岐の命が伊耶那岐の大神と呼ばれるのであります。

 古事記の最終結論に導く行法の検証を始 めるに当たり、その出発点の状況をもう一度確かめておく事にします。古事記は禊祓の開始に当たり「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊祓へた まひき」とありますから、伊耶那岐の大神は神自らの音図である天津菅麻音図の心になって臨まれた事となります。即ち何らの先入観のない白紙の心でありま す。そして禊祓実行の指針として自らの主観内に自覚した最高の心構えである建御雷の男の神を斎き立てました(衝立つ船戸の神)。更に大神は自らが黄泉国に 於て見聞・体験した諸文化の真相・実相の把握に必要な五つの観点(道の長乳歯の神以下飽咋の大人の神までの五神)を設定しました。かくして禊祓実行の方針 と摂取した外国文化の実相の把握とを確実にした上で、その自らの状態を出発点として禊祓に入って行くのであります。

 禊祓の実践に入り先ず初めにした事は、先入観のない心が外国の文化を見 聞・体験した時、自分の心はどの様な状態になったか、を明らかに知ることであります(奥疎の神)。すると自らの心に斎き立てた衝立つ船戸の神という指針は 明らかに禊祓の行法を経て最終的に如何なる結果となって収拾されるか、が定まります。「結果はこうなるな」という予測が行われます(辺疎の神)。次に考え られるのは、最初の状況から出発して結果の方向へ事態を変えて行くために必要な手立ては何か(奥津那芸佐毘古の神)です。と同時に考えられるのは、予測さ れた結果を招来するための手段(辺津那芸佐毘古の神)です。次に考えるべきは最初の状況を動かし(奥津那芸佐毘古の神)、結果に導く(辺津那芸佐毘古の 神)二つの手段は実際には一つの言葉として働くこととなります。そのためには双方の手段は別々のものでなく、一つの言葉にまとめられなければなりません (奥津甲斐弁羅の神、辺津甲斐弁羅の神)。以上の六神で示される伊耶那岐の大神の心中の成り行き(経過)を確実に進行させる原動力となる言葉とは如何なる ものか。外国の文化を体験・摂取して、伊耶那岐の大神自身が変身して新しい文明創造の主宰神となるための必要にして充分な原動力とは如何なるものか。この 問題が今回の会報の主題となるわけであります。

 古事記の新しい文章に入ります。
 ここに詔りたまは く、「上つ瀬は瀬速(はや)し、下つ瀬は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて滌ぎたまふ時に、成りませる神の名は、八十禍津日 (やそまがつひ)の神、次に大禍津日(おほまがつひ)の神。
この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の、汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

 この文章以後の古事記はすべて伊耶那岐の大神の行動を五十音言霊図またはその言霊図内の言霊の動きによって表現していることを念頭においてお読み下さ い。今まで全く知らなかった黄泉国の文化とその様相を体験してしまいました。この自分は、自分本来の菅麻(すがそ)音図を行動の舞台として、衝立つ船戸の 神という指針を掲げ、どう変身を遂げれば黄泉国の文化の実相を損(そこ)なうことなく人類文明の中に取り入れることが出来るか、の検証に入りました。

 「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」
 伊耶那岐の大神は自らの心の変転を自らの音図(菅麻)のどの次元で検証したらよいか、を先ず考えました。菅麻音図の母音は上よりアオウエイと並びます。 人間の心の動きはアよりワ、オよりヲ、……と母音より半母音に向う川の瀬の如く変化します。上つ瀬とはアよりワに流れる感情次元の動きのことです。この感 情次元の心の流れの上で自らの変身を考えることは変化がありすぎて適当ではない。人類文明創造は高度の政治活動であり、これを感情次元で取扱ってはいけな い、という事です。では下つ瀬ではどうか。下つ瀬はイよりヰに流れる意志の次元です。言霊が存在する次元です。「下つ瀬は弱し」、言霊原理そのものを論議 していては何時まで経っても事態は変わって行かない。このイ次元も文明創造を考えるのに実際的でない、不適当である、ということになります。そこで――

 初めて中つ瀬に堕り潜きて滌ぎたまふ時に、
 菅麻音図の母音の並びはアオウエイでありますから、その上つ瀬のア―ワ、下つ瀬のイ―ヰを除くオウエ、即ちオ―ヲ、ウ―ウ、エ―ヱの瀬が中つ瀬というこ とになります。この中つ瀬に入って禊祓の検証を推進しようとしますと、いろいろな事が分かって来たのであります。先ず分かったのは――

 八十禍津日の神、次に大禍津日の神。
 禊祓に於て「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」と不適当と否定された母音アとイの禊祓に於ける功と罪であります。母音アの瀬の功罪の判明を八十禍津日の神 といい、イの瀬の功罪の判明を大禍津日の神といいます。二つの禍津日の神の意味は「古事記と言霊」の中で詳しく解説してありますので、ここでは簡単に説明 しましょう。八十禍津日の神の八十(やそ)とは八十ということ。菅麻音図を上下にとった百音図から図の如く向って右側の母音十個と左側の半母音十個を除い た八十個の言霊は現象に関する音であります。この八十個の言霊の中で、上の五段に対応して下の五段にも同じ言霊が並びます。二つずつ同じ言霊がありますか ら、本来同じ現象内容を示す筈です。ところが上と下とではその現象の意味がまるで違って来るという事になります。同じ言霊で示される現象だからそんな事は 有り得ないと思われるでしょうが、実際にはそうではないのです。身近なところで母親が幼い子を叱(しか)るという行為をとってみましても、母親の方に純粋 な愛、人格と言ったものの自覚の有無によってその叱り方に雲泥の相違が出来ることです。まして図の如く、上段は言霊の自覚者、下段は無自覚者と区別します と、一見同じに見える行為・現象がその内容、効果、影響等に大きな相違が出る事が分かって来ます。また言霊アの次元の自覚に立つと、いろいろな現象の実相 がよく見えても来るのです。

 以上のような次元の自覚の有無、実相自 覚の有無は物事を観察する上で重要な事であり、禊祓の行為の前提としては欠かせない必要な事です。これはア次元の観察の功であります。けれど実相を見分け ただけでは、すべてのものを摂取して、それを材料として生かし、文明創造に資する事にはなりません。これが罪となります。この功罪を見分ける事が出来た事 を八十禍津日の神といいます。

 大禍津日の神とは言霊イの次元、即ち言 霊原理そのもので禊祓をしようとする時の功罪が分かったことであります。言霊原理の存在がなければ、禊祓そのものが成立しません。けれど言霊原理を説いて も禊祓は何の進展もありません。この言霊イ次元の禊祓に於ける功罪の認識を大禍津日の神と申します。八十禍津日、大禍津日二神についての詳細は「古事記と 言霊」を参照して下さい。

 この二神は、かの穢き繁き国に到りたまひし時の、汚垢により て成りませる神なり。
 伊耶那岐の命が黄泉国に出掛ける以前には、高天原に於て何事が起っても、その物事の実相を言霊ア次元に於て見て、それをどう処理すべきかを言霊イ次元の 言霊原理に照らして見るならば、自づと定まったのでした。しかし体験の対象が黄泉国の汚垢(気枯れ)た文化ではそう簡単には行きません。八十禍津日の神の 説明でお話しましたように、五十音図を上下にとった下段の五十音図から上段の五十音図に引上げなければなりません。そのためにはイ段の言霊原理は禊祓の根 本原理としながらも、それを表面には出さず(大禍津日)、また摂取すべき黄泉国の文化の実相を見ながらも、これをまた表面に出す事は差し控え(八十禍津 日)、文明創造の根幹である中つ瀬の言霊オウエの瀬に於て、言霊原理に基づいた光の言葉(霊葉=ひば)、黄泉国の文化をその実相を損なうことなく闇の世界 から高天原の光明世界に引上げることが出来る新しい息吹の言葉を創造の原動力としなければならないのだ、と気付いたのでした。この事は伊耶那岐の命が高天 原の文化とは全く異質の黄泉国の穢ない文化を体験したお陰の出来事であります。

 次にその禍を直さむとして、成りませる神の名は、神直毘の 神。次に大直毘の神。次に伊豆能売
 八十禍津日に見られるように、黄泉国の文化の実相を見極め、これを前面に公表すれば、その客観的な実相を対象として捉え、その改革によって人類文明に取 り入れようとすることになります。これでは黄泉国の文化をその有りの侭に摂取することにはなりません。また黄泉国の文化に言霊イ次元の言霊原理を当てはめ て改革しようとしても、一方は主体文化、他方は客体文化という異質の文化でありますから、簡単にそれが通るものではありません。大禍津日に見られるように その方法で禊祓するのは到底無理であることは既にわかっています。とするならば禊祓の本来の方法、即ち伊耶那岐の命が先に主体内に確立した建御雷の男の神 の原理を指針として、黄泉国の文化を体験してしまった伊耶那岐の大神自身が奥疎から辺疎に変身することによって新人類文明創造を行う立場に帰らねばなりま せん。それを可能にするには、先に述べました奥(辺)津那芸佐毘古の神、奥(辺)津甲斐弁羅の神の働きを満足させる原動力となる言葉が必要です。そしてそ の言葉は八十禍津日の神の説明に見られるように、百音図の下の五段にある実相音を無条件で上の五段の高天原の世界に引上げる働きが備わっている言葉である べきです。更にその言葉は、黄泉国の文化を体験し、知ってしまったという過去の事実を今・此処(中今)に於てしっかりと受け止め、それにただ流されること なく、新しい生命の息吹を与えて将来の創造行為に展開して行くことを可能とする言葉でなくてもならないのです。この条件を満たす言葉とは、一口に言えば、 常に今・此処に展開して将来を創造する言霊とその原理に根差した光の言葉でありましょう。伊耶那岐の大神はその様な言葉を発見するべく、自らの心の瀬の言 霊オウエの三つの瀬である中つ瀬に堕り潜いて行くこととなります。かかる言葉を言霊オ―ヲの流れに求めて発見する光の言葉を神直毘の神といい、言霊ウ―ウ の流れに入って求めた光の言葉を大直毘の神と呼び、言霊エ―ヱの流れの中で発見した光の言葉を伊豆能売というのであります。

 神直毘とは、言霊オ次元に属する黄泉国 の学問のすべてを人類全体の学問として引上げることが出来る光の言葉の働きといった意味であります。大直毘とは言霊ウの次元に属する黄泉国の産業・経済の 産物を人類全体の産業・経済ルートに乗せ得る霊葉(ひば)の働きの意です。そして伊豆能売(いづのめ)とは御稜威(みいず)の眼(め)の意であり、言霊エ の次元にあって発揮される言霊原理の最高の光の言葉であり、人類が永遠に生きて理想の文明を築くための眼目となる働きという事であります。

 次に水底に滌(すす)ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津 綿津見の神。次に底筒の男の命。中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。次に中筒の男の命。水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、 上津綿津見の神。次に上筒の男の命。
 八十禍津日、大禍津日に於て、黄泉国の文化を世界人類全体の文明に摂取するには、黄泉国の文化を対象として考えて、いじくりまわすのではなく、光の言葉 によってその文化を闇から光の世界へ引上げるのが適当だと分り、その実際の方法を求めて中つ瀬に入っていきました。そして中つ瀬のオウエのそれぞれの心の 流れの中で、光の言葉、言霊原理に根差した霊葉の働きを検討して神直毘(オ)、大神直毘(ウ)、伊豆能売(エ)が効果があることを知ったのであります。そ してその効果が実際にどの様に現象として言霊に裏打ちされるか、の検討に入って行きます。

 伊耶那岐の大神が禊祓の舞台としている 天津菅麻音図は母音が上からアオウエイと並びます。その中の上つ瀬のアと下つ瀬のイは禊祓の舞台としては適当でないことを知り、中間の中つ瀬に入りまし た。中つ瀬は言霊母音オウエの三本の流れです。今度はその三本を区別するために、中つ瀬の水底、中、水の上の言葉を使っております。水底はエ、中はウ、水 の上はオの心の流れであります。

 次に水底に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見の 神。次に底筒の男の命。
 中つ瀬の水底である言霊母音エの流れに於て伊豆能売という光の言葉の原動力を発現しますと、黄泉国の文化並びに社会全体が見事に高天原の光の社会に引上 げられ、摂取・融合されて行くことが確認されました。この確認・証明を底津綿津見の神と申します。そして摂取・融合の過程が明らかに現象子音によって確認 されました。言霊エ・テケメヘレネエセ・ヱのエよりヱに渡す八子音であります。現象子音によって確認されたということは万人等しく認める形 で検証されるということであります。この高天原文明への引上げの過程の八子音の連続の並びは、あたかも一本の筒(チャンネル)の形をしていますので、底筒 の男の命と名付けられました。また名の終りに「男」の一字が附せられたのは、この子音の列の確認が禊祓を実行する人の生きた心の中今に於て行われることを 示すためであります。

 中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。次 に中筒の男の命。
 中つ瀬の水の中は言霊ウ段です。この次元に於て大直毘の神という光の言葉の原動力が働くと黄泉国の産業・経済の領域のすべてが高天原の人類文明にそのま まの姿で引上げられることが可能である、の確認を得たのでした。この確認を中津綿津見の神と申します。またその光の世界へ引上げられる過程の現象が言霊子 音でウ・ツクムフルヌユス・ウとなることが分ったのであります。この言霊八子音による確認を中筒の男の命と申します。

 水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の 神。次に上筒の男の命。
 中つ瀬の水の上は言霊オ段です。この次元に於て神直毘の神という光の言葉が働きますと、黄泉国の客観的学問とその文化のすべては世界人類の光明の文明の 中に摂取されることが確認されます。この確認を上津綿津見の神といいます。また摂取されて世界文明の一翼を担うようになるまでの経過が言霊子音によって オ・トコモホロノヨソ・ヲの八音で示されることが確認出来たのでした。この黄泉国の文化を高天原の人類文明に引上げる経過の八子音による確 認を上筒の男の命といいます。

 以上、八十禍津日の神より上筒の男の命 まで十一神の解説をして来ました。御理解を頂けたでありましょうか。禊祓の法が三柱の綿津見の神によって黄泉国の文化が高天原の人類文明に摂取されて行く ことの可能性が検証され、その摂取の経過が現象八子音のチャンネルとして裏付けられました。かくお話しますと、読者の皆様には、裏付けの三連の八子音、テ ケメヘレネエセ(エ段)、ツクムフルヌユス(ウ段)、トコモホロノヨソ(オ段)の配列であることが今始めて発見・確 認されたように思われるかも知れません。けれど正確に申しますとそうではありません。そこが古事記神話の撰者太安万呂の文章の巧妙なところだと言えるかも 知れません。伊耶那岐の命はとっくの昔に「そうであろう」事を知っていたのです。伊耶那岐の命は自分一人で、主観内真理である建御雷の男の神を人間精神の 最高の心構えとして確立し、その時既に新生の文化の摂取がこの八つの子音の経過を以って実行可能であろうことを自覚していたのです。であるからこそ、伊耶 那岐の大神となって黄泉国の文化の禊祓をするに当り、その行法の指針として自らの主観内真理である建御雷の男の神なる原理を衝立つ船戸の神として斎き立て たのです。その結果、黄泉国という初対面の文化の摂取にも予想と同様の子音の配列が示す結果を得たことにより、主観内真理である建御雷の男の神なる原理 が、何時、何処に於ても、また如何なる文化に対しても適用して誤りのない、主観的と同時に客観的な、即ち絶対的真理であることの検証が成就したのでありま す。

 底津・中津・上津綿津見の三神と底・ 中・上筒の男の三命によって禊祓の行為が人類文明創造の絶対真理であることが証明されましたので、古事記の神話は一気にその総結論である天照大神、月読の 命、速須佐男の命の三貴子(みはしらのうずみこ)の誕生に入ることになるのですが、実際には古事記はその間に一見なくてもよい様な挿話を文庫本で三行程入 れてあるのです。この挿話がスメラミコトの人類文明創造に当たって重要な意味を持っているのですが、その解説と三貴子誕生の話は次の機会に譲ることといた します。

(次号に続 く)