「コトタマ学とは」 <第百九十ニ号>平成十六年六月号 | |
古事記「禊祓」について
最近「禊祓」を実践する心の運びについて説明を求められた時、今一つその説明にシックリしない処があることに気付いたので、考え直してみた。すると肝腎の処が抽象的説明で通ってしまっていることに気付きましたので、更めて「禊祓」の心の運びの一つ一つについて出来る限り具体的な例を挙げて解説することにしました。今号以下の会報はこれを主題とすることとしましょう。 古事記の禊祓の文章は次の様に始まります。 ここを以ちて 伊耶那岐の大神 伊耶那岐の命は黄泉国へ行き、その客観研究とその態度を明らかに見て、その実相を知ってしまった人としての自分、しかも、それを材料として摂取し、それに新しい生命を与えて、人類全体の文明創造に取り入れて行く責任を負うた自分を、自らの行為の出発点としたのです。このような伊耶那岐の命の心構えを主体の中に客体を取り込んだ主体と説明するのであります。そして黄泉国に出掛けて行き、その客観的に物事を研究する有様を見聞きし、高天原に逃げ帰るまでの姿を伊耶那岐の命と呼び、高天原に帰り、本来の主体性の真理の領域の主宰神であり、更に自らが体験した客体性の領域の文化を摂取し、これに新しい生命(光)を吹き込み、人類文明創造に役立つ糧と変えて行く責任を負う立場に立った伊耶那岐の命を伊耶那岐の大神と呼ぶのであります。伊耶那岐の命が主宰する高天原精神世界も、伊耶那美の命の主宰である黄泉国客観的物質世界も、元はただ一つの生命宇宙であります。それに人間の思考が加わる瞬間、主体的宇宙(言霊ア)と客体的宇宙(言霊ワ)に分かれます。分かれるから分ります。分かれなければ、それが何であるか永遠に分りません。これが人間思考の宿命と申せましょう。主体(言霊ア)と客体(言霊ワ)に分かれた生命宇宙が、再び人間の観想の下に一つに統合する立場に帰る唯一つの道、それが禊祓の行為なのだということが出来ます。 吾はいな醜め醜めき穢き国に到りてありけり。かれ吾は御身の祓せむ。 そこで伊耶那岐の大神の禊祓が「かれ吾は御身の祓せむ」と始まることとなります。御身とは単に伊耶那岐の大神の身体というのではなく、主体的精神原理の自覚者が、客体的・物質的世界の様相を現実に見て、体験してしまった自分、その自分が既に知ってしまったという状況を出発点として、知ってしまったものを如何にしたら人類の新しい文明創造の糧として生かして行くことが出来るか、の問題を抱えた自分の身体、という意味であります。伊耶那岐の大神は、かかる自らの身体を変革して人類文明創造の確実な手法を完成・自覚しようとして、禊祓の実行に入って行く事となります。 竺紫の日向の 橘 の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。 天津菅麻という五十音図表は人がこの世に生まれて来た時に既に授かっている大自然人間が持つ心の構造です。生まれたばかりの赤ちゃんの心の構造です。伊耶那岐の大神はこの本来の自分の心構えに立ち帰り、それを禊祓の行の基盤としたのであります。どういう事かと申しますと、禊祓を始めるに当り、伊耶那岐の大神は自分自身は何の先入観のない、大自然の心に立ち帰り、その上で禊祓の行が進むに従って自分がどの様に変貌して行くか、を見定めようとしたわけであります。そして行を始めるに当り、種々の準備に入ります。古事記の次の文章に進みます。 かれ投げ棄(う)つる御杖(つえ)に成りませる神の名は、衝(つ)き立つ船戸の神。次に投げ棄つる御帯に成りませる神の名は、道の長乳歯の神。次に投げ棄つる御嚢(みぶくろ)に成りませる神の名は、時量師の神。次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累(わづらひ)の大人の神。次に投げ棄つる御襌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣の神。次に投げ棄つる御冠(みかぶり)に成りませる神の名は、飽昨(あきぐひ)の大人(うし)の神。 次に伊耶那岐の大神は、摂取する黄泉国の文化の実相を見極めるために、五つの観点を準備します。道の長乳歯の神(物事の連続性・関連性を調べる基準)、時置師の神(物事の五十音図に於ける時処位を量る基準)、煩累の大人の神(物事のどちらともとれる曖昧さをなくし、はっきりさせる基準)、道俣の神(物事の区分けをする明らかな分岐点を見つける基準)、飽昨の大人の神(物事の道理を明らかに組んで行く為の基準)の五観点の設定であります。この五つの観点からの観察によって、摂取する黄泉国の文化、産物の実相を明らかに見定めることが可能となります。以上のように、先ず禊祓の行の方針を打ち立て、更に摂取する外国文化の実相を見極める基準を定めて、禊祓の準備は終り、いよいよその実行に入って行くこととなります。 古事記の文章を先へ進めます。 先に述べましたように、禊祓は「黄泉国の文化を知ってしまった伊耶那岐の命」から始まるという事でした。これを更に解説しましょう。伊耶那岐の命は黄泉国へ出掛けて、そこで物事を客観的に探究する方法とその成果、またそれを真理と主張する有様を目の当たりにして、その上で高天原に帰りました。そこで黄泉国の文化を摂取して、人類全体の文明を創造して行く究極の方法の完成に取り掛かります。その理想の方法とは、黄泉国で行われている如き、自分自身の外に他の文化を客観的に見るのでなく、それを見、また体験して来た自分自身として見る事でした。即ち主体が客体を取り込んだ主体を見ることから始める、という方法であります。それはまた普遍的な愛(アガぺ)の心に基づいて他者のことをあたかも自分自身のことの如く思う者の態度・方法と言うことが出来るのでありましょう。この立場から奥疎、辺疎を説明することとしましょう。 伊耶那岐の命は高天原から黄泉国へ出掛けて行き、その客観的文化を体験し、高天原に帰って来ました。そして伊耶那岐の大神として、体験して来た外国の文化も自分の責任に於て摂取して行こうとします。禊祓の開始です。この開始の時には、摂取しようとする他の文化は、自分の心中にあっても、今までの伊耶那岐の命の心には初めて出合った、何か違和感のあるものと思われるでありましょう。禊祓はそのような違和感を感じている自らの状態から始めることとなります。禊祓の指針として衝立つ船戸の神(建御雷の男の神)を掲げ、道の長乳歯の神以下五神の観点から他文化の実相を把握して、これから禊祓を始める出発点に立った時の伊耶那岐の大神自身の心の状況の確認、これが奥疎の神であります。禊祓開始の時のわが身の状況の確認がその後の作業を正確に、また 滞 りなく進める必要欠く可からざる条件であります。 奥疎・辺疎を初めとして禊祓に登場する神々の名前はすべて伊耶那岐の大神、即ち「禊祓とは」とお考えになる読者御自身の心の中の出来事でありますので、御自身が禊祓の当事者になられたつもりで御自分の心を見詰めて頂きたいと思います。 次に奥津那芸佐毘古の神、辺奥津那芸佐毘古の神の説明に入ります。 次に奥津甲斐弁羅の神、辺津甲斐弁羅の神に移りましょう。 何度も繰返しますが、伊耶那岐の大神は、その前に黄泉国へ行き、その客観世界を探究する文化とその態度を体験し、高天原に帰って来ました。そこで黄泉国での体験の記憶を我が身の内のものとの責任感から禊祓を始めました。目指すは人類文明創造です。こうお話しますと、お分り頂けるでありましょうが、始まりは大神の黄泉国に関する記憶です。これは過去の記憶として言霊オに属します。そして大神はその黄泉国の文化を摂取して、人類文明創造の糧として新しい役割を与えようとする作業に入ります。これは将来の文明創造であり、将来のものとして言霊エに属します。過去のすべてを自らの内に受け留め、これを土台として将来を創造する原動力、それは今・此処の生命意志即ち言霊原理に基づいた言葉(光の言葉、霊葉[ひば])でなければならない筈です。 以上、禊祓の奥疎、奥津那芸佐毘古、奥津甲斐弁羅、辺疎、辺津那芸佐毘古、辺津甲斐弁羅の六神について説明をしました。この六神が伊耶那岐の大神の御身(おほみま)の祓(はらへ)による人類文明創造、即ち禊祓という作業を人間精神内の心理の経緯として説明したものである、ということを御理解頂けたのではないでしょうか。そして古事記は伊耶那岐の大神の心理の経緯として画き出した禊祓の行法を、次に人間精神内の言霊の動きとして解説し、言霊学という、主観的真理であると同時に客観的真理でもあるもの、即ち何時、如何なる事に適用しても決して誤ることのない絶対的真理の證明と確認を完成させる章に入って行く事になります。 古事記の禊祓を以上にようにお話いたしますと、撰者太安万侶は禊祓の行を三部作として説いた事が分って来ます。第一章は、伊耶那岐の命が心中に於て建御雷の男の神という主観内真理を確立し、この客観的證明を求めて高天原から黄泉国へ行き、その物事を客観的に見る文化を体験し、高天原に逃げ帰るまでであります。帰る途中、伊耶那岐の命は十拳の剣を「尻手に振って」います。黄泉国の文化を帰納的に高天原の原理に照らし合わせる作業はここに始まっていることが分ります。禊祓の第一章は高天原の伊耶那岐の命、黄泉国の伊耶那美の命の二大文化圏の交渉物語として説かれます。 第二章は伊耶那岐の大神に始まり、辺津甲斐弁羅の神に終る禊祓の人間精神内の心理の経過を綴る物語であります。この第二章に於て太安万侶は禊祓の大法を説くための準備となる人間の心理状況を必要にして充分に展開、説明します。その簡潔にして細やかな心遣いが汲み取れる見事な章であります。 第三章は禊祓の本番の章です。第一、第二の章の状況を土台として、禊祓を百パーセント言霊五十音の動きとして捉え、心の隅々まで残す事なく言霊を以て解明し、一点の疑義のない言霊学の総結論に導く章であります。太安万侶が千三百年後の日本人に、自らの心のルーツを思い起こさずには置かず、と遺した乾坤一擲の大筆業でもあります。 (次号に続く) |