「コトタマ学とは」 <第百九十ニ号>平成十六年六月号
 日本人の先祖は遠い昔、人間の心と言葉の関係に注目して、その極めて合理的で精密な法則を発見し、布斗麻邇と呼びました。コトタマの原理のことです。この原理・法則は人間の心を解明し、説明することが出来る心のすべてです。「人間の心とは何ぞや」の問いに対する完璧な解答であります。

 人間の心が五十個のコトタマによって構成されていると前に書きました。それなら心はその五十個のコトタマによって、どのように構成されているのでしょうか。心の中に五十個のコトタマが、ただバラバラに散らばっているわけではありません。心を構成している五十個のコトタマは、しっかりした構造を持ち、その構造のそれぞれ一定した動き方によって色々な心の現象を生んでいきます。

 先ず物質の構造について考えてみましょう。物には形があります。色や堅さ、固体・液体・気体の区別があります。それら種々雑多のものを一つ一つ分析していき、物の本質とは何かを考えていくと物質の分子にまで到達します。その物(例えば石、水、木など)を構成している最終的な単位です。それ以上分析すれば、そのものでなくなってしまうものです。

 物そのものでなくなってしまうことにかまわず、さらに分析していくとしましょう。するとその物の分子を構成している元素の原子が現われます。水の一分子は水素原子二個と酸素原子一個の結合で出来ています。現在、自然の状態で宇宙に存在する元素は九十数種、人為的に特殊な装置の下で発見された元素を加えると百数十種の元素があるということです。元素は物質の最終単位ということが出来ましょう。

 科学はその元素の原子の内部にさらに研究のメスを進めました。そして物質というものを構成している先験的な内容―電子・原子核・陽子・中性子・その他種々の核子等を発見していったのです。これらは、物質的な現象を生ずる以前の先験的構造というものです。先験的な要素は、人間の感覚で直接に捉えることの出来ないものです。ただそれによって何か現象が起された時、初めてその存在が確かめられます。それに対して物質の元素の原子によって構成されたこの世に存在する種々の物は、後天的な存在ということが出来ます。五官感覚によって捉えられる存在です。

 物質を構成している要素に先天と後天があるように、人間の心の要素にも先天と後天があります。頭の中で何か考えているけれど、それがまだ定まった形や内容となってこない間、これが先験的な部分です。古代の日本人の祖先は苦心の結果、この心の先験の構造を明らかにしました。それによると心の先天の部分は十七個のコトタマで構成されています。そして心の後天要素―何らかの心の現象として現われたものの要素としてのコトタマは三十三個であります。先天十七、後天三十三、合計五十個のコトタマが心のすべての要素です。

 さて先天の要素である十七個のコトタマは、先天の内部でどのように活動するのでしょうか。またどのような動きをすれば、どのような後天の要素となって現象が生まれるのでしょうか。そのことについても日本人の祖先は、明らかな答えを出しているのです。それはまことに厳密な法則によって動き、この世の中に見るような様々な精神現象を現出しています。厳密な法則の下に活動しますので、ただ単にコトタマと言わず、「コトタマの原理」ということもあるわけです。その法則の厳密さは、原子物理学が原子核や電子の内容や要素をすべて解明しつくした時、その物質の先験的内容の法則とちょうど表裏として匹敵するような厳密さであるということが出来ます。その心の先天の内容や原理について、この後追々とお話をしていくことにしましょう。

(この項終り)

   古事記「禊祓」について

 最近「禊祓」を実践する心の運びについて説明を求められた時、今一つその説明にシックリしない処があることに気付いたので、考え直してみた。すると肝腎の処が抽象的説明で通ってしまっていることに気付きましたので、更めて「禊祓」の心の運びの一つ一つについて出来る限り具体的な例を挙げて解説することにしました。今号以下の会報はこれを主題とすることとしましょう。

 古事記の禊祓の文章は次の様に始まります。
 
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔(の)りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこめ)め醜めき穢(きたな)き国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の祓(はわへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の 橘 (たちばな)の小門(をど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。

 ここを以ちて
 伊耶那岐の命は自らの心の中で五十音言霊の整理・運用の方法を検討し、その結果として主体内のみではありますが、人間精神の最高・理想の心の持方である建御雷の男の神という精神構造を示す音図の作成に成功しました。その上でこの自らの心の中だけで自覚した精神構造が広く客観世界に適用しても通用するものか、どうかを確かめるべく妻神伊耶那美の命がいる黄泉国、即ち客観世界の探究を事とする外国に出掛けて行ったのであります。そこには客観的人類文化が建設初期で未完成な、しかも自己主張の騒がしい社会相が繰り広げられていました。その様を見た伊耶那岐の命は驚いて自らの主体的文化の確立している高天原へ逃げ帰って来ます。そして追いかけて来た妻神伊耶那美の命と、高天原と黄泉国との境に置かれた千引石(ちびきのいは)を間にして向き合い、離婚宣言をしたのであります。「ここを以ちて」とは、以上の事を受けて述べられたものです。

 伊耶那岐の大神
 一度黄泉国へ出て行き、今高天原に帰って来た伊耶那岐の命は、物事を自分の外に見る、即ち客観世界研究の黄泉国の乱雑で、自己主張の文化状況を見て、知ってしまいました。普通なら黄泉国に観光旅行をして来た如くに、「あんな国もあったな」という一つの記憶として残すだけで終ることでしょう。しかし、人類文明の創造神である伊耶那岐の命はそれでは済まされません。黄泉国の文化も、自らの責任である世界人類の文明の中に取り入れて、これを生かして行かねばなりません。どうしたらよいでしょうか。若し現代の政治家がこの責任を負わされたら、多分自分の裁量で外国の文化の気に入ったものを取り入れ、気に入らぬものを捨てて文明創造を進めることでしょう。けれど言霊の神、高天原の主宰神である伊耶那岐の命はそのような手段を用いませんでした。その創造の原理は伊耶那岐の命の心中に既に確乎とした基本原理が、主体性としてのみの原理ではありましたが、建御雷の男の神として証明、自覚されていました。ではそれはどんな方法だったのでしょうか。それは言霊原理の自覚者だけが成し得るユニークな、そして崇高な方法であったのです。

 伊耶那岐の命は黄泉国へ行き、その客観研究とその態度を明らかに見て、その実相を知ってしまった人としての自分、しかも、それを材料として摂取し、それに新しい生命を与えて、人類全体の文明創造に取り入れて行く責任を負うた自分を、自らの行為の出発点としたのです。このような伊耶那岐の命の心構えを主体の中に客体を取り込んだ主体と説明するのであります。そして黄泉国に出掛けて行き、その客観的に物事を研究する有様を見聞きし、高天原に逃げ帰るまでの姿を伊耶那岐の命と呼び、高天原に帰り、本来の主体性の真理の領域の主宰神であり、更に自らが体験した客体性の領域の文化を摂取し、これに新しい生命(光)を吹き込み、人類文明創造に役立つ糧と変えて行く責任を負う立場に立った伊耶那岐の命を伊耶那岐の大神と呼ぶのであります。伊耶那岐の命が主宰する高天原精神世界も、伊耶那美の命の主宰である黄泉国客観的物質世界も、元はただ一つの生命宇宙であります。それに人間の思考が加わる瞬間、主体的宇宙(言霊ア)と客体的宇宙(言霊ワ)に分かれます。分かれるから分ります。分かれなければ、それが何であるか永遠に分りません。これが人間思考の宿命と申せましょう。主体(言霊ア)と客体(言霊ワ)に分かれた生命宇宙が、再び人間の観想の下に一つに統合する立場に帰る唯一つの道、それが禊祓の行為なのだということが出来ます。

 吾はいな醜め醜めき穢き国に到りてありけり。かれ吾は御身の祓せむ。
 現在の常識で解釈すれば、「私は大変穢(きたな)い汚れた国から帰って来ました。だから自分の身を浄めましょう」となります。この解釈から現代の神社神道の水を浴びたり、滝に当ったりして自分の罪穢を払う所謂「身禊(みそ)ぎ」の行為となります。古事記の撰者太安万侶は、察する所、多分後世に於てはこの様に解釈されるであろう事を見越して、わざとこの様な文章にしたのでしょう。そうなることが、言霊の原理がこの世に甦(よみがえ)る時までは、古事記の真意を隠すに都合がよいと思ったに違いありません。けれど、それはその裏に秘められた「言霊原理の教科書としての古事記の神話」の真意ではありません。古事記の禊祓とは、高天原日本の天皇(スメラミコト)が言霊原理に則(のっと)り、外国所産の文化を摂取し、これに新しい息吹を与えて人類文明創造の糧に取り込んで行く聖なる政治の手法なのであります。個人救済の宗教的行事では決してない事を知らねばなりません。

 そこで伊耶那岐の大神の禊祓が「かれ吾は御身の祓せむ」と始まることとなります。御身とは単に伊耶那岐の大神の身体というのではなく、主体的精神原理の自覚者が、客体的・物質的世界の様相を現実に見て、体験してしまった自分、その自分が既に知ってしまったという状況を出発点として、知ってしまったものを如何にしたら人類の新しい文明創造の糧として生かして行くことが出来るか、の問題を抱えた自分の身体、という意味であります。伊耶那岐の大神は、かかる自らの身体を変革して人類文明創造の確実な手法を完成・自覚しようとして、禊祓の実行に入って行く事となります。

 竺紫の日向の 橘 の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
 竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原と長い地名が登場しますが、地球上の場所の名前なのではありません。この長い名前を解釈しますと、人間精神の一つの次元の構造を示す音図の事であり、精神上の場所の意となります。この事は「古事記と言霊」の禊祓の章で詳しく説明しましたので、ここでは説明を省き、ただその地名が天津菅麻音図という伊耶那岐の命の本来の音図であることを確認するに留めます。

 天津菅麻という五十音図表は人がこの世に生まれて来た時に既に授かっている大自然人間が持つ心の構造です。生まれたばかりの赤ちゃんの心の構造です。伊耶那岐の大神はこの本来の自分の心構えに立ち帰り、それを禊祓の行の基盤としたのであります。どういう事かと申しますと、禊祓を始めるに当り、伊耶那岐の大神は自分自身は何の先入観のない、大自然の心に立ち帰り、その上で禊祓の行が進むに従って自分がどの様に変貌して行くか、を見定めようとしたわけであります。そして行を始めるに当り、種々の準備に入ります。古事記の次の文章に進みます。

 かれ投げ棄(う)つる御杖(つえ)に成りませる神の名は、衝(つ)き立つ船戸の神。次に投げ棄つる御帯に成りませる神の名は、道の長乳歯の神。次に投げ棄つる御嚢(みぶくろ)に成りませる神の名は、時量師の神。次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累(わづらひ)の大人の神。次に投げ棄つる御襌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣の神。次に投げ棄つる御冠(みかぶり)に成りませる神の名は、飽昨(あきぐひ)の大人(うし)の神。
 禊祓の行をするには、その行の指針となり、鏡となるものが必要です。それを杖と言います。判断の基準です。ここでは勿論、伊耶那岐の命が先に自らの主観内に完成した最高の規範である建御雷の男の神の音図のことです。伊耶那岐の命は自らの主観内真理として自覚したこの音図を、実際に黄泉国の文化に適用しても誤りないか、どうかを確かめ、自らの主観内真理が、主観内と同時に客観的に、即ち絶対の真理として通用するかを確かめるために黄泉国に出掛け、また禊祓の行を遂行したのです。その打ち立てた大指針としての建御雷の男の神の五十音図を衝立つ(斎き立つ)船戸の神といいます。

 次に伊耶那岐の大神は、摂取する黄泉国の文化の実相を見極めるために、五つの観点を準備します。道の長乳歯の神(物事の連続性・関連性を調べる基準)、時置師の神(物事の五十音図に於ける時処位を量る基準)、煩累の大人の神(物事のどちらともとれる曖昧さをなくし、はっきりさせる基準)、道俣の神(物事の区分けをする明らかな分岐点を見つける基準)、飽昨の大人の神(物事の道理を明らかに組んで行く為の基準)の五観点の設定であります。この五つの観点からの観察によって、摂取する黄泉国の文化、産物の実相を明らかに見定めることが可能となります。以上のように、先ず禊祓の行の方針を打ち立て、更に摂取する外国文化の実相を見極める基準を定めて、禊祓の準備は終り、いよいよその実行に入って行くこととなります。

 古事記の文章を先へ進めます。
 
次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、奥疎(おきさかる)の神。次に奥津那芸佐毘古(なぎさひこ)の神。次に奥津甲斐弁羅(かひべら)の神。次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、辺疎(へさかる)の神。次に辺津那芸佐毘古の神。次に辺津甲斐弁羅の神。
 禊祓の実践がこの文章から徐々に動き出します。古事記の文章の謎解きは「古事記と言霊」の中で詳説されておりますので、ここでは省きます。左の手の手纏(たまき)とは菅麻音図の向って右の五母音アオウエイになります。反対に右の手の手纏とは、音図の向って左の五半母音の並び、ワヲウヱヰとなります。物事の動きは母音に始まり、八つの父韻で示される経過を経て、半母音で終熄します。奥(おき)は起で、陽性音で、初めの事。辺(へ)は山の辺の言葉が示す如く、陰性音で、終りのことです。そこで奥疎(おきさかる)とは疎るが遠ざけるの意でありますので、初めの方に遠ざけるという意味になります。反対の辺疎(へさかる)は終りの方へ遠ざけるの意味です。とすると、奥疎、辺疎とは実際にはどういう事をするのでしょうか。

 先に述べましたように、禊祓は「黄泉国の文化を知ってしまった伊耶那岐の命」から始まるという事でした。これを更に解説しましょう。伊耶那岐の命は黄泉国へ出掛けて、そこで物事を客観的に探究する方法とその成果、またそれを真理と主張する有様を目の当たりにして、その上で高天原に帰りました。そこで黄泉国の文化を摂取して、人類全体の文明を創造して行く究極の方法の完成に取り掛かります。その理想の方法とは、黄泉国で行われている如き、自分自身の外に他の文化を客観的に見るのでなく、それを見、また体験して来た自分自身として見る事でした。即ち主体が客体を取り込んだ主体を見ることから始める、という方法であります。それはまた普遍的な愛(アガぺ)の心に基づいて他者のことをあたかも自分自身のことの如く思う者の態度・方法と言うことが出来るのでありましょう。この立場から奥疎、辺疎を説明することとしましょう。

 伊耶那岐の命は高天原から黄泉国へ出掛けて行き、その客観的文化を体験し、高天原に帰って来ました。そして伊耶那岐の大神として、体験して来た外国の文化も自分の責任に於て摂取して行こうとします。禊祓の開始です。この開始の時には、摂取しようとする他の文化は、自分の心中にあっても、今までの伊耶那岐の命の心には初めて出合った、何か違和感のあるものと思われるでありましょう。禊祓はそのような違和感を感じている自らの状態から始めることとなります。禊祓の指針として衝立つ船戸の神(建御雷の男の神)を掲げ、道の長乳歯の神以下五神の観点から他文化の実相を把握して、これから禊祓を始める出発点に立った時の伊耶那岐の大神自身の心の状況の確認、これが奥疎の神であります。禊祓開始の時のわが身の状況の確認がその後の作業を正確に、また 滞 りなく進める必要欠く可からざる条件であります。

 奥疎・辺疎を初めとして禊祓に登場する神々の名前はすべて伊耶那岐の大神、即ち「禊祓とは」とお考えになる読者御自身の心の中の出来事でありますので、御自身が禊祓の当事者になられたつもりで御自分の心を見詰めて頂きたいと思います。

 次に奥津那芸佐毘古の神、辺奥津那芸佐毘古の神の説明に入ります。
 神名の文字を解釈しますと、出発点の実相から結論に向う(奥津)すべての(那)芸(芸[わざ])を助ける(佐)力(毘古)の働き(神)となります。また結果(辺)へ渡す(津)すべての(那)芸(芸)を助ける(佐)力(毘古)の働き(神)となります。伊耶那岐の大神は黄泉国の文化を世界文明創造の糧として取り込み、その実相を見極め、そうした自分を変貌させて文明創造にまで行き着かねばなりません。この時、出発点として他文化を抱え込んだ自分を変貌させて行くすべての方法(芸)を助(佐)ける力が必要です。自分を変革して行く原動力となるものが必要となります。出発点の自分を動かす原動力となる力、これが奥津那芸佐毘古の神であります。またこの自己変貌は結果として文明創造のイメージを実現させるものであるべきです。これを辺津那芸佐毘古の神と言います。

 次に奥津甲斐弁羅の神、辺津甲斐弁羅の神に移りましょう。
 先ず文字の解釈をしましょう。奥津は始めの状態から出発して結果に向って渡して行く、の意です。辺津は結果として完成するよう渡して行く、となります。甲斐といえば、今の山梨県を指す昔の地名です。けれど此処では単に山と山との間を指す峡の意であります。弁羅は何とも分らぬ漢字が当てられているので戸惑いますが、真意は「減らす」の意。何を減らすかといいますと、禊祓の出発点となった、異文化を体験した伊耶那岐の大神の禊祓を始める出発点の状態(奥疎)から禊祓の完成する結果に向って動き出すすべての芸を助けて行く力となる言葉(奥津那芸佐毘古)と、結果として完成させる芸のすべてを助ける力の言葉(辺津那芸佐毘古)との間を減らして、双方を一つの言葉としてまとめる働きのことであります。始まりの状態を変革して行く働き(奥津那芸佐毘古)と、結果として完成させる働きとが、その両者の相違する間が減らされ、取り除かれて一つの言葉にまとまる事が出来るならば、禊祓の行は成功間違いなしとなります。一連の言葉によって始めを動かし、終りにまで導いて行く力を持っているならば、事は自ら成立するでありましょう。ではそのような言葉とは如何なる言葉であるべきなのでしょうか。

 何度も繰返しますが、伊耶那岐の大神は、その前に黄泉国へ行き、その客観世界を探究する文化とその態度を体験し、高天原に帰って来ました。そこで黄泉国での体験の記憶を我が身の内のものとの責任感から禊祓を始めました。目指すは人類文明創造です。こうお話しますと、お分り頂けるでありましょうが、始まりは大神の黄泉国に関する記憶です。これは過去の記憶として言霊オに属します。そして大神はその黄泉国の文化を摂取して、人類文明創造の糧として新しい役割を与えようとする作業に入ります。これは将来の文明創造であり、将来のものとして言霊エに属します。過去のすべてを自らの内に受け留め、これを土台として将来を創造する原動力、それは今・此処の生命意志即ち言霊原理に基づいた言葉(光の言葉、霊葉[ひば])でなければならない筈です。

 以上、禊祓の奥疎、奥津那芸佐毘古、奥津甲斐弁羅、辺疎、辺津那芸佐毘古、辺津甲斐弁羅の六神について説明をしました。この六神が伊耶那岐の大神の御身(おほみま)の祓(はらへ)による人類文明創造、即ち禊祓という作業を人間精神内の心理の経緯として説明したものである、ということを御理解頂けたのではないでしょうか。そして古事記は伊耶那岐の大神の心理の経緯として画き出した禊祓の行法を、次に人間精神内の言霊の動きとして解説し、言霊学という、主観的真理であると同時に客観的真理でもあるもの、即ち何時、如何なる事に適用しても決して誤ることのない絶対的真理の證明と確認を完成させる章に入って行く事になります。

 古事記の禊祓を以上にようにお話いたしますと、撰者太安万侶は禊祓の行を三部作として説いた事が分って来ます。第一章は、伊耶那岐の命が心中に於て建御雷の男の神という主観内真理を確立し、この客観的證明を求めて高天原から黄泉国へ行き、その物事を客観的に見る文化を体験し、高天原に逃げ帰るまでであります。帰る途中、伊耶那岐の命は十拳の剣を「尻手に振って」います。黄泉国の文化を帰納的に高天原の原理に照らし合わせる作業はここに始まっていることが分ります。禊祓の第一章は高天原の伊耶那岐の命、黄泉国の伊耶那美の命の二大文化圏の交渉物語として説かれます。

 第二章は伊耶那岐の大神に始まり、辺津甲斐弁羅の神に終る禊祓の人間精神内の心理の経過を綴る物語であります。この第二章に於て太安万侶は禊祓の大法を説くための準備となる人間の心理状況を必要にして充分に展開、説明します。その簡潔にして細やかな心遣いが汲み取れる見事な章であります。

 第三章は禊祓の本番の章です。第一、第二の章の状況を土台として、禊祓を百パーセント言霊五十音の動きとして捉え、心の隅々まで残す事なく言霊を以て解明し、一点の疑義のない言霊学の総結論に導く章であります。太安万侶が千三百年後の日本人に、自らの心のルーツを思い起こさずには置かず、と遺した乾坤一擲の大筆業でもあります。

(次号に続く)