「言霊学とは」 <第百九十一号>平成十六年五月号 | |
日本語と言霊
会報百九十号の中で日本語の起源についてお話をしました。今から約一万年程も前、世界の屋根といわれる高原地帯からこの日本列島に下りて来た私達日本人の大先祖である聖の集団が言霊五十音布斗麻邇の原理に基づき、その十七の空相音、三十二の実相音を組合せることによって、物事の実相を見極めた上で、それに相応しい名前をつけて行きました。これが日本語の始まりです。人間のア次元の天真爛漫な心で物事の有るが侭の姿を捕捉して、それに真相音である言霊によって名を附けたのでありますから、その附けられた名前はそのまま物事の実相を表わしており、その名の他に何らの説明を要しない言葉でありました。それ故にわが国のことを昔、神惟言挙(かむながらことあ)げせぬ国、また言霊の幸倍う国などと呼んだのであります。 そして「言霊の幸倍う国」「神惟言挙げせぬ国」の意味をはっきり示す例として、人間精神の自覚の進化を示す順序である五つの母音、ウオアエイのそれぞれの下に、物事が心の空間を螺旋状に進展して行く音である「る」の一字を結合させて、「うる」(得、売)、「おる」(居)、「ある」(有、在)、「える」(選)、「いる」の五つの言葉を前回の会報の末尾に挙げました。人間が生まれながらに与えられているウオアエイの五性能を自覚するために、この順序に従って心の勉学をなさった方ならば「得る」「居る」「有る」「選る」「いる」の五つの行為の内容は容易に御理解いただけるのですが、今は老婆心までにその内容について解説をいたします。 人間は元々生れた時から五つの性能に恵まれています。先ずは言霊ウの五官感覚に基づく欲望性能です。この次元から産業・経済の社会が現出して来ます。次には言霊オの次元で、言霊ウの五官感覚を認識の基礎にした経験知性能が現われます。この性能の発展によって広く物質科学や、その他の客観的な学問の社会が現出して来ます。進化の第三段階は言霊アの次元です。ここから現出するのは人間の感情です。この感情性能の探究からは宗教・芸術の世界が現出します。次の第四段階は言霊エです。この次元からは今までに挙げて来た言霊ウオアの三性能を如何様に活用すれば眼前の事態をうまく処理することが出来るか、の選択智、実践智が発現します。この性能の発展によって道徳や高度の政治の社会が現出して来ます。人間性能の自覚進化の最終段階は言霊イの生命の創造意志です。この次元から現われる活動は現実の現象として姿を現わす事がなく、言霊ウオアエの四段階を統一し、この四次元の宇宙に刺激を与えて、それら四次元それぞれの現象を発現させる原動力となり、同時にその現出した現象に名前を附与するという特有の性能を有しています。言霊五十音はこの言霊イの宇宙に存在しているのであります。人間精神の最終段階である言霊イ次元を自覚するという事は、右の如く言霊五十音を以て心の構造を隈なく知るという事であります。 以上人の心の五段階構造とその段それぞれの性能についてお話をして参りました。人間はこの様に五つの性能を授かってこの世に生まれて来ます。そしてその人生をこの五性能によって生きて行くことになるのですが、普通人は自分がこの様な性能を授かっているという自覚を持ってはいません。自分にどんな性能が与えられているのか分らないのですから、この世に生きて行く間には種々の困難に遭遇し、懸命に努力しなければならなくもなります。「八苦の娑婆」といわれる所以です。よりよく暮らし、幸福に生きるためには、自分が自主的に自らが授かっている心の性能を点検・検討して、その五段階構造を自覚することが必要です。そこに心の勉強が始まる訳であります。以上の心の作業によって五段階の心の構造を自覚的に登って行く時、各段に於て人はどんな事を自覚するのか、を考えることにします。そしてその答えが先に示しました「うる」「おる」「ある」「える」「いる」となることをお話したいと思います。 言霊ウ次元にある人が何かを「うる」と、その手に入ったものは自分のものと思います。その「自分のもの」の意識から自我意識が生れます。同様に言霊オ次元に於ても、自分の手にした経験知識の累積を自我そのものと思い込みます。その自我は、自我の内容である知識とは相反する他人の言葉や行為に接しますと、瞬間的に、また無自覚的に心中にて他の人の言動に対し批判の鉾先を向けます。その批判が言葉となって相手を批判しても、また言葉に出さず、ただ心中に於てだけの批判であっても、同様に相手を攻撃することに変りがありませんから、至る所で紛争が起り、刺々しい世の中が現出し、小は家庭内の騒動から大は国家民族間の戦争を惹起するまでになります。そしてこのお互いの批判攻撃の輪廻は永遠に続くことになります。現在中東で起っているアラブとイスラエルの紛争はよい例であります。 この人間の精神進化の第四段階には今までの宗教が気が付かず、それ故に言及することがなかった大きな問題が隠されています。自覚進化の言霊エの「える」、即ち「選(え)る」とは一般的には言霊ウオエの三つの性能をどのように選んで、即ちコントロールして物事を処理するか、また第四次元自覚の仏教で菩薩と呼ばれる人が言霊ウオアの三性能を選り、コントロールすることによって一切衆生を救済する人間性能です。この処理または救済に当り、三性能をコントロールする時、どのようにコントロールするか、の確乎たる法則の自覚がないことであります。そのためコントロールの尺度を、以前頼っており、それが束縛という重荷になっていた個人の経験知に頼ることとなります。個人の経験を完全な法則にまで引上げるには五劫とか十劫という永い永い時間をかけねばならない修業が必要だと仏教は説いています。この「選(え)る」、コントロールの厳密な法則を教える言霊の原理がここ二・三千年間隠されてしまっていた暗黒の世であったからであります。 言霊原理が甦(よみがえ)りました。明治天皇以来百年にわたる諸先輩の弛(たゆ)まぬ努力によって第十代崇神天皇以前に現実の政治の鏡であった言霊の原理が昔あったそのままの姿で復元されました。その結果、人間精神進化の自覚の第四段階である言霊エの次元の自覚が一言で「える」だと言うことの出来る時代が到来したのです。「選る」とは何を選ぶのか、が明白に示されました。それは精神的次元宇宙を表わす言霊母音ウオアエを刺激して、各次元からそれぞれ現象子音を生む原動力となる言霊イの働きであるチイキミシリヒニの八つの父韻の順序、配列を「選ぶ」のだ、と知ることが出来たのであります。この事を神道の予言は国常立命(くにとこたちのみこと)の復帰と言います。ここでは八父韻の母音ウオアエに働きかける配列を簡単に左に示します。
言霊五十音は何時、何処で活動しているのでしょうか。それは常に「今・此処」(続日本紀で中今といいます)です。また言霊のことを一音で霊とも呼びました。その霊が活動することは霊駆(ひか)り、即ち光であります。人の生命(いの道[ち])はこの光即ち言霊の活動によっています。この事を新約聖書ヨハネ伝福音書冒頭の文章がいみじくも簡潔に伝えています。「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なり。この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。」 以上、今まで人間精神の進化をその進化の段階の順序に従って説明し、段階それぞれに対応する人の心構え、「うる」「おる」「ある」「える」についてお話を進めて来ました。心の段階進化の自覚でありますから、人が自分自身の心を省(かえり)みることによって自覚されます。他人を見て自覚するのでなく、自分を見ることによる自覚です。その結果、言霊ウの次元に於ては、欲望の目標を手にすること、それを「うる」と言うことを知りました。言霊オの次元に於ては、自らの過去の魂の遍歴の過程を知り、その因果によって自分は今・此処に「おる」と自覚することでありました。言霊アの次元では、人は常に今・此処に有るが侭の姿でここに「ある」自分を知りました。言霊エの次元に於ては、勇気一番、今・此処にあることが出来る幸福の御恩報じとして、世の中の迷える人々との関わり合いの中に自分の一生を投じ、如何にせば人を救えるかの選択智、更には人類救済のための言霊原理の八父韻の配列を「選る」ことの中に生きようとすることを知りました。では進化の最終段階の自覚の心を示す「いる」とはどういうことなのでしょうか。 創造の神・言霊の神である伊耶那岐の大神は言霊の原理を完成し、その結論である天照大神、月読の命、須佐男の命(三貴子[みはしらのうずみこ])を生み、自らの神業をすべて成し遂げて、淡路の多賀におすまいになられた、と古事記にあります。この場面を日本書紀に見ることにしましょう。「伊弉諾尊、神功既に竟へたまひて、霊運当遷(かむあがりましなんとす)、是を以て幽宮(かくれのみや)を淡路(あわぢ)の洲(す)に構(つく)り、寂然(しずかた)長く隠れましき。亦曰く、伊弉諾尊功(かむこと)既に至りぬ。徳(いきほひ)亦大いなり。是に天に登りまして、報告(かへりごと)したまふ。仍ち日の少宮(わかみや)に留まり宅(す)みましぬ。」神功(かむこと)とは言霊原理の百神を生んだ仕事のこと。淡路の洲とは吾と我の間の交流によって生まれて来る言霊百神の原理を生み、その証明と自覚とをすべて成し終えて、それが言霊ス(洲・皇・静・巣)の姿に落ち着いた心であります。日の少宮とはアオウエイ五母音宇宙のこと。全ての現象はここより生じ、ここに帰って消える、日(霊)の湧く宮でもあります。伊弉諾尊はこの五母音宇宙の中に永遠に留まり宅んでいらっしゃいます(「古事記と言霊」284頁)。このすべてを知った上で言霊スの姿に落ち着いた姿で世界人類の動向を掌握して「今・此処」に粛然としていること、これを「いる」と言います。そしてひと度立ち上がれば、気である八父韻が活動を開始して、「いる」は「いきる」と変じ、父韻は母音宇宙に働きかけて現象子音の霊葉を生み、その「霊駆り」によって暗黒の森羅万象に光を与え、歴史創造という新生命の中に摂取して行く原動力となります。―真実の日本語の「いる」という言葉は日本語以外には見出すことが出来ません。因みに神代象形文字の「ゐ」は人が坐った姿( (終り) |