「天津神籬・禊祓」 <第百八十九号>平成十六年三月号 | ||
光の語源は「霊駆り」即ち言霊が走る、活動するの謂であります。如何なる闇も光が当たれば消えます。闇は光が嫌いだから、光のない処に逃げるから其処にはなくなる、というのではありません。光が当ればいかに深い暗黒も一瞬にして消えます。その様に人間の心の闇は、それが個人のものも、社会的な大きな闇でも、光が当れば、即ち言霊原理そのままの判断が下れば、一瞬にして雲散霧消してしまいます。 仏教に十界という教えがあります。辞書に「迷界・悟界のいっさいの境涯を十種に分けたもの。迷界における地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上と悟界における声聞・縁覚・菩薩・仏の十界」とあります。過去三千年余、人類の心を弱肉強食・生存競争の坩堝(るつぼ)の中に巻き込んだ金毛九尾の狐と呼ばれるその九尾の九数とは、仏教で謂う十界の中の最上段の仏以外の九つの境涯すべてを薬籠中(やくろうちゅう)の物にして、自由に操るの謂であります。けれど最上段の仏界には近づく事が出来ないと言われています。仏陀の把持する、法華経の説く「仏所護念、教菩薩法」、即ち「勝彼世間音」と謂われる言霊原理の光を保持している故であります。 古事記の神話に示されます言霊学の物語のクライマックスとなる「禊祓」の中で、人間の生命の実体と言うべき言霊の活動の「光」が、心の闇を光の世界に取り込んで行く箇所があります。神直毘神、大直毘神、伊豆能売の件(くだり)であります。その箇所の古事記の文章を書いてみましょう。「……八十禍津日の神。次に大禍津日の神。この二神は、かの穢き繁き国に到りたまひし時の、汚垢によりて成りませる神なり。次にその禍を直さむとしてなりませる神の名は、神直毘(かむなおひ)の神。次に大直毘(おほなおひ)の神。次に伊豆能売(いづのめ)。」 次に奈良の天理市所在の石上(いそのかみ)神宮に伝わる布留の言本(ふるのこともと)「日文四十七文字」を見ましょう。「ヒフミヨイムナヤコトモチロラネシキルユヰツワヌソヲタハクメカウオエニサリヘテノマスアセヱホレケ」の四十七文字です。この四十七文字の中で、言霊の光が輝く事によって闇を光明世界に変えて行く場面は「ソヲタハクメ、カ」であります。 またこれを言霊学の総結論、天津神籬(ひもろぎ)の音図である天津太祝詞(ふとのりと)の上段ア・タカマハラナヤサ・ワのタからサまでの八韻で示す時は、その八韻の中の一韻のナに当ると言えましょう。 以上、古神道禊祓の行法を示す三つの表現を列挙しました。その各々の解説は他の機会に譲りますが、「古事記と言霊」の290頁に比較・対照表がありますので御参照下さい。人類社会の如何なる問題も、それがたとえ対処不可能と思える葛藤でありましても、ひと度言霊学最高の天津太祝詞音図のイの段に視点を置いてこれを見るならば、皇祖皇宗の言霊原理に基づく人類文明創造の歴史の一齣(ひとこま)としての内容を持つ必要欠くべからざる事柄である事が瞬時に分ることとなります。 一人の人生にとっても、また人類の文明創造の歴史にとっても言い得る大切な事柄であります。とは申しましても、それは人間に附与された生命の最高性能である言霊イの人間生命の創造意志の段階に於てのみ言い得る事ではあります。 禊祓における光と影、光と闇の問題を言霊学上で解説をして参りましたが、原理原則ばかりでは話が息苦しくなります。そこで具体的に日常に起る卑近な例を引いて説明しましょう。 以前にも一度例に引いた事がありますが(「古事記と言霊」225頁参照)、私の古い友人とその病気の治療に当る医師との間の話であります。友人は或る願望から妻子を捨てて地方の家を蒸発し、東京で暮らす年月の末に希望を失い、一人で細々と生きる身の上です。過ぎし日の事を思うと慙愧(ざんき)に耐えなくなります。その気持を紛らわそうと酒を呑みます。酒気が切れる時がありません。 血圧が上がります。医者へ行くと、何時も血圧が二百から下がった事がないそうです。そこで医者は「酒を止めなさい。さもないと死んでしまうよ」と何時も口癖の如く言うようになります。いくら心配して言ってくれるのだと思っても、その友人にとっては何も言ってくれないのと同じなのです。何故ならその当人がこの侭では死んでしまうな、と思っており、けれど凍りつくような寂しさの念から酒は止められなくなっているのです。 この話はこれからは「若し……」の話に入ります。若しこの友人を治療する医師に仏心があり、また強い宗教心があったら、の話ですが、医師はこの老人である友人に同情し、医学的に親切に病状を説明したり、理を尽して酒を止める事を心から忠告したりして、何とか友人に救いの手を伸ばします。友人もそれに応えようとして努力はします。けれど結局は孤独感に勝てず、酒を呑んでしまいます。友人の心は更に絶望に近づきます。と同時に医者の心も絶望を感じます。 「医師として私は幾らかのプライドを持っていた。そしてあの老人に同情し、立ち直らせる事が出来ると思っていた。けれど人の心の闇は私が思っていた以上に深かった。私はあの老人にしてやれる何物も持っていない事を思い知らされた。私はそれ位の人間であったのだ。」医師としての、そして同時に人間としてのプライドも吹き飛んでしまいました。深く考えれば考える程無力感が心を凍らせます。「私は医者としても不適格なのか」と心は揺らぎます。絶望感が全身を包みます。自信も自尊心も吹き飛んでしまったのです。…… 医師は謙虚な心の持主でした。正しい信仰心を持っていました。「私は医学を初めいろいろな知識を身につけて来た。この知識さえあれば何事にも立ち向かえる事が出来ると思っていた。知識即自我だと思い込んでいた。それは思い違いであった。今まで大禍もなく学び、医者となり、暮らして来られたのは、決して自分の力なのではなかった。 考えることも出来ない大きな力、何と言うか、大きな生命力に包まれて、そのお蔭で此処まで来られた。すべてがこの力の恵みによって生かされている。私も、そして生きとし生ける者も、皆このお力によって生かされているのだ。自分のものと思っていた知識はすべてこのお力の道具であり、自分のものではなかった。」 この時以来、医師の老人に対する態度はガラリと変りました。老人に会う時には晴々とした心で、明るく老人と世間話をするようになりました。老人を説得する気持がなくなったのです。すると老人の心の動きがよく分るようになります。「自分も生かされている。だからこの老人も大きな生命力に生かされている」と思うと、説得の心は何処かへ飛んで行ってしまい、老人が兎も角今生きて、自分と向かい合っている瞬間を心から祝福する気持となったのです。 すると、不思議な事に、老人の心に希望を持たせるような言葉が出て来るようになりました。暗闇が消え、光明の中に生きる事が出来たのです。病気を治すのではなく、人を治す事、とはこういう事なのだ、と知ったのでした。 以上は闇を光明に転換する初地の心、言霊アの心であります。この医師の心は患者に対する個人的な愛(エロス)から大きな宇宙生命の愛(アガぺ)に変りました。言霊ウオの次元から言霊アの次元に自覚が進化したのです。仏教に於ては言霊アの自覚の境涯を縁覚と呼びます。それは初地の仏でもあるとも説かれます。 言霊ア次元自覚の境涯ですから、言霊エイの自覚に到ってはいません。その為にその人の他の人に接する言葉は言霊ア次元の宝音図のア段、ア・タカラハサナヤマ・ワとなります。これは宗教・芸術の心であり、主体である言霊母音アの自覚は確立していますが、客体ワの心の自覚は未確認であります。それ故、主体の心は愛の境地から出発しますが、その言霊は客体の側に如何に受け取られるかは未知数です。 それはすべての芸術作品が万人の心を魅了するとは限らないのと同様です。個人に対する救済にはこの次元の自覚で何とか事足りるとしても、万人の、国家、民族、世界人類の救済には全くの力不足である事は明瞭であります。宗教が現在の世界の危機に対して確乎とした救済策を打ち出す事が出来ないでいるのもこれが為であります。 宗教的愛の心に何が足りないのでしょうか。それは宗教心には言霊母音アの自覚、即ち母親の愛の心はあるけれど、言霊父韻である父親の原則が欠けているからです。母だけでは子は生まれせん。父母揃って初めて子(現象)が生れるのです。昔、母をいろは(言葉)、父をかぞ(数)と呼びました。言葉と数(父韻)は文明の親であります。 キリスト教の祈りの言葉「天にまします父なる神よ、御名を崇めさせ給え」には、父なる神の御名である父韻言霊を人間自身の外に仰ぎ見て、人間自身の性能とは思う事が出来ないでいます。その為に神なる光に包まれているという自覚はあっても、その光の構造と働きについて何の自覚も持ち合わせていません。禊祓の理解と自覚、世界文明創造の担い手となる為には、尚一歩、二歩の自覚の進化が必要です。 前に医者と患者との間の心の交流の話で、自我とはこの社会の中での経験の総合なのではなく、その経験が現出して来る宇宙が自我の本体であると知りました。言霊アの自覚から言霊エイへの自覚の進化の道程に於て、その本体としての宇宙という観念に変りはありません。けれど自分が以前から積み重ねて来たこの世の中での経験知識に対する反省の態度が全く違って来ます。 言霊アの自覚を求める段階での経験知に対する態度は、その経験知識は本来の自分ではなく、単なる現象に過ぎないものとして、否定(無)して行く事でした。経験知識そのものでは物事の実相を掴む事は出来ないという事にのみ専念しました。そして経験知識即自我との思い込みが破れた時、自我の本体であり宇宙である言霊アの存在を直観することが出来たのでした。仏教の謂う諸法空相の仕事でありました。 言霊イ・エの自覚に進む作業は、言霊による生命の構造(イ)とその動き(エ)という言霊原理を行動の規範として掲げながら(衝立つ船戸の神)、一度否定し去った経験知識を、今度は五十音言霊図の中の三十二の子音言霊、またはその結合体として、肯定し直す作業であります。謂わば仏教の諸法実相の仕事という事が出来ます。 言葉を変えて言えば、自分が積み重ねて来た経験知識のそれぞれが五十音言霊図の中のどの言霊に相当するかを調べる作業であります。貴方が自分の心の中の経験知識を五十音図の中の一つの言霊と実相の直観で結び付ける事が出来たならば、その言霊が貴方の心の中で無音の音を奏で続ける事となります。そしてその言霊は「霊駆り」として貴方の生命の一部を構成している事を貴方自身が実感することとなります。 一度否定し去った経験知識を、掲げた言霊五十音図の中に引き上げ、言霊を以て承認する時、その瞬間が闇が光に転ずる時なのです。神直毘・大直毘・伊豆能売の禊祓の中の三神がその時の働きです。……そうです、貴方が貴方御自身の禊祓をしているのです。 言霊アの自覚によって生れ出た赤ん坊の如き貴方が、その赤ん坊の心である和久産巣日の神の心(天津菅麻音図)のままに貴方御自身という伊耶那岐の大神という宇宙身となり、習いおぼえた五十音言霊原理(建御雷の男の神)を衝立つ船戸の神と掲げ斎き立て、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に立って、自分が生れた時から積み上げてきた経験知識を黄泉国所産の文化として、「吾はいな醜(しこ)め醜めき穢(きたな)き国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の祓(はら)へせん」と貴方御自身の生命の総結論の自覚に向って禊祓の行を実行することとなります。 御自身の生命の自覚は、御自身の経験知識が言霊五十音図の中に祭られた瞬間、闇の言葉が光の言葉(霊葉[ひば])に変った瞬間に完成する事となります。一人の人間が自分自身の生命の実相を見る事が出来る唯一の時であります。 この時、その人が自覚する人類文明創造の手順はア・タカマハラナヤサ・ワとなります。主体ばかりでなく客体の実相を知り、更にその将来を規定することが出来る人類に与えられた最高究極の性能に到達します。 御自身の禊祓の完了の時、それは全世界人類の禊祓の開始の時でもあります。 (終り) |