「天津神籬・禊祓」 <第百八十九号>平成十六年三月号
 先号まで数回にわたり言霊学の緒論である人間の心の先天構造即ち天津磐境(いはさか)についてお話をして来ました。今回は言霊学の奥義であり、また結論でもある天津神籬(ひもろぎ)と、その結論に到達する過程である禊祓(みそぎはらい)の方法について簡単に述べることにいたします。言霊学の緒論と結論の概略の御理解を頂く事によって、この言霊学という学問が人類の歴史や諸文化に対して、また私達が日常使っている日本語の語源として如何に大きな影響を与えて来たか、が読者の皆様に御納得頂けるものと思うからであります。

 言霊学は人間の心が五十個のコトタマ(言霊)によって構成されている事を明らかにします。その明細は心の先天構造十七、後天の現象単位三十二、それ等コトタマの神代文字化一、合計五十個の言霊となります。人間の心はこれ等五十個の言霊によって構成されており、それよりも多くも少なくもありません。ではその五十個の言霊がどの様な構造・配列をしているのか、どの様な活動をするのか、を順序よく解説して行き、最後に人間が到達し得る最高理想の精神構造を明らかにします。

 その精神構造を天津神籬(あまつひもろぎ)と申します。「ひもろぎ」とは霊諸招の意であります。この精神構造を示す五十音図を天津太祝詞(音図)と呼びます。またこれを表徴して作られた器物を八咫鏡(やたのかがみ)と言い、日本皇室に伝わる三種の神器の一つとなっております。そしてこの最高理想の境地に到達した人は如何なる事をやり遂げる能力を持つか、またその境地に到達するには如何なる方法が必要か、の行法を「禊祓」として古事記の神話は懇切丁寧に説明しております。今回は以上の事の概略をお伝え申上げることといたします。

 言霊学の結論であり、人間精神の最高理想の精神構造を天津神籬(ひもろぎ)と言い、その神籬の意味は霊諸招だと申しました。霊(ひ)とは言霊であり、諸(もろ)とはその言霊のすべてを意味し、招(おぎ)とはそれ等すべての言霊を一つの音図の中に置き足らわして得る人間精神の最高調和の構造と言った意味であります。と同時にまた、霊とはこの地球上に於いて生産され、その内容が多くの人々の承認を得るよう主張する一切の文化の内容の事でもあります。天津神籬と呼ばれ、またの名、天津太祝詞(ふとのりと)と称せられる精神構造の立場に立つ時、それ等地球上に於て主張される文化活動のすべてを一つの取りこぼしもなく取り上げ(摂取)、それに世界人類文明を創造するため役割を担わせ、生命を与えて行く(不捨)事が出来る人間の最高精神構造の意でもあります。

 その様な事を実行し、実現する能力を果たして人間が持ち得るのか、と疑問を持たれる方もいらっしゃる事でしょう。無理もありません。ここ二・三千年の人類の歴史は、全く弱肉強食・生存競争の連続でありました。強い者勝ち、故に「我善し」の社会であったのですから。

 世界中の人々がそれぞれの異なった目的のために生産する文化的なものすべてを一つ残らず摂取して、これ等のものを取捨選択するのではなく、そのまま受入れ、しかも世界人類の文明創造という大きな目的のために役立つよう新しい生命を吹き込んで行く荘厳で悠大な行為は、ただ考えるだけでさえ心躍る崇高なものでありますが、さてそれを実際に実現させる方法如何となると、現代に於いては全くの夢物語としか考えられない事でありましょう。

 事実、現代のような弱肉強食、強い者勝ちの世の中では、権力者が自己目的のために、社会の諸文化を取捨選択し、またはそれぞれの文化の内容を変形、変容させ、社会を陰に陽に一つの方向に向うよう操作して憚らない社会では、夢中夢の如く思われるに違いありません。

 遠い昔、印度に始まったと言われる仏教は阿彌陀仏の「一切衆生、摂取不捨」を最高のものとして彌陀の慈悲を説いて来ましたが、立教以来二千数百年、いまだその理想は実現されていません。それは仏教の創始者と言われるお釈迦様の実現不可能な単なる理想に過ぎないのでしょうか。キリスト世紀の基となったキリスト教のイエス・キリストは「天国は近づけり。汝等悔い改めよ」と説きました。

 けれどキリスト世紀の二十世紀を過ぎた現在、天国は実現されていません。それどころか、世の中は益々剣呑な状況に立ち到り、人類の終焉の事が心配されています。人類破滅の原因となるデータを近代科学は列挙しています。けれど合理的にこれを処理し、回避する決定的手段を今の人類はまだ手に出来ないでいます。このまま事態が推移するならば、再び浮び上がる事が出来ない人類危機の瞬間は目前に迫っていると言う事が出来ます。「結縄の政」(儒教)、「天国の到来」(キリスト教)、「仏国土荘厳」(仏教)等の予言ははかない予想に過ぎず、孔子もイエス・キリストも、また釈迦も全くの「大嘘つき」で終ってしまうのでしょうか。

 いいえ、そんな事は決してありません。人類は今もなお過去の宗教の創始者が説いた人類の理想社会実現の道を着々と歩んでいるのです。その実現の日はもうそう遠い日ではありません。孔子もイエス・キリストも、また釈迦も嘘つきでは決してない事です。ただ違う事は、孔子によって説かれた「結縄の政」といわれる理想社会はその儒教によって実現するのではありません。「天国」はイエス・キリストによって説かれましたが、その実現はキリスト教によって達成されるのではありません。また釈迦が説法した「仏国土荘厳」も仏教の力で建設されるのではないという事であります。

 人類の第二の物質科学文明創造の幕が切って落とされた数千年前、それ以前には人類の第一精神文明の花や果実で潤う永い永い時代が続いていました。その精神文明の中核となったのが言霊布斗麻邇(ふとまに)の学問でありました。古代日本語はこの学問の原理によって造られたのです。その時以来、第一精神文明の原理である言霊の学問は日本語の中に脈々と息づき、長い第二物質文明時代の暗黒の世相の中でも、日本語の中に途絶える事なく生き続け、現代の日本人の日常言語として光を放っています。

 ただ世界の人々も、当の日本人もその尊い原理の存在を忘れてしまっているに過ぎません。物質科学文明の完成と同時に起った人類生命の危機状況の発生の時、予定されていた言霊の原理は人類の脳裏に明らかにその存在を復活させました。この不死鳥の如く蘇えった言霊の原理に基づく世界人類の文明創造の方法を知るならば、現代の日本人は大先祖である日本の皇祖皇宗の頭の良さに驚倒することでありましょう。

 人類全体の文明創造という大事業を推進・遂行する人間の能力・性能について、古代の日本人の祖先は現代の人々が想像だにする事が出来ない素晴らしい発見をしました。永い年月の研究と幾多の人々の努力がそれをもたらしたに違いありません。人間の心のすべてを「心と言葉の究極の原理である言霊学」として解明したのです。

 その学問によれば、人の心は母音ウオアエイによって表わされる五界層宇宙より発現する精神的性能を与えられています。人はそれ等の五次元構造を一つずつ自覚することによって、それ等の性能を思うように働かせ社会に貢献する事が出来ます。言霊ウは五官感覚に基づく欲望活動であり、この性能から産業・経済社会が現出します。言霊オは人間の経験知性能の次元、この性能により各種の学問や物質科学が現出して来ます。言霊アは人間の感情性能の次元であり、これより芸術・宗教活動が現われます。言霊エの界層からは人間の英智性能が発現し、言霊ウオアの三性能をコントロールする英智となります。

 そして最後に、人間精神の最終段階の自覚に於て言霊イの人間生命の創造意志性能が確認される事となります。人間の心を構成する究極の要素アイウエオ五十音言霊がこの次元界層に存在し、この五十音言霊の根本活動によって他のウオアエ四次元の現象社会が現出して来る事実を掌をとる如く明白に把握する事が出来るようになります。そしてその把握の唯一最高の手段として言霊五十音のそれぞれを物事の実相に従って組合せる事によって造られた日本語による表現が適切である事を知ったのであります。

 昔、言霊のことを一音で霊(ひ)と呼びました。霊が活動する、走る事を霊駆(ひか)ると言います。それ故に日本語の事を霊葉即ち光の言葉と呼びました。人間社会に於いて言霊ウオアエ四次元の各領域で起る種々の現象は、それが社会の中でいかに混乱した暗黒の様相を呈したものであっても、ひと度言霊イの次元に視点を置いて、それを熟視し、その実相を言霊原理で造られた日本語によって表現・把握するならば、心の光に照らされて暗黒は消え、人類の第一精神文明時代にそうであった如く、日本の古代の皇祖皇宗の経綸である人類文明創造の光の筋道の中の一齣(ひとこま)の出来事として、世界歴史に於ける地所位が特定され、同時にその事態の進むべき方向と、それを実現して行く確乎とした手段・段取(だんどり)が明らかに脳裏に浮かび上がって来ることとなります。

 これが人間の言霊イ段の自覚された性能なのです。地球上に起る人類の如何なる事態も、たとえそれが何人が見ても絶望と写るものであっても、この言霊イの性能の自覚によって死から生への転換、破滅から創造への転回が不可能なものは何一つありません。この創造を可能にする行法を古事記は禊祓(みそぎはらい)と呼んでいます。

 以上、言霊学の結論を神籬(ひもろぎ)と呼ぶ所以(ゆえん)と、その方法の禊祓について概略をお話申上げました。御理解頂けたでありましょうか。最後に神籬の言霊による構造を示す天津太祝詞音図を上に掲げます。神籬の構造と禊祓についての詳細は「古事記と言霊」を御参照下さい。

(この項終り)

 霊駆(ひか)り(光)

 光の語源は「霊駆り」即ち言霊が走る、活動するの謂であります。如何なる闇も光が当たれば消えます。闇は光が嫌いだから、光のない処に逃げるから其処にはなくなる、というのではありません。光が当ればいかに深い暗黒も一瞬にして消えます。その様に人間の心の闇は、それが個人のものも、社会的な大きな闇でも、光が当れば、即ち言霊原理そのままの判断が下れば、一瞬にして雲散霧消してしまいます。

 仏教に十界という教えがあります。辞書に「迷界・悟界のいっさいの境涯を十種に分けたもの。迷界における地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上と悟界における声聞・縁覚・菩薩・仏の十界」とあります。過去三千年余、人類の心を弱肉強食・生存競争の坩堝(るつぼ)の中に巻き込んだ金毛九尾の狐と呼ばれるその九尾の九数とは、仏教で謂う十界の中の最上段の仏以外の九つの境涯すべてを薬籠中(やくろうちゅう)の物にして、自由に操るの謂であります。けれど最上段の仏界には近づく事が出来ないと言われています。仏陀の把持する、法華経の説く「仏所護念、教菩薩法」、即ち「勝彼世間音」と謂われる言霊原理のを保持している故であります。

 古事記の神話に示されます言霊学の物語のクライマックスとなる「禊祓」の中で、人間の生命の実体と言うべき言霊の活動の「光」が、心の闇を光の世界に取り込んで行く箇所があります。神直毘神、大直毘神、伊豆能売の件(くだり)であります。その箇所の古事記の文章を書いてみましょう。「……八十禍津日の神。次に大禍津日の神。この二神は、かの穢き繁き国に到りたまひし時の、汚垢によりて成りませる神なり。次にその禍を直さむとしてなりませる神の名は、神直毘(かむなおひ)の神。次に大直毘(おほなおひ)の神。次に伊豆能売(いづのめ)。」

 次に奈良の天理市所在の石上(いそのかみ)神宮に伝わる布留の言本(ふるのこともと)「日文四十七文字」を見ましょう。「ヒフミヨイムナヤコトモチロラネシキルユヰツワヌソヲタハクメカウオエニサリヘテノマスアセヱホレケ」の四十七文字です。この四十七文字の中で、言霊の光が輝く事によって闇を光明世界に変えて行く場面は「ソヲタハクメ、カ」であります。

 またこれを言霊学の総結論、天津神籬(ひもろぎ)の音図である天津太祝詞(ふとのりと)の上段ア・タカマハラナヤサ・ワのタからサまでの八韻で示す時は、その八韻の中の一韻のナに当ると言えましょう。

 以上、古神道禊祓の行法を示す三つの表現を列挙しました。その各々の解説は他の機会に譲りますが、「古事記と言霊」の290頁に比較・対照表がありますので御参照下さい。人類社会の如何なる問題も、それがたとえ対処不可能と思える葛藤でありましても、ひと度言霊学最高の天津太祝詞音図のイの段に視点を置いてこれを見るならば、皇祖皇宗の言霊原理に基づく人類文明創造の歴史の一齣(ひとこま)としての内容を持つ必要欠くべからざる事柄である事が瞬時に分ることとなります。

 一人の人生にとっても、また人類の文明創造の歴史にとっても言い得る大切な事柄であります。とは申しましても、それは人間に附与された生命の最高性能である言霊イの人間生命の創造意志の段階に於てのみ言い得る事ではあります。

 禊祓における光と影、光と闇の問題を言霊学上で解説をして参りましたが、原理原則ばかりでは話が息苦しくなります。そこで具体的に日常に起る卑近な例を引いて説明しましょう。

 以前にも一度例に引いた事がありますが(「古事記と言霊」225頁参照)、私の古い友人とその病気の治療に当る医師との間の話であります。友人は或る願望から妻子を捨てて地方の家を蒸発し、東京で暮らす年月の末に希望を失い、一人で細々と生きる身の上です。過ぎし日の事を思うと慙愧(ざんき)に耐えなくなります。その気持を紛らわそうと酒を呑みます。酒気が切れる時がありません。

 血圧が上がります。医者へ行くと、何時も血圧が二百から下がった事がないそうです。そこで医者は「酒を止めなさい。さもないと死んでしまうよ」と何時も口癖の如く言うようになります。いくら心配して言ってくれるのだと思っても、その友人にとっては何も言ってくれないのと同じなのです。何故ならその当人がこの侭では死んでしまうな、と思っており、けれど凍りつくような寂しさの念から酒は止められなくなっているのです。

 この話はこれからは「若し……」の話に入ります。若しこの友人を治療する医師に仏心があり、また強い宗教心があったら、の話ですが、医師はこの老人である友人に同情し、医学的に親切に病状を説明したり、理を尽して酒を止める事を心から忠告したりして、何とか友人に救いの手を伸ばします。友人もそれに応えようとして努力はします。けれど結局は孤独感に勝てず、酒を呑んでしまいます。友人の心は更に絶望に近づきます。と同時に医者の心も絶望を感じます。

 「医師として私は幾らかのプライドを持っていた。そしてあの老人に同情し、立ち直らせる事が出来ると思っていた。けれど人の心の闇は私が思っていた以上に深かった。私はあの老人にしてやれる何物も持っていない事を思い知らされた。私はそれ位の人間であったのだ。」医師としての、そして同時に人間としてのプライドも吹き飛んでしまいました。深く考えれば考える程無力感が心を凍らせます。「私は医者としても不適格なのか」と心は揺らぎます。絶望感が全身を包みます。自信も自尊心も吹き飛んでしまったのです。……

 医師は謙虚な心の持主でした。正しい信仰心を持っていました。「私は医学を初めいろいろな知識を身につけて来た。この知識さえあれば何事にも立ち向かえる事が出来ると思っていた。知識即自我だと思い込んでいた。それは思い違いであった。今まで大禍もなく学び、医者となり、暮らして来られたのは、決して自分の力なのではなかった。

 考えることも出来ない大きな力、何と言うか、大きな生命力に包まれて、そのお蔭で此処まで来られた。すべてがこの力の恵みによって生かされている。私も、そして生きとし生ける者も、皆このお力によって生かされているのだ。自分のものと思っていた知識はすべてこのお力の道具であり、自分のものではなかった。」

 この時以来、医師の老人に対する態度はガラリと変りました。老人に会う時には晴々とした心で、明るく老人と世間話をするようになりました。老人を説得する気持がなくなったのです。すると老人の心の動きがよく分るようになります。「自分も生かされている。だからこの老人も大きな生命力に生かされている」と思うと、説得の心は何処かへ飛んで行ってしまい、老人が兎も角今生きて、自分と向かい合っている瞬間を心から祝福する気持となったのです。

 すると、不思議な事に、老人の心に希望を持たせるような言葉が出て来るようになりました。暗闇が消え、光明の中に生きる事が出来たのです。病気を治すのではなく、人を治す事、とはこういう事なのだ、と知ったのでした。

 以上は闇を光明に転換する初地の心、言霊アの心であります。この医師の心は患者に対する個人的な愛(エロス)から大きな宇宙生命の愛(アガぺ)に変りました。言霊ウオの次元から言霊アの次元に自覚が進化したのです。仏教に於ては言霊アの自覚の境涯を縁覚と呼びます。それは初地の仏でもあるとも説かれます。

 言霊ア次元自覚の境涯ですから、言霊エイの自覚に到ってはいません。その為にその人の他の人に接する言葉は言霊ア次元の宝音図のア段、ア・タカラハサナヤマ・ワとなります。これは宗教・芸術の心であり、主体である言霊母音アの自覚は確立していますが、客体ワの心の自覚は未確認であります。それ故、主体の心は愛の境地から出発しますが、その言霊は客体の側に如何に受け取られるかは未知数です。

 それはすべての芸術作品が万人の心を魅了するとは限らないのと同様です。個人に対する救済にはこの次元の自覚で何とか事足りるとしても、万人の、国家、民族、世界人類の救済には全くの力不足である事は明瞭であります。宗教が現在の世界の危機に対して確乎とした救済策を打ち出す事が出来ないでいるのもこれが為であります。

 宗教的愛の心に何が足りないのでしょうか。それは宗教心には言霊母音アの自覚、即ち母親の愛の心はあるけれど、言霊父韻である父親の原則が欠けているからです。母だけでは子は生まれせん。父母揃って初めて子(現象)が生れるのです。昔、母をいろは(言葉)、父をかぞ(数)と呼びました。言葉と数(父韻)は文明の親であります。

 キリスト教の祈りの言葉「天にまします父なる神よ、御名を崇めさせ給え」には、父なる神の御名である父韻言霊を人間自身の外に仰ぎ見て、人間自身の性能とは思う事が出来ないでいます。その為に神なる光に包まれているという自覚はあっても、その光の構造と働きについて何の自覚も持ち合わせていません。禊祓の理解と自覚、世界文明創造の担い手となる為には、尚一歩、二歩の自覚の進化が必要です。

 前に医者と患者との間の心の交流の話で、自我とはこの社会の中での経験の総合なのではなく、その経験が現出して来る宇宙が自我の本体であると知りました。言霊アの自覚から言霊エイへの自覚の進化の道程に於て、その本体としての宇宙という観念に変りはありません。けれど自分が以前から積み重ねて来たこの世の中での経験知識に対する反省の態度が全く違って来ます。

 言霊アの自覚を求める段階での経験知に対する態度は、その経験知識は本来の自分ではなく、単なる現象に過ぎないものとして、否定(無)して行く事でした。経験知識そのものでは物事の実相を掴む事は出来ないという事にのみ専念しました。そして経験知識即自我との思い込みが破れた時、自我の本体であり宇宙である言霊アの存在を直観することが出来たのでした。仏教の謂う諸法空相の仕事でありました。

 言霊イ・エの自覚に進む作業は、言霊による生命の構造(イ)とその動き(エ)という言霊原理を行動の規範として掲げながら(衝立つ船戸の神)、一度否定し去った経験知識を、今度は五十音言霊図の中の三十二の子音言霊、またはその結合体として、肯定し直す作業であります。謂わば仏教の諸法実相の仕事という事が出来ます。

 言葉を変えて言えば、自分が積み重ねて来た経験知識のそれぞれが五十音言霊図の中のどの言霊に相当するかを調べる作業であります。貴方が自分の心の中の経験知識を五十音図の中の一つの言霊と実相の直観で結び付ける事が出来たならば、その言霊が貴方の心の中で無音の音を奏で続ける事となります。そしてその言霊は「霊駆り」として貴方の生命の一部を構成している事を貴方自身が実感することとなります。

 一度否定し去った経験知識を、掲げた言霊五十音図の中に引き上げ、言霊を以て承認する時、その瞬間が闇が光に転ずる時なのです。神直毘・大直毘・伊豆能売の禊祓の中の三神がその時の働きです。……そうです、貴方が貴方御自身の禊祓をしているのです。

 言霊アの自覚によって生れ出た赤ん坊の如き貴方が、その赤ん坊の心である和久産巣日の神の心(天津菅麻音図)のままに貴方御自身という伊耶那岐の大神という宇宙身となり、習いおぼえた五十音言霊原理(建御雷の男の神)を衝立つ船戸の神と掲げ斎き立て、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に立って、自分が生れた時から積み上げてきた経験知識を黄泉国所産の文化として、「吾はいな醜(しこ)め醜めき穢(きたな)き国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の祓(はら)へせん」と貴方御自身の生命の総結論の自覚に向って禊祓の行を実行することとなります。

 御自身の生命の自覚は、御自身の経験知識が言霊五十音図の中に祭られた瞬間、闇の言葉が光の言葉(霊葉[ひば])に変った瞬間に完成する事となります。一人の人間が自分自身の生命の実相を見る事が出来る唯一の時であります。

 この時、その人が自覚する人類文明創造の手順はア・タカマハラナヤサ・ワとなります。主体ばかりでなく客体の実相を知り、更にその将来を規定することが出来る人類に与えられた最高究極の性能に到達します。

 御自身の禊祓の完了の時、それは全世界人類の禊祓の開始の時でもあります。

(終り)