「言霊学について」 <第百八十八号>平成十六年二月号
 人間の心の先天構造は五つの母音、四つの半母音、八つの父韻計十七の言霊で構成されています。今回は母音オとエ、半母音ヲとヱ、父韻チイキミシリヒニ、更に母音イと半母音ヰについて解説をします。

 初め宇宙の一点、即ち今、此処に何かが起ろうという気配が起りました。気配ですから、それが何であるかは勿論分りません。その人間の五官感覚の動きの気配に言霊学は言霊ウと名付けました。これを説明する漢字を捜しますと、有(う)、生(う)まれる、動(うご)く、浮(う)く、蠢(うごめ)く……等があります。この言霊ウはやがて人間の自我意識に生長して行くものでもありますが、今説明した兆しの処では全くそれが何であるかは分りません。

 この意識の始まりの兆(きざし)に別の何かの思考、例えば「これは何か」等の疑問等が加わりますと、この言霊ウの宇宙は瞬時に言霊アとワに分れます。アは主体であり、我であります。それに対してワは客体であり、汝であり、または何かの物でもあります。人間の何らかの思考が加わると、言霊ウは瞬時に主体アと客体ワに分れます。この様に人間の心の中で人間精神の根源宇宙が他の二つの宇宙に分れる事を宇宙剖判と言います。意識のウが主体であるアと客体であるワの宇宙に剖判することによって人間はその客体が何であるか、の認識が可能となります。剖れるから分る、のです。これが人間の認識の絶対条件であり、人間生命の宿命と言う事が出来ましょう。

 仏教の禅では、この言霊ウが主と客であるアとワに分れる以前、主客未剖の時を一枚と言い、主体と客体に分かれた時を二枚と呼んで区別しています。また中国の古書「老子」では「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」と数理で示しています。人間の心の先天構造(五官感覚では捉えることが出来ない根源領域)の中のこの言霊ウアワの三つの宇宙の消息は、言われただけでは当り前ともとれる動きでありますが、実は人間の心の営みはこの三つの言霊の自覚の如何によって重大な問題が浮かび上がって来るのでありますが、これに関しての解説は後の機会に譲ることといたします。

 心の先天領域内で言霊ウの宇宙が言霊アとワに分かれました。さて次に何が起るのでしょうか。宇宙剖判は更に続きます。言霊アから言霊オとエが、言霊ワから言霊ヲとヱが剖判します。これを図に示すと次の様になります。言霊オは経験知識を求める主体、言霊ヲはその客体であり、またその内容知識そのものです。言霊エは選択する英智の主体であり、言霊ヱはその客体、またはその内容の道徳という事であります。古事記では言霊エを国常立神(くにのとこたちのかみ)、言霊ヱを豊雲野神(とよくもののかみ)、言霊オを天常立神(あめのとこたちのかみ)、そして言霊ヲを宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)神という神名を当て、その実体である言霊の指月の指としているのであります。

 以上で母音ウアオエ、半母音ワヲヱの言霊が出揃いました。母音言霊はそれぞれ五官感覚に基づく欲望性能(ウ)、経験知性能(オ)、感情性能(ア)、選択英智性能(エ)がそこより現出して来る根源宇宙であります。また半母音言霊はそれぞれ経験知識性能の働きの対象となる客体の宇宙であり、言霊ワは感情性能の、言霊ヱは選択英智性能に対しての客体となる宇宙であります。それらの宇宙はそれぞれの性能エネルギーが充満してはいますが、それ自体では活動を起すこともなく、またそれ自体が現象となって現われることもありません。

 母音宇宙と半母音宇宙を結んで現象を起こす原動力となるものは、以前にお話しましたように、言霊イに属する八つの父韻チイキミシリヒニの言霊であります。これら八つの父韻が母音アと半母音ワの両宇宙を、同様にオとヲ、エとヱ、それにウとウの宇宙をそれぞれ結び、母音と半母音宇宙に感応同交を起し、現象の最小単位である子音言霊を生むこととなります。八つの父韻はそれぞれ特異の結び方をいたしますから、八通りの結び方でウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱの四次元の感応同交を起しますので、8×4=32で三十二個の現象子音を生む事となります。この結びを図に示しますと次のようになります。

 八つの父韻が母音と半母音、主体と客体を結び付けるという事は、八父韻のそれぞれが母音宇宙を刺激して半母音宇宙との間に現象の橋を懸け渡すこと、とも言えます。そこで例をエ段にとって見ると、チ×エ=チェ=テ、キ×エ=ケ、……の如く母音エと半母音ヱの間に現象子音テエケメセレヘネの八音が生まれ、エとヱの間の懸け橋が出来たという事になります。そこに生れる全部で三十二音の子音は心の現象の最小単位を表わしているという事が出来ます。

 上の如くウオアエの四母音宇宙を刺激して最小現象単位である子音を生む原動力である八つの父韻は人間生命の最奥に於て一切の精神現象を生む原動力であり、根本智性という事が出来ます。古代ドイツ哲学はこの根本智性の事をFUNKEと呼びました。智性の火花という意味でありましよう。儒教では乾兌離震巽坎艮坤(けんだつりしんせんかんこんこん)の八卦で表わし、仏教では八正道の行為として説明し、キリスト教では「我(神)わが虹を雲の内に起さん。是我と世(人間)との間の契約の徴なるべし」(創世記九章)という神の言葉で黙示しています。すべては八つの父韻の指月の指に当ります。

 ではすべての心の現象の原動力である八つの父韻はそれぞれどんな動きをするのでしょうか。心の最も奥にあって、ドイツ古代神秘哲学で「火花」と呼ばれた人間の根本智性の閃(ひらめ)きでありますから、これを表現するのは至難のことであります。またそれをうまく表現出来たとしても、矢張り「指月の指」の域を出るものではありません。最終的には自分自身の心で体得するより他はないのですが、此処では文章でお伝え出来る事を書くに留めます。

 父韻は八つあります。チイキミシリヒニの八韻です。しかしこの八つはチイ、キミ、シリ、ヒニの一組二個の四組に数えることが出来る動きなのです。どういう事かと言いますと、チとイ、キとミ、シとリ、ヒとニはどれも同じ動作の作用と反作用、陰と陽、妹背(いもせ)の関係にあります。例をあげますと、何かに結び付こうとする働きとは、逆に言えば何かに引っ張られている動きでもあります。この様にして八つの父韻は二つが一組となる四組の働きとして捉えることが出来ます。

 古事記の神話ではこの八父韻をどの様に黙示しているのでしょうか。次にそれを掲げます。
  チ・宇比地邇(うひぢに)神
  イ・須比智邇(すひぢに)神
  キ・角杙(つのぐひ)神
  ミ・生杙(いくぐひ)神
  シ・大斗能地(おほとのぢ)神
  リ・大戸乃弁(おほとのべ)神
  ヒ・淤母陀琉(おもだる)神
  ニ・阿夜訶志古泥(あやかしこね)神

 上の父韻を指示する古事記の神名から実体である父韻を把握することは殆(ほと)んど不可能に近いと言う事が出来ます。けれど不可能で済まされる問題ではありません。そこが先輩各位の苦心の存する処であります。次に私の言霊学の師、小笠原孝次氏と、そのまた師であった山腰明将氏との二先輩の八父韻についての指摘を紹介する事とします。

 ではこれらの先輩達は八父韻を示す古事記の神名から如何にして図に示されたような内容に到達することが出来たのでしょうか。それは八父韻を示す指月の指としての古事記神名から想像、推察して行ったのではなく、人間の精神現象の奥にその現象の原動力となる八つの父韻が働く事を知り、その上で言霊学を樹立して行く過程の中で自分自身の心の動きを見詰めて行き、そこに直観される心の火花と思えるものを假説として設定し、更に現実の心の現象として現われる行為がその假定に対応しているか、否か、という作業を続けて行った結果として得られたものを発表したに相違ありません。そしてその結論に達した時、改めて出発点となすべき古事記の神名を見ると、その神名が如何に父韻の実態とピッタリであるか、が分るのであります。かくして父韻についての検討結果の妥当性が証明される事となります。

 私も上の手法に従って、言霊学実践の立場から八つの父韻の実態の究明を試みました。二十数年前の事であります。その結果、人間の心の本体である宇宙そのものの中から起って来る「自我の日常の行動」という立場に立って八父韻の閃(ひらめ)きを見つめて行った結果、父韻のそれぞれの動きを図形に表現する事が出来たのでした。その表現を基として人間の各次元の行動、また言霊原理によって作られた日本語が示す実相と符号する事が分かりました。その為、この方法によって確かめられました父韻の図形とその説明を書籍「古事記と言霊」の父韻の章(33〜40頁)に載せたのであります。此処では余りに長くなりますのでご紹介はまたの機会に譲ることとします。興味をお持ちの方は「古事記と言霊」をお読み下さい。

 言霊の学問が歴史創造の方便のためにこの世の中の表面から隠されてしまってから約二千年間、日本皇室の奥深く、また伊勢神宮の正殿に秘中の秘として言霊の原理は隠匿、保存されて来たのであります。この原理の中でも特に今説明しています八父韻と、その原動力によって生まれて来ます現象の最小単位である子音言霊につきましては、その実態についての記述は古事記・日本書紀の神話の黙示以外何一つないのであります。今その実態がこの文章によって説明が行われ、それを人の自覚という形で世に出る事になれば、ここ数千年にわたる人類の弱肉強食の生存競争の暗黒は跡形なく払拭され、人類の光明世界が実現する事は間違いない所であります。八父韻と三十二の子音言霊は人の世の光であり、光が点れば暗は瞬時に消え去るでありましょう。言霊の学問に興味を持たれた方の一日も早くその自覚に立たれる日の到来が望まれるのであります。

 言霊父韻の話はこれ位にして、古事記の神話では、人間の心の先天構造の中で最後に登場して来る母音イ言霊、半母音ヰ言霊の話に進むこととしましょう。

 古事記の神話は言霊イの指月の指として伊耶那岐(いざなぎ)の神を、言霊ヰに対して伊耶那美(いざなみ)の神の名を当てております。言霊イは言霊エアオウを縁の下の力持ちの如く下支えし、統轄し、同時に八つの父韻となって言霊エアオウの宇宙を刺激して現象子音を生みます。右の如く言霊イ(ヰ)は母音(半母音)であると同時に父韻ともなりますので、五母音(半母音)の中でも特に親音と呼ぶ事があります。

 心の先天構造は十七の言霊で構成されています。その十七言霊の中で、八つの父韻が出揃ったことで四つの母音ウオアエと三つの半母音ヲワヱ、それに八つの父韻合計十五個の先天言霊が現われました。そこで残るは二つの言霊イ、ヰ(伊耶那岐の神、伊耶那美の神)です。この二言霊(二神)の登場で先天言霊はすべて出揃い、そこで「いざ」と先天構造の活動が始まり、後天の現象子音が創生されます。古事記はこの間の消息を巧妙に捉えて、言霊イ、ヰを示す神名に伊耶那岐・美の神の名を採用しました。

 昔、「去来」と書いて「いざ」と読みました。また「去来」と書いて「こころ」とも読んだのです。先天構造を構成する十七言霊が出揃う十六番目と十七番目の言霊イとヰが現われて、「いざ」と後天子音の創造に取りかかる神名に心(いざ)の名の気、心(いざ)の名の身という尤もらしい名をつけた神を当てたのです。勿論心の名とは言霊の事であります。

 先に言霊イとヰは母音(半母音)であると同時に父韻の働きを持ち、その為に親音とも呼ぶとお話しました。母音であること、次に父韻の働きを展開させること、の二つの働きがあると申しました。更に言霊イとヰはもう一つ重要な働きをする事をお話しましょう。それは言霊イとヰは、その活動によって生まれて来る現象に対して「名を付ける」という働きがあるという事です。

 いろいろな現象が起っても、それに名がなければ、それが何であるか分りません。実に名とはその現象の実態であり、内容でもあります。その名を与えることは言霊イとヰの第三の重要な働きであるのです。伊耶那岐・伊耶那美が心の名の気、心の名の身と言いましたのも、その事をよく表現しているではありませんか。

 人の心は五次元の性能宇宙を住家としていますが、そのウオアエイ五次元宇宙の中の言霊イの宇宙に五十音言霊は存在しているのです。全宇宙の中には種々雑多な無数の現象が起りますが、ひと度眼を言霊イの次元に移して見るならば、そこにはたった五十個の言霊しか存在していない事を知ることになります。私達日本人が日常使っている日本語とは、これ等五十個の言霊を結び合わせる事によって、一切の現象の実態、実相を表現した言葉なのです。

 ひと度言霊を組合せた言葉で出来事を表現するならば、その名は出来事の実相を百パーセント表現していて、その他に注釈や解釈を必要としない世界で唯一つの言語であります。古代の日本は「言霊の幸倍(さちは)う国」と呼ばれました。また「惟神言挙(かむながらことあ)げせぬ国」とも言いました。「言挙げ」とは概念的な解釈という意味であります。真実・実相を表現する言葉であるから、それに関する解釈の必要はない、という意味なのであります。

 以上、先天構造を形成する十七の言霊(四母音、三半母音、八父韻、二親音)を説明上の段階でまとめますと、次の如くになります。この先天構造図を天津磐境(あまついはさか)と呼びます。天津は先天、磐境は五葉坂(いはさか)の意で、五段階の言霊の階層という意味であります。昔の日本人はこの磐境の働きを雷鳴に譬えました。磐境はその稲光(いなびかり)であり、稲光が光れば、神鳴り(言語)が響(ひび)く、という訳です。また稲光りとはイの名(言霊)の光の意であります。

 以上で言霊学に於ける人間の心の先天構造の解説を終ります。また言霊の学び(コトタマノマナビ)の原理的な解説も一応これで終了し、次回からは言霊学から見た社会の種々層を列挙して、皆様に興味深い話題を提供して参りたいと思います。乞う、御期待であります。

(この項終り)

 

 天津磐境

 言霊ウに始まり、言霊イ・ヰに終る五段階の心の先天構造を天津磐境(あまついはさか)といいます。五官感覚で捉え得る人間の精神現象が起る以前の、その精神現象が起る原動力となる人間精神の先天構造の事であります。この天津磐境の構造については幾度となく解説をして来ました。大方の御理解は得られたと思います。そこで今回はその天津磐境について、若しかしたらお気付きになっていないのではないか、と思われる事についてお話を申上げる事といたします。

 古事記の神話は天津磐境の先天構造を種々の神名を以て述べる時、天の御中主の神(ウ)に始まり、伊耶那岐の神・伊耶那美の神の二神に到る五段階の構造として説いています。そこで解説する私もその順序に従って解説をして来ました。でありますから、聞いて下さる方々は、心の先天構造は天の御中主の神(言霊ウ)に始まり、伊耶那岐・美二神(イ・ヰ)に終る五段階の構造が天津磐境といわれる心の先天構造の決定版であり、これ以外の構造はなく、現象の原動力である先天構造内では常にウに始まり、アワ、オエヲヱ、チイキミシリヒニ、イヰの順序で動き出すのだ、と思っていらっしゃるのではないか、と思うのですが、如何でありましょうか。

 実はそうではないのです。古事記神話に述べられた先天構造の記述の順序とは全く違う順序の構造図もあるのです。「古事記と言霊」の286頁をご覧下さい。上段に古事記の記述の順序による先天構造図が掲げられており、下段には日本書紀の記述に基づいた先天構造図が載っています。それは言霊イ・ヰで始まり、最下段が言霊ウヲワヱで終わる先天図であります。どちらかが正しく、どちらかが誤りである、と思われるかも知れません。けれどどちらも正しいのです。奇妙に思われるかも知れません。けれど真実なのです。どうしてそんな事が起こるのでしょうか。その答は唯一つ、「先天構造内に於て先天十七言霊は同時存在なのです」という事であります。同時存在のものが同時に動くのでありますから、その記述の目的、用途によって如何ようにも順序を変えて記述や解説が出来るという事になります。

 日本書紀の文章の冒頭の記述に基づく十七言霊の順を掲げてみましょう。それは明らかに古事記の天津磐境の言霊の順序がまるで逆転したかの如く見えます。古事記の先天図がその先天構造の内容を説明する為に都合がよい様に配列したのに対し、日本書紀に於いては、天津磐境の内容を既に理解した人が言霊原理に則(のっと)り政治を行う為政者の行動の心を示したものなのです。古事記の先天図は言霊学の学習のための図形であり、日本書紀のそれは言霊学の学習を終えた人の実際活動の図形と言う事が出来ましょう。古事記が天の御中主の神より書き始めるにの対し、日本書紀は国常立の尊(みこと)から始まっている事がその間の消息をよく物語っていると言えます。以上挙げました二例の他に、その用法・用途に従って種々の先天図を画く事が出来ましょう。人間の心の先天構造とその活動によって現われる言霊ウオアエの次元の現象との関係の法則を熟知するならば、その時々に適した先天図が考えられる事となります。

 記と紀の先天図の相違を更に考えてみましょう。古事記はその先天図を母音宇宙から説き出しています。それに対し書紀では父韻から書き出します。その相違と意義に気付いた時、先師小笠原孝次氏はこの事を「言霊学に於けるコペルニクス的転換」と呼んだのでした。コペルニクスはそれまでキリスト教が称える「地球の周りを太陽が廻る」という当時の常識を覆し、「太陽の周りを地球が廻るのだ」という事実を発見し、発表した事で有名な人です。先師は言霊学の研究に於て、天文学に於ける認識の転換と同様な重大な意義に気付いて、そう呼んだに違いありません。では先師が言霊学に於けるコペルニクス的転換と呼ばれる事実とは何であったのでしょうか。

 日本書紀の冒頭の文章とこの解説である先師の文章を引用することにしましょう。
 「天地未だ剖(わか)れず、陰陽(めを)分れざるとき、渾沌(もろがれ)たること鶏子(とりのこ)の如く、溟A(くくも)りて牙(きざし)を含めり。時に一物生(な)れり、状(かたち)葦牙(あしかび)の如し、便(すなは)ち化為りませる神を国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号(まを)す。」
 「正に天地の始めは鶏の卵の如くである。その渾沌の始原宇宙(至大天球、全大宇宙)の中に森羅万象が生れて来る牙(きざし)が含まれている。葦の芽は河原の粘土の中から牙(きば)の様に伸びて来る。この葦の芽の如きものを国常立神と云う。宇宙の国(組邇[くに])である森羅万象が生まれて来る根源の兆(きざし)としてのエネルギーの発現であり、生命意志の始原の発露である。……日本書紀は、宇宙の始めを生命の兆である国常立(父韻)から説き始め、古事記はその兆が育って行く母体(母音)から説いている。両者はどちらが前、後ということのない同時的存在である。……神聖すなわち人間の生命意志が知性を駆使しての活動によって唯一渾沌の宇宙の剖判が開始される。」

 先師の文章は厳正で難解であります。古事記の天津磐境の先天図に帰って、先師の文章の目的を説明しましょう。古事記は「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神。……」とあり、広い広い宇宙の一点に意識の芽の様なもの、しかし何であるかは分らないものがうごめき出します。これを言霊ウと名付けます。次に何か人間の思考が加わる瞬間に言霊ウの宇宙は言霊アとワの宇宙に剖判する、と説明しました。この「何か人間の思考が加わる」という言葉が曖昧なものでありますので、これを読む人の意識は大自然である宇宙の剖判の方に向いてしまい、人間の意志や意識には注目されませんでした。その為に、言霊ア、ワからオエ、ヲヱ、チイキミシリヒニ、イヰと続く宇宙剖判の原動力が曖昧なものになってしまう事となります。先師はその事に劇的に気付かれたのです。時は昭和五十三年立春の朝、朝餉の膳に「立春立卵」のお祭をした時であったと聞いています。(立春立卵の行事については会報19号参照)再び先師の文章を引用します。

 「立春の朝の啓示(直観)は驚異であった。今までまだ漠然とその存在と意義を予想していただけだった父韻が、明瞭にその姿と存在場所を顕わして呉れた。今まで現象と共に若しくは現象の中にあって蠢いている如く見えていた父韻が生命内部の核(ニュークレアス)としてその位置を確立した。自分にとって正にコペルニクス的転換である。古い天動説を地動説に変えたのがコペルニクスであったが、造物主を天界に在る架空の神と考える宗教的には「天に在します我等の父よ」という主の祈りにその場所を示されていた天動説が、そして電子が陽子の外側にいてこれを取巻いている如く考えていた物理学的天動説が、再び逆に自己生命の中心に置き戻された地動説、内動説に転換した形である。生命意志は宇宙万物の、そして人類文明の創造者、造物主である。その生命意志を把持運営する者は架空に信仰される神ではなく人間そのものである。これを国常立命という。国は即ち地である。予言の時が来て立春(節分)に国常立命が正に世界に出現した想いである。国常立命は人間自身の中から現われて来た。」

 最後に鶏子(とりのこ)(卵)の宇宙剖判図を載せましょう。(小笠原孝次著「言霊開眼」より引用)。言霊ウから剖判した言霊アとワを結んで現象を生せしめるのは、生命意志(言霊イ)の働きである八父韻であります。それと共にウからアとワに宇宙剖判を起こさせるのも生命意志なのです。この事によって人それ自体が宇宙の中に於て、宇宙的な文明を創造する造物主、創造主神なのである事を明らかに知る事が出来ます。

(終り)