謹賀新年「言霊学について」 <第百八十七号>平成十六年一月号
 前号より人間精神の究極の原理である言霊学について解説を始めました。言霊学とは人の心を構成する究極の要素である五十個の言霊と、その五十個の言霊の典型的な五十通りの動き、計百の原理についての学問であります。前号ではその五十個の言霊の中の五つの母音(ウオアエイ)で表わされる五つの人間の根本性能の内容と、その五つの性能の心の領域が互に重畳する次元構造を成している事をお話しました。御理解頂けた事と思います。

 今回は心を構成する半母音ウヲワヱヰと言霊学で父韻と呼ばれるキシチヒミリイニの八音で示される先天構造の言霊について解説をいたします。人間の心の先天構造(五官感覚では捕捉することが出来ない領域)は先にお話しました五母音と、今回解説します四半母音(ウは母音と重複)と八つの父韻、計十七言霊ですべてであります。

 先ず半母音ウヲワヱヰの解説から始めます。先にお話しましたウオアエイの五母音は、それぞれ言霊ウは五官感覚に基づく欲望、言霊オは経験知、言霊アは感情、言霊エは実践選択智、言霊イは生命の創造意志の性能でありました。心の性能が活動を起す時、物事は活動の主体(私)と客体(貴方)に分れます。「何かな」と思う時は、思う方(主体)と思われる方(客体)の関係が出て来ます。人間が何か心の活動を始めると、必ず主体と客体という関係が生じます。これが人間の心の宿命とも言えます。主体と客体という関係に「分れる」から、それが何であるかが「分る」のです。この関係となる時、心の活動の主体となる方が母音で表わされ、客体となる方が半母音で表わされます。主体アに対する客体はワ、主体オに対する客体はヲ……という訳です。

 母音言霊と半母音言霊との関係をもう少し説明しましょう。母音言霊は物事の主体であり、能動であり、始めであります。それに対し半母音言霊は物事の客体であり、受動であり、終りであります。これを例えば言霊オとヲで説明しましょう。言霊オは経験知識を求める性能です。そして知識を求める主体であり、求められる知識が客体の言霊ヲという事になります。また求めた結果として成立した知識は記憶となって言霊ヲの性能領域に保存されます。

 言霊オの経験知を求める主体は、何か一見分らないものに遭遇した時、先ず言霊ヲの領域に同じものの記憶がないか、を尋ね、あればその記憶で物事の用を達し、見つからぬ場合は新たに経験知を求める活動が開始されます。言霊オは主体、言霊ヲは客体でありますから、言霊ヲの客体は言霊オの主体が尋ねる内容にだけ答え、それ以外には反応しない、という事になります。以上言霊オとヲを例にとって主体と客体との関係を説明しましたが、他の性能領域についてもすべて同じ事が言い得るのであります。

 今まで取上げて来ました言霊の母音と半母音は人間が生まれた時から授かっている性能とその領域であります。それは謂わば大自然の一員としての人間に与えられたものであり、それ自体が自然の一部をなしている自然のものであります。その大自然である母音と半母音が、ある時ウとウ、オとヲ、アとワ、エとヱ、更にイとヰという主体と客体として結ばれ、母音と半母音の間に何かの活動が起り、言霊ウから五官感覚に基づく欲望活動が起り、その活動から社会的に各種の産業・経済社会が生まれて来ます。また同様にオとヲの間の交渉から経験知が生れ、ひいては一般の学問や物質科学が発達して来たり、アとワの交渉から人間の感情が、ひいては宗教・芸術の社会が生れ、エとヱの交渉から実践英智が、ひいては政治や社会道徳活動となって現われて来る、言い換えますと、母音と半母音という人間の心の大自然の交渉から何故、産業・経済、学問や物質科学、宗教・芸術、道徳や政治という如何に考えても人間の文化活動と考えられる現象が生れて来るのでありましょうか。

 大自然現象から文化活動が生れて来る原因は何なのでしょうか。その任を担う人間の心の中のものがあるに違いありません。その働きをするもの、として登場するのが言霊イとヰの間に展開するチキシヒイミリニの八つの父韻なのであります。これを示す為に先のホームページに掲げました図形を再度示します。

 ウオアエイ五母音の性能領域はそれぞれの性能エネルギーが充満していますが、それ自体では活動を起す事はありません。しかし図上の一番上のイ言霊だけは違います。言霊イの生命意志は大自然の性能でありながら、一方、人間生命の根本智性であるチキシヒイミリニの八つの父韻の働きとなって他の四つのウオアエ四母音性能に働きかけ、そのそれぞれの母音性能から独特の現象を生じさせる役目を果たします。もっと正確に表現しますと、言霊イの働きである八つの父韻は言霊ウとウ、オとヲ、アとワ、エとヱの言霊領域に働いてその二つを結びつけ、感応同交を起させる活動をする、という事であります。

 そうなりますと八つの父韻がウとウ、オとヲ、アとワ、エとヱの四次元に働きかけて心の現象(出来事)を生む事となりますから、8×4=32で合計三十二個の現象の最小単位である子音を生みます。先天構造の母音、半母音、父韻十七言霊が活動を起し、三十二の後天構造の子音が生れます。十七の先天言霊、三十二の後天言霊、計四十九個、それにこれ等四十九個の言霊を神代文字で書き表わした麻邇名一を加え、総合計五十個の言霊が出揃います。この五十個の言霊が人間の心を構成する言霊のすべてであり、これ以下でも、これ以上でもないのであります。

 先の五母音言霊の説明の所で書いたことですが、言霊イの生命意志性能はそれ自体は現象としては姿を現わす事なく、他の四母音言霊を縁の下の力持ちの如く下支えし、統轄します。この「下支え……」の活動とは、実はここに説明しました言霊イの実際の働きである八つの父韻が他の四組の母音・半母音、ウウ、オヲ、アワ、エヱのそれぞれに働きかけて結びつけ、現象子音を生む活動の事を言ったのであります。それ故言霊イとヰは大自然性能として母音(半母音)であると同時に、その実際の働きである父韻でもあります。母であり、同時に父でもあるものとして言霊イとヰを「親音」と呼ぶ事もあります。五十音言霊学の唯一の教科書である古事記の上巻(うえつまき)ではこの言霊イ(ヰ)に当る神名を伊耶那岐の神(伊耶那美の神)と呼び、神道を基盤とした宗教団体ではこの神の事を最高神または創造主神などと呼んで敬意を払っているのであります。

 五官感覚では決して捉えることが出来ない人間精神の先天構造についてお話をして来ました。心の先天構造は五母音、四半母音、八父韻、合計十七の言霊によって構成されています。短い、簡単な説明ではありますが、概略は御理解頂けたのではないかと思います。勿論話の内容に不備のある事は著者自身承知しております。例をあげますと、第一に四母音オアエイに半母音ヲワヱヰが書かれているのに、ウにだけは何故半母音を書かないのか、第二として心の先天構造として五官感覚で捉えられないものをどうして分ったと言い得るのか、第三の疑問として、それ故にここに主張されている人間の心の先天構造説は飽くまで仮説に過ぎないのではないのか……等々でありましょう。

 けれど二回にわたりお話しました「言霊学とは」の内容は膨大な体系を持つ言霊学のホンのさわりの所に過ぎません。言霊学の全体の体系をお知り下されば疑問は自ら氷解する事請け合いとなります。でありますから、それ等の疑問の解明は後に廻し、ここに心の先天構造の解説には欠かせない重要な事柄を一つ加えさせて頂きます。

 物事はひと度現象となって現われてしまえば何時、何処の出来事かは決定します。この事は間違いなく言える事です。しかし今このホームページで取り上げている課題は人間の五官感覚では捕捉することが出来ない、それ以前の心の先天構造についての問題です。人間には生来五つの心の根本性能が授かっていると申しました。ではそれ等の根本性能は心の何処にあるのでしょうか。普通現代人はそれ等の性能は頭脳内の組織の中に生来備わっている、と考えています。けれどそれは、精神性能を取扱っている肉体の器官の事であって、心そのものではありません。

 眼を上げて眼前に展開している大空を眺めてみましょう。そこには果てしなく広がる大きな宇宙があります。星の中には地球から何百万光年という人間の常識的な思惟を超えるような遠い星もあるそうです。今度は眼を閉じて心の内に意識を向けてみて下さい。そこには外の宇宙と変らぬ心の広がりがある事に気付くでしょう。この広い領域には外界の宇宙の中の星の数と少しも劣らぬ心の現象が起っては消えています。この領域は正しく外界の宇宙と対称的な心の宇宙という事が出来ます。

 私達誰もが見上げる宇宙が誰にも共通な一つの宇宙であるように、私たちが意識を内に向けて認識する心の宇宙も共有・共通の一つ心の宇宙なのです。そして重要な事は、私達人間誰しもが授かっている五つの言霊ウオアエイの性能がこの宇宙から発現して来るという事です。人間の心の先天構造とは、この心の宇宙それ自体の性能の事なのです。それ故、私達の心の宇宙はウオアエイ五次元の重畳構造を持っているという事が出来ます。……人間の心の本体は、即ち先天構造は宇宙そのものなのです。従来人は神の子であると謂われる所以です。

(この項終り)

 上の文章は人間精神の先天構造を従来の説明とは少々角度を変えた立場から解説をしたものです。今まで既に言霊学の話を聞いて下さっている方にもいささかなりとも御参考になれば幸いであります。五母音、四半母音、八父韻、計十七音の言霊から構成されている精神の先天構造は人間の五官感覚では全く触れる事が出来ない領域にあるものですから、その解説は何度お話しましてもそのものズバリとは行かず、何時も隔靴掻痒の感を免れないものでありました。そこで先天構造の話をする時には「五官感覚では捉え得ない、人間の意識以前の領域のお話をするのですから、分る、分らないは兎も角、先ずそのようになっているのか、とそのまま覚えておいて下さい。

 言霊の話が進んで行くにつれて次第に初めの先天構造の細部が理解されて来るようになります」という風にお話して来たのであります。事実、先天構造から後天構造に話が進み、言霊学の全貌が理解されて来ますと、先天構造の内容も直観的に「成程」と以前丸覚えしたものが一つ一つ納得が行く様になります。でありますから問題はないのですが、解説をさせて頂く側から申しますと、初めに先天構造をお話する時に、もう少し理解度を高めれば、これに越した事はないと言う事で、ここに古事記冒頭の文章「天地の初発の時」からの解説を始める事といたします。

 「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神。」と古事記の文章は始まります。この「天地」を私達の眼前に展開している外界の宇宙と考えますと、(これが現代人には最も常識的な考え方なのですが)古事記は最も幼稚な、私たちの実生活とはほとんど無関係の神様の物語となってしまいます。そこで何時の解説でも「天地」とは私達の心の住家である心の宇宙の事を言っているのだ、という事を強調して来ました。

 この事はここ二千年間、公(おおやけ)の立場では決して言及された事のない事柄であったのですが、ひと度公表されてしまいますと、案外簡単に理解されるものであります。この「天地」を心の宇宙の事だ、と素直に受け止めるか、否かで、その人がこの人類の新時代建設に縁があるか、ないか、が決まってしまうと言っても過言ではない重大な事であるのですが……。ところが、次の「天地の初発の時」となりますと、その理解は簡単には行かなくなります。今回の解説は先ずこの事から始めます。

 天地の初発の時と言えば心の宇宙の中に何かが始まろうとする時ということです。そしてそれは今・此処でなければなりません。今・此処を続日本紀という本では中今と呼んでいます。実に素晴らしい表現だと思います。言霊イの創造意志が活動をする一瞬、イの間で今です。言霊イの次元に存在する五十音言霊が活動するのはこの今・此処であって、これ以外では決してありません。人間はこの今、今、今に生きています。これを「永遠の今」と言います。「あゝ、そうなんだ」と理論的に納得することは簡単です。けれど自分自身の心で、生きている自分の生命意志(言霊イ)が何かをしようとする瞬間、瞬間を捉えられますか、と尋ねられたら、「はい」と答え得る人は何人いるでしょうか。

 「初めから面倒臭い話をして何になるんだ」と思われるかも知れません。けれどこれは面倒臭い事を提起しているのではありません。面倒臭くならない為に申上げているのです。というのは古事記の次の文章に関って来るからです。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神」の所です。天の御中主の神という神名が問題なのです。「宇宙(天)の中心にいて(御中)主人公である(主)神」という内容です。これも「あゝ、そういう神がいるのか」で済ませてしまえば簡単です。しかしそうなると古事記の話は終りまで「そうなのか」で済んでしまう事になるでしょう。

 古事記の学問が自分の外にある「それ」の学問ではなく、自分の内なる心、自分が現実にこの世に生きている自分の心の成り立ちとその活動についての学問である事にご留意下さい。という事は、古事記神話の学問はそれを読んだ人が御自分自身の心で、そこに書かれている内容を真理だと証明する事、その事が古事記の学問、即ち言霊学なのです。

 「天地の初発の時」が自分の心の中にしっかりと把握されませんと、それに続く「天の御中主の神」なる神名の意味も曖昧になります。天地の初発の時がお分りになると、天の御中主の神という神名が持つ心の内容が目の前に置かれた鉛筆や消しゴムを見るように現実そのものとして理解されて来ます。と同時にその神名が言霊ウであること、言霊ウ以外では有り得ない事も必然的に分って来ます。と同時に人間の心の先天構造の中の母音ウオアエイの中の言霊ウだけが他の母音オアエイとは違い、相対する半母音を持たない事も自明の理として了解されて来ることとなります。

 今・此処をはっきりと把握し、自覚するにはどうしたらよいのでしょう。今までこの課題については幾度となくお話して来ましたが、ここで簡単に触れることにしましょう。ここ二・三千年間、人類文明創造の御経綸の下、儒教・仏教・キリスト教・マホメット教という四大宗教が創始されました。その教義の主たる目的はいずれも「今・此処」の把握であると言って過言ではありません。正像末三千年の経過を経て、現代は末法のドン詰まりの時です。伝統の正法を説く宗教は極めて希となっています。けれど各宗教創設以来、決して間違いないものがどの宗教にも一つ残っています。それは経文であり、聖書です。これ等千年、二千年前から私たちに遺された教えに則って、御自分の心を見極めて行く事です。くれぐれも御自分自身の独自なやり方でおやりにならぬ事です。迷路に陥る事となります。迷ったら、分っている人に尋ねる事です。その途上、心の内に種々の工夫が必要となる時もありましょう。その時折の「工夫」は言霊学の細部を確かめる時にも大層役に立ちますから、勇気をお持ちになってお進み下さい。

 そしてどの過程を辿るにしても、最後の決め手は「有難い」という言葉です。自分がこの世に生きているという事実がとても考えられない程不思議な事であり、有り得ないことが有り得ている事の有難さに気付く事です。有り得ない事が有り得ている事、そしてそのドラマの主人公が自分自身なのだと知る時、ケシ粒の如く小さな自分が、ケシ粒の如く小さいが故に、広い広い宇宙の中心にいて、世界文明創造の主体となり、全宇宙に命という光を放射し、客体である半母音の宇宙が惜しげもなく応答して呉れている世の中の実相を知る事が出来ます。眼前の現実が実は光、光、光の錯綜する天国であり、極楽世界である事が分るのです。

 天の御中主の神に続く古事記の文章に進みましょう。「次に高御産巣日の神(言霊ア)。次に神産巣日の神(言霊ワ)。」です。実は天の御中主の神の所で書きました「有り得ない事が有り得ている有難さ」を実感するのはこの高御産巣日の神、神産巣日の神の二神を加え、天の御中主の神と共に三神となった時、言い換えますと、人がこの三神についての自覚が成立した時に感じる心の現象なのです。天の御中主の神とは広い宇宙の中の一点に何か知らないが意識の芽とも言うべきものが動き出そうとする時、その意識の芽とも言うべきものに名付けられた神名です。ですから天の御中主の神だけでは説明不可能なのです。言える事は「広い宇宙の中に何かが始まる兆」に過ぎません。

 それが何であるか、全く分らない状態です。どうして分らないのか。それは唯一つ何かがある、というだけの物事の初めなのです。その次に何かの思考が加わると同時に言霊ウの宇宙が即座に言霊アとワの二つの宇宙に分かれます。この事を宇宙剖判と言います。言霊ウは言霊アと言霊ワに分かれます。言霊アは主体であり、言霊ワは客体です。何かの思考が加わると同時に言霊ウという一者が言霊アとワの二者に分かれます。分れるから分る、これが人間の思考の宿命です。

 天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神を造化三神と呼びます。これ等三神、言霊ウアワは人間及び人間社会の営みのすべての認識の出発点なのです。前にお話しましたように、人が自らをケシ粒の如く小さい者と主体的に自覚するのも(言霊ア)、またその小さい者が主体性を持って疑問という光を客体(言霊ワ)に向って放射し、それによって世界文明の創造の一翼を担うのも、その自覚の基盤はこのウ、ア、ワの造化三神の自覚の現われなのです。この三神の自覚によって、人はその平々凡々な自らの内容が、平々凡々そのままの姿で、文字通りの天の御中主の神という名の示す如く「宇宙の中心にいる文明創造の主人公、責任の分担者としての命」と生れ変るのであります。

 右の心の消息をお伝えするピッタリのエピソードがありますので、此処でご披露することとしましょう。三十年程も前の話です。私が先師小笠原孝次氏宅に伺った時のことです。師が「島田さん、こんな歌が出来ました。ご覧なさい」と言って一片の紙を渡されました。見ると和歌が書いてあります。声を出して詠んでみました。

 「よく見れば 彌陀が私に 掌を合わす 南無阿彌陀仏 南無阿彌陀仏」

 私は一瞬何の事だか分りませんでした。がそのうちに先生の真意が分る様な気がして来ました。その時、先生は静かに次の様な話をなさいました。「親鸞さんの歎異抄に『彌陀五劫思惟の願をよくく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり』とあります。私(先生)は生れてから今まで親不孝ばかりして、正直言って消えてなくなってしまいたい程恥ずかしく、拙ない人間です。けれど目を閉じると、私の側に阿彌陀様が坐って掌を合わせ、南無阿弥彌仏、南無阿弥彌仏と称名され、仏国土荘厳のため頼むよ、くと言葉をかけて下さるのです。

 それを聞いていると、こんな拙ない自分でもこの世に生かさせて頂いてる以上、阿彌陀様の願である理想の世界を作る仕事を命の限り力を尽して御恩報じをさせて頂こうという気になります。阿弥陀様は佛像で動く手足が有りません。私の如き凡夫でも手足があります。頼むよ、頼むよの声が全身に響き渡るのですよ。それはそれとして、先日法要で寺へ行きました折、和尚さんにこの紙を見せてしまいました。和尚さん、読むや否や、顔色が真っ青になって、『貴方は悪魔だ。もう寺には来てくれるな』と怒っていましたよ」と言って少々困った顔をなさいました。謹厳実直な先生にも、時々茶目っ気な所があります。先生の面目躍如という光景でありました。また次の様にも述懐された事がありました。

 「戦前の教育勅語に『朕惟うに我が皇祖皇宗国を肇めること高遠に、徳を樹つること深厚なり』とあります。覚えていますか。私は皇祖皇宗(日本人の遠い祖先)が私達に遺して下さった最も尊い教えであるアイウエオ五十音言霊布斗麻邇の学問を勉強させて頂き、人間の心の素晴らしい構造とその働きを自分の心で験証することが出来、またその学問によって日本国家樹立の崇高な理念と世界人類文明創造という荘厳な御経綸の筋道を知る事も出来、私自身のこの世の中に生れて来た使命にも気付かせて頂きました。この皇祖皇宗の慈愛、御教え、お導きが私という自堕落な人間をまるで側に付き添っている様に見守って下さります。皇祖皇宗の御教えと御経綸は、親鸞さんが言われた如く、他人のことはいざ知らず、まるで自分一人が為なりけりと思われます。生きている間、微力を尽して御恩報じに務めようと思います。」小笠原孝次先生の一生は誠にこの一事に尽きるのではなかろうか、と偲ぶ此の頃なのであります。

 何もない広い広い心の宇宙から造化三神が言霊ウアワと鳴り出す消息は、それが人間の意識以前の、先天構造内の事でありますので、そのものズバリの解説は難しいと言う他はありません。そこで自分の心でその消息を体験する時の言霊ウアワの感じ方を申上げる事によって表現することとなります。各宗教書にあります事も、その表現の仕方は千差万別でありますが、要は自分自身の実相を見る事から始まります。実相と申しますのは、自分の心を顧みて今・此処に於ける姿の事です。「こういう心の持主になりたい」とか、「あゝいう事は決してしない自分でいたい」とか願う自分ではなく、今・此処である現在の自分の心の姿をそのまま見ることです。憧れや後悔する自分ではなく、今・此処の裸の心の姿を見ることです。その姿が自分の実相です。実相を見ることが出来れば、自分という人間は偉くもなく、偉くなくもなく、平々凡々の自分であることに気付くはずです。

 それを見る事が出来れば、自分というものを憧れや後悔や経験知識の対象として見るのでなく、人間本来の宇宙の眼、言霊アの眼で見ている事となります。宇宙の眼で見ることが出来れば、平々凡々な自分はこの宇宙の中で誠に小さな存在、即ち一つの点として見ることとなりましょう。憧れ、悔やみ、経験知から見た自分から、宇宙の眼で見る一点の自分になる事、それは人間の生きながらの生まれ変わりの事件なのです。生まれ変わった小さな一点の自分は、小さいながらに、否、小さい存在であるからこそ、自分を生かして下さっている人間の根本智性の光を宇宙の中に放射し、その光の対象である客体からの応答を引き出し、その成果として人類文明創造に自主的、主体的、積極的な行動を取り得る人間となって生きて行く事となります。以上のような人間の生まれ変わった意識の内容として、先天構造内の言霊ウ・ア・ワの活動を自覚することが可能となるのであります。

 言霊ウアワの先天構造内の消息が験証されますと、先天構造内の次の構造要素の言霊の働きとその有機的活動の仕組は比較的容易に理解されて来ます。次に登場して来るのは、母音オエ、半母音ヲヱ、次に八つの父韻、最終的に親音イ・ヰという事になります。これらの言霊に造化三神の言霊ウアワを加えて先天構造は合計十七言霊の活動体でありますから、一度先天構造(これを天津磐境と謂います)が活動を開始しますと、換言しますと、一度神鳴りの稲光(イの名の光)が輝き出しますと同時に十七言霊は一瞬の今・此処で一斉に同時運動を起します。この間の消息は超大型高速コンピューターの構造とその働きを見るかの如き物語が展開することとなります。その解説は次号に譲ります。

(この項終り)