「古事記と言霊」講座 その二十 <第百七十九号>平成十五年五月号
 「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」と言って伊耶那岐の大神は中つ瀬に入って行って、禊祓を始めました。すると「瀬速し」と言った上つ瀬、言霊ア段の禊祓に於ける功罪が先ず分って来ました。言霊ア段に立って見ると、摂取する外国の文化の真実の姿はよく見る事が出来る。けれど言霊ア段に於て禊祓を実行することは性急すぎて適当でない事が分ったのです。これを確認したことを八十禍津日の神と言います。次に下つ瀬の言霊イ段の禊祓に於ける功と罪が明らかとなりました。言霊イに存在する言霊布斗麻邇の原理は禊祓の実行の基礎原理であって、欠く可からざるものではあるけれど、原理・原則ばかりを並べ立てて見ても禊祓を実行することは出来ない事も明らかとなりました。この確認を大禍津日の神と呼びます。

 以上の二点を見定めましたので、いよいよ伊耶那岐の大神は中つ瀬に入り、禊祓に適した人間の性能を探究し、神直毘、大直毘、伊豆能売の三神の働きを確認することになります。即ち中つ瀬のオ段に於て禊祓をすれば、確実に外国の学問、主義・主張等を摂取し、人類の知的財産として人類文明の中に所を得しめる事を予測したのです。この働きを神直毘の神と言います。次に中つ瀬のウ段に於て禊祓をしますと、世界各地で生産される物質、流通等の産業経済を人類全体の豊かな生活実現のために役立たせる事が可能であると予測出来ました。この働きを大直毘の神と呼びます。更に中つ瀬の言霊エの人間性能である実践智が禊祓に於て如何なる貢献を成し得るか、を検討し、その働きを伊豆能売(いづのめ)と言います。伊豆能売とは御稜威(みいず)の眼(め)の意です。御稜威とは人間の究極の生命原理活用の威力といった事であります。この言霊エ段に於て禊祓を実行する事によって全世界の一切の人間の生活の営みをコントロールして、人類生命の合目的性に叶う社会を造り上げる力がある事を予測した事になります。

 以上、中つ瀬のオウエの人間性能によって禊祓を実行すれば、外国文化を統合して世界人類文明の創造は可能である事が推測できました。伊耶那岐の大神の心中に掲げられました建御雷の男の神と呼ばれる主観内原理が、如何なる外国の文化に適用しても、それを摂取し、世界文明創造の糧として所を得しめる事が可能である目安が立った事になります。伊耶那岐の大神の主観内に於て組立てられた建御雷の男の神という言霊五十音図が、いよいよ全人類の文明創造の絶対的原理として、人類の歴史経綸の鏡として打ち樹てられるという言霊学の総結論に入る事となります。

 古事記の文章を先に進めます。
 
次に水底(みなそこ)に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見(そこつわたつみ)の神。次に底筒(そこつつ)の男(を)の命。中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。次に中筒の男の命。水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の神。次に上筒の男の命。

 水底
(みなそこ)に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見(そこつわたつみ)の神。

 伊耶那岐の命の天津菅麻(すがそ)音図の母音アオウエイのアを上つ瀬、イを下つ瀬としましたので、オウエが中つ瀬となります。そこで今度はオウエを区別するために中つ瀬の水底、水の中、水上の三つに分けたのであります。即ち水の底は言霊エ段、中は言霊ウ段、水の上は言霊オ段となります。そこで水底である言霊エ段に於いて禊祓を致しますと、底津綿津見の神が生まれました。底津とは底の港の意。言霊エの性能に於て禊祓をすると、外国の文化はエ段の初めの港、即ちエから始まり、最後に半母音ヱに於て世界文明に摂取されます。そうしますと、摂取されるべき外国文化の内容は底の津(港)から終りの津(港)に渡される事となります。綿(わた)とは渡(わた)す事です。すると底津綿津見の神とは、言霊エから始まり、言霊ヱに終る働きによって外国の文化は世界文明に摂取されるのだ、という事が明らかにされた(見)という意だと分ります。伊耶那岐の大神が心中に斎き立てた建御雷の男の神という音図の原理によれば、禊祓によって外国の文化を完全に摂取して所を得しめる事が可能だと分ったのです。

 次に底筒(そこつつ)の男(を)の命。
 衝立つ船戸の神の原理によれば禊祓は如何なる外国文化も摂取する事が可能であると分りました。とするならば、その初め、言霊エから始まり、言霊ヱまでにどんな現象が実際に起るのか、が検討され、明らかに現象子音の八つの言霊によって示される事が分ります。それはエ・テケメヘレネエセ・ヱの八つの子音の連続です。八つの子音は筒の如く繋がっていて、チャンネルの様であります。そこで下筒の男の命と呼ばれます。

 何故下筒の神と呼ばずに下筒の男の命と言うのか、について説明しましょう。神と言えば、働き又は原則という事となります。禊祓の場合、エとヱとの間に如何なる現象が起きるか、が八つの子音言霊の連続によって示されるという事は、生きた人間が禊祓をする時、その人間の心の内観によって心に焼きつく如くに知る事が出来る事です。そこで男の命(人)と呼ばれる訳であります。内観ではあっても、それは子音であり、厳然たる事実なのです。その事は禅宗「無門関」が空の悟りを「唖子の夢を得るが如く、只(た)だ自知することを許す」と表現するのと同様であります。

 
中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。
 中つ瀬の水の中と言うと言霊ウ段の事です。言霊ウの宇宙から現われ出る人間性能は五官感覚に基づく欲望性能であり、その性能が社会現象となったものが産業経済活動です。この性能次元で禊祓をすると、外国の経済産業活動から生産・流通して来る物質は極めて速やかに世界人類の生活に円滑に奉仕される事が明らかになったという事です。中津綿津見の神の最初の津とは言霊ウの働きがそこから始まる港のこと。次の津は言霊ウの働きがそこに於て終わって結果を出す港の意。中津綿津見の神の全部で、言霊ウの欲望性能で禊祓をすると、外国の産業経済活動が世界の経済機構に吸収され、その結果世界経済の中で所を得しめる働きがあることが証明された、の意となります。

 
次に中筒の男の命。
 では言霊ウ段に於ける禊祓がどういう経過を踏んで達成されるか、の言霊子音での表現が明らかとなった事であります。即ちウよりウに渡る間の現象を言霊子音で示しますと、ウ・ツクムフルヌユス・ウの八子音で表わすことが出来、この実相が心に焼きつく如く明らかに禊祓を実行する人の心中に内観されることとなります。

 
水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の神。
 中つ瀬の水の上は言霊オ段です。この母音宇宙から現出する人間性能は経験知です。この性能が社会的活動となると学問と呼ばれる領域が開けて来ます。この性能に於て禊祓をしますと、上津綿津見の神が生まれました。言霊オから言霊ヲまでの働きによって外国で生れて来る各種の学問や思想等が人類の知的財産として摂取され、人類全体の知的財産の向上のためにその所を得しめることが可能であると確認されたのであります。

 
次に上筒の男の命。
 そして外国の学問・思想等知的産物が世界人類の知的財産として所を得しめられるまでに、八つの現象を経過して行なわれる事が分りました。その経路はオ・トコモホロノヨソ・ヲの八つの子音であります。この八つの子音が繋がった筒(チャンネル)の如くなりますので、またその八つの子音は禊祓を実践する人の心中に焼きつく如く内観されますので、上筒の男の命と呼ばれる事となります。

 以上、底中上の綿津見の神、筒の男の命六神の解説を終ることとなりますが、御理解頂けたでありましょうか。伊耶那岐の大神が客観世界の総覧者である伊耶那美の命を我が身の内のものと見なし、自らの心を心とした御身(おほみま)を禊祓することによって外国の文化を摂取し、これを糧として人類文明を創造して行く禊祓の実践の作業は、これら六神に於ける確認によって大方の完成を見る事となります。そしてこの六神に於ける確認によって五十音言霊布斗麻邇の学問の総結論(天照大神、月読の命、建速須佐之男の命の三貴子[みはしらのうずみこ])の一歩手前まで進んで来た事になります。

 ここで一気に総結論に入る前に、底津綿津見の神より上筒の男の命の六神の事について少々説明して置きたい事があります。古事記神話の始まりから結論までに五十音を構成している母音、半母音、父韻、親音については縷々(るる)お話をして来ました。けれど子音についてはそれ程紙面を割(さ)くことはありませんでした。何故なら子音の把握が他の音に比べて最も難しい為であります。子音は他の音と違って現象の単位です。現象でありますから、一瞬に現われ、消えてしまいます。母音、半母音、父韻、親音は理を以て何とか説明することが出来ますが、一瞬に現われては消える現象は説明の仕様がありません。そこに把握の難しさがあると言えます。

 今までに子音に関する記述は、古事記の「子音創生」の所で見られます。先天十七言霊が活動を開始して、子音がタトヨツテヤユエ……と三十二個生まれ出る所であります。先天言霊の活動によって子音コ(大宜都比売の神)が生まれるまでに大事忍男の神(言霊タ)から始まり、鳥の石楠船の神(言霊ナ)までの三十一言霊の現象を経ることとなります。現象子音(コ)を生む為に頭脳内を三十一の子音現象を経過すると言うのですから理論上の想像は出来ても、その子音三十一の現象の連続の中から、一つ一つの子音の実相を把握することは殆(ほとん)ど不可能に近いと言わねばなりません。

 けれど不可能だなどと呑気に言っている訳には参りません。日本人の祖先はチャンと三十二の子音を把握して、それによって物事の実相がハッキリ表わされるように名前を附け、現在に至るまで通用している日本語を造ったのですから。では子音を把握する手段は何処に発見されるのか。その唯一無二の道が底津綿津見の神より上筒の男の命までの六神が示す禊祓の実践の行程の中に発見されるのであります。

 禊祓の実践者が、自らの心を心とし、外国の種々の文化を自らの身体とする伊耶那岐の大神の立場に立ち、自らの心の中に斎き立てた建御雷の男の神の音図を基本原理として、自らの御身を禊祓する時、自らの心の中つ瀬の底(エ)、中(ウ)、上(オ)段の行為は如何なる経過を辿って禊祓を完成させるか、を内観する時、水底の言霊エ段がエ・テケメヘレネエセ・ヱ、水の中の言霊ウ段がウ・ツクムフルヌユス・ウ、次に水の上である言霊オ段がオ・トコモホロノヨソ・ヲという明快な経過を経て、外国の文化を摂取する事が、心中に焼き付くが如くに把握され、自覚する事が出来るのであります。それは自己内面の心の変化の相として、比較的容易に各子音現象を自覚する事が出来る事となります。

 以上の如く言霊エウオの段に属するそれぞれの八つの子音の把握は可能である事が分りました。残る現象の一次元であるア段の子音タカマハラナヤサは如何にしたらよいのでしょうか。それは禊祓を実践する人の心の中に、言霊アの感情性能の移り変わりの変化として自覚することが出来ます。それはア・タカマハラナヤサ・ワの初めから終りまでの経過として把握することが可能となるのであります。

 この様にアオウエの現象の四母音次元に属する三十二個の現象子音は、人間精神の最小の要素である五十の言霊を操作して、人間が与えられた最高の性能である人類文明創造の実践の中に、今・此処即ち中今の生きた言霊の活動する相として把握され、自覚される事となります。そしてその子音の相の把握という事は、最近の会報の中で度々随想の形で書いてきた事でありますが、生きて活動している人が、自らの生命の実体、生命の実相を手に取って見るが如く確実に、自らの心の中に内観することなのであります。人が自らの生命の実体を自らの心の中に、正に事実として内観するのです。

 人が生まれると新しい生命(いのち)の誕生と言われます。人が死ぬと一人の生命が失われたと言います。生命は人の最も尊いものと言われて来ました。けれど人はその生命とは何か、を知りません。最近生命科学がその生命の中に客観的物質科学のメスを入れ、遺伝子DNAの実像を解明しました。私はその方面の事には全くの門外漢でありますが、人類が客観的科学の研究によって生命そのものの内部の消息を明らかにしつつある時代となったと言う事でありましょう。それは素晴らしい事であります。けれど人類が客観とは反対の方向、即ち自らの生命を主観の方向に探究して、驚くべき事に今から少なくとも八千年以上昔に、既にその生命要素の実相を見極めてしまっていたという事実に、現代人の注意を喚起せねばならないと思います。太古の昔、日本人の祖先によって人間生命を内側に見て、そのすべてが言霊布斗麻邇の学として解明され、更に今現在、生命を外に見て、その究極にDNA等の学問として現代物質科学が解明を続けています。この人間が自分自身の生命の実相を内と外との両面から解明するという事実が、人類の将来にとって如何なる事を示唆しているのか、興味津々たるものがあります。

 古事記の文章を先に進めます。
 この三柱の綿津見の神は、阿曇(あずみ)の連(むらじ)等が祖神(おやかみ)と斎(いつ)く神なり。かれ阿曇の連等は、その綿津見の神の子宇都志(うつし)日金柝の命の子孫(のち)なり。その底筒の男の命、中筒の男の命、上筒の男の命三柱の神は、墨(すみ)の江(え)の三前の大神なり。

(以下次号)

 数霊(かずたま)(言霊学随想)

 文明の始まりは言葉と数と文字である。言葉と数と文字が備わっていない社会は文明社会とは言えない。言葉を構成する究極の因子が人間によって自覚されたものを言霊という。それは言葉の最小要素であると同時に心の最小要素でもあるもの、即ち言霊(ことたま)である。次にこの言霊の動きを数を以て表わしたもの、これを数霊(かずたま)と呼ぶ。言葉は文明の母であり、数は文明の父である。昔の日本語は母をいろはと言い、父をかぞ(数)と呼んだ。

 今まで言霊については詳しく説いて来たが、数霊については「言霊の動きを数で示したもの」と言う他は説明して来なかった。そこで今回は数霊の事に少々触れることとしよう。

 現代の数学では、一に一を足すと二となる、という。初めの一が何であり、次の一が何か、は説かない。ただ一に一を足せば二となる。それは初めからの約束事なのである。この約束事の数と数霊を混同してはならない。それは言霊ウと単なるウとを混同してはならないのと同じである。かく申上げても御理解を得ないかも知れないので、心の先天構造(天津磐境[あまついわさか])に於ける宇宙剖判を例にとってお話することとしよう。

 先ず心の先天構造を図示しよう。人の心の本体である空々漠々たる宇宙の一点に何かが起ろうとする。意識の芽(め)が芽生える。それが何であるかは分らないが、しかし何かが起ろうとする。この時が今であり、この所が此処(今・此処即中今)である。この宇宙の一点に於ける人間意識の芽生え、これを言霊ウという。古事記神名は天之御中主の神である。

 次に宇宙の一点に芽生えたものが何か、の心が起る。と同時に一瞬にして言霊ウの宇宙は言霊アとワ(高御産巣日の神と神産巣日の神、主体と客体、私と貴方)の二つの宇宙に分れる。この一つの宇宙から二つの宇宙に分れる事を宇宙剖判と呼ぶ。分かれる前の言霊ウは未剖の一枚(禅宗)であり、分かれた後の言霊アとワは剖判した二枚である。次の意識の段階で言霊アの宇宙から言霊オとエの宇宙が、言霊ワの宇宙から言霊ヲとヱの宇宙が剖判して来る(図参照)。


 以上、人間の心の先天構造を成す宇宙剖判の内容を説明した。お分かり頂けた事と思う。この宇宙剖判の最初のウ―ア・ワの所を中国の古書「老子」には「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」と数霊を以て説明している。実に神道に於ては宇宙剖判の時の最初の三神、天之御中主の神・高御産巣日の神・神産巣日の神の事を造化三神と呼び、宇宙内の万物を創造する原動力としている。

 人は何かを見た一瞬はそれが何であるか、が分らない。分るためには分(わ)けなければならない。即ち見る主体と見られる客体に分けなければならない。この原則は人の意識の持つ特性であり、人の宿命でもある。この時、最初の意識の芽である言霊ウから言霊アとワとに剖判する事を見落とし、言霊アとワ、すなわち見る主体と見られる客体という分離した時点から思考を展開すると言霊オ(天之常立の神)が成立する。所謂考える、即ち「神帰る」の領域に入る。その領域での思考は神である真実への果てしない永遠の復路の始まりである。ここ三千年の人類の歴史はこの思考の真理模索の記録であった。人は外に真理を求め、その真理を求める人自身を全くネグレクトしてしまったのである。現代人は外に向って追究した物質科学文明の華やかな成果の重みに自分自身が押し潰される瀬戸際に立たされている。

 自分が道に迷ったと知ったら、迷った原点、即ち出発点に戻れば良い。思考の出発点ウ―ア・ワの言霊ウ、未だ言霊アとワに剖判する前の意識の芽の一瞬の存在を見落とした事に気付く人は幸いである。最近幾人かの人から同じ質問を受けた。謂く(いわ)「宇宙剖判についての老子の言葉『一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず』の三とは、ウ―ア・ワの三でなく、アとワが更に剖判して生まれる言霊オエ・ヲヱの事を指しているのではないですか」、と言うのである(先図参照)。確かに古事記の「言霊の宇宙の区分・位置」の章では、言霊オエ・ヲヱの区分を「隠岐の子島」と名付けている(「古事記と言霊」九十三頁参照)。しかし老子に於ける「三」は古事記の先天構造の宇宙剖判の第三段目、オエヲヱを指しているのではない。何故なら「三子島」の三は第三段という単なる数字であるが、「三、万物を生ず」の三は数霊の三だからである。

 空漠たる広い宇宙の一点に意識の芽である言霊ウが生まれ、それに人間の思考が加わる瞬間、言霊ウの宇宙は言霊アとワに分れ、その三つの宇宙の自覚が、宇宙生命の一切の創造を生み、その創造されたものに名を附すという「万物創造」の原動力であり、土台なのだ、という言霊学上の大命題なのである。この最初の宇宙剖判の内容を自覚しない限り、人間の最高の精神学である言霊の原理の運用・活用は出来得ない事となる。ウ―ア・ワの自覚を通して人は初めて言霊学の殿堂に入る事が出来る。この「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主の神。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神。……」という古事記神話の冒頭の文章は文字通り言霊学苑入校の門であると同時に人類の第三文明時代建設の起工式ともなるものなのである。このウ∧の自覚を経る事なき思考はすべて物事を対象とし、客体として捉え、創造する主体を見失った学問領域に入らざるを得ない事となる。これが最初の宇宙剖判の第一の命題である。その事を世の人に知らさんとして大本教教祖出口なお女史の神懸りの第一声が放たれたのだ。「大千世界、一度に開く梅の花。梅で開いて松で収める神の国が来るぞ。今の代は獣(けもの)の世であるぞ」と。

 数霊(かずたま)と算数との相違を御理解頂けたであろうか。人間の心の究極の要素である言霊の動きを数で示したものが数霊であり、言霊の自覚のないところに数霊の真実はなく、言霊の運用のある所、常に数霊有り、という訳である。

 西洋と東洋と日本の三者の言霊学に基づく典型的思考様式の相違とその関係を数霊で表わし、62+82=102と書く事がある。この場合、単に数字だけを見るなら算数の式で終る。だが、その数字が西洋・東洋・日本の典型的な思考構造を表わす数霊なのだ、と気付く時、この数霊の数式は今後の世界人類の歴史を占う重要な意義を持っている事に気付くのである。

 では数と数霊との相違を知る心とは何か。それは自分自身が広い広い宇宙の中の一塵の如き存在であること、そしてその一塵が今・此処に生きている事の如何に有り難い事であるか、を知る心であろう。これを知る人は宇宙剖判の内容を自覚出来るから。

(終わり)