「古事記と言霊」講座 その十五 <第百七十四号>平成十四年十二月号 | |
古事記の文章が「黄泉国」の章に入ります。 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ」と、かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、蛆(うじ)たかれころろぎて、頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并せて八くさの雷神成り居りき。
伊耶那岐の命が自身の精神領域である高天原から外へ出て行き、黄泉国(よみのくに)(黄泉国・予母津国(よもつくに)などとも書きます)という他の領域を初体験するという「黄泉国」の章と、これに続く「禊祓」の章にて古事記神話はクライマックスを迎えることとなります。この章を迎えるまでに、「古事記と言霊」講座は十四回開かれた事となります。毎月一回、十四ヶ月にわたる講話でありますので、それを文章でお読み下さる方には、ともすると古事記神話が始めから終りまで筋道が一貫している言霊布斗麻邇の学問の話なのであるという事をお忘れになるのではないか、という心配が御座います。そこで古事記神話のクライマックスに入る前に、今までの十四回の講座を簡単に振返ってみることとします。 古事記は初めに「天地の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名は、……」と書き出されます。この「天地の初発の時」とは、私たちが客体として見る天と地、宇宙空間のことではなく、これら対象を見る主体である私達の心のことを言っているのだ、という事を申しました。外観として見る宇宙がただ一つであると同様に、それを見る心の広がり(宇宙)もただ一つなのだ、という事も説明しました。そしてその心の宇宙の中に天之御中主の神を始めとして豊雲野(とよくもの)の神まで、言霊母音・半母音の宇宙、ウアワオエヲヱを示す七神が成り出でます。次に宇比地邇(うひぢに)の神より妹阿夜訶志古泥(いもあやかしこね)の神まで、母音と半母音宇宙を結んで現象子音を生み出す人間智性の根本性能である言霊父韻チイキミシリヒニを示す八神が現われます。次に母音・半母音でありながら、上述の母音七音、父韻八音計十五音を総合・統轄する二神、伊耶那岐の神・伊耶那美の神、言霊親音イ・ヰが現われます。以上合計十七神、十七言霊が「天地の初発の時」と言われる人間の心の先天構造(意識で捉えることの出来ない人間精神の先験部分)を構成する精神要素の事であります。これ等十七神が登場する文章には何らの物語的な叙述はありません。何故なら、十七神は先天構造を構成する言霊の存在を示すもので、この世に生れて来る人間なら誰しもが生まれながらに授かっている精神要素であり、この要素の働きによって天地間の現象のすべてが生れますが、その十七要素自体は人間という種が存する限り、永遠に変わることのない人間の根本の精神構造でありまして、「何故そうなっているか」の思惟が通用し得ない領域の存在と性能であるからです。言い換えますと、人はこれに関して「そうか」と肯定し、覚えるより他には対応の出来ぬものなのだ、という事であります。 次にこれら先天構造の十七神・十七言霊が活動を始め、その代表である伊耶那岐、伊耶那美の命が先天構造から後天現象の世界である淤能碁呂島(おのころじま)(自れの心の島)に下り立って、後天現象の究極要素である言霊子音を示す三十二の神々(大事忍男(おほことおしを)の神・言霊タより大宜都比売の神(おほげつひめ)・言霊コまで)を生みます。 次に伊耶那岐・美の二神は先天十七、後天三十二の合計四十九音の言霊を粘土板上に書き、彫り刻んで神代表音文字・言霊ンを示す火の迦具土(ほのかぐつち)の神を生みます。此処で夫神伊耶那岐の神と協同で三十三の子音言霊を生み終えた伊耶那美の神は子種が無くなり、高天原の仕事を成し遂げましたので、本来の領域である客観世界の文明創造の主宰神となって黄泉国(よもつくに)に去って行きます。 主体世界の責任者である伊耶那岐の命は、一人で言霊五十音の整理・活用法の検討に入ります。そして先ず最初の整理(金山毘古(かなやまひこ)の神より和久産巣日(わくむすび)の神までの操作の方法)によって最も初歩的な五十音整理の音図である和久産巣日の神を手に入れます。この音図は人間が生れながらに授かっている心の構成図である天津菅麻(すがそ)音図であります。 更に伊耶那岐の命(神)は右の菅麻音図を土台として整理・活用法の検討を進め、表音文字の五十音表(迦具土の神)の頚(くび)を十拳の剣で斬り、斬った十拳の剣である主体側の心の構造を検討・確認する作業(石柝(いはさく)の神より桶速日の神まで)によって人類文明創造のための最も理想の精神構造図を示す建御雷(たけみかづち)の男(を)の神を手にいたします。人間が自己の主体内に自覚した最高の精神原理の事であります。 伊耶那岐の命は更にこの主体内に自覚された建御雷の男の神という言霊原理を数霊(かずたま)によって運用する二つの方法、闇淤加美(くらおかみ)の神、闇御津羽(くらみつは)の神の手法も確立することが出来ました。建御雷の男の神という言霊原理をこの二つの手法を以って運用するならば、物事の実相の把握と、その把握した法則を掟として、制度として実践・活用し得る事を自覚したのであります。ここに於て、五十音言霊の原理の把握とその実践・活用の方法は、少なくとも人間精神の主体的真理としては確立された事となります。 更に伊耶那岐の命は、迦具土の神という五十音図表の検討に於て、神代表音文字を作成する八種類の方法(八山津見の神)をも発見することが出来ました。この様に五十音言霊図を縦横に分析・総合して、自由に文明を創造して行く判断力(十拳の剣)に天の尾羽張の名を附けたのであります。 以上、過去十四回の「古事記と言霊」講座によって明らかにされました言霊の学問の概要であります。古事記神話に基づく言霊学の話は、此処で大きく転回し、これまでに確立された主体内真理としての言霊原理が、広く世界の人類文明創造の真理として通用するか、否か、の実験・検討という古事記神話のドラマのクライマックスに突入して行く事となります。この大きな実験とその探究によってアイエオウ五十音言霊布斗麻邇の原理が世界人類の文明創造の原器として、またその任に当る天津日嗣スメラミコトの体得すべき大原理として確立し、今に伝わる三種の神器の根本内容の学問として人間精神の自覚に確立される事となります。この自覚に立った伊耶那岐の命は、この主体内の真理が人類文明の中の如何なる文化内容をも摂取して誤りなく歴史創造の糧として生かす事が出来るか、言い換えますと、自己主観内の真理を客観世界に運用しても誤りのない、主観と同時に客観的真理として通用し得るか、の検討の作業に入って行く事となります。以下、古事記の文章の順に従って説明してまいります。 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。 この文章に黄泉国(よみのくに、よもつくに)の言葉が出て来ました。古事記の中にも上記の二つの読み方が出て来ます。特にその欄外の訳注に「地下にありとされる空想上の世界」(角川書店)とか、「地下にある死者の住む国で穢れた所とされている」(岩波書店)と書かれています。また「黄泉の文字は漢文からくる」ともあります。すべては古事記神話の真意を知らない人の誤った解釈であります。黄泉(こうせん)の言葉は仏教の死後の国の事で、古神道布斗麻邇が隠没した後に、仏教の影響でその様な解釈になったものと思われます。また「よもつくに」を予母都国、または四方津国と書くこともあります。予母都国と書けば予(あらかじ)めの母なる都の国と読めます。人類一切の諸文化は日本以外の国で起り、その諸文化を摂取して、言霊原理の鏡に照し合わせて人類全体の文明として取り入れ、所を得しめるのが昔の高天原日本の使命でありました。四方津国と書けば、その日本から四方に広がっている外国という事となります。また外国は人類文明に摂取される前の、予めなる文化の生れる母なる都、という訳であります。 ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、 殿とは「との」または「あらか」とも読みます。御殿(みあらか)または神殿の事で、言霊学から言えば五十音図表を示します。五十音図では向って右の母音から事は始まり、八つの父韻を経て、最左側の半母音で結論となります。すると、事が「上る」というのは半母音に於てという事となり、騰戸(あがりど)とは五十音図の半母音よりという事と解釈されます。高天原より客体である黄泉に出て行くには、半母音ワ行より、という事が出来ます。騰戸(あがりど)と読むのが適当という事となりましょう。 伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。 ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と 論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ」と、
かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。 かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、 蛆たかれころろぎて、 頭(かしら)には 大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并せて八くさの雷神成り居りき。 (以下次号)
当会発行の書籍「古事記と言霊」の十頁、[注二]に次の様な文章がある。『宇宙が活動を起し、中心の一点が動き出し(言霊ウ)、次々と活動が進展して、一つの出来事(現象)となって現われる。その活動を「宇宙剖判」と呼びます。剖は分れる。判は分る。剖れて行く活動が人間に理解されて言葉として分る、と言うことである。分ける、から分る、日本語の言葉はこのように巧みに出来ている。』この内容の意味が分らない、という質問を時々頂く事がある。今この事について考えることとしよう。 静かな部屋に一人で坐っている事を想像してみよう。目の前には机があり、机の上には本があり、万年筆やボールペン、便箋やノートが置いてある。その向うは壁があり、壁の外には街並みや自然の林や丘があり、上には大空が広がっている。その向うは果てしない外界の宇宙の広がりへと続いている。これが客観的物質的な宇宙だという事が出来る。 次に翻(ひるがえ)って外の客観宇宙を見ている主体である自分の心の内を観察してみよう。そこには「食べたい、見たい、手に入れたい、偉く思われたい、仕合わせになりたい……」という欲望がある。また事物の合理性(眞)を求める経験知の世界がある。更に宗教的・芸術的な美的感情の世界がある。また更には社会生活の善を追求する実践智の世界もある。人間の心は時にはこれ等の世界の事を順序正しく、時にはアットランダムに思ったり、考えたりする。心中に去来するこれ等の思考は、外界宇宙の星の数と同様に無数の種類がある。この様な思考が起っている心の領域が主観的な精神宇宙という事が出来る。 以上述べたように、人が何かを見たり聞いたりする時には、外なる客観世界と内なる主観世界とがあるという事は誰でも知っている事である。此処までは問題はない。問題となるのはこれからであろう。外に見る世界、即ち物質的宇宙は唯一つしかない。誰がどの様に観察しようと、外界宇宙は唯一つである。これも問題はない。然しこの外界宇宙を見たり聞いたりしている内界の精神宇宙も唯一つなのだ、と言ったら、「あれっ、そうなのか」と奇声を上げる人がいるかも知れない。けれど心の宇宙も一つあるだけである。何故そう言えるか。正常な頭脳の持主なら、誰が外界世界を観察しても、常に同じ結果が出るという事によってそれは証明されるからである。外界宇宙は限りなく広い。同様に内界の心の宇宙も限りなく広い。両方とも無限の広さを持つ。 さて此処で外界を見ている目を閉じ、音を聞いている耳を両手で塞いでみよう。何も見えず、何も聞こえなくなった。外界宇宙の現象は無くなった事になる。次にその外界を見、聞いていた内界の心の働きを一切止めてしまったと仮定しよう。すると主観の内面宇宙の中の現象も無くなってしまった事になる。内外界宇宙両方の中の現象が無くなると、両宇宙の境目と共に内外宇宙も消えてしまう事に気付くであろう。そうなると自我という意識も薄れて無くなり、唯一つの何も起っていない、何だか分らない宇宙が唯一つ広がっている事となる。精神の働きも、物質の現象も何一つ起っていない宇宙、これ正(まさ)しく古事記神話の冒頭に出て来る「天地」の事である事が理解されるであろう。それは空々漠々として何も在せず、ただ何によっても把握することが出来ないエネルギーに満ち、そこに何かの刺激が加わると、次々にいろいろな出来事、即ち森羅万象が生み出される大元(おおもと)の宇宙なのである。この宇宙を古事記は「天地(あめつち)」と呼んでいる。その中に何一つの存在も動きもない広大無限の宇宙の事である。この宇宙が人間の生命の本体であり、また住家でもある。 以上内界の主観世界と外界の物質客観世界の存在から、そこに現象が起る以前の宇宙の消息を想像を交えて考えてみた。今度は逆にその根元の宇宙から種々の現象が起こって来るまでの経過を考えてみよう。唯一つしかない根元の宇宙に何かが起ろうとする。(起ろうとする原動力については今は問わない)広い広い何物もない宇宙の一点に何かが起ろうとする。それが何であるか、は分らないが、生まれようとし、動き出し、蠢き出す。無限の宇宙がそれ自体の内容の芽を萌え出そうとする瞬間である。この一点が時としては今であり、場所としては此処であるという事が出来る。哲学ではこれを「永遠の今」といい、言霊学では「中今」という。そしてこの萌え出ようとする宇宙を言霊ウという。古事記はこの瞬間を「天地の初発の時」と呼ぶ。宇宙の始まりの時である。古事記の「天地の初発の時」とは、大方の人々が考えているこの外界宇宙の天文学的な始まりである幾百億年前のことを言っているのではない。常なる今・此処、即ち中今のことである。
以上、先天構造の中で宇宙剖判は心の今・此処に於て瞬時の休みなく行われている。その事によって人間は生活を創造して行く事が出来る。最後に、ではその宇宙剖判を可能とする根本の原動力は何か。母音であり、また半母音でもあるもの、それでいて親音とも呼ばれる言霊イ・ヰと、その働きであり人間の根源智性である言霊チイキミシリヒニの八父韻である。これが人間の生の一切の根本原動力である。(この説明は後の機会に譲ることとする) (以上) |