「言霊学について」 <第百八十六号>平成十五年十二月号 | |
言霊学(コトタマノマナビ)とはどんな学問であるのかを説明します。
私達人間に生来与えられている五つの基本性能である言霊五母音、ウオアエイについて解説をしました。会員の皆様には耳にタコが出来る程繰返しお話した事であります。今回はそれら五母音の中の言霊オ(経験知)と言霊エ(実践智)の人間性能の違いと相互関連について更めてお話することといたします。 現在、教育の場で言霊オの経験知と言霊エの実践智をはっきり区別して、その二つの性能が全く違う内容を持ったものなのだと教えている所は極めて少ないように思います。何故なら、この二つの性能が人間生来の基本性能として異質のものであり、同時に二性能共人間が生きる為に重要な性能である事を説明し、理解させる努力が今日までなされていたならば、日本の教育界は現在のような頽廃状況にはならずに済んだのではなかろうか、と思うからです。先ず経験知、言霊オから検討しましょう。 人は今、此処に生きています。人が何かをしようとする瞬間が今です。ですから「今だな」と思う時には今は既に過ぎてしまいますから、その「今」でした事を考えようとすれば、過ぎ去ったものの記憶を想い起して、それを調べるより仕方がありません。物質科学の調査なら過去をその通り再現して調べる事が可能ですが、人間の心の出来事はそうはいきません。人間の生活の中の出来事は全く同じ事が起るという事はまずないと言っても過言ではないからです。調べ考えるには記憶に頼る他はありません。 ところがこの「記憶に頼る」という事の中に大きな問題が潜んでいるのです。人は自分の体験を想起するにも、過去の「今・此処」の出来事をそのままそっくり想起するのではなく、自分の心の中から選んだ一つの観点を通して再現するのです。その選ばれた観点を論理学で「概念」と呼びます。少々分り難い言い方となってしまいましたが、簡単に言えば、最初の「今・此処」での体験事実そのままが太陽の光の下での光景であるとすれば、想い起こされた記憶による光景は月の光の下の光景という様に譬えられます。記憶によって想起した光景は概念という月の反射光によって照らし出されたもので、原光景の全体像を復元したものではありません。その結果、経験知による思考は、思考を積み重ねれば重ねる程、物事の実相から離れてしまう事となります。 サンスクリット語で経験知の事をカルマ(業)と呼んでいる所以です。また経験知を行使することを日本語で「考(かんが)える」と言います。その語源は「神返(かみかえ)る」であります。経験知で考える目標は太陽の下の光景に、即ち実相である神に帰る事なのです。経験知による思考には「今・此処」の実相に帰るのが目標なのだ、という事を忘れない様にする心構えが大切であります。この事を忘れますと、経験知識による判断のみに頼る事が如何に危険であるか、思い知らされる事も起ります。 次に言霊エの実践智についての話に移りましょう。言霊オの経験知も言霊エの実践智も共に人間に与えられた基本性能です。経験知が過去の記憶から割り出された「今・此処」の実相に帰ろうとする性能であるのに対し、実践智とは現在までの経験知を下敷とし、土台として将来を創造しようとする性能です。共に生まれた時から与えられた性能なのですが、経験知の方は現代社会の知的能力尊重の風潮に乗って今程社会から優遇されている時はないほど教育界の寵児となっています。 それとは反対に実践智の方は教育界の片隅でまるで無視された存在です。同様に世の中の人々の心の中でも無視されている様であります。人間の心を形成する基本能力ですから、人がその存在を如何に無視しても、実践智はそんな事に関係なく人の心の中で毎日、毎時、毎分、毎秒その人の為に働き続けています。そうでなければ人は社会生活の中で生きては行けません。では無視された結果はどんな様相で現われて来るのでしょうか。 人は永遠の「今・此処」に生きています。その今が過ぎた後、即ち過去の記憶の集積・検討から経験知は生れます。原因と結果(因果)という構造を持ちます。「かくかくの事が起れば、こうこうの結果となる」という考えです。それに引換え、実践智の方は「過去にかくかくの事が起り、現在こうこうの状態となっている。これを私はどの様に受け止め、自分の希望に叶うようにするには如何なる手段を用いるべきか」と思う事です。 経験知は法則であり、定形であり、そこに自由はありません。実践智には過去をそのまま受け止めながらも、今・此処で一度白紙に戻し、頭の中で一応御破算にする自由と、その自由の中で新しい生命の発想があります。生きる喜びがあります。そして実践智を働かせる為には人間にその能力が与えられている、という自覚が必要です。そうでなければ実践智は過去の経験知の延長上に埋没してしまい、因果の繰返しに終始する事となります。 生来の五つの人間性能は自覚の有無に関らず休む暇なく心の中で働いています。言霊エの実践智性能も然りです。けれど社会的に、また個人の中で余りに無視され過ぎますと、どうなるのでしょうか。常に働いてくれている実践智性能の上に、過去からの亡霊とも言える経験知の惰性のベールがかかり、その状態が続くと、抑圧された実践智性能はあらぬ形をとり、心の中にストレスとなって溜まり、生活の苦悩の原因となります。言霊エの実践智性能が心中のあるべき座を回復する為には人間性に対して正しい勉学が必要となります。 言霊オの経験知は物心ついた時からテレビや学校、世の中の付き合い等で沢山身について行きます。好奇心旺盛な若者にとってこれ程興味をそそるものはありません。そうして集められたこれ等経験知によってその人の人格また自我意識が形成されて行きます。現代の知的教育万能の風潮が拍車をかけます。知識の豊富な人ほど世の中に役立つと思わています。 確かに知識を多く持つという事は現代社会を生きて行く為にはなくてはならぬ大切なものです。と同時に大切なものでありますから、その使い所を誤まれば人格的に、また社会的に大きな歪を生む事も頭に入れておく必要があります。その事に関して仏教禅宗の公案を一つ取上げることにしましょう。 「譬えば牛が窓格子を通り過ぎて行く様に、頭の角や四足の蹄がみんな過ぎてしまった。どうして尻尾(しっぽ)だけが過ぎることが出来ないのだ。」(無門関、第三十八則「牛が格子窓を過ぐ」) 公案とは大勢の修行僧に同じように出す問題という意味です。この様な問題を修行僧に出し、どんな答えをするか、によって修行僧の精神勉学が何処まで進んでいるかを判断するのです。右の公案を見て、「窓格子の向こうを牛の頭の角と、胴体から延びる足の先の蹄が過ぎ去ったのが見えた。何故牛の尻尾だけがまだ過ぎないでいるのか。何と下らない質問なのだ。牛がもう少し先に進めば、尻尾も見えなくなるよ」などと言ったら、多分その修行僧は和尚さんに胸倉をつかまれて庭に放り出されてしまうに違いありません。 公案とは、その公案に示された人間の生命の働きを如何に真実として表現するか、の真剣勝負なのです。先にお話しましたが、生命は常に今・此処で活動しています。言葉(角と蹄・頭と胴体)は既に過ぎ去ってしまった。なのに記憶は何時までも残って人の心に良きにつけ、悪しきにつけ影響を与えている。何故なのだ。どう処理したらよいのか。さあ答えてみろ、という訳です。しかも一言で答えてみろというのです。長々と心境の説明などしたら和尚さんの一喝(いっかつ)が飛んで来る事必定でしょう。 この公案は今回の主題とした言霊オの経験知と言霊エの実践智の相違と関係をよく表わしています。集会の席上、友達と意見の相違で争いが起りました。その場は他人のとりなしで無事に済みましたが、気まずさが後々まで残ります。「彼は何故私にあんな事を言ったんだろう。日頃から彼は私をそんな人間だと思っていたのだろうか。今後彼とはどんな付き合いをすれば良いのか。」等々の事が頭をよぎり、なかなか寝付かれません。 集会も争いの場面も既に過ぎ去ってしまっています。角や蹄は格子窓を通り過ぎています。けれど気まずさの思いが長く尾を引いて、相手の事を自分の経験知を総動員して憶測をたくましくしています。尻尾はまだく格子窓を通り抜けてくれません。さあ、どうする、どうする、という訳であります。 心に引っ掛かるものがあって眠れない夜の事を思い出して下さい。これでもか、これでもかと過去の種々の経験や、それに基づく経験知識が次々と脳裏に浮んで来て際限がありません。前にもお話した事ですが、経験知というものは言葉として生きています。そして心に影響を与えようとしてうずうずしているのです。特に当人が心の中での自主解決が出来ないで悶々として弱気になっている時などは、この時とばかり伸し掛かるように迫って来ます。 「考えても仕方がない。もう止めにしよう。」と思う次の瞬間にはもう考えています。牛の尻尾は猛烈な力を持っています。この尻尾は時には人類の歴史編纂という様な大事業に役立つ事があります。また現代の科学文明はこの尻尾の所産です。けれど人の心の中ではその分際を守らない時には大きな苦痛を人間に与える事となります。 経験知は飽くまで過去のものなのです。今・此処の現在や将来に関係して主役を務める事態となると、人間の煩悩や苦悩の原因となります。現在と将来の主役は言霊エの実践智なのです。言霊オの経験知識はその土台、または道具の役目でなければなりません。再び御自身の経験を思い出して下さい。いくら考えてもけんかした友達に今後どう対処したらよいか分らなくなりました。疲れ果てました。「下手な考え休むに如かず」、絶交もよし、場合によってはこちらから謝(あやま)ってもよし、なるようになれ、と諦めました。すると何時の間にか眠ってしまいました。 翌朝目を覚まし、外を見ました。今朝は晴れてすがすがしい。短時間だがよく眠れて気分はそんなに悪くはない。顔を洗っている時、ふと思い出しました。昨夕、別れる時、奴(やつ)は悲しそうな眼で俺を見たっけ。そんな事を今までどうして思い出さなかったんだろう。彼も、そして私もこのまま別れっ放しになるなんて事は到底出来はしないのだ。明日にでも、こちらから謝るつもりで彼の所へ行って率直に話し合ってみよう、という事になります。……こうなったら友達としての撚りが戻ることは間違いありません。 上の場合、争いを始め、お互いの経験知の交錯から和解と新しい創造への転換まで、どんな経緯が考えられるでしょうか。両者が争い始めた時から、二人のそれぞれの経験知による批判・攻撃が飛び交います。会場を離れ、家に帰って床に就いてからも批判・攻撃はまだ続いた状態です。そして疲れ切ってしまいました。経験知による批判が出尽くしてしまったのです。諦めが訪れます。諦めるとは断念するの意味です。考えて心の方向をまとめようとする事を断念したのです。と同時に、諦めとは「明らかに見る」の意でもあります。経験知の嵐が過ぎて、心に平安が戻る時、人は出来事の全貌を明らかに見ることが出来るようになります。 言霊オの経験知の詮索が終焉すれば、心の白紙状態に帰ります。この状態を言霊アといいます。宗教・芸術の感性の性能で物事を見る時、言い換えますと、今・此処の永遠の今の視点で物事を見る時、その実相を最も良く見る事が出来ます。言霊オの経験知が物事を進行させる主役の座から下り、舞台に何人もいなくなった状態、実はその状態こそ「汝、飜(ひるがえ)りて幼児の如くならざれば天国に入るを得ず」(聖書マタイ伝)といわれている生まれたばかりの赤ちゃんの心そのものなのです。 そしてこの赤ちゃんは単に生まれたばかりの赤ちゃんなのではなく、経験知を沢山身に付け、然もその経験知の分際を弁えた赤ちゃんなのです。この心の状態になれば、生来授かっている実践智性能が迸るのを妨げる何物もありません。その心の奥に生命創造の意志(言霊イ)さえあれば、自ずと心の中に実践智性能から発現して来る新創造の言葉が脳中に湧き出して来ます。これから以後は「目出度し、目出度し」です。 友達同志二人の仲は今までに増して親密で協力的な新しい関係が生れて来る事でしょう。以上の経緯を言霊母音とその性能とによってまとめてみましょう。経験知(言霊オ)は月の光による夜の知識の事です。その知識が集まり積もれば積もる程世の中を見る眼は暗くなります。眼を曇らす経験知という雲が晴れて、太陽の光が差し込む昼間の時、これが言霊アの境涯の世界です。物事の実相(本当の姿)がよく見えます。その状態に現われて来る実践智の性能、それらの各性能を統括している生命創造意志の性能、この言霊エとイの両性能(両次元)は言霊アの光の世界の内容(言霊イ)であり、またその内容を活用する性能(言霊エ)なのです。言霊ウオアエイの五段階性能の内容とそれぞれの関係をお分かり頂けたでありましょうか。 引用した無門関の「牛が格子窓を過ぎる」の公案は終りに老婆心として次の如く警めています。「牛が尻尾と共にどんどん過ぎ去って行けば落とし穴に陥ちてしまう。危険である。逆に牛の頭と胴体が、尻尾がなかなか過ぎ去らないので、尻尾の方へ戻ってしまう事もある。これでは人生滅茶苦茶である。両者共進退窮ってしまう。この小さい尻尾は甚だ奇妙であり奇怪なものである。力を尽してこの尻尾の人生に於ける意味をよくよく検討するが宜しかろう。」 幼い時から合理的な考え方に馴染み、合理的な心の生長を以て心身の安心と思い込んだ人は、合理的生長の心が「自我」だと思い込む様になります。その自我が自分自身だと確信します。この人にとって、無門関の公案が勧める如く自らの内なる合理性という牛の尻尾の分際を見極めようとすることは、断崖から深淵をのぞき込むが如く恐怖心が先立つかも知れない。 しかし、尻尾に従って後ずさりしてはいけません。宗教書の教えを繰り返し読み、その文章の内容の理解出来ない所は先輩について糺し、一歩々々生来の光明の自覚に進むことです。充分柔軟性のある、エネルギーに満ちた若い時に心掛けて下さい。自分御自身の、そして世界人類の真実の姿に接する為に。 (終り) |