「古事記と言霊」講座 その十三 <第百七十二号>平成十四年十月号 | |
古事記神話を先に進めます。 伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、 御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、 御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。 小豆島(あづきじま)またの名は大野手比売(おおのでひめ) 菅曽音図の一番下の列、言霊イとヰとの間に展開している八つの父韻に泣沢女の神と名付けた事について今一つ説明を加えましょう。法華経の第二十五章の「観音普門品」に「梵音海潮音勝彼世間音」(ぼんおんかいちょうおんしょうひせけんおん)という言葉があります。梵音と海潮音とは彼(か)の世間で一般に使われている言葉に優(まさ)る言葉である、の意です。その梵音とは宇宙の音、即ちアオウエイの五母音の事です。また海潮音とは寄せては返す海の波の音の事で、即ちこれが言霊学で謂う八つの父韻の事です。宇宙には何の音もありません。無音です。もっと的確に言えば宇宙には無音の音が満ちているという事です。何故ならそこに人間の根本智性である八父韻の刺激が加わると、無限に現象の音を出すからです。八つの父韻は無音の母音宇宙を刺激する音ですから、泣き(鳴)騒ぐ音という事となります。父韻が先ず鳴き騒ぐ事によって、その刺激で宇宙の母音から現象音(世間音)が鳴り響き出します。梵音(母音)と海潮音(父韻)は人間の心の先天構造の音であり、その働きによって後天の現象音が現出して来ます。「勝彼世間音」と言われる所以であります。 お寺の鐘がゴーンと鳴ります。人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。正確に言えばそうではありません。実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。 かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。 伊耶那岐の命と伊耶那美の命は協力して三十二の子音言霊を生み、子種がなくなり、高天原での仕事をやり終えた伊耶那美の命は何処に葬られているか、と申しますと、父韻と母音で作られている三十二個の子音の中に隠されて葬られているよ、という意味であります。子音言霊が高天原から去って行った伊耶那美の神の忘れ形見または名残のもの、という事です。 古事記の文章を先に進めます。 ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやひ)の神。次に樋速日(ひはやひ)の神。次に建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。次に御刀の手上に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。 ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。 十拳の剣の判断とはどんな判断かと申しますと次の様であります。十拳の剣とは人の握り拳(こぶし)を十個並べた長さの剣という事ですが、これは勿論比喩であります。実は物事を十数を以て分割し、検討する判断力のことです。実際にはどういう判断かと言いますと、十数とは音図の横の列がア・タカマハラナヤサ・ワの十言霊が並ぶ天津太祝詞音図(後章登場)と呼ばれる五十音図の内容である人間の精神構造を鏡として行なわれる判断の事を言います。この判断力は主として伊耶那岐の神または天照大神が用いる判断力であります。後程詳しく説明されます。 迦具土の神とは前に出ました火(ほ)の夜芸速男(やぎきやを)の神・言霊ンの別名であります。古代表音神名(かな)文字のことです。頚(くび)を斬る、という頚とは組霊(くび)の意で、霊は言霊でありますから、組霊(くび)とは五十音図、ここでは菅曽音図の事となります。十拳の剣で迦具土の頚を斬ったという事は、表音神名文字を組んで作った菅曽音図を十拳の剣という人間天与の判断力で分析・検討を始めたという事になります。という事は、今までは言霊の個々について検討し、これからは菅曽音図という人間精神の全構造について、即ち人間の全人格の構造についての分析・検討が行なわれる事になるという訳であります。 ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。
湯津石村の湯津(ゆず)とは五百個(いほつ)の謎です。五百個(いほつ)とはどういう事かと申しますと、五母音の配列である菅曽音図の意味を基調として五十音図を作り、この五十音図を上下にとった百音図の事を五百個と申します。石村(いはむら)とは五十葉叢(いはむら)の意。湯津石村の全部で五百個の上半分の五十音図の意となります。湯津石村に走(たばし)りつきての走りつきてとは「……と結ばれて」または「……と関連し、参照されて」の意となります。 成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神 この五つの次元の道理を世間の人々の会話の中で観察すると、そこに顕著な相違があることに気付きます。先ず言霊ウの次元に住む人同士の会話は、その各々の人がある物事について語り合う場合、各自の経験した事柄をその起った時から終るまで順序通りに羅列するように、一つの省略もなく喋(しゃべ)ります。従って会話は長くなります。若い者同士の電話の会話はその典型です。言霊オの次元に住む人の会話には抽象的概念の用語がやたらと飛び出します。所謂「〇〇的」という言葉です。社会主義新聞の論説はその良い例であります。次に言霊アの次元に於ては詩や歌が、言霊エの次元では「何々すべし」の至上命令が典型となります。言霊イの次元に住む人の口からは、言霊が、または他の四次元ウオアエの次元に住む人々それぞれの心に合わせた自由自在の言葉が出て来ます。以上、人間の心の進化の順序に従ってそれぞれの次元の会話の特徴についてお話しました。その人の会話を聞いていると、その人の心が住む次元が良く分って来ます。但し自分の心が住む次元より高い次元の話の識別は出来ません。識別出来るのは自らの心の次元以下の人についてのみであることを知らねばなりません。
次に根柝(ねさく)の神 次に石筒(いはつつ)の男の神 次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやひ)の神。 甕速日の甕(みか)とは五十個の言霊を粘土板に刻んで素焼きにした五十音図の事です。速日の日は言霊、速とは一目で分るようにする事の意。甕速日全体で五十音言霊図全体の内容・意味が一目で分るようになっている事の確認という事です。音図の内容の確認には大きく別けて二通りがあります。一つは静的状態の観察です。五十音言霊がその音図全体で何を表現しているか、を知ることです。どういう事かと申しますと、この五十音言霊図は菅曽音図か、金木音図か、または……と、この五十個の言霊が音図に集められて、全体で何が分るか、ということの確認です。これを静的観察と言います。 次に樋速日(みかはやひ)の神 ここで速日(はやひ)なる言葉が出て来ましたが、同様の意味の言葉に「早振り」があります。言霊の立場で物事を見ますと、その性状や内容が一目で分ることを言います。枕詞の「千早振る」も同様であります。 次に建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。 人間精神の理想として建御雷の男の神という五十音図を自覚しました。これを建御雷の神と書かず、下に「男の神」と附したのは何故なのでしょうか。初め伊耶那岐の命は妻神伊耶那美の命と共同で三十二の子音を生みます。それを粘土板に書いて火の迦具土の神という神代表音文字に表わしました。そこで伊耶那美の命の客体としての高天原の仕事は終り、美の命は高天原から客観世界の予母津国に去って行き、残る五十音の整理・検討は主体である岐の命の仕事となります。そこで整理作業によって最初に得た菅曽音図を主体の判断力である十拳剣で分析・点検して人間精神の最高理想構造である建御雷の男の神という音図の自覚を得ました。しかし人間の心の理想構造の自覚と申しましても、それは飽くまで主体である伊耶那岐の命の側に自覚された真理であって、何時の時代、何処の場所、如何なる物事に適用しても通用するという客観的證明をまだ経たものではありません。主観内のみの真理であります。その事を明示するために、太安万侶はこの自覚構造に建御雷の男の神と男の字を附けたのであります。 またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。 (次号に続く)
外国では三千年前、日本に於ては二千年前、国家の、また世界の文明創造の原理であったアイエオウ五十音言霊布斗麻邇は世の中の表面、言い換えれば人間の顕在意識から姿を隠されてしまった。人類の第二物質科学文明の創造を促進する為の政策であった。天照大神は岩戸にお隠れになった。「ここに万(よろず)の神の声(おさなひ)は、さ蝿(ばへ)なす満ち、万の妖(わざわい)悉に発(おこ)り……(古事記)」、弱肉強食の世の到来は必至の状勢となる。 生命の宮柱言霊アイエオウの中の言霊原理イとその運用エが隠没した後は、物質文明創造の担い手の言霊オ(経験知)と言霊ウ(五官感覚に基づく欲望)の二性能が独走を始めることは必定である。そこで日本の聖(ひじり)の経綸として世界に宗教(言霊ア)が創始された。仏儒耶回の各宗教である。言霊オウの独走の世にあって人間の心の支(ささ)えを得しめる為であり、また後世物質科学完成の暁には、言霊オウの世の中に頭まで漬かっている人々に、復活する言霊布斗麻邇への門に誘う精神補導に役立てる為でもあった。 人類の暗黒の三千年は夢の如く過ぎた。人々はこの生存競争社会の苦闘の中から人類の第二の文明である絢爛(けんらん)たる物質科学文明を創造・完成させた。それに呼応する如く人類の第一精神文明の原理言霊布斗麻邇が百年にわたる先人の努力の結果、ここに不死鳥のようにこの世に甦ったのである。第一の精神文明、第二の物質文明双方の原理が車の両輪となる第三の人類文明が建設される時代となった。仏教で謂う「仏国土荘厳」・儒教の所謂「結縄の世」・キリスト教の説く「天国」である人類の第三生命文明の御代の建設が始まろうとしている。「目を覚まし居る(聖書)」人は立ち上り、理想世界建設の原器である言霊布斗麻邇の学の門を入る時である。 現在、人は幼い時から頭に知識を詰め込むのに血眼(ちまなこ)である。長ずれば金銭の獲得に狂奔する。そうしなければ生存競争社会の中で生き残れないからである。人は常に前に進むこと、学校でも社会でもそれしか教えない。知識を多く集めれば集める程、物事の一切の解決は近くなると思うからである。金が集まれば集まる程、幸福は近づくと思うからである。しかし聖書は教えている「幸福なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり」と。また謂う「富める者の神の国に入るよりは、駱駝(らくだ)の針の孔を通るかた反って易し」と。 先師、小笠原孝次氏はア字の行について折にふれて種々の事を話してくれた。今、その思い出をお伝えしてみよう。 聞いているうちに遠い幼い時の心に帰って行くような気持ちになったものである。「汝ら翻(ひるがへ)りて幼児(おさなご)の如くならずば、天国に入るを得じ(マタイ伝)。」役に立つと思って身につけたあの知識(あの町)もこの知識(この町)も、それだけでは問題解決にならないものと知った。自分の幼い時の心に帰ろうよ。知識や富を求めて先を先をと急いで来たが、それだけでは心が空虚であることを知った。生まれた心の故郷に帰らなければ。あの知識、この欲望と心中の依草附木(いそうふぼく)の精霊を否定して来たら、心の空に大きな星のような自我意識自体が見え出した。この意識が出る前の真更(まっさら)な心の家(母音)に帰ろうよ。と心の底に響くように聞こえて来たものである。 次に先師が語ったア字の行の要諦をまとめてみよう。 (以上) |