「古事記と言霊」講座 その十二 <第百七十一号>平成十四年九月号 | |
先天十七言霊(天名)(あな)の活動の内容が津島と呼ばれる区分に属す十言霊(未鳴)(まな)の現象を経て一つのイメージにまとめられ、次に佐渡島という区分の八言霊(真名)(まな)の現象で言葉と結ばれ、口腔にて発声され(神名)空中を飛びます。空中を飛んでいる音声も心を乗せています。その音声の心はフモハヌ(神名)(かな)の四言霊であり、やがて人の耳に達します。この空中を飛び、人の耳に入り、聞いた人が復誦、検討して終に発言した人の言葉の内容を了解して、言葉の循環は終り(真名)、記憶として遺り、元の先天に帰ります。発声されて空中を飛ぶ内容の四言霊、それが耳で聞かれ、了解されるまでの十言霊ラサロレノネカマナコを加えた計十四言霊の宇宙区分を大倭豊秋津(おおやまととよあきつ)島、またの名は天つ虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)と呼びます。この区分の現象で言霊子音が出揃い、調和して(大倭)豊かに明らかに(豊秋)現われる(津)区分(島)の意です。十四言霊の中で初めの四言霊フモハヌ、志那都比古(しなつひこ)の神より鹿屋野比売の神までの四神は前号で説明を終えましたので、今号は言霊ラ、天の狭土(さづち)の神以下の十言霊、十神の説明より始めることといたします。 この大山津見の神、野槌(のづち)の神の二柱(ふたはしら)、山野によりて持ち別けて生みたまふ神の名は、天の狭土(さづち)の神。次に国の狭土の神。次に天の狭霧(さぎり)の神。次に国の狭霧の神。次に天の闇戸(くらど)の神。次に国の闇戸の神。次に大戸惑子(おおとまどひこ)の神。次に大戸惑女(め)の神。次に生みたまふ神の名は、鳥の石楠船(いわくすふね)の神、またの名は天(あめ)の鳥船(とりふね)といふ。次に大宜都比売(おほげつひめ)の神を生みたまひ、…… この大山津見の神、野槌の神の二柱、山野によりて持ち別けて…… 天の狭土の神。次に国の狭土の神。 言霊ラは螺(ら)に示されますように螺旋運動のこと、言霊サは坂(さか)・狭(さ)・差(さす)・指(さす)・咲(さく)・性(さが)・酒(さけ)・裂(さく)・先(さき)・柵(さく)等に用いられます。言霊ラは螺旋状に、言霊サは一定方向に、共に進む動きを示します。 天の狭霧の神。次に国の狭霧の神。 天の闇戸の神。次に国の闇戸の神。 言霊ノは宣(のる)・退(のく)・乗(のる)・野(の)・軒(のき)・残(のこる)・除(のぞく)等に、言霊ネは音(ね)・値(ね)・根(ね)・願(ねがう)・寝(ねる)・練(ねる)等に使われます。 大戸惑子の神。次に大戸惑女の神。 言霊カは掻(かく)・貸(かす)・借(かりる)・金(かね)・返(かえす)・刈(かる)・神(かみ)・囲(かこむ)・考(かんがえる)・柿(かき)等に、言霊マは真(ま)・魔(ま)・巻(まく)・廻(まわる)・豆(まめ)・増(ます)・的(まと)・馬(うま)・間(ま)等に使われます。 鳥の石楠船の神、またの名は天の鳥船 言葉が耳に入り、復誦・検討され、煮つめられて「あゝ、こういう意味だったのだ」と了解されます。その了解された意味・内容が名(言霊ナ)であります。昔より「名は体をあらわす」と言われます。言葉が名となった事で内容は確定し、私と貴方との間の現象(子)が了解された事となります。言霊ナは言霊コの内容という事です。 言霊ナは名(な)・成(なる)・馴(なれ)・萎(なえる)・泣(なく)・治(なおる)・汝(なんじ)・七(なな)・魚(な)・菜(な)・字(な)等に用いられます。 大宜都毘売の神 言葉が最終的にその内容が確認され(言霊ナ)、事実として承認されます(言霊コ)と、三十二個の言霊子音は全部出尽くし、言霊の宇宙循環はここで終り、先天に帰ります。跡(あと)に記憶が残ります。この世の中には千差万別いろいろな出来事が雑然と起るように見えますが、親音言霊イの次元に視点を置いて見る時、世界の現象のすべては僅か三十二個の子音言霊によって構成されており、十七先天言霊によるいとも合理的に生産された出来事なのだ、という事が理解されて来ます。その理解を自分のものとする為には、言霊コである物事の実相を見る立場が要求される事を御理解頂けたでありましょうか。 言霊コは子(こ)・小(こ)・此(ここ)・粉(こ)・蚕(こ)・籠(こ)・鯉(こい)・越(こえる)・請(こう)・恋(こい)・乞(こう)等に用いられます。 さてここで伊耶那岐・美二神(言霊イ・ヰ)の婚(よば)いによる三十二個の子音言霊の創生が一段落となりました。先天構造の言霊十七個、後天現象の単位子音三十二個、計四十九個となります。すると言霊の総数は五十個のはずですから、明らかに一個足りません。残りの一言霊とは何なのでありましょうか。 次に火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神を生みたまひき。またの名は火(ほ)のR毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神といふ。
ここまで来ますと、火の夜芸速男の神とは昔の神代文字の事であることが分ります。文字は言葉が眠っている状態です。夜芸速男とは夜芸即ち読みの芸術である文字として言霊を速やかに示している働きの意であります。またの名、火のR毘古とは文字を見ると其処に言霊が輝いているのが分ります。以上の事から五十番目の神、火の夜芸速男の神、言霊ンとは神代文字の事であると言う事が出来ます。太古の神代文字は言霊の原理に則って考案されたものでありました。言霊ンのンは「運ぶ」の意だそうであります。確かに文字は言葉を運びます。それを読めば言葉が蘇ってきます。 「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神(言霊ウ)」より始まり、先天十七神、それに火の夜芸速男の神(言霊ン)までの後天三十三神を加え、合計五十神、五十音言霊が全部出揃いました。古来、日本の神社では御神前に上下二段の鏡餅を供える風習があります。その意味は言霊学が「神とは五十個の言霊とその整理・操作法五十、計百の原理(道)即ち百の道で百道(もち)(餅)」と教えてくれます。先天・後天の五十の言霊が出揃ったという事は鏡餅の上段が明らかになったという事です。そこで古事記の話はこれより鏡餅の下の段である五十音言霊の整理・操作法に移ることになります。人間の心と言葉についての究極の学問であります言霊学の教科書としての古事記の文章が此処で折返し点を迎えたことになります。 【註】火の夜芸速男の神という日本の神代文字は現代知られているだけでも数十種あるといわれています。その詳細については後章にて説明されます。 この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。たぐりに生(な)りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山毘売(びめ)の神。次に屎(くそ)に成りませる神の名は波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神。次に和久産巣日(わきむすび)の神。この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。 たぐりに生りませる神の名は金山毘古の神。次に金山毘売の神。 【註】金山毘古の神に始まる古事記神話の言霊の整理・活用法の検討は実に総計五十の手順を一つ残らず明らかにして行きます。その間、どんな小さい手順も疎(おろそ)かにしたり、省略する事はありません。その手順はキッチリ五十にまとまります。その手順の一つ一つを読者御自身の心中に丁寧に準(なぞら)って検討されることを希望いたします。 屎に成りませる神の名は波邇夜須毘古の神。次に波邇夜須毘売の神。 【註】大祓祝詞(おおはらいのりと)や古事記の「天の岩戸」の章には「くそへ」「糞(くそ)まり」という言葉が出て来ますが、これ等も此処に示される「組素」と同様の意味であります。 尿に成りませる神の名は弥都波能売の神。 和久産巣日の神。 この神の子は豊宇気毘売の神といふ。 和久産巣日の神の内容が「五十音言霊を整理し、それを活用するに当り、先ず「五埋(いうま)り」によって母音アオウエイの順序に従って五十音を並べて枠の中に囲んで整理した働き」が分りました。しかしその整理は五十音図として初歩的に並べたものであって、どうしてその様に並んだのかの内容はまだ不明という事でありました。しかし「この神の子(活用法)である豊宇気毘売の神」が伊勢内宮の天照大神と並んで外宮の神として祭られている事実を考えますと、次の様な事が明らかになって来ます。 金山毘古の神に始まる五十音言霊の整理・活用を検討する作業が進み、最終結論として三貴子(みはしらのうづみこ)が生まれます。その中の一神、天照大神は言霊学の最高神であり、言霊五十音の理想の配列構造を持った人類文明創造の鏡であり、その鏡を祀る宮が伊勢の内宮であります。その内宮の鏡の原理に基づいて外宮の豊宇気毘売の神は世界の心物の生産のすべてを人類の歴史を創造するための材料として所を得しめる役目の神であるという事になります。和久産巣日の神とは言霊五十音の初歩的な整理ではありますが、その活用の役目である豊宇気毘売の神が、言霊整理活用の総結論である天照大神を鏡として戴く事によって世界中の文化一切に歴史創造という枠を結ばせる事となる消息を御理解頂けるものと思います。 吉備(きび)の児島(こじま) 古神道言霊学はこの初歩的ではありますが、最初にまとめられた言霊五十音図を天津菅曽(あまつすがそ)(音図)と呼びます。菅曽を菅麻(すがそ)と書くこともあります。菅麻とは「すがすがしい心の衣」の意で、人間が生まれながらに授かっている大自然そのままの心の構造の意であります。これから以後の言霊五十音の整理・活用法の検討はこの音図によって行なわれる事となります。 かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに因りて、遂に神避りたまひき。 「神避(かむさ)る」と言いますと、現代では単に「死ぬ」と言う事に受け取ります。古神道言霊学では決して「死」を説きません。「霊魂不滅」などと言って人の生命は永遠だ、と説く宗教もありますが、言霊学は霊魂などという極めて曖昧な意味で不死を説くわけではありません。この事は他の機会に譲りまして、では伊耶那美の神が神避ったという事は実際にどういう事であるのか、について一言申し上げます。 三十二子音の創生と神代表音文字の作製によって伊耶那美の神の分担の仕事は終りました。五十音言霊で構成された高天原精神界から退場することとなります。そして伊耶那美の神は本来の自身の責任領域である客観世界(予母都国(よもつくに))の主宰神となり、物事を自分の外(そと)に見る客観的な物質科学文明の創造の世界へ帰って行ったのであります。この時より後は、五十音言霊の整理と活用の方法の検討の仕事は伊耶那岐の神のみによって行なわれることとなります。 (以下次号)
真言宗に「阿字本不生(あじほんふしょう)」の言葉がある。アという音は生まれ出て来るものではなく、元々宇宙の初めより実在する音である、の意である。人はこのアの宇宙から生まれ、この中で育ち、この中で仕事をし、死んでこの中に帰って行く。だから人はアという宇宙の子、神の子と言われる。アという宇宙こそ人の心の本体だという事が出来る。 自らの心の本体であり、切っても切れぬ関係のア字を人は何故求めるのか。それは人はア字より生れ、ア字の中に育つのだが、その自覚がない。それ故神や仏の教えに従って学び、初めて自覚する事が出来るからである。わが先師は「空」とか「救われ」について質問すると、「私は坊主や牧師ではない。他で聞いてくれ」と素気(そっけ)なかったが、ただ一つ貴重な事を教えてくれた。「空(くう)とは人を包んでいる大空の如きものである。なのにそれが見えないのは、見ようとする人の心に雲がかかっているからだ。空は一生追い求めても分るものではない。空を知りたいなら、自分の心の曇り、即ち自分の自我意識、それを構成している自分の持つ経験知識を心の中で「ノー」と否定してしまえばよい。雲がはれれば、青い空は自ずと現われる」の一言だった。自己の今、此処以外に「空」を求めることを禅は「屋上屋を架す」と警(いまし)めている。「屋根の上にもう一つ屋根を造るな」という訳である。 先師はまた「般若心経は国常立命の祓(はら)いなり」とも教えてくれた。心経は「色即是空、空即是色」の経文である。「空」を知る修行は言霊エである国常立命が人間に課した祓い、即ちア字の行だ、ということであろう。人の心の本体が「空」なる宇宙そのものと知ることによって、アという次元宇宙から言霊エの実践智が泉の如く湧き出て来ることを自覚することが出来る。 猿に玉葱を与えると、一皮一皮剥(むい)いて行き、終に何も残らず泣き喚(わめ)き出すと聞いた事がある。人のア字の行にも同じような事がある。今まで生きる為の宝物と思って来た経験知識を、心の中に「本来の自分ではない。否(ノー)」と否定して行くのである。「自分が身につけた知識が無くなったら、一体自分はどうなるのだろう」という不安におそわれる。猿同様に泣き叫びたくなる。自分自身の内面の問題であるから他人に愚痴るわけにも行かない。一生の中で最も強い孤独感を味わうのはこの時であろうか。 「われ地に平和を投ぜんがために来れりと思うな。平和にあらず、反って剣を投ぜんがために来れり。それ我が来れるは、人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑嫜(しゅうとめ)より分たん為なり」(マタイ伝、一○、三四〜三五) ア字の行によって如何に孤独を感じ、心細かろうとも、心配は要らない。自分の心から次々に経験知識が否定されて行って、玉葱の皮が一枚も残らなくなり、無一物になったら、その時は母親に抱かれていた赤ん坊の心に帰るだけの事である。この赤ん坊は母親にではなく、大きな大きな宇宙そのものの中に、即ち言霊母音に帰るのであるから。即ち宗教でいう神に抱かれている事を更めて知ることになる。泣き叫びたい程の孤独感は、実は自分を抱いて下さっている神、即ち宇宙自体が孤独であったからだ、と知る。宇宙も神もこの世にただ一つなのだ。また無くなってしまったら、と不安に戦(おのの)いた経験知識も決して無くなる事なく、本来の我である「空」なる主体宇宙のコントロールの下に、生活創造の道具として立派に役立つものである事を知ることとなる。 ア字の勉学によって人は何を得ることもなく、何も変わることもない。御利益はない。ただ自我意識という仮面が消えて、真実の自分(実相)を見るだけである。当り前のことを知り、初めから平凡であった自分に帰るだけである。言霊学の門がそこに開かれている。この門を入る人は世界歴史の創造に責任を持つ人となる。 (以上) |