インタビュー●世紀末を問う

: 現在の日本の状況についてお聞かせください

: 例えば円高一つとっても、どうして円高になったのかという理由は、数え切れないほど分析して発表されていますが、では明日からどうなるかは全くわからない。つまり学問というのは経験知によって築きあげられたもので、明日のことを見通す選択知とは全く次元を異にするものなのです。

   例えば「道徳」というものがありますが、道徳に法則があるというと、大部分の方が、首をかしげます。一般的に道徳というのは「〜すべからず」「〜すべし」ということのように理解されていますが、そうではないのです。

   老子の教えに「大道廃れて仁義あり」というのがあります。三千年前に、既に大道というものが隠されてしまったので「仁義」という教えが出てきたのです。「仁義」という教えを知識で整え体系化し、それをコンパスにしなければ、全てのことが判断できなくなってしまったのが今の社会です。

   もともとすべてが具わっていた先見的な判断力が、キャッチできなくなってしまったのです。その先見的な判断力を開発すれば、どのような状況下にあっても、的確な判断を下すことができるのです。

: 某先生は、食の原則を護ることで身体を健康にし、他民族とも強調し、更に第七判断力に達することで常識や捕らわれからも解放され、真の幸福に到達することができると示されましたが、第七判断の世界については宇宙の秩序として指し示しただけで、その中身については書き残していないようなのです。

: その時代にはそれしかわからないようになっていたのです。仏陀もキリストも同じです。誰もが表現しえないものを表現しようとしていたのですが、全体がまだ熟していなかったのです。

   歴史を別の角度から見ると、かつて高度に精神的に発達した時代があり、その叡智を停止し隠すことにより、動乱と戦争に明け暮れる世の中を招集し、必要悪としての科学を発達させ、いよいよ科学によって地球全体が危機に陥る寸前で、かつての叡智が再びよみがえって動乱を治める。それが日本語に秘められたコトタマの原理です。

   桜はなぜサクラなのか、風はなぜカゼなのか、すべての日本語には、その背景にコトタマの原理が働き、明瞭に、その理由はこうだと言うことができます。現在使用されている、複合語を除いた50%位の日本語には、コトタマの原理が働いています。

   コトタマには概念的な説明が一切要らず、それは種知とかマナとか各国、各時代で表現されています。その世界に入ると、「〜してはならない」という義務と責任ではなく、「かくせよ」という絶対至上命令により動くことになります。

   規律や規範等は、そこへ行く修行段階のときには有効ですが、その世界ではもう要りません。したがって、食べ物・食べ方についてもその時々の判断に委ねれば、ピタリと体に合った質と量になりし、そうならなければならないのです。

   母音になるのが五穀、子音になるのがおかずで、薬に転嫁したときには漢方の百薬となります。日本語は実によくできています。香道は百道、相撲は百手、易も含め、いずれも五十・百というコトタマの原理で解くことができます。

: 世紀末とは?

: 大転換期ではありますが、最期の審判は来ません。進行中の歴史は三千年前に既に計画が立てられ布石が打たれた意図的創造なのです。その計画を立てたものが日本民族の祖先であり、その原理がコトタマの原理なのです。

   歴史は、欲望の拡大と制御との戦いであったのですが、世紀末の今、現実的には拡大と制御が最高値となり、一見危なそうに見えますが、三千年前に封印されたコトタマの原理がよみがえり、コトタマの原理から見れば、世紀末は来るべくして来るのですから、経済的危機も道徳的危機も必然なのです。

   2015年位に、全く新しい価値観・世界観の幕開けが始まります。したがって一般大衆が滅びたり、一厘だけ救われる者があるということは、絶対に起こりません。

終わり 96_interview_nihonCI